忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

対馬日記⑤

2010年01月25日 | 過去記事




懐かしい型式の石油ストーブの横で、座ってテレビをみているのは「ビッグマグナム」だった。私がガラスの戸を指でトンと叩くと、すぐに気付いて出てきてくれた。


「気ぃつけてね。明日は上対馬でしょう?明後日だったかね?」

「はい、明後日には上の方に、はい。今日は、これで・・」


私はマグナムがマジックで印をつけてくれたパンフレットを見せた。マグナムは嬉しそうな顔を隠さず、ちょっとテンションあげながら「いいよ!今から!」と言った。事務所にいた残りの運転手さんと事務員さんらしき女性(この人が阿比留さんだった)は、え?いまから?という顔をしたが、マグナム、そのへんは空気読みません。


「雪が、すごかよ?」


絶対に俺は行かないぞという決意を込めた感じで、後ろの運転手さんが聞いた。


「しっとるたい~♪」


と言いながらもう、私のスーツケースはトランクの中だ。私の今日はマグナムに託すことにした。コーヒーを買うからというと、マグナムは「オロナミンC!」と元気に答えた。





山道に入ると吹雪いていた。大阪では「暖房切ってください」が口癖の私も黙っている。寝袋のようなジャンバーを着込み、後部座席でホットコーヒーを飲んでいる私に、キンキンに冷えた「オロナミンC」を飲みながら、「ゆっくりみてきていいよ?」とマグナムが言う。標高385メートル。「上見坂展望台」についた。





真横から殴りつけるような風と雪だ。「立ってられない」というと大げさだが、それの少しマシな状態であることには違いない。なにしろ、食堂のおじさんによれば、こんなに降り積もるのは平成12年以来ということだ。また、交通量がある道路ならばともかく、忘れた頃に通る車の量が余計に雪を踏み固めるのである。いわゆる「アイスバーン」の状態があちこちに出る。マグナムはもう、さっきから「チェーン積んできたほうがよかったいね?」と10回くらい後悔している。「こげん降るとは思いもせんばってん・・」と20回くらい言い訳もしている。そこは朝から降ってただろうと思いながらも、滑って転ばないように気をつけて、ともかく、貧乏症の私は展望台に向かう。



日露戦争が始まったのは、1904年の2月だ。その際、この浅茅湾近辺の山々には砲台が設置され、砲兵と歩兵が配置された。その日本軍の方々が仮眠されていたのがこれだ。








ロシア兵が上陸してくることを想定し、この国境の島を軍事要塞と見立て、本土を護ろうと日夜奮闘されていたのであろう。「結構、美味い煙草です。なんか、すいません。少ないですがどうぞ」私はマルボロを置き、最敬礼して、その場を後にした。





しばらく歩くと、兵舎がみえてくる。ここにもたくさんの日本兵の方がおられた。先ほどの「穴」よりは雨風凌げそうだが、ここには火砲4門が格納される。武器兵器、兵站物資、兵隊さんはそのあとだ。しかし、まあ、ペリリューは外国だが、それでも海中に沈んだままの零戦には胸が痛んだ。ジャングルに放置された零戦も「車輪が出たまま」墜落してそのままだ。三菱重工の戦車も朽ち果てていた。ましてや、この対馬は日本国領土である。なぜに、こんな吹きっさらしのまま放置しているのか。こんなとこにこそ税金を使えと言いたい。ちゃんと後世に残るよう、維持、管理してほしい。








そして、宮崎アニメのような林を歩くと砲座跡がみえてくる。












口径15センチの火砲が4門設置されていた。大東亜戦争の時も敵艦が現れず、一度も使用していないと説明にはあった。が、しかし、だ。私は目を疑った。












「砲座」だけではなく、火砲の一部が劣化して残り、そこツタが巻いているのかと思った。しかしながら、これは全て植物である。偶然、折れて倒れた先に砲座があり、そこから更に折れ曲がり砲台のようなモニュメントを創り上げてしまっている。













これをどう受け止めればよいのか。




そこに砲台はあるのだ。まさに、いま、炎をまといながら敵艦に発射される砲弾を欲するかの如く、唸りをあげる火砲の雄姿がここにある。これを、この砲座を守り抜いた先人の魂が、まだ「武装解除スルベカラズ」と言っているのではないかと受け取るには想像が過ぎるだろうか。








昨年、対馬市の過疎化から、島の不動産が韓国資本に買収されている問題について、産経新聞が行った「国会議員を対象としたアンケート」では、なんと「9割が無回答」という信じられない無関心ぶりが顕となった。対馬市美津島町の竹敷にある海上自衛隊対馬防備隊本部に隣接する土地が、韓国資本によるリゾートホテルになっていることも、721人中65人が「注視すべき」と答えただけであったことも記憶に新しい。

「コリア・エクスプレス・エアー」の「ソウル→対馬」の直行便も、日本の許可を前提として20人乗りのプロペラ機を50人乗りに変えるという計画があったのも昨年だった。



そもそも、韓国では「外国人土地法」があり、文化財保護区域や生態系保護区域、軍事施設保護区域はもちろん、そのような土地を外国人が購入する際は、事前に政府の許可を得なければならない。これはアメリカでも「エクソン・フロリオ条項」と呼ばれるものがあって、「CFIUS(対米外国投資委員会)」が米国の安全保障上問題ありとした場合、アメリカ大統領は問答無用で取引停止させる権限があると定められている。いわば、これは国際常識なのである。

しかし、さすがの友愛国家、日本という国にはこんな規制はない。いつでもだれでも、どんな国からでも、日本国内の法律さえ守れば土地を買って頂けるわけだ。ここに外国人地方参政権などが成った暁には、過疎地の自治体など完全に乗っ取られることになろう。



