家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

それって「すごい家」ではないのか

2006年03月30日 | 家について思ったことなど

住宅業界の人が書籍やサイトなどで、新築される家のうち、「いい家」はほんの一握りしかないように書いてあるのを見かける。

世の中にほんの少ししか「いい家」が建てられていないと主張する人達による「いい家」という表現は少しばかり問題があると思う。希少な存在だとすると、もはや「いい家」という表現では読者にとって不親切だからだ。「すごい家」とか「すばらしい家」というような表現こそふさわしい。

世の中のいろいろなもので考えてみてほしい。
例えば「いい食材」はどうだろう。そんなに少ない「いいもの」であるならば、「いい食材」というのではなく「特選素材」(by 「どっちの料理ショー」)とでも表現するのが適している。

「いい服」「いい家具」「いいクルマ」「いい料理」「いいカバン」「いい旅館」・・・。
世の中に「いいもの」ってそんなに少ないものなのだろうか。
「特選素材」のような数少ない最高品質のものはたしかに「いいもの」の集合に入るが、最高とまではいかなくとも「いいもの」はあるだろう。

「いい家」を建てたいという熱意の強いビルダーや設計者は、家においての求道者であると思う。求道者ゆえに「いい」と判断するための要求水準が高いのだ。だからそういう人たちの「いい」は、一般人からみたら「すばらしい」に相当するとでも思ったほうがミスリードされない。

アンケートの選択肢をイメージすると分かりやすい。
7択
「とてもいい」 「いい」 「少しいい」 「普通」 「すこしよくない」 「よくない」 「とてもよくない」
5択
「とてもいい」 「いい」 「普通」 「よくない」 「とてもよくない」
3択
「いい」 「普通」 「よくない」
2択
「いい」 「よくない」

求道者の「いい」は、たぶん上記の3択か2択における「いい」で、しかも分布が偏っている。「いい」はほんのちょっぴりで、大半が「普通」(というか「たいしたことない」)か「よくない」という構図。
一方、第三者が家を評価するとしたら、5択くらいはほしいところで、「とてもいい」と「いい」の比率はそこそこあって、分布は求道者よりは平準化しているのではないか。そして、求道者の「いい」は第三者にとっては「とてもいい」に相当すると思う。


求道者が自分の要求水準に達しない家を「ダメな家」と思うこと自体はいい。そう思うからこそ「いいもの」(実はすばらしいもの)を作るのだろうから。
問題は「いい家」の良さ以上に、「いい家」以外の悪さばかり訴える求道者の言説だ。
家の何の要素をもって「いい」とするかも人によって違ううえに、さらに「良さ加減」の捉え方にギャップがあるのだから、「いい」などというアバウトな言葉を用いると読者をミスリードする。
希少な「いい家」を語りつつ、それ以外の「家」のダメさ加減を主張する求道者は、いわば「特選素材」以外は「よくない食材」と言っているのに等しいのである。「すばらしい」もの以外は「ダメなもの」という区分けはまさに求道者なのかも知れないが、(数多い)「ダメなもの」の批判に力を入れて余計な反目を生んでいるのはいただけない。

そういう私も自分の家については求道者的に取り組んだ。自分にとっての「いい家」をめざして。
したがって出来上がった家はベストであると思っている(その証明は年月を積み重ねなければならないが)。しかし、他人から見たらベストではないかもしれない。自分にとってベターな家という結果もありえただろうとも思う。その認識のうえで、他人に向かって自分の尺度によるベストな家のみを「いい家」と主張するつもりはない。
第三者的立場で家を考えれば、「いい家」自体はそこそこ存在すると思っている。
(数少ない)とても優れた家に遭遇したら、「いい家」とは表現せずに「すごくいい家」と表現したい。

「いい」「悪い」「普通」のような何とでも使える言葉に触れたとき、筆者がどういう意味でその言葉を使っているか、読者はよく考えなければならない。

凸凹、縁側――日本人の幸せ

2006年03月27日 | 家について思ったことなど

この週末、家族と京都に出かけた。
「あわよくば花見を」との思惑があったが、残念ながら桜のつぼみはまだ固かった。
今回の旅行の主たるテーマは「子供たちに歴史というものを実感させる」であったので、かえって歴史的建築物を見るほうに集中できた、と良いほうに解釈しておく。

