忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

評価は「観とけ (# ゜Д゜)つ」とする

2010年05月04日 | 過去記事
昼過ぎ、妻とふたりで「アメリカ村」をウロウロする。妻の記憶を頼りに映画館を探していたのだが、途中、年配の人が呼び込みをしている店員などに道を尋ねている姿もみた。妻は「ディズニーストアがあったところ、それは子供とバイオハザードを観たところ」という記憶に基づき、居酒屋などに気を散らせる私を放ってずんずん進む。

さっきの御仁と同じく、普段、こんな「若者の町」に何の用もない私からすれば、妻とはぐれることはもう、ここらあたりでちょっと、そこの串焼き屋にでも入ってみるか、という誘惑を抑えることが出来なくなることを意味する。

しかし、どうしても観ておきたい映画だし、絶対にイオンシネマではやらない映画だから、今日を逃せば「いつ放映中止」にされるかわかったもんじゃない。だから、飲むのはその後にするのだったという今日この頃、映画を立ち見したのは「東映マンガ祭り」以来ではないでしょうか。パンフレットも買った。

http://www.crossing-movie.jp/
<クロッシング 公式サイト>

「そこまで言って委員会」で勝谷誠彦氏が紹介したもんだから、着いた時点で「満席」となっていた。映画館の人も「テレビで紹介されたらしくて・・・」とのことで、「満席・完売」などの案内ポスターも手書きだった。つまり「予想外」だったようだ。

我ら夫婦のチケットは「立ち‐21」と書いてある。こんなチケット初めて見たが、これは「入場する順番」らしい。ま、ともかくチケットゲット。ンで、次の放映時間まで1時間半ほどあるから、ようやくここで焼き鳥でも喰うか!とテンションを上げる。

また、私がこの建物に入った瞬間から危惧していたのは1Fにあるクレープ屋さんだった。エレベーターに乗る際、妻の瞳が怪しく光ったのを私は見逃さなかった。しかも、なんといってもゴールデンウィークである。クロッシングでなければ、私がこんな人込みに来るはずもないのだ。小麦粉を焼いた生地に果物などをはさんで食べる、その怪しげな食いもの屋の前にも行列があった。私個人にとっては心の底から関係のない店なのだが、今日は関係大アリだぜぇということなのだ。

「クレープ食べる」

出ました。問答無用。もはや、ノックは無用どころの話ではない。ふぉんてぇ~ぬ!

「ダメ。そんな自信に満ちて言い切ってもダメ。その理由は二つだ。先ず、並ぶ時間が惜しい。それともうひとつは“ごはんがまだ“だ。」

「違う。ピーチストロベリーを食べる」

「違わない。クレープはダメだと言っている。焼き鳥を食べた後、時間が許せば並んで買って勝手に喰えばいいが、それでも映画を優先させることも告げておく。確実なのは、映画が終わった後に喰う、だ。異論は認めない」

「ピーチストロベリーはおいしい」

「関係ない。そんなことは問うていない。それに、だ。万が一、いま、クレープを買うとする。外を見ろ。キミがその怪しい食い物にかじりついている間、おとしゃんはどこいればいいのか。あの植木の周りに屯する若い連中に交じり、髪の毛をツンツンにして、携帯電話を見ながら皮ジャンを着て、ああぁ!また盗まれてるぅ!!とでも言えばいいのか」

「あのエプロンはかわいい」

「知らない。ともかく、おとしゃんが朝から何も食べていないことは、妻であるキミが一番よく知っているはずだ。先ず、何か食したい」

「でも、きびだんごを食べた」(昨日、岡山の志士がくれた、ありがと♪)

「それはキミだけだ。それに本来はきびだんごを食べたほうが言うことを聞かねばならないと法的に決まっている。あげたのはおとしゃん、食べたのはキミだ」

「ピーチストロベリーが食べたい」

「わかった。おとしゃんが並んで買って来る」

「490円」

「書いてある」



・・・・・ま、おそらく、先ほど「道を尋ねていた御仁」も、このクロッシング目当てではなかろうか。普段、こんなところに用もなさそうだったし、他の映画館でやってないから仕方ない。北朝鮮問題を取り上げた「脱北映画」であるから、拉致被害者家族の方々はもちろん、関心を持っている人も観に来るだろうに、それでも大きい映画館は扱わないのである。水島悟監督の「南京の真実」のお手伝いをさせてもらったときも痛感したが、ちゃんとした人がちゃんと観たい映画は、日本ではなかなか扱われない。このクロッシングも上映までに2年かかっている。完全にメディアが勘違いして暴走している証左である。


