家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

特殊事情――それはどの程度客観的な視点か?

2005年09月29日 | 家について思ったことなど
よく考えたら、私はこのblogの自己紹介(左の下のほうにある)に「築55年を超えた古屋を残すという特殊事情から・・・」なんて書いている。
自分では客観的に表現したつもりだったが、築50-60年程度の家を残していることを「特殊事情」と言ってしまっていること自体が日本の特殊性を現してしまっているのかもしれない。
家の平均寿命が100年とかいう国の施主からしたら、「特殊事情? なにそれ」ってなものではないだろうか(関連エントリ「家の寿命」「お得な話」)。

そもそも家づくりにはいろいろな事情がある。家族の人数、年齢層、立地、予算、こだわり・・・、それぞれの組み合わせは無限にあり、そのひとつの組み合わせを取り出したら「特殊」と言えてしまう例は結構多いのではないか。
また、日本では珍しくもない完全分離の2世帯住宅も、世界的に見たら特殊かも?なんてこともある。

普通に考えたら、身近な視点からみて特殊ということなのだろうが、その身近な視点が別に正しいとは限らない(家の寿命しかり)。うんと引いた視点から家というものを考えてみると、特殊事情なんてものは存在しないか、すべてが特殊事情ということができてしまうか、どちらかのように思えてきたりもする。
整理しやすいと思って「特殊事情」をくくりだすのもいいが、それによって見えなくなるものもあるかもしれない。

スペシャル」なんてことを意識している施主が言うのは矛盾しているか。

雨宿り

2005年09月24日 | 我が家のスペシャルな仕様

我が家のガレージには庇がある。
70cmほどしか出てはいないが、急に雨が降ってきたときの雨宿りくらいはできる。

そんなことを考えていたら、ガレージの門扉が格子状(横向きだが)であることに気が付いて、急に「たけくらべ」(樋口一葉)が頭に浮かんだ(5000円札のせい?)。

「たけくらべ」では、格子門を挟んでの、美登利と信如のせつないニアミスが描かれている。そんなドラマの出現とまではいわないが、雨宿り機能と格子戸が人と人が互いを思いやるシーンに役立ったらいいなと思った。

 難点は、この格子戸が重いということ。カラカラとするっと動けば人と人がふれあいやすいが、ガラガラと音を出しながら開くため趣に欠ける。
 いやむしろ、気軽にするっと開けにくいところが、美登利と信如以上のせつないドラマを生むか。
 妄想はキリがないのである。



デザイナーズ住宅――もしかして真の「建築家住宅」なのか?

2005年09月23日 | 家について思ったことなど
このところ建売のデザイナーズ住宅の広告・PR記事が目立つようになってきた。
ある種の建築家などビルダーサイドにとっては、有望な戦略商品といったところだろうか。
設計する建築家にとっては、施主のうるさい条件から解放されて自由に設計できるというやりやすさがあるだろう。設計期間も短くて済みそうだ。
施主にとってはどうだろう。もともとその建築家のデザインが気に入っている施主ならば、有力なポイントになる。出来上がったモノを買うのだから、時間がかかる「建築家との家づくり」に力を奪われることもない。
私がこれから建てるとしても選択しそうにないが、世間にニーズがありそうなことはわかる。
以前、「奇妙な共通」というエントリで指摘した、建築家が自由気ままに設計した住宅と建売住宅の共通点が思い浮かぶ商品だ。

ただ、こうした住宅は、施主側からみれば家を「買う」楽しさはあっても、「建てる」楽しさはない。建築家との接点ができたように見えるが、その建築家と会話する場面があるのかはなはだ疑問だ。
だから、その家は「(施主)○○の家」というより「建築家△△の作品」という方が通り名として一般的になってしまうかもしれない。
もっともそれがいいという人はいるだろうし、建築家△△の作品を買うのも、その施主「らしい」ということもできる。人それぞれなのである。

改めて考えてみると、建売のデザイナーズ住宅は、施主の邪念(笑)が含まれず、(予算制限はあるだろうが)建築家が思い通りに建てたわけで、それならまさに「建築家住宅」ではないか、という言い方ができてしまうように思う。どうだろうか。


