「いい家とは何か」というのは一律に決められない。
それなのに「いい家」を、一定の考え方を元に条件付けしようとする人達が結構いる。
それはその考え方において「いい家」であるのは間違いないだろうが、条件を一般化・標準化しようとし、それからはずれる家を「いい家」にはなりえない、とする考え方に私は批判的姿勢でいる。
一方で、私が文句なく「いい家」だろうと思える「状況」というものはある。
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伝統ある民家 壊さず直す(asahi.comより)
http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000708240005
伝統ある民家をあわてて壊さないで――。古い木造家屋に被害が出た中越沖地震で、NPOの啓発活動が続いている。余震対策の応急危険度判定で「危険」の赤紙をはられたり、罹災(りさい)証明で全壊とされたりしても、修理や耐震補強をすれば使える家も少なくない。建て直しより負担が少ない利点もある。3年前の中越地震の実例を示しつつ、説明に回っている。
◆
柏崎市別山地区の木造平屋建て住宅。瓦ぶきの玄関はブルーシートで覆われ、応急危険度判定の赤紙が。地盤が陥没し、広間が沈んでいた。
「この造りなら、ばらせば生かせますよ」
新潟市の建築家長谷川順一さん(46)は住人の男性(47)に説明した。家は築約150年。木で木を組む柔軟な「伝統構法」で、組み直せば「再生は可能」という。「壊してはもったいない」
(中略)
長岡市村松町の農業吉井昌(まさし)さん(66)宅は築約50年の木造2階建て。主要な柱の1本の土台が崩れ、大きく傾いた。応急危険度判定で赤紙をはられ、罹災証明でも全壊扱い。建て替えれば1500万円はかかる。同協会に「直せる」と言われ、希望を抱いた。
柱をジャッキアップして土台を補強。家屋のゆがみをワイヤをはって矯正し、壁を増やして強度を高めた。工事費は約700万円。配布された義援金と保険金、貯金で何とかまかなえた。「生きている間はここに住める。思い出いっぱいのうちだからのう」と喜ぶ。
(後略)
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建築家長谷川さん達の行動は尊い(長谷川さんのブログ→「たてもの修復支援ネットワーク」)。
なぜなら、正真正銘の「いい家」を救っているのだから。
記事中、吉井さんの「生きている間はここに住める。思い出いっぱいのうちだからのう」という言葉こそ「いい家」である証明ともいえる。
取り壊したくないという思いの強さは家に対する愛情の強さと同じだ。これだけの愛情を持たれている家は、第三者がどう思うとも「いい家」でないわけがない。
そう、「いい家」というのは当の住人が決めるものであって、けっして第三者が決めるものではない。
そしてそれが決まるのは竣工した時点ではなく、もっと後になってからだ(関連エントリ*)。
家づくりをするにあたっては、いろいろなことを検討する。
広さ、間取り、素材、性能、コスト、デザイン…
それらが思い通りになったからといって、その時点ではまだ「いい家」とはいいきれない。
その時点でいえるのは、「いい広さ」「いい間取り」「いい素材」「いい性能」…というくらいであろう。
家を使って家に対する愛情が深まってはじめて「いい家」になっていくのだと思う。
思い通りに出来たのにいくら使っても愛着がわかなかったら、それは「いい家」ではないのかもしれない。
出来上がった時点で家にほれ込んだとしても、その後愛情が薄れてなくなってしまうのなら「いい家」ではないのかもしれない。
家づくりの依頼先探しは伴侶・パートナー選びに似ているとよく言われるが、依頼先に限らず、家づくりそのものもパートナー選びと似ているのではないだろうか。
恋愛関係において、カップルになったばかりのアツアツの時期は誰でも「いい人を見つけられた」と思う。
しかし「正真正銘いいパートナーだ」と断言できるのは結ばれた瞬間ではない。年を経ていいパートナーとして成就できたときだ。
ルックス、性格、学歴、収入等、自分が考える条件にあったパートナーを見つけたのに、結果的にいい夫婦になれなかった、そんなことだってある。それは結果的にいいパートナーではなかったことになる。逆に自分の理想とは少々違う人と一緒になったけれども、いい夫婦としてまっとうできたのならばいいパートナーだったといえる。
家も同じだと思う。
我が家は築60年ほど経った古屋と、築2年の新居がくっついてできている。
古屋については「いいパートナー」だと胸を張れる。新居については「いい関係を築きはじめた」といったところだろうか。