「上映時間10分前までに来てください」とのことだったので、クソ不味い焼鳥屋をさっさと出て並ぶと、立ち見客にはクッションがあるという。1800円も払ってそれを尻に敷いて通路に座れということだ。ま、愚痴っても仕方がないところだが、2時間近くも妻が大人しくしているはずもないから助かった。クッションがあれば文句も減るだろう・・・しかし、である。

我ら夫婦は「21番」だった。今、呼ばれているのは「19番」であるが、そのときすでに「クッションは5つほど」であった。いやな予感がするも、ん?ひい、ふう、みい、おっと「21番」!クッションあるじゃん!!と思ったが、妻と視線を合わせる。そう、15年も一緒にいればもはや、言葉などいらぬ、会話など邪魔なだけだ、我ら夫婦はもう、目と目で通じあうのである、せ~の、

「んじゃ、クッションいらない!」

エライ。偉いぞ妻よ。そう、我ら夫婦はまだ若いじゃないか。年寄りからクッションを取り上げて映画を観るなら、とっとと帰って「シュレック」でもみて寝るほうがマシだ。それにどうせ、我ら夫婦には、おとしゃんが胡坐をかいて座って、その上にキミが座るという「おとしゃん=クッション」という合わせ技もあるじゃないか。尻の骨が突き出た先輩方に、あの固い床に座って頂くわけにはいかない。それに、だ。我ら夫婦には・・・ん?

「あれ?・・・いま、22番の人が・・・」

あらら、なんと、割り込みである。割り込んでクッションをさっと奪っていったのである。それはなんという上海万博なのか。そんな、貴様ら、ちょっと、クロッシングのクッションナッシングのアレじゃないか。それはバッシングされても仕方がないというか、貴様の家にピッキングでもしてやろうかというか・・・

「お、おとしゃん・・・」

「放っておきなさい。あんなの、どうせ、朝鮮総連か日教組だろう」




まあ、予想していたが、中に入ってみて改めて驚いた。若い人が多い。テレビも捨てたもんじゃないかもしれない(笑)。若い人が興味を持ってくれることこそ肝要だ。私も来月39歳になるから、少しだけ偉そうに言わせてもらうが、北朝鮮の実態に目を向け、いま、何が起こっていて、それは何故なのかを考えるきっかけになってくれればと思う。ただ、周囲で立ち見しているお年寄りには気付いてほしいところだ。愛国心とは公共心、公共心とは常識、常識とは良識、良識とは優しさだ。「人」が「憂」うと書いて「優しい」なのだ。




また――――

映画の筋に関することは極力避けねばならないが、それでも中盤以降、主人公のキム・ヨンスが叫ぶシーンは鮮烈だ。書いておきたい。

「神様は豊かな国にしかいないのか!なぜ北朝鮮を放っておくんだ!!」

無論、これは日本や日本人に向けられた言葉ではなく、脱北後の韓国にて「神様がなんとかしてくれるよ」と声をかけた韓国人に向かって叫ぶセリフだ。その際、私はふと気付いた。そういえば、私の国籍はまだ韓国籍であった。いや、帰化したとしても、私は「韓国系日本人」にしかなれない。つまり、無関係ではないような気がした。

とはいえ、だから「脱北者に支援するぞ!」と思ったわけではない。北朝鮮の人民も可哀想に思うが、それでも、だからこそ、日本人拉致被害者の全員奪還を急がねばならないと改めて思った。韓国の法律に照らすに「北朝鮮人民」は「同じ国民」なのである。北朝鮮の金一族とは単なる「武装集団」なのであり、国家などではなく、いわば「犯罪者集団」なのだ。その「同胞」が他国の国民を拉致して返していない。日本政府の及び腰を非難する「内政干渉」よりも、本来、大韓民国という国家が先進国であり、独立した国家であるならば、だれより責任を感じて対処せねばならない「国内問題」かもしれないのである。

しかしながら、なんとも情けないことに韓国は北朝鮮と同じく、日本の領土を不法に占拠し続けているのである。国民か領土かの際はあれど、他国の主権を侵して居直る姿勢は同根、同じレベルにあると、現在のところまだ韓国籍である私が言っておく。


支那が一党独裁による圧政を正当化するため反日カード・インチキ歴史カードを手放せないように、韓国も自らの国の過去を葬るためだけに反日をしているあいだは、北朝鮮と変わらぬ未成熟国家だという誹りは免れない。

また、件の「委員会」に出ていた韓国人の先生も「不動産屋に断られた」ことを理由に「絶対に日本国籍は取らないぞ」としているあいだは、そのよく回る顎も無意味なだけだ。ここにも書いたが「借家を断られる」くらい、在日やっていれば珍しくもない話だ。