まあ「建築家住宅」を定義するような立場にはないので、注意点でも指摘しておくことにする。
デザイナーズ住宅が建築家住宅であるにしても、建売住宅であることは間違いないので、建てる過程を楽しむのみならず、施工過程をしっかりチェックしたい施主や、構造や躯体の性能が気になる施主には向かないだろうということ。
そして自分にジャストフィットした住み心地は期待しない方がいい。最大公約数的な要件はおさえているとは思うが、建築家が住人個人の暮らし方を聞き出して設計したわけではないからだ。

いずれにしろ、注文住宅にするか建売住宅にするかは、家の選択のもっとも初期に下す判断なので、建築家と注文住宅を建てたい施主と、建築家が建てた建売住宅を買いたい施主は似ているようで似ていないように思う。
誰が設計しようと、施主「に」合わせる住宅と、施主「が」合わせる住宅はアプローチの思想が全然違うということだ。

現実化したバリア「アリー」な家

2005年09月21日 | 家について思ったことなど
前日20日の日経新聞夕刊1面の企画「NIPPONのカタチ」で、荒川修作さんが設計した家のことが紹介されていた。
その建物「三鷹天命反転住宅」は、「段差を極力なくすバリアフリーとは正反対の発想」で設計されている。
「円筒部屋の窓際にあるトイレに行くには、シャワーブース脇のすき間を身をよじって通らなければならない。ダイニングの床は不規則な傾斜と凹凸のあるたたき。調理場は床より低く、流し台を使うのにも昇降運動が必要だ。電気スイッチの位置も普通より高かったり低かったり、という具合」(当該記事より)

以前エントリを立てた「バリアアリーな家」は空想上の話だったが、しっかりリアル化していたのだった。予想外にも芸術的な形で。

「バリアアリー」ではなく、「非バリアフリー」と表現されていたのはやや残念だが・・・。

骨董品の戸――山の物置づくり

2005年09月19日 | 山小屋・ログハウス
山小屋の脇に父がセルフビルドしている物置に戸が入った。
前のエントリで紹介したように、骨董品のオークションで手に入れたものである。
蔵の戸として使われていたものらしい。

購入時は全般にすすけており、鉄格子は錆で覆われていたが、建具屋に補修を頼んで、こざっぱりして帰ってきた。
鉄の部分には錆止め処置をほどこした。また、重い戸なので戸車はボールベアリングの高級品にリニューアルした。
こんなことをしたら、本格的な骨董趣味の人からは大目玉をくらいそうだが、装飾に使うのではなく、立派に実用として使うのだからしょうがない。骨董を買ったのではなく、生活の道具を買ったのだ。
もしこの建具がずっと現役で使い続けられていたのなら、やはり少しずつ手直しされていたことだろう。道具としては正当な使い方をしていると自分で勝手に解釈している。
この戸はまた使われることで経年美に磨きがかかるはず。再び骨董的価値を生むまで使うのは間違いないので、それでよしとする。

ざくろの実

2005年09月17日 | 我が家のスペシャルな事情

 庭にある「ざくろ(石榴)」が実をつけている。
 このざくろが実をつけたのは30数年ぶりのことだ。
 
旧家屋に住んでいたころは、もう「お年寄り」だからと勝手にあきらめていたが、家を新築したら、花を添えるように実をならせてくれた。

といいつつ、予感のようなものはあった。
新築にあわせて庭の植栽を一部変える必要があり、ざくろを移植したのだ。距離は3mほどだが、ご老体はさぞびっくりしたことだろう。予期せぬ大事件に、子孫を残そうという生存本能が働いたのではなかろうか。