それなのに「いい家」を、一定の考え方を元に条件付けしようとする人達が結構いる。
それはその考え方において「いい家」であるのは間違いないだろうが、条件を一般化・標準化しようとし、それからはずれる家を「いい家」にはなりえない、とする考え方に私は批判的姿勢でいる。
一方で、私が文句なく「いい家」だろうと思える「状況」というものはある。
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伝統ある民家 壊さず直す(asahi.comより)
http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000708240005
伝統ある民家をあわてて壊さないで――。古い木造家屋に被害が出た中越沖地震で、NPOの啓発活動が続いている。余震対策の応急危険度判定で「危険」の赤紙をはられたり、罹災(りさい)証明で全壊とされたりしても、修理や耐震補強をすれば使える家も少なくない。建て直しより負担が少ない利点もある。3年前の中越地震の実例を示しつつ、説明に回っている。
◆
柏崎市別山地区の木造平屋建て住宅。瓦ぶきの玄関はブルーシートで覆われ、応急危険度判定の赤紙が。地盤が陥没し、広間が沈んでいた。
「この造りなら、ばらせば生かせますよ」
新潟市の建築家長谷川順一さん(46)は住人の男性(47)に説明した。家は築約150年。木で木を組む柔軟な「伝統構法」で、組み直せば「再生は可能」という。「壊してはもったいない」
(中略)
長岡市村松町の農業吉井昌(まさし)さん(66)宅は築約50年の木造2階建て。主要な柱の1本の土台が崩れ、大きく傾いた。応急危険度判定で赤紙をはられ、罹災証明でも全壊扱い。建て替えれば1500万円はかかる。同協会に「直せる」と言われ、希望を抱いた。
柱をジャッキアップして土台を補強。家屋のゆがみをワイヤをはって矯正し、壁を増やして強度を高めた。工事費は約700万円。配布された義援金と保険金、貯金で何とかまかなえた。「生きている間はここに住める。思い出いっぱいのうちだからのう」と喜ぶ。
(後略)
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建築家長谷川さん達の行動は尊い(長谷川さんのブログ→「たてもの修復支援ネットワーク」)。
なぜなら、正真正銘の「いい家」を救っているのだから。
記事中、吉井さんの「生きている間はここに住める。思い出いっぱいのうちだからのう」という言葉こそ「いい家」である証明ともいえる。
取り壊したくないという思いの強さは家に対する愛情の強さと同じだ。これだけの愛情を持たれている家は、第三者がどう思うとも「いい家」でないわけがない。
そう、「いい家」というのは当の住人が決めるものであって、けっして第三者が決めるものではない。
そしてそれが決まるのは竣工した時点ではなく、もっと後になってからだ(関連エントリ*)。
家づくりをするにあたっては、いろいろなことを検討する。
広さ、間取り、素材、性能、コスト、デザイン…
それらが思い通りになったからといって、その時点ではまだ「いい家」とはいいきれない。
その時点でいえるのは、「いい広さ」「いい間取り」「いい素材」「いい性能」…というくらいであろう。
家を使って家に対する愛情が深まってはじめて「いい家」になっていくのだと思う。
思い通りに出来たのにいくら使っても愛着がわかなかったら、それは「いい家」ではないのかもしれない。
出来上がった時点で家にほれ込んだとしても、その後愛情が薄れてなくなってしまうのなら「いい家」ではないのかもしれない。
家づくりの依頼先探しは伴侶・パートナー選びに似ているとよく言われるが、依頼先に限らず、家づくりそのものもパートナー選びと似ているのではないだろうか。
恋愛関係において、カップルになったばかりのアツアツの時期は誰でも「いい人を見つけられた」と思う。
しかし「正真正銘いいパートナーだ」と断言できるのは結ばれた瞬間ではない。年を経ていいパートナーとして成就できたときだ。
ルックス、性格、学歴、収入等、自分が考える条件にあったパートナーを見つけたのに、結果的にいい夫婦になれなかった、そんなことだってある。それは結果的にいいパートナーではなかったことになる。逆に自分の理想とは少々違う人と一緒になったけれども、いい夫婦としてまっとうできたのならばいいパートナーだったといえる。
家も同じだと思う。
我が家は築60年ほど経った古屋と、築2年の新居がくっついてできている。
古屋については「いいパートナー」だと胸を張れる。新居については「いい関係を築きはじめた」といったところだろうか。