そうはいいつつ、公に京都のことを語れるような教養・雑学・薀蓄は持ち合わせていないので、建築物に絡んで感じたことを記録しておく。

ひとつは、知恩院御影堂の縁の板が気持ちよかったことである。
その回廊は住宅と比べようもない長い何月が経っているばかりでなく、その上を歩いた人間の数も相当な数になろう。
結果、板にはツヤとともに凹凸が出てきている。それが足裏に心地よさをもたらした。
清水寺から、二年坂、三年坂、円山公園、八坂神社とゆっくりながらも休まずに歩いたうえ、知恩院は「男坂」のほうから上ってしまい、足にやや疲労感があったことも影響したかもしれない。ツボを刺激したという効果をもってして。
しかし、床を素足(この場合靴下は履いているのだが)で歩くことに気持ちよさが感じられるというのは日本人に生まれた幸せであると思う。
御影堂の縁のツヤや凹凸はたまたまできたようなものだが、経年変化とはこういう面白い効果をもたらしたりするのである。

ふたつめは縁側の良さをかみしめられたこと。
同じく知恩院の方丈庭園内の山亭縁側に腰掛けて、春の柔らかな日差しの中、ほんの10分ほどだが、ただ庭園を眺めた。「ここにお茶があったら」「さらに昼寝できたら」などという夢想をしばし楽しんだあと、子供に促されて山亭庭園を後にした。
こういう空間に身を置くと、昔の家の良さがじんわりわかってくる。こうした機能の優劣は数字で表せないせいか、最近では機能ごとなくしてしまった家が増えているのは残念だ。我が家は縁側をつくって良かったと思う。




なお、今回の旅行では、m-louisさんから多大なる後方支援をしていただいた。
教えてもらった南禅寺裏手の散策ルート行は地方人による普通の京都旅行プランではちょっと味わえなかったと思う。m-louisさんには感謝するばかりである。

友里征耶氏の指摘

2006年03月23日 | 家について思ったことなど
 かなり辛口な料理(店)評論をする友里征耶さんという方がいる。
私はその友里氏の連載コラム「行っていい店、悪い店」を愛読している。
有名料理店をばっさりと切り捨てるその論説は、ちょうちん記事ばかりの甘々なグルメ評論の中では異色で、面白い。
貧乏性の私は、友里氏が取り上げるような高級店に足を踏み入れたことはほとんどないのだが、「ああ行かなくて良かった」と、これまた貧乏性丸出しの満足感を得ているという不埒な読者である。そんなズレた動機で読んでいるとしても、「フードライター」「フードジャーナリスト」の多くはいいかげんであることをこの連載コラムはたっぷり教えてくれるので、人にオススメするに値すると思っている。

さて、その連載の930回で気になる部分がある。
メインテーマの「料理」のことではなく「建築」に関する記述のこと。

(以下、引用)*************************************************
以前のコラムで、有名建築家の作品は自身の名声をより高めるため、
居住者にとっては使い勝手の悪い、
奇を衒ったパフォーマンスだけのデザインの
建屋になってしまうものが多いと書きました。
この主張に対するご意見、ご批判をまったくいただいていないので、
この主張は私がわざわざ述べるまでもなく、
広く世に知れ渡った「定説」であると確信した次第です。
***********************************************(引用、ここまで)

料理評論のコラムで建築に関する意見に反論がこないから「定説」と確信されるのはいささか乱暴な結論と思わざるをえないのだが、おおまかに世間一般のイメージがそんな感じではあることは強く否定できない。

ただ、危惧することはある。
ここで「有名建築家」をどのような定義で使っているのかよくわからないのだが、「建築家」全般がそのようにとらえられかねないということだ。
なぜなら「有名料理人と料理人」の関係との対比として「有名建築家と建築家」の関係を思い浮かべる読者はあまりいないと考えられるからだ。おそらく多くの読者は「建築家」はすべて「有名建築家」と考えて、「建築家と建築家以外(ハウスメーカー・工務店)」の関係を思い浮かべるのではないだろうか。
そうして、「建築家」の建てる家は「居住者にとって使い勝手の悪い・・・」というような連想へとつながっていくように思う。それが「定説」になってしまう(なってしまっている)のは悲しい。
(ひとまず友里氏には「建てずに死ねるか!建築家住宅」(大島健二著)を紹介しておきたいところ)