私も何度かある。昔からある。最近もあった。でも、これは仕方がない話だ。「そう思われていること」は仕方のないことなのだ。事実、日本で日本人に迷惑かけているどころか、帰化して日本を売ろうとする輩まで生み出しておいて、いまさら、何を言うかなのである。

さらに、こういう話をすると日本人ですら目を細めて、もう、ともかく、自分は心優しく幅があって、度量があって器量があって、人格者だとでも言いたいのか「日本人でも迷惑かける奴はおるやん?」などと抜かす阿呆がいる。阿呆なのである。なぜというに、答えは簡単だ。それは、

ここが日本だからである。

日本という国家は基本、日本人によって成り立っている。成り立ってきたし、成り立っていかねばならない。すなわち、もう、説明するのも阿呆臭いが、つまり、日本人が日本人を支えることも、日本人が日本人に迷惑かけられることも、いわば前提条件なのである。それを「同胞」という。

「ずっといるから」だけで「他所様の子」になれないのと同じだ。その家の子になるには養子になるほかない。そして養子とは戸籍に入れてもらうことである。それで法律上、晴れて「その家の子」となる。そして、表面上、あるいは建前上において「子供はみんな同じ。区別してはいけない」となるのも言うまでもない。しかしながら、そこに重大な問題を含んでいれば話は別だ。トラブルばかり起こすなら放り出されるかもしれない。先ず、それが普通なのだ。それは外国で暮らすならば「受け入れねばならない」条件なのである。

ただ、日本と日本人というのは「その範囲」が超人的に広大なのだ。また、本気で「自分の子を差し置いて」でも他所の子にはちゃんとする、という性質も併せ持つ。それに本来、養子縁組される子供というのは「困っている」のである。いくら「子供が欲しい」夫婦でも、幸せに暮らしている子供を連れ去るなどという北朝鮮みたいなことはしない。貧しかったり、親がいなかったりする子供を「引き取る」わけだ。

あの時代、韓国は日本の保護国となり、それから併合された。無論、それは「韓国がかわいそうだから」という阿呆臭い友愛的なことではなく、脱税総理にはわからんだろうが、地政学的、且つ、戦略的見地から「放っておけない」状況だったのである。

それでも日本は金も手間もかけて「育てた」わけだ。まさに「自分の子を放ってでも」優先して近代化させたのである。もはや、これに異を唱える病的な人はどうでもいいが、これがざっくりした事実である。そして日本は大東亜戦争に敗れた。併合された韓国は独立してもよいことになった。そこに旧ソ連が侵攻したから米軍が入った。1950年、朝鮮戦争である。日本人だった韓国人や台湾人は「日本国籍」ではなくなった。それだけだ。

また、私が今年、日本人になれるように韓国人は帰化すれば日本人になれる。どんな五月蠅いデモであれ「帰化反対」という阿呆もいない。なれるのである。つまり、韓国人のままでいるのは本人の意思だ。ならば、日本に在住する「日本国籍以外の人間」は「外国人」となるから、外国人として扱われるのは当然だし、ある程度の区別や差別があることくらい知っておかねば、どこの国であろうと世の中生きていけまい。

先ほどの在日先生は、他所の家で暮らしながら、実子と比して「扱いが悪い」と言っているに過ぎない。ならば普通、出て行くか、その家の子にしてもらえるように努力するしかないのだが、お偉い在日先生にはこれがわからない。そして、こういう奴がいるから困ったことが減らないと、ちゃんと日本で暮らしている在日は迷惑している。これは聞いた話ではなく、まず、私が迷惑しているのだ。私が証拠(笑)なのである。

はっきり書くと、そういう在日は、日本における我が身の文句をいうヒマがあるなら、北の「同胞」をなんとかしろということだ。「日本でマンションが借りられない」と文句を言うよりも、北の「同胞」は不動産どころか、その日喰うトウモロコシさえ満足にないのだ。

私はちゃんとした在日だから、不動産屋さんに世話になる際は「在日ですけど」と最初に言う。限られた範囲で限られた物件を紹介してもらう。これは私が悪いのではないが、世の中には「仕方のないこともある」と知っている。そんなことくらいは朝鮮学校を卒業せんでも、大学で教えてもらわずとも、あくまでも「常識」として親に教えてもらった。もちろん、勝手にキムチも漬けませんし、隣の犬も喰いませんと言う。核実験もしませんし、ミサイルも飛ばしませんという。好いコミュニケーションになるぞ?

あ、そうそう、クロッシング。これは観とけ (# ゜Д゜)つ

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