領土問題に無関心な政治家は、上見坂にある日本兵の仮眠所に寝袋持って泊ってみればいい。満天の星空をみながら、この地を、この島を、先人たちはどんな思いで護ろうとしていたのかを感じ取ってみればいい。せめて「無回答」はなくなるはずだ。というか、実は「つしま・・?・・知らない」という者もいたのではないかと思わざるを得ない。





凍えながらタクシーに戻ると、次は「万関橋(まんぜききょう)」に行くという。そこでタクシーを降りて、歩いて橋を渡れと言われた。寒いし、高いところはイヤなのだが、これもマグナムの命令ならば仕方がない。カメラを持ってダッシュする。寒い。







着工は1902年。ロシアの「バルチック艦隊」の北上を想定して、竹敷の軍港から日本艦隊が出撃できるようにと、万関海峡を削って水路を作って橋をかけた。朝鮮海峡にも対馬海峡にも出ていける水路である。そして、1905年5月27日(海軍記念日)、この瀬戸を通って出撃した水雷艇を含む連合艦隊は対馬東方の海上でバルチック艦隊を捕捉、殲滅した。











マグナムは、ちょっと信じられないコースを走りだす。先ず、そこは道なのか?という疑問を挟むヒマもなく、タクシーは尋常ではない角度で坂を下る。しゃべると舌を噛みそうなので黙っていると、港が見えてきた。万関橋の東側にある「女護島(めごしま)」である。


さっきまでの吹雪がウソみたいに晴れ、良い天気になったからではないが、マグナムもタクシーを降りてウロウロし始めた。マグナムは船着き場で海を覗き込むと、私を呼んだ。


どうせ、そんなとこ、フジツボくらいしかなかろうと思ってみると、そこにはサンゴがあった。信じられん。この辺りでは、テトラポットの隙間にアワビがあったりもする。フジツボがへばりつく港にはサンゴが広がるのである。わけがわからない。







「きれーなーきれーなー♪」


マグナムは上機嫌だ。なんか、だんだん、わかってきたが、このマグナム、まさか、自分が観光したいだけぢゃ・・


「きれーなーきれーなー♪」



まさかの「マグナムポイント」に感動した私は、昼飯の心配をし始めた。




「昼飯、上対馬に着いてからにしましょうか?どっか、美味い店あります?」


「レストランがあるなぁ・・比田勝に・・あとは寿司屋とかうどん屋が・・・」


「あるんです?」



「あったらいいんだけどもなー」



・・・・・。






マグナムは浅茅湾がお気に入りで、何度も車を止めて見入っていた。たしかに、最も「対馬らしい」風景かもしれない。その美しさには脱帽する。







さて、のんびり走っているが、もうすぐ「茂木浜」である。途中、何度も景色の良いところで車を止めて、コーヒー飲んだりしながら話し込んでいたので、すっかり良い時間になった。よく考えると、私はまだ、今夜の宿も決めていないのである。いくらフリープランという名の無計画とはいえ、対馬で野宿する根性はない。70匹しかいないと言われるツシマヤマネコに囲まれる自信すらある。個人的にツシマイノシシとは戦ってみたいが、それよりも寒い。もう、一年分は「寒い」という言葉を使ったように思う。寒いのである。



「茂木浜」という文字が見えたとき、マグナムは「あっ!」と言った。私は何事かと思ったが、マグナムは何事もなかったように「琴の大イチョウみよう!」と言ってきた。「みますか?」ではなく「みましたか?」でもなく、「みようぜ!」である。



マグナムはタクシーを止めると、私を放ってイチョウを観に行った。私はマグナムのコーヒーを買って後を追う。「マグナムポイントその2」である。











樹齢1500年。おそらくは日本で最古の「イチョウの木」である。幹回りは12.7メートル。まさに「神木」である。昭和初期の台風と度重なる落雷に幹は避け、中は焦げているにもかかわらず、なんのどっこい、まだまだ樹勢は盛んであるという。めっさ生きてるのである。





周囲には「立ち入り禁止のバー」が置いてある。しかし、マグナムは平気でそれをどける(笑)。「幹の中、入れるよ♪」おいおい、それはいいのか?大丈夫なのか?閉じ込められてイチョウの一部にされたりはしないのか?と言いつつ、私も中に入る。











1500年生きているイチョウの幹の中にいると、なんとも不思議な気持ちになる。




なんといっても1500年前である。今が2010年だから、ええと、産まれたのは510年である。河内屋のオヤジが小学校に上がったころである。その頃と同じ空気があり、同じ海があり、同じ山があったのだろうと思うだけで、自分など、何とも小さい存在だと身に沁みる。




実にくだらない、とるに足らないことで喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだりしているのだなぁと思う。だからこそ、その小さな与えられた空間で、懸命に生きることこそ「命の使い方」だと知れる。金も権力も、実につまらない。生きてる間にしか通じないモノなど、実に面白くない。この大イチョウをみよ。ただ、そこに1500年立っているだけで、どれほどの存在感なのか。どれほどの実在感なのか。なんという生命なのか。




茂木浜は「琴の大イチョウ」からすぐ近くだった。木々の隙間から見える蒼い海の色がパラオの海を思い出させる。そして、それは白い砂浜と共に広がった。









ここには「ナヒモフ号」の大砲がある。昭和40年ごろ、この「ナヒモフ号」に積まれた金塊があるといウワサが出て、海底から引き上げられた。パンフレットには載っていないが、引き上げたのは笹川良一である。一日一善。でも、金塊はなかったとか笑う。






砂浜では、妻へのお土産として「カワイイ形の貝殻」を3つ拾った。先っちょが、ちょんがって(尖って)いるものを選んだ。もう少し頭が小さければ「貝殻帽子」になる。








対馬日記⑥へ

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。