おいしい料理を提供したいという料理人が多いように、住みやすい家を設計したいと考えている建築家だって多いのに、このような誤解が放置されたままになっているような気がしてならない。
どうやら、芸術家的でない建築家はあまり自分から「建築家です」って言わないようだから、こうした誤解はなかなか解けそうにもない。
そんなことを考えていると「建築家」という言葉をどう使うべきなのかがますますわからなくなってくるのだった。



話を変えて別の視点から--。
「異端」な料理評論をする友里氏のように、建築評論にも異端児が現れないだろうか。
「建築」的な視点からの評論ではなく、使い勝手を基準とした評論。気持ちよくブッタ斬りした文章を野次馬的に読みたい。
料理界の人間でない友里氏が言いたい放題なように、建築業界外の人間がいい。

・・・と、ここまで書いて、やっぱり難しい要望であることに気づく。
グルメ(食通)は一般人もなれるというか、そもそも料理人でない人がなるもの。しかし、建築ツウの大半は建築業界かその周辺の人間がなるように思うし、建築に興味を持つ人間はやっぱり建築的な視点で物事を見てしまうだろうからだ。

(家が/家に)馴染んできたと思うとき

2006年03月20日 | 我が家のスペシャルな事情
昨日、来訪者が「まだ、いい木のにおいがするね」と話を振ってきた。昨夏にも息子の友達に同じようなことを言われたが、もう住んで1年になろうとしていて、こちらはもうよりいっそう木の香は意識していない。
うれしいようでもあり残念なようでもある。
これは、家と家族が馴染んできたということなのだろう。
他にどんなとき、馴染んできたことを実感するだろうか。

・ 暗闇で、スイッチの位置に的確に手を伸ばせた時
・ 家族でテレビを見るポジションが大体固まった時
・ 他人の家の階段を上って、やっぱり自分の家の方が上りやすいと感じたとき

まだほかにもありそうだ。


1兆7500億円を「実感」してみる

2006年03月20日 | その他
ソフトバンクがボーダフォンを1兆7500億円で買収することになった。
弊blogとはなんら関係なく、貧乏人が想像できる額ではないと思っていたら、ひょんなことで1兆7500億円という数字の大きさが妙に実感できたので、記録しておく。

100万円の札束というのは約1cmの厚さである。工事代金を振り込む騒動の時、このことをリアルに認識していた。

さて、1兆7500億円というと、どのような厚さになるだろうか。100万円=1cmとして計算するとなんと17.5km! ヨコに並べるのではなく紙の厚さを積み重ねてこれだ。
この「距離」、最近どこかで見たような・聞いたような気がする、とよく考えたら、例の「深夜の大遠足」で踏破した距離と近かったのである。

のべ4時間以上の行程を思い出し、そのルートに、立てた1万円の札束がずっと連なっていることを想像したら、とてつもない金額であることがまざまざと実感できた。1歩70cmとすると、1歩ごとに7000万円分進んで(これだけでもすごい)、それで4時間以上かかるのだ。
とてつもない大金をここまでリアルにイメージできたのははじめてである。歩いた「たまもの」である。

「社長blog」の活用法

2006年03月17日 | 家について思ったことなど
 工務店の社長のblogが増えてきている。(ウチを施工してくれた工務店も社長と社員のblogを始めた)
いい流れだと思う。工務店という業態を考えたとき、施主から見た大きなチェックポイントは経営者の人柄だったりする。
家づくりに対して真摯な姿勢を持っているか、自社の技術に自信を持っているか、手っ取り早く儲けようとばかり考えている経営者ではないか、施主は工務店のいろんなことが気になる。
blogをコツコツと更新すると、更新者の人柄が自然と現れてくる。最終的には実際に会って確認するとしても、blogがあれば事前にそういうことをある程度うかがい知ることができるだろう。