もっとも今回の移動によって、以前より日当たりが良くなったせいかもしれない。

あのルビーのようなしっとりと赤い美しい粒を見るのが楽しみだ。
願わくは、これから毎年実をつけてほしいと思う。


ざくろについて調べてみると、うれしいことが書かれていた。

ざくろの素朴な美しさは、古くから詩人、作家、画家、彫刻家達にインスピレーションを与えてきました。聖書やホメロスの作品にも、ざくろのことが書かれています。古代の神話には、神々がこのフルーツを好んだと述べられています。種がいっぱいのざくろは、中国、ギリシャ、ペルシャ、ローマ、そしてヘブライの伝承で、肥沃を象徴するものでした。またキリスト教美術では、ざくろは希望を、そしてユダヤ人の伝統では繁栄を象徴しています。
ざくろ協会」のHPより


忍者志願者へ心得を伝授

2005年09月15日 | 我が家のスペシャルな事情
 このblogは、初期に表明したように、過去のエントリへのコメント、トラックバックは歓迎している。
 それを知ってか知らずか、かずさんという方が「2月5、6日の記録」というエントリにコメントをつけてくれた。

そのエントリは建築現場の記録なのだが、忍者まがいのとんでもない行動をした我が家の行状も報告していた。なんと、その行動についてノウハウがほしいという予想外の申し入れだった。

うれしくなって力を入れてコメントしてしまった。
もったいないので埋もれないよう、このエントリで誘導しておきたい。

興味のある方は「2月5、6日の記録」のコメント欄を読んでください。


ベンチ――オススメの造作家具

2005年09月13日 | 我が家のスペシャルな仕様

居間にある据付のベンチ。これがなにかと重宝だ。

奥行きを60cmとしたので大人が寝転がることもできる。
我が家の居間はダイニングも兼ねているため、畳は設置せず、ソファも置いてない。こうなるとゴロゴロする場所としてベンチが有効なのだ。
端に幅20cmの肘掛をつけてあり、ここにコーヒーカップやロックグラスを置くことができ、お茶したり、酒を飲ったりする。
子供はこのベンチでじゃれあうこともあり、部屋の中の縁側といった風情もある。

ベンチの下はキャスター付の引き出し収納。普段良く使うものをしまってある。


こうした人間が座ったり寝転んだりする家具は、ミニマムな部屋のようでもある。
だから注文住宅において部屋の仕様を決めるのと同じように、造作で家族に都合よく作ってもらうというのも手だと思う。


我が家において、こういう造作のベンチになった流れを紹介しておく。

奥行きのあるベンチというのはそもそも建築家がよく使っていた意匠で、それまでの家族がソファーでごろごろしていたことを伝えつつも、私が「新居ではソファーを導入するか未定」としていたこともあって、うまく折り合った案なのである。
初期の平面図のプラン段階で盛り込まれており、そこから私が注文したのは、前述の引き出し収納と肘掛の設置だった。
写真奥に見えるのはピアノなのだが、ベンチと並べてピアノを置くことについて建築家はあまり気がすすまないようだった。居間の一辺を一直線にどーんとベンチがあるという形状にしたがった。それはそれですっきりして広々と見える利点がある。しかし、別の部屋にピアノを置きたくないという我が家の事情を優先した。

このように、ひとつのパーツでも、既製のパーツを組み込むのではなく、それぞれの知恵・要望・好みをすり合わせてゼロから検討して作り上げていくことができるのが設計事務所と組んだ家づくりの利点であろう。
逆に言えば、こうした検討項目が山ほどあるともいえ、検討すること自体を楽しめない人は疲れてしまうだろう。手が込みすぎるとコストで頭を悩ませる要因になることも指摘しておきたい。
また、いくら楽しむといってもすべてを一から十まで念入りに検討するのも気力が持たない。以前に述べたようにプロへのゆだね方を考えることも重要なことだと思う。

やまぼうし、異常なし? 異常あり?

