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             渋沢栄一

NYタイムズ、69億円の赤字 傘下の情報サイト不振(朝日新聞)>2012.7.27

2012年07月27日 | 過去記事

    




NYタイムズ、69億円の赤字 傘下の情報サイト不振(朝日新聞) - goo ニュース

<米新聞大手ニューヨーク・タイムズが26日発表した4~6月期決算は、純損益が8814万ドル(約69億円)の赤字だった。赤字決算は4四半期ぶり。業績不振が続く傘下の情報サイトの価値を見直し、評価損を出したことが響いた。

 2005年に買収した情報サイト「アバウト・ドット・コム」の事業が伸びず、1億9500万ドル(約152億円)を損失計上し、利益を圧迫した。一方、売上高は前年同期比0.6%増の5億1521万ドル(約400億円)。購読料収入が8%増え、広告料の落ち込みを補った。デジタル版の購読者はこの3カ月間で約6万人多い計53万2千人となり、順調に増えている。

 同社は、インターネット普及にともない新聞の発行部数や広告収入の減少は続いているが、経営の選択と集中を進め、収益基盤の強化を進めていくとしている>










ボウリングやらカラオケの衰退は携帯電話の所為、という論調があった。この不景気、若者はお小遣いを携帯電話に吸い取られているからだと。それでも負けずにボウリング場はゲームやらなんやら、他の遊び道具もたくさん用意して頑張っている。パチンコ屋と合体して「キメラ」みたいな複合レジャー施設として生き延びたところもあった。「カラオケボックス」は飲み放題が当然、部屋代も「10円」とかにした。最近では「持ち込みOK」ということで「カラオケ付き」のレンタルルームみたいなところもある。

未だに「靴代300円」のボウリングはともかく、安カラオケ屋がどうやって利益を出しているのか?と心配になるが、これは行けば分かる。店員は眠そうに仕事をするし、トイレは臭う。部屋の掃除は出来ていないし、設備も酷くて日本とは思えない。徹底的にコストダウンした結果、雑居ビルの空きスペース、コンクリート剥き出しの店が出現する。中に入ると「ムード作り」ではなく、普通に薄暗くて如何わしい感じもする。代わりに「あきらめムード」は漂い、その雰囲気の通り、何ヶ月かすれば潰れていたりする。

元気がある店は内装もちゃんとしている。店員の数も揃えて接客もできる。料理も期待以上のモノが出てくる。これがなかなか喰えたりして驚く。もちろん、料金はそれなりにかかるが、音響設備もしっかりしているし、店内も明るく、なにより気持ちよく使える。ちゃんと「それなりの客」をターゲットにしているとわかる。

時代は変化するから、それに合わせて一世を風靡したような業種が廃れることはある。ボウリングもそう。古代エジプト人が木製のボウリングで遊んでから、日本では長崎で坂本竜馬がグラバーと遊び、オイルショックの少し前に空前の大ブームがある。それが下火になって十数年、またちょっとだけブームがあって、20代の私も最初は「靴代」から賭けて、次の店の支払いを賭けて、女の子と「ハンデ100」とかでいろいろ賭けたりして遊んだ。いまでも好きな人はいるから、ボウリング場は無くなっていない。

カラオケも「KARAOKE」とか「卡拉OK」になって世界中、どこでもある。ロシアでも「KAPAOKE」がある。日本みたいに「ボックス」がないのは治安上の理由になるが、酒場での余興として、娯楽として外国にも受け入れられている。カラオケは日本発祥、日本の娯楽文化であるが、世界に広く普及しているし、日本国内にもまだまだ頑張っているところがある。もちろん、このまま日本国内で廃れてしまっても仕方がない。パチンコと同じく、あくまでも誰でも参加できる娯楽産業の域は出ない。繰り返すが、時代は変化するから、当たり前に庶民の娯楽も変化する。ニーズは変化する。「カラオケ文化」はいずれ無くなり、数百年後には「カラオケ博物館」でしか見られない、とかあっていい。

しかし、だ。このような商業ベースの娯楽産業と、連綿と続く日本の伝統文化の区別がつかない市長がいる。橋下市長だ。

橋下氏はツイッタ―で<文楽を巡っては、とにかく仕組みがおかしい。芸事なんですから、お客さんを魅了する芸で、とにかくお客さんを集めなければならない>とかやる。

恐れ入った。「文楽」は江戸時代、三味線と人形浄瑠璃から派生した伝統芸能だ。たしかに当時は歌舞伎よりも人気だった。それから竹本義太夫が大坂に「竹本座」を開き、平賀源内により江戸浄瑠璃が生まれる。歌舞伎に盛り返されて廃れたりもするが、それでもなんとか生き残って「日本の文化」として護られてきた。戦争中、文化遺産を守るはずの米軍が松竹の「文楽座」を空襲した。場所は御霊神社境内だ。だから細井幾太郎は焼け残った人形を必死で回収した。細井は先帝陛下より黄綬褒章を下賜されている。「人形浄瑠璃文楽」は「人類の口承及び無形遺産の傑作」として世界無形文化遺産にも登録される。それをたかが選挙で勝っただけの「市長如き」が<芸事なんですから>と切って捨てる。なくしたくないなら客を入れてみろ、と愚弄してみせる。

また、橋下氏は<歌舞伎も漫才も落語も、芸事の皆さんは、それはそれはお客さんを集めるために、身分保障などない所でなりふり構わず汗をかかれています>と威張る。ということはつまり、歌舞伎も漫才も落語も商業的に成功しなくなれば「無くす」ということだ。移ろいやすい一般庶民の流行から外れたら、それはもういらないということだ。人間国宝も重要文化財も関係ない、自分らで勝手にやれ、所詮は<芸事なんですから>と。

ところで新聞やらテレビの衰退も顕著になった。所詮が広告媒体。商業雑誌は百万部とか百五十万部とか売れていた時代はラジオにやられ、ラジオはテレビにやられ、テレビはネットにやられて今に至る。例外は新聞だった。これは広告もあったが、それよりも中身が重視されていた。新聞は事実を羅列し、そこで社の解釈も述べる。だからこそ殿様から庶民までが活字を読む日本では世論形成にもなった。ただし、ここにバラエティ番組のような嘘はいらなかった。「テレビを見ると馬鹿になる」はいま、新聞にもあてはまりつつある。

日本がポツダム宣言を受け入れたとき「太平洋の覇権を我が手に」と書いたニューヨークタイムズも例外ではないみたいだ。<尖閣諸島の紛争で米国が日米安全保障条約を発動する可能性はゼロ>とかニコラス・クリストフに書かせていたりするからこうなる。日本のメディアは消費増税の際、新聞はその「公共性」から免税措置を訴え、テレビは「震災の報道が十分ではなかった」とかで通信インフラの設備投資における減税、その固定資産税の免除などを主張する。共に「だって必要でしょ?」ということだが、橋下市長は是非、こういう輩に対してこそ「購読者を増やす努力をしろ」とか「マトモにやれば視聴者もつくでしょ」と言ってやってほしい。相手は商業紙以下の機関紙なんだから。




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