施主として、社長blogから推測できるであろうことを思いつくまま書いてみる。
1.社長の性格
まめな性格なら、現場の報告は多いだろうし、更新頻度も高いだろう。
他者への言及がどのような内容であるかをチェックすると、攻撃的性格(味方なら必ずしも悪いことではない)かどうかとか、熱血漢であるかクールであるかとか、勉強熱心であるかどうかとか、思い込みが激しいかどうかなど傾向は見えてくる。
趣味に関する記述があればセンスもうかがい知れる。
2.社長の人脈
どんなところに出かけているか、どんな人がblogにコメントをつけたりトラックバックしたりしているかで人脈の一端が見えるだろう。
3.社長の体調
会社として総じて小所帯である工務店は、社長の健康状態も重要情報。体調が悪ければ、blogの更新もとぎれてくるし、内容も元気がなくなる。ただし、「更新していない=体調が悪い」ではない(次項も参照)。「更新していない=もしかしたら体調が悪いかもしれないので一応注意しておこう」くらいの予防的推測。
4.会社の繁忙具合
blogの更新が滞っている場合、会社業務が繁忙であるという推定もできる。仕事が多いのは決して悪いことではないが、忙しすぎるのもあまり良くはない。ただし、これも「もしかしたら」という予防的推測。また、更新具合は1.で示した性格も影響する。すなわち「それほどまめな性格ではない」場合も更新頻度は落ちる。

鋭い読み手ならblogからもっといろいろなことを嗅ぎ取るかもしれない。

注意点は、blogはあくまで文章情報で、筆が立つ人間なら飾り立てることができるということ。文章からうかがい知る情報の精度を高めるなら、コメントを投げかけてやりとりしてみるといい。もし口だけの人間なら、応対内容によってボロがでてくることもあるだろう。
それから考えれば、ある種の悪徳な輩はblogを開設していそうもないということも推測できる。口八丁手八丁で契約してしまえ、というような営業姿勢のところは文章の記録をきらうであろう。そういうところはコメント、TBのやりとりなんて想像もしたくないだろう。クレームも多いからblogを開設できないという事情があるということも考えられる。

ただし、blogがないからダメと短絡的に判断はできない。文章にコンプレックスを持っていても腕はいい職人のような経営者、単にネット事情に疎いだけで仕事はすばらしい工務店だってあるはずだからだ。

当然、blogでほとんどのことが分かると考えてはいけない。基本は「百聞は一見にしかず」なのである。
社長blogは「参考情報」を探るいいツールになりうるだろう、ということだ。


インハウス建築家?

2006年03月14日 | 家について思ったことなど
 三井ホームが「あなたと、『建築家+インテリアコーディネーター』で建てる」という事業を展開している。
はて、ハウスメーカーと建築家って、基本的に協業は相当難しいはずでは? などと思いつつ三井ホームのサイトを見てみる。
「建築家」のプロフィールを覗いてみれば、すべて三井ホームか三井ホームデザイン研究所の所属。つまり施工側のインハウスの人材である。
ここで、これまで考えてきた建築家の定義が揺らぐ。
部材・設備の種別や規格外の寸法などで、施主の要望と施工者の都合が合わなかった時、安易に施工者の都合に押し切られないよう差配するのが建築家ではなかったか。客観的に施工監理をするのが建築家ではなかったのか。「建築家」が施工側に所属しているとすると、その人間は基本的に施工者の都合を優先し、施工に手違いがあったときも施工者側の立場から発言するのではないのか。

そもそも施工会社のインハウスの設計者を「建築家」と呼ぶのは適切なのだろうか。建築家とは施主が直接契約するもので、どちらかと言えば施主側のインハウスだと考えていたが・・・。
建てずに死ねるか!建築家住宅」の大島健二分類にもインハウスの建築家というのはなかったように思う。

公的資格である「建築士」と違って、「建築家」という呼称は誰にも管理されていないので、こうしたことがおきるのだろう。そして、業界関係者でもない私が、「どれが正しい」などとは言えない。

誤解しないでほしいのだが、インハウスで優秀な設計者やデザイナーはたくさんいると思っている。インハウスだからこそ力を発揮できる人材もいるだろう。住宅以外に目を向けても、工業デザインの大半はインハウスデザイナーによるものだ。その中にはほれぼれするようなデザインも多い。
何を隠そう私は子供のころ、将来の進路としてインダストリアルデザイナーを思い浮かべたこともあるくらいだから、蔑視するような気持ちはカケラもない。

「建築家」を、「優れたデザインをする設計者」というような超広義な位置付けにすれば、独立していようがインハウスだろうがいいのかもしれない。一個人としてはそう決められているといわれればそういうものだとして判断するしかない。
ただ、家づくりという事業を起こす施主としては、ウデの良し悪しとは別に、設計者の立ち位置はちゃんと区別してもらいたく、それを言葉で分かるようにしてほしいのだ。そしてこれまでそれは「建築家」という言葉によってなされていると思っていた。
「独立した設計事務所に所属する建築士」そんな言い方で区別しなければならないとしたら非常にめんどうくさい。うまく整理してもらいたいものだ。