2005年09月12日 | やまぼうし
やまぼうし連合」のお仲間、ノアノア邸では害虫について、finzi邸では「実」のその後が報告されている。

 さて、我が家のやまぼうしはどうか。

まずは害虫。葉に食べられた跡はなく異常は見られない。ひとまず安心。

そして「実」。
赤々としていた実はいつの間にか落ちて何も見えず。
finzi邸では初々しいオレンジ色の実がたくさんなっているというのに・・・。

どう判断したらいいのだろう。

愛知万博で買ったモノ

2005年09月11日 | その他
ということで、愛知万博(愛・地球博)に行ってきた。
博覧会といえば、催事物、展示物を見ることがメインだが、団体で行けば、大抵は買い物という行事も流れに組み込まれてくる。
私は総じて「みやげ物」といったものにあまり興味がわかない(食べ物を除く)ので困ってしまうことが多い。それでもさすがは万国博覧会。普通はなかなか売っていないものも売っていて、まずまず楽しめた。
自分のために買ったものは写真のブツ。
これが何か、わかるだろうか。





正解はヤマアラシの針。
「アフリカ共同館」で購入した。
長さは20cmほどで、最大直径は6mmほどと、けっこう太くて大きい。中空と思われるが硬くて頑丈。こんなに尖っていたら猛獣でも追い払えるだろうと納得するするどさである。

私はよく、素材そのものに興味が惹かれる。これも何かの工作物の素材にならないものかと考えたのだった。アクセサリー系が頭に浮かぶが具体的なイメージはまだない。
普段は手に入りそうにないものなので、とりあえず買っておくことにした。1本200円で2本購入。

他に売っているもので興味が惹かれたのは、ラクダの革製品。モロッコ館で売っていた。売り子のおじさんが大きな旅行バッグのストラップを思い切り引っ張って、その丈夫さを説明してくれた。たしかにすばらしい強さだった。
残念ながら私がほしいのは素材としての「革」。購入にはつながらなかった。



万博そのものは想像通りものすごい人出。それを報告するのは疲れるだけなのでやめておく。
これから行く人は折りたたみイスを持っていくことをお勧めしておきたい。私は2脚持っていって非常に重宝した。

出かける前からげんなり

2005年09月09日 | その他
明日、愛知万博に行くことになっている。
1ヵ月ほど前、子供の友人一家から誘われた。数十年に一度のイベントなので「一回いっとくか」と決めた。

今日になって、少しは情報収集でもしておこう、とネットに潜ったら、数分でゲップが出てきた。
恐ろしい混雑と待ち時間。(6時間というのは「待ち時間」という定義の中に入れることは間違っているんじゃないのか)

いまごろになって対策を練るのは、エベレスト登山の準備を3日前くらいから出来ると考えている人間に等しい。そのくらい甘い判断だった。

自分の甘さは瞬間的に認識できたが、他の家族と行く以上、「撤退する勇気」を出すわけにもいかない。そこで気持ちの持ち方としては、「山頂」ともいえる人気パビリオンは最初からはずし、せめて麓の村に到達してそれなりに楽しめばいい、と早々に覚悟を決めた。

4家族で出かけるので、もしかしたら用意万端なご家族もいるかもしれない。
とりあえず、我が家は炎天下対策のグッズは用意して、あとは流れに任せることにする。


持ち主のわからない荷物

2005年09月09日 | 新幹線通勤
物騒な世の中となり、平和なわが国でも密かにテロ警戒態勢が強化されている。
駅に配置されている警官・警備員の数を見ればそれがわかる。先月下旬、フランスでテロ分析の権威がアジアのフィナンシャルセンターが狙われていると発言してからのように思う。そういう意味ではリスクが大きいのは東京だけかも知れないけれど。
米国のように、警戒レベル「赤」とか「オレンジ」とか「黄」とかわかりやすく公にすればいいのに、国民性からかそういうシフトを選ばない。多くの日本人はリスクを恐がりすぎるから、そうした発表をすると一気に出歩かなくなり、経済が停滞する、そんな理由からだろうか。

リスクをリスクとして皆で共有するのが大人の社会というものではないのか。セコイ理由で警戒レベルを認識させない行政にも、リスクの存在を意識したがらず大人の行動ができない多くの一般人にもやりきれなさを感じる。

