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靖国参拝で「拉致被害者が落胆」は捏造? 民主の質問に首相が反論

2013年04月25日 | 過去記事

靖国参拝で「拉致被害者が落胆」は捏造? 民主の質問に首相が反論

<安倍晋三首相は25日午前の参院予算委員会で、古屋圭司拉致問題担当相の靖国神社参拝に対し、拉致被害者が落胆していることはないとの認識を示した。「古屋氏が家族会などに問い合わせたが、一切そういう声は上がっていない」と明言した。

 古屋氏の靖国神社参拝をめぐっては、民主党の徳永エリ氏が24日の予算委で「拉致被害者が落胆しているとの声が聞こえる」と批判していた。

 首相は25日の質疑で「非難には相当な根拠があったと見るのが当然だ。それがなければ捏造(ねつぞう)の質問になり重大だ」と徳永氏の質問手法を疑問視した。自民党の北川イッセイ氏への答弁>






グッピーを100匹水槽に入れる。そこに餌を入れると半分のグッピーはありつけるけれど、残りの半分は餌が喰えなくて弱る。「勝ち組と負け組」だ。今度は「勝ち組の50匹」と「負け組の50匹」を分けて入れる。すると、そこでも半分になるから、今後は「最初の勝ち組」の水槽で負けたグッピー25匹と「最初の負け組」の水槽で勝ったグッピー25匹を入れる。さて、勝敗はどうなるか。

これがあら不思議。最初に負けたグッピー50匹の中から勝ち抜いた25匹のほうが勝つ。つまり「負け→勝ち」というパターンのグッピーだ。いちばん最初に勝ったはずの「勝ち→負け」のグッピーは勝てなくなる。いわゆる「グッピーの法則」だ。あかんたれの若者なんかが凹んでいるときに使うといい。負けてもいいじゃないか、大事なのは次に勝つことだ。あきらめずに何度でもチャレンジするんだ、グッピーもそうじゃぁないか、とか。

しかし、ここで大人として確認しておかねばならないことは、100匹のグッピーの中には「勝ち→勝ち」のグッピーも「負け→負け」のグッピーもいるということだ。最初の100匹バトルロワイヤルに負け、次の50匹の中でも「負け組25匹」に含まれるグッピーもいるのだ。この水槽に「自然界の摂理」が作用すれば、この25匹は生きていけない。

たぶん、この「25匹」は泳ぐのが遅いとか、反応が鈍いとか、病気だとか怪我だとか、おそらく、なんらかの「負ける理由」がある。もちろん、時の運ということもあるが、そうそう何度も負けるならば「自然界で生きていけない」という結果は変わらない。グッピーの中には安倍政権もないから「何度でも再チャレンジ」とかもない。普通なら何度か、致命的に負けたらお仕舞いだ。自然には福祉もない。「最低限の生活を営める権利」とかない。

ある意味、シビアではあるが、我々の社会においても「本当はそうなっている部分」が厳然としてある。どんなにハイレベルな大学であれ、だれでも挑戦することはできる。いつかは「勝つ」かもしれないが、ほとんどの人は「負ける回数」が増えていく。「ボクはあきらめない」とか言って中年まで東大を受け続けています、は既に許されない現実である。我々はつまり、個人差はあれど「負けられる限界」というものがある。あくまでも常識の範疇だが、普通は50歳でプロ野球選手とか目指せない、と我々は知る。そこには現実問題として能力や資格が問われるからだ。これを差別だ、と騒いでも仕方がない。

ただ、我々はグッピーじゃないし、ここは日本だから、何度負けようとも「水槽から放り出される」ことはない。そのときはちゃんと「社会が掬いあげる」ことになっている。いわゆる「セーフティネット」だ。市役所にでも相談に行けば「勝てないなら死んでください」とか「なんで何回も負けるの?勝つ気あんの?馬鹿なの?」とか言われない。ちゃんと話も聞いてくれるし、然るべき「保護」を受けることも可能になっている。

例えば、その代表が「生活保護」だが、これを不正受給する輩が「悪いグッピー」なのは間違いない。「わざと負けて楽をする」も卑劣だが、その代わりに根性が乞食になる。だから最も劣悪なのは「勝って負けたふり」の泥棒だ。自分で餌を採ったクセにまた盗る。負けた連中の餌も盗る。ここまでいくと「グッピーの風上にも置けない」レベルになる。