三井ホームのサイトでは、「建築家」設計の家を「作品」とせず「実例」と紹介していたのを見て、微妙で複雑な問題が端的にあらわれているようにも思えた。

わさびの姿から

2006年03月13日 | 山小屋・ログハウス

 山小屋横の小さな湿地には湧水があるが、沢の水も流れ込んでいる。
その流れを利用して母がわさびを植えている。

わさびは清流でないと育たない。だから、わさびの姿が見えるだけで水がきれいなことが連想されてくる。
世の中、一つのモノから、環境や周囲のものが想像されることってある。例えば、わさびと同じように、ヤマメやイワナの姿は清流に直結する。コイやフナでは清流がイメージしにくい。

住宅などでも部分的なモノからいろいろ想像できることがある。
花壇があって、そこがきれいに整えられていると、季節の美しいものが好きで、きちんとした暮らしをする住人の姿が思い浮かぶ。
以前のエントリ「ニセモノ自慢の憂鬱」で紹介したFRP製の物置のようなものではなく、オーダーメイドやDIYした物置が設置されていると自分のオリジナルな暮らしを楽しんでいそうだ、と思えてきたりする。
ほかにも、鍋、釜、フライパン、包丁の姿を見れば料理の腕前がなんとなく見えてきたりすることもある。

部分から全体の姿を正確・緻密に推察できるとは必ずしも言えないが、傾向のようなものはわかることはあると思う。



<余談>
直近の「ミシュラン」ではトゥール・ダルジャンが三つ星から一つ星に「格下げ」されたという。有名になって日本人などの観光客が押し寄せたことが格下げにつながっているとの見方がある。こういうことが積み重なって「日本人の姿が目立つ」=「凋落のシグナル」として認識されるようになったら悲しいことである。「日本人は本当にうまいものを知っているから、彼らがいたら無名店でもいい店だろう」なんて連想されるほうがかっこよくはないか。
めったなことで高級レストランに行こうなどと思わない私のひがみだろうか。


非本格的な花粉症対策

2006年03月09日 | 山小屋・ログハウス
 このような表題をつけてなんだが、私自身はこれまで花粉症と縁はない。花粉症発生のメカニズムも良く知らない。そんな私の「花粉症対策」とは何か。
飛ぶ花粉の量を少しずつでも減らそうというものである。

我が家は山林を購入し、その山林のスギ、ヒノキを伐採して山小屋をセルフビルドしたことは以前紹介した。100本以上は伐採しているだろう。
伐採した後に、スギやヒノキではなく、コナラやもみじを植栽した。また、建材としてはまだ使えなかった樹齢15年に満たないヒノキ林部分も適宜間伐している。これで極小ながらも花粉飛散量は減っているはずだ。

日本の山林の現状はひどい。木を売ってもペイしないので放置され、荒れ放題になっているところがかなり多いのだ。そこから大量の花粉が放出されている。私の家族のような街の物好きに山林を買わせて手入れさせるというのも一つの方法だと思うのだが、どうだろう。
決して花粉症対策というわけでもないが、広い山林を都会の人に共同保有してもらうというような試みもある。しかし、自分の地所がどの部分かもわからないような形式では愛着も責任感も使命感もわきにくいと思う。
自分の地所がはっきりして、そこの利用に自由度を持たせるのならば土地に愛着がわいて将来の楽しみも出てくる。道楽だから人的コストは気にならない。素人の管理だから効率的ではないが、何もしないで荒れ放題であるよりはまだましだろう。当局が、山林がある程度流通するよう工夫してくれるといいのだが。

私の山林の利用構想
・ 紅葉のプチ名所にする(現在、地主の許可を得てとなりの山林も含め100本以上植樹)
・ コナラは薪ストーブの燃料とする(薪のロールスロイスという異名あり)
・ コナラはしいたけ木としても利用する
・ コナラに寄ってきたカブトムシ、クワガタ採集
・ コナラが大きくなったら、樹上にツリーハウスを作る

どうだろう。分秒を競うこの時代で、まったく尺度の違う時間軸でゆっくり楽しむ道楽。
ツリーハウス構想は、仕事をリタイアしたウチの父が山小屋(ログハウス)を建てたように、私のリタイア後の楽しみにするかもしれない。孫と一緒にやってみたくもある。他にもやれることはたくさんある。

