思うんだが――――
今に始まったことではないが、どうも最近、なんかおかしい。
例えば、酒を飲みに行くでしょ?んで、私はよほどのことがない限り「とりあえずビール」はしない主義なんだがね、だから、店に入ると「ひや」と注文するわけだ。すると、なんと「お冷」が出てきたことがある。それも一回じゃない。無論、その店は酒場であり、喫茶店やファミレスでもない。酒場に入ってきて「とりあえず水」なんて、いったいそれはどこの河童なのか。私は行き倒れか。
だから、ため息ついてだな、「あの、日本酒の“ひや”のことですよ、あはは。」と言えば、だ。今度はキンキンに冷えた「冷酒」が出てくる。んで、もう口が開いてるから、仕方なくそれを飲みながら言うのだ。「あの、常温の日本酒をもらえますか?」とな。
いつもの「立ち飲み屋」なんかは大丈夫。「ひや」と言えばちゃんとコップ酒が出てくる。当たり前に「らっきょ」もあるし「めざし」もある。造りでもなんでも、ちゃんと「酒の肴」としての量を理解している。京橋にあるめちゃウマの「からあげ」を喰わせる店を知っているか?そこでは「とり」と注文すればOKだ。粋じゃないか。酒場にはこういう雰囲気が欠かせないのである。酒を飲むということは雰囲気を味わうことでもあるのだ。
立ち飲み屋にフラリと入り、
「おっさん、常温の日本酒をくれ。そして、とりのからあげの、あの、チューリップと呼ばれるのをひとつだ。」
では雰囲気を味わえないと思う今日この頃、やはり、「うぃっす。ひや。と、とり。」「あいよ!」であろう。んで、ダメなのは若造が入り浸るような居酒屋である。あの「色の着いたジュース」みたいなアルコールドリンクを提供しているような店だな。クソ餓鬼どもがカラフルなアルコールドリンクを飲みながらフライドポテトを喰い、バカ騒ぎするだけの店だ。マクドナルドでも行けと言いたい。もう最悪。
「2」へ
■2009/07/25 (土) 「ご注文を繰り返します」の理由 2
ま、わかってて行く私も悪いのだが、たまにフラリと入ってしまうのである。そして、気分が悪いのはそれだけではない。アレだ、例えば「焼き鳥」を頼むと、だ。
「塩焼きですか?たれ焼きですか?」
と問われる。なんだというのか。知るか。旨いほうを持って来い。
それに基本は「たれ」であろう。んで、「ズリ」とか「カワ」は「塩」だろう。しかも、最近は「スパイスとキムチダレもありますが?」と問われて、もう、全部混ぜて焼けと言いたくなる。カレー味は無いのか?なに?あるのか??!!
また、寿司屋で、だ。
「これはこのまま」とか「これは抹茶塩をちょっとだけね」と指示されることがある。間違っても「醤油にします?岩塩で?」などとは問われない。それは向こうが「プロ」だからであり、客である私よりも「美味い食わせ方」を熟知しているという自信である。値段の話ではなく、安い焼き鳥であろうが、その鶏肉を仕入れているのも、調理しているのも、店の人間であろう。ならば、問答無用で「たれ」か「塩」くらいは決めてもらいたい。また、どうしても「塩で喰いたい」という客は自己申告すればいいのである。
また、今更だが、私はアレも嫌いだ。あの「ご注文を繰り返します」というアレだ。
例えば、3人でメシを食いに行く。私が注文して、Bさんが頼んだ後、Cさんが注文する。んで、3人が3人分のメニューを聞かされるのである。そして、またアレだ。
「ソースはオニオンと醤油ベース、あとガーリックソースとおろしポン酢が・・」
「ドレッシングのほうは・・・・・」
やかましい。なんでもいい。
どうしても「醤油ベース&イタリアンドレッシング」の奴は自分で言え。それに、だ。
「ご注文を繰り返す」のは誰のためなのか。客のためだと言えるだろうか。
客は「頼んだもの」が来ればそれでいい。つまり、キチンと承るのが店側の仕事ではないか。「客にも確認させる」ということはどういうことか。昔はそんなんなかったぞ。
「3」へ
■2009/07/25 (土) 「ご注文を繰り返します」の理由 3
例えば、駅にある「立ち食いうどん屋」のおっさんを思い浮かべて欲しい。慌しく駆け込んでくる客がいる。次々に来る。無愛想に黙々と働くおっさん。
「ええと、きつねうどんね。ネギ多めね。」
「んっと、カレーうどん。コロッケのせてね。」
「ハイカラでいいや。シャケおにぎりひとつな。」
「肉のぶっかけ。肉多め。」
「ざるそばね。いなりふたつね。」
「たぬきそばとミニ親子丼!」
すべてに「あいよ」としか答えないおっさん。そして、次の瞬間!!
「あいよ!きつね!ネギ!」
「カレー!コロッケね!」
「あいよ!おまたせ!ハイカラにシャケ!」
「あいよ!肉多めの肉ぶっかけ!」
「ざるといなり二個!」
「たぬきと親子ミニおまち!」
客:「おぉぉ~~~~」
と感動するのである。プロとはそういうことだ。
・・・などと、ブツブツ言いながら事務所に行くと、我が社の店長も怒っていた。
彼は「みんみん餃子」をこよなく愛する42歳である。休日ともなれば、なんばウォークの「みんみん餃子」の店で「餃子一人前と五目焼き飯」を注文することを至福としている独身中年である。趣味は四柱推命である。主食は「サトウのごはん」なのだ。
彼はいつものように注文したと言う。対応したのは「日本語勉強中です!」と書かれた支那人娘であった。最近、本当に増えた。困ったもんだ。
「4」へ
■2009/07/25 (土) 「ご注文を繰り返します」の理由 4
「五目焼き飯」には「小さなエビとカニのほぐし身」が上に乗るという。普通の焼き飯にはついてこない。彼はその日も人生の喜び、生きているという証のため「エビとカニ」が乗る「五目焼き飯」を注文したのであった。そして、彼がワクテカして待っていると、だ。
あとから「裕福そうな老夫婦」が入店してきたという。夫婦は、その支那人娘にあれやこれやと注文している。決して、いい大人が「焼き飯と餃子」を食うためだけに「なんばウォーク」をウロウロしていたわけではないという感じの老夫婦である。
その際、彼は間違いなく、その老夫婦のご主人が「焼き飯」と注文したのを確認したという。自分は「エビとカニ」が乗った「五目焼き飯」、あの老夫婦は裕福そうに見えても「普通の焼き飯」、彼は自分の中で芽生えた、かすかな優越感に浸っていたことだろう。
なのに、である。
なんと、その「エビとカニ」が乗った「五目焼き飯」は、今、来たばかりの老夫婦のテーブルへと運ばれていくではないか。彼は軽いパニックに陥りながらも冷静に、且つ、平静を装い静かに待った。「なんだ、あのご主人も五目焼き飯を頼んだのだろう。でも、向こうのほうが後なのに・・・・ま、いいか。」と自分を宥め、湧き上がる怒りを抑えていた。
すると、である。
なんと、ようやく彼のテーブルに来た焼き飯は、「エビもカニ」もない普通の焼き飯ではないか!!この会社に入ってもうウン年。苦労して苦労して、我慢して我慢して、寝て寝て、シャケ焼いてシャケ焼いて、また寝て寝て、ようやく上り詰めた実感としての「エビとカニ」である。辞めようと思った日もあった。事実、辞めてしまったこともあった。泣かされた日もあった。鼻水をたらし、自らの中途半端な立ち回りに嘆いた日もあった。迫真の演技で救急車を呼んだこともあった。口から吹いた泡は「ロイヤルミルクティ」だった。
つまり、その支那人娘の痛恨のミスは、彼の人一倍強い被害妄想を刺激する。
「相手みたな・・・・?この野郎・・・・」
普段は大人しい彼も黙ってはおれない。彼は支那人娘を呼びつけて言い放つ。
「ちょっと!これ、普通のチャーハンやん!!」
「5」へ
■2009/07/25 (土) 「ご注文を繰り返します」の理由 5
彼は以前、当店で働いていた支那人の男性アルバイト2名に、その態度が横柄だという理由で、「おまえ、毛沢東の息子かなんか知らんが、ここは日本や。ちゃんと真面目に仕事せんと通用せんぞ?ごるぁ?」とやり、その支那人アルバイトが私のところへ「人種差別されました(泣)~~」と泣きついてきたことがあるほどである。
「ちゃんと値段、引いといてやっっっ!!!」
・・・・こういうことがあり、さすがの彼も、もう、なんだそりゃとなり、あの大好きだった「なんばウォーク」の「みんみん」は避けるようになったのだ。
しかし、彼は「みんみんの餃子」を愛していた。
今度は「心斎橋店」である。本店である。
彼は、これでまた、あの幸せな日々が戻ると信じていた。また、いつでも、安心して「みんみんの餃子」が食べられるのだと・・・しかし、である。
その日も彼は意気揚々と「みんみん本店」へと出掛けていった。
上機嫌で「コモエスタ赤坂」を口ずさみながら、夕暮れの心斎橋を歩いていたのである。そのあと、風俗で遊んでから「アムザ」で風呂でも入って、松本清張でも読みながら寝てしまおうと考えていたのかもしれない。下腹をそっと手で支え、恍惚の表情を浮かべながら、目を半開きにして舟を漕ぐのが好きな42歳なのである。最近、常に飴玉を嘗めている。
彼は注文した。その日は、
「肉団子の甘酢と餃子一人前」
である。しかし、彼は咄嗟に判断を変えた。ここは思い切って、だ。餃子を2人前食べようとしたのである。今日は焼き飯ではなく、肉団子である。量的にはイケル。よし!
「6」へ
■2009/07/25 (土) 「ご注文を繰り返します」の理由 6
・・・・彼は、まるで勝ち組のように注文したのである。「ごはんもの」を注文せず、単品だけを注文する。酒も飲めないのに、中華料理屋で単品のみで勝負するのであった。
しかし・・・・そう・・・・彼はコレが悲劇の始まりだとは気付きもしなかった。
そしてまた、そこにも支那人娘がいたのである。無論、ありとあらゆるトラブルから免罪されるという魔法のプラカードも下げている。「日本語勉強中です。にいはお(はぁと)」
しばらくすると「餃子2人前」が来た。肉団子の甘酢はまだ来ない。しかし、彼は食事のペースが遅い。歯が悪いのである。だから、ペース的にはちょうど良いと思ったという。
彼は不安な気持ちを抑えながら、ひたすらに「みんみん餃子」を味わった。それはもう、慈しむように、ゆっくりと、ゆったりと、ひとくちひとくち、噛み締めながら、悪いほうの歯を庇いながら・・・差し歯を気遣い、食道を気遣い、食後の漢方薬も用意されている。
でも、肉団子の甘酢は来なかった。餃子もとっくに食べ終えている。いくらなんでも、コレは遅すぎるだろうと、彼は支那人娘を呼びつけた。
そして、ちょっと声が裏返りながらも言った。
「あの、肉団子、まだ?オーダー通ってるの?」
彼が予想していたのは、
「あ、すいません!!通し忘れてました!申し訳ございません!」
である。そして、彼は「じゃあ、もういいよ」と言って店を出る・・・はずだった。
しかし、なんと、その支那人娘は、
「はい!ちゃんと通ってますよ!!」
と言うのである。当たり前の顔で、である。そして支那人娘は何事も無かったように、マイクに向かい「明らかに今、肉団子オーダー通しただろ、おまえ?」という内容を厨房に告げたのであった。つまり、忘れていたのである。
「7」へ
■2009/07/25 (土) 「ご注文を繰り返します」の理由 7
あのラルフタウンゼントは「中国人は嘘をつくのに理由は要らない。彼らは嘘をつくのが好きなのである」と結論付けている。1931年に上海副領事として支那に行ったタウンゼントは、後に書かれた「暗黒大陸・中国の真実」の中で、支那人の使用人の習性に触れている。使用人の「頭(かしら)」に「庭師に言って、枝を切らせてくれ」と頼めば、「はい、もうそのように指示いたしております。今、ノコギリを探しているところです。」と言う。「スープにスパイスを効かせすぎないように」と言えば、「はい、先ほど気付き、コックを叱っておきました。」と言うのである。これを「サービス精神」と呼べる御仁は支那人なのであろう。まさに「その場だけ」をしのげればいいという、なんとも短絡的な思考である。
こういう「店員」が、あっちの飲み屋、こっちのコンビニ、そこのスーパー、あの料理屋に増え続けている。そら、『ご注文は繰り返して』もらわねば困る日がくるのだろう。「塩かタレ」か決めないと具合が悪いだろう。「常温の日本酒」と言わねば通じんのだろう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090725-00000021-yom-soci
<給付金問い合わせたら…「あなたは死亡している」>
支那の話ではなく、日本の大阪というところの話である。
<申請書発送後に男性の転居に伴って住民登録を抹消した際、システム端末上、「死亡扱い」で処理したのをそのまま読み上げてしまったのが原因で、市は「不快な思いをさせて申し訳ない」と平謝りしている。>
急速に「何か」が狂い始めている。常識が通じない連中が紛れ込んでいる。
<男性は「死んだ人間が電話できるか」などと激怒。>
この、ごくマトモなオサーンのツッコミが笑えなくなる日は近いのかもしれん。
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