また、負けたグッピーは負けたことくらいは自覚しないと「次」がない。自覚がなければ反省もできない。反省しないと言動も態度も改まらない。改まらないなら「淘汰」されるべきなのであり、事実、自然界ではそうなっている。

しかし、人間の社会でも「頑張る」だけでやってはいけないこともある。例えば医者とか。全身麻酔を伴う手術の各種同意書に署名する際、医者が「頑張ります」だけならとても不安だ。そこはやっぱり「とらすとみー」が欲しい。もちろん、社会には厳しい人がいて「頑張るだけなら馬鹿でも出来る。社会人なら結果を出せ」とか言う人もいるが、それもちょっと厳し過ぎるというか、本当に馬鹿なら頑張らない、ということも事実だったりする。

語弊があるかもしれないが、世の中には「ちゃんと頑張っていたらなんとかなる」という仕事もある。たちまち命も賭けないし、度合いにもよるが、失敗しても取り戻せるレベルの仕事も少なくない。いわゆる「再チャレンジ」が許されている範囲は狭くない、あるいは「その回数」がたくさんあるような仕事のほうが多いかもしれない。「申し訳ございません」とか「以後、気をつけます」で済むようなことも珍しくないし、ただ、あんまり短期間で繰り返すなら考えたほうがいいが、それはまた「別の問題」のような気もする。

他にも「頑張ります」では通じない仕事に政治家も含まれる。「スイマセン、マニフェスト嘘でした」とか「朝鮮人から献金受けてました」などは結果が重大過ぎるわけだが、だから政治家には選挙というモノがある。いつまでもいつまでも「頑張ります」で高禄食まれては困るし、やはり「その結果」というものがダイレクトに国家に影響するからだ。

そして少しだけグッピーを思い出すと、負けて負けた水槽で威張っているグッピーがいる。民主党だ。「個人では勝った」とかどうでもいい。政党政治は「政党の支持」も大きく評価されるべき、となっている。だから比例復活があるんだろう。その観点からすると、民主党は先ず「負けた反省」をせねばならない。その言い方が悔しいなら「原因を分析」でもいい。いずれにせよ、まだいまのところ、社民党や共産党じゃないんだから「負けても知らん顔」はよろしくない。

それがまあ、なんとも全員が「ドヤ顔」なのである。「ドヤ顔」になるには「これでどや?」という根拠がいるが、民主党にはそれが見当たらないのに「どや?」という顔をするから不思議がられている。

民主党が好きだった言葉で「直近の民意」というのがあったが、いまの民主党は「直近」どころか、今現在の民意からお断りされている。左巻き集団らしく、なにやら「大反省会」みたいなイベントを用意、そこで内ゲバよろしく「戦犯」を袋叩きにするつもりらしいが、それでも「同じ生簀の中」は変わらない。同じ穴のナントカ、とも言う。

その証拠に参院の予算委員会の中継。民主党議員のそれはみてられない。なんだあの福永某というオンナは。拉致被害者家族をして<非常に落胆しているという声が聞こえている><『こんなことで本当に拉致問題に 取り組んでくれるのか』という声がある>と国会で質問していた。思わず「おいおい」と私でも心配になった。これが「勘違い(捏造)でした」なら間違いなく、本人だけじゃない。海江田のクビが飛ぶ。支那朝鮮に媚びて靖国参拝を腐したいだけなんだろうが、これは本当に踏んではいけないモノを踏んだ。

これに比せばくだらぬことだったが、この他にも低レベルな質問というか、なにか意味不明な文言もあった。「タクシー運転手が景気悪いと言っていた」とか。それは普通「世間話」という。「公営住宅」の年寄りが寂しく暮らしている、などもそう。年寄りの一人暮らしは寂しいと相場は知れている。ああそうですか、お気の毒に、という他ない。

それから<電気とガスは通ってるが水道は止まっているという若い人がたくさんいる>もヘンだ。水道については共産党でも<命にかかわる水道事業「福祉の心」ない取り立てに反対!>とかやってる。つまり