これを読んで山林を活用してみたいと思う人が出てきたら、「花粉症対策」の効果もすこし強まるかもしれない。
対策として気が長すぎるとあきれさせるかもしれない。だから「非本格的」と見出しにつけた。しかし有効的な打開策のない中、塵も積もれば・・・を待ってみても悪いことではないだろう。

関連エントリ 普請道楽をしやすい時代かも――山林購入のススメ


家のデザイン

2006年03月08日 | 家について思ったことなど
靴選びの専門家であるシューフィッターという職業がある。
履く人の足の形状に合う最適な靴を選んでくれるのだが、あるシューフィッターがこんな発言をしていた。
「靴はデザインで選ぶのではなく、足に合ったものにすべきです」
理解はできる。
しかし、である。
気に入らないデザインの靴しか自分の足にフィットしなかったとき、その靴を買うだろうか。私は買わない。許容できるデザインの靴のなかから選ぶだろう。だからその発言をすんなりと受け入れられなかった。
いい靴とは足にフィットして、かつ、その人にマッチしたデザインであるべきだ。

家というものは靴よりかなり長い年月に渡って使うものだから、自分にフィットしてマッチしたものにすべきという切実度合いはさらに強いのではないだろうか。

私はデザインだって家の性能の一つだと思っている。流行のオシャレなデザインが必ずしもいいとは限らず、その家族に合ったデザインというのがあるはずだ。

私は古屋を残すという事情があったこともあるが、流行の出来合いのデザインでよしとすることはできなかった。

「普通の人間だから普通の家でいい」とかいって、外観にこだわることを揶揄するような人々がいるが、そういう人がデザイン以外の性能には妙にこだわっていたりするとなんだかなあと思う。
デザインも含め、それぞれの性能は良いにこしたことはない。しかし、すべての性能を最高級にしたら資金がかかりすぎる。だから、こだわりと妥協のバランスを探る。その均衡点は人それぞれで違っていいと思う。

きょうはミシンの日

2006年03月04日 | 我が家のスペシャルな仕様
気になる記念日はすすんでエントリを立てることにした。

ということで3月4日は「ミシンの日」。
この日が気になるのは、我が家に「ミシン室」というものがあるためである。
なぜそのような部屋があるのかは関連エントリを読んでもらうとして、「ミシン室」という存在が世の中でどのようなポジションにあるのかを調べるためにググッてみた。

検索結果194件。

少ない。しかもほとんど学校のミシン室の話題である。
個人住宅のミシン室では、「ミシン室」仲間のchiezokunさんのところと私のところが出てきたが、ここで、ちょっと待てよと思った。
もしかして違う呼び方をしている人の方が多いのではという「気づき」。
で、「ミシン部屋」でググる。

検索結果9590件。
やっぱり・・・。
しかもこちらは最初から個人のサイトが多数登場してくる。個人住宅においては「ミシン部屋」という呼称のほうがポピュラーであるようだ。

とはいいつつ、ググった検索結果が727万件もある「子供部屋」に比べると、カスみたいな件数にすぎない。
希少な存在どうし、連帯してもいいかもしれない。





ちなみに、3月4日は「サッシの日」でもある。

ひまなつり

2006年03月03日 | その他
「今日は楽しいひまなつり~」
そうか、釣りはヒマを楽しむものなんだなあ、という脳内ボケ&ツッコミをして瞬間ひまつぶしをしてみた。
アナグラムとしては非常に単純なので、きっといろいろな人が書いているだろうと思ってググってみる。

検索件数590件。うん、いるいる。

やっぱり古典的なアナグラムのようである。ちょっと手繰ると嘉門達夫もそのような曲を作っているらしい。ということは本日、これをネタにした相当数のオヤジギャグが日本国中を飛び交っていると推測する。口に出さなくて良かったとほっとする。

しかし検索結果を良く見てみると、ベタな確信犯に負けないくらい打ち間違いがあるではないか。
その中で見つけたちょっと面白かった打ち間違い↓

「ハローキティのひまなつりフェア」

たしかにそういうつりを楽しみそうだ。

本家サンリオのサイトでこういう間違いがあったら、たぶんネット上ではヒマな釣りどころか大漁になるだろう。

とりあえず、私はこのキーワードをタイトルにして「ひまなつり」を試みてみようと思う。少しは釣れるかな?