とオヤジくさい説教のようになってきたので、本題に切り替える。

JR界隈で最近、警官の数と同様、増えたものがある。
それは車内アナウンス。
 「持ち主のわからない荷物がありましたら、車掌にお知らせください」っていうヤツだ。
数えたことはないが、私の実感では流す頻度が高まっている。

以前からこのアナウンスには違和感がある。

最近人気のマイクパフォーマンス芸人、摩邪(まじゃ)風にいえば、
「『持ち主のわからない荷物』? ハア~?」である。
「持ち主のわからない以前に、電車に乗っている人間が多すぎて、持ち主がわからないかどうか自体がわからないじゃねえか、コノヤロー」なのである。

あのアナウンス、かな~りすいている電車でなければ有効になりえないと思うが、どうか。
逆にそんなにすいている電車がテロに狙われるというのも考えにくいが、どうか。

流す回数増やすのもいいが、まずはどのくらい効果があるのか検証せよ。


「らしい家」考

2005年09月07日 | 家について思ったことなど
谷中M類栖のエントリ「らしさについて」にTB。


谷中M類栖のエントリは建築プロデューサーの朝妻さんのエントリ「石川淳氏 設計の家 見てきました。」へのTBエントリであり、朝妻さんがそれを受けて「“ らしい ” 家について ちょっと思ったこと」というエントリを立てたので、そちらにもTB。


m-louisさんは、「(建築家の)石川さんらしい家」との評に納得しつつ、

>施主という観点でみるとどうなるのだろう

と投げかけている。

これに対し朝妻さんは、想像としつつ、石川さんという建築家の作風が自分達にあうと判断して依頼したのだから、

>「石川さんらしい家」であると同時に「施主らしい家」なのではないだろうか。

としている。

 このやりとりで少し考えてみた。

「らしさ」とはあいまいな言葉だ。
m-louisさんがいう「らしさ」は、住宅の設計にどのくらい施主の好みやセンスが関与しているかということを気にかけた視点だと思う。それはいわば施主の関わり具合の濃さと比例する「らしさ」である。

かたや、朝妻さんのいう「らしさ」は、一場面でも成り立つ「らしさ」であろう。選択したこと自体に施主の「らしさ」は生じているという判断である。

朝妻さんのいうことはもっともなのだが、「らしさ」の捉え方がざっくりしている。
例えば、「絶対ハウスメーカーの家でなければダメだ」という施主も、それはその施主の考えが思いっきり表に出ているのだから、その施主「らしい」という説明を成り立たせることができる。私の例でいえば、建築家個人を決定する段階での「らしさ」以前に、ハウスメーカーでなく建築家・設計事務所というカテゴリを選択した段階で「garaikaらしい」などと人に言われたりもしている。つまり、なにがしかの施主「らしさ」は家づくりの入口の段階から必ず生じる。
朝妻さんのいう「らしさ」は確かにあるが、それは入口に近い大きな分岐点での選択そのものだ。
しかし、m-louisさんの気にする「らしさ」とは、くぐる入口を選んで以降、施主のテイストが外観や内観、間取りなどに反映されているのだろうかという具体論なのだ。「らしい」という評価の背景にあるものが微妙に違う。

以前私は、「主導権」というエントリで施主がプロにどのように家づくりをゆだねるかということに言及した。「ゆだね方」によって、選択肢は違ってくるだろうと。
そして建築家に依頼するという範疇の中においても、「ゆだね方」が施主の違いを生じさせるのではないだろうか。施主が建築家にほとんどまかせっきりにして設計してもらえば、外観、内観などに具体的な施主らしさは現れにくいだろう。しかし、施主が口を挟めば挟むほどその施主のテイストが家の造形ににじみ出てくるのではないか。例えばノアノアさんの家の外壁の「ビードロ」などは、はっきりとノアノアさんの主張によってノアノアさんらしさをかもし出しているのがわかる。
自分の家に自分らしさが出ているか懐疑的なm-louisさんにしたって、少なくとも「光庭」ではm-louisさんらしさが思いっきり具現化していると思う。

何が正しいということではない。施主がクライアントとして何をどの程度、プロにゆだねるか/任せるかという違いなのだ。その「ゆだね方」自体が施主らしさを現すという見方もできるのである。
「○○さん・○○建設にすべてを任せて建てた」のも「らしさ」だし、「○○さん・○○建設と侃々諤々して建てた」というのも「らしさ」なのだ。

ただ、私は建築家と組むのなら、まかせっきりで建てるのはちょっともったいないと思う。
非合理・理不尽でないかぎり、自分のオリジナルな注文・条件はわがままいっぱい盛り込んだほうが家づくりの過程を楽しめると考えているからだ(実現するかどうかは別)。
建築家は、自分の「らしさ」を維持しつつ施主の条件を盛り込む。あるいは、施主の条件を「自分らしい」手法でクリアしていく。
そうすると、かつてノアノアblogで繰り広げられた「化合」論を思い出す。十分に化合した家ならば、施主界隈からは「(施主の)□□さんらしさが見えるね」と言われるだろうし、建築業界では「建築家の○○さんらしい」と言われるのではないだろうか。

このあたり、「建てたのは誰か」論ともつながってくるように思う。


注)私は石川淳さん設計による家がまかせっきりで建てられたかどうかは知らないし、個別具体的にゆだね方を論評する気はまったくない。建築家のテイストと施主のテイストが相当近いということだって考えられるし、そもそも内情がわからないからなんとも言えないのである。

「鉛筆削り道」とオブジェ

2005年09月03日 | その他
中学生のころ、鉛筆削りにハマった。
グルグル回して削るソレではなく、刃物で鉛筆を削る方。

父に「肥後の守(ひごのかみ)」という昔からある簡易ナイフの存在を教えてもらって購入したのがきっかけだ。
当時、鉛筆削り器は当然のように所有していた(電動ではなく手回しのヤツだが)。刃物で鉛筆を削るなどという行為が合理的でないことはあきらかだった。
そこで自分では美しさの追求のようなテーマを後付けして鉛筆を削る意義を見出した。

鉛筆というものは六角柱であり、先端部分を六角錐(すい)の形状にすることができる。そこで、きれいな六角錐状(角を削るので正確には六角錘ではない)にすることに執念を燃やした。電動でも手動でも鉛筆削り器では六角錐にはできず、円錐になってしまう。刃物を手で動かしてこそできる形状にひそかな(自己)満足感を得ていた。

そのうち、削り終わるまでの速さも追求し始めた。
六角錐という形状は、理論上最低6回、刃を動かすことで完成させることができる。それまでは木軸の方を六角錐状に整えたあと、あらためて芯を削っていたが、木軸と芯を一気に削ってしまえば6回のアクションでできあがるはず。極めたら、鉛筆削り器より速く削れるのではないかと考えるに至り、自己満足の追求はディープな世界に突入していったのだった。
現実は木にはクセがあり、そんなに素直に刃は進まない。また、木から芯に刃を進める段階で微妙な力加減の調整も必要になる。6回の切削できれいに仕上げるのはかなり困難。中学時代、千回程度削る機会はあったと思うが、6回でほぼ満足できる仕上がりになったのは10回に満たなかったろう。この道も奥が深いのである(求道者が他にいるかは知らないが・・・)。

自分で削るようになると、おかしなものでなかなか鉛筆を捨てにくくなる。長さが短くなると「鉛筆補助軸」を使って極限まで使った。あまり短くなるときれいに削れないこともあって、極限まで削った鉛筆は捨てていたが、最後のころにはそれをとっておくようになった。それをビンにつめたのが写真のブツである。
自分の鉛筆削りへのコダワリを説明するのが面倒なとき、コレを「貧乏性が作り上げたオブジェ」と説明するようにしている。


ちなみに、ネットをやり始めてから鉛筆芸術とでも呼べるような世界もあることを知った。
http://www.infofreako.com/jad/enpitsu.html
「六重螺旋」「有芯長方形斜方交差透かし彫り」なんて作品名も実物もスゴイ。貧乏性の人間からたまたま発生したブツと違ってまさに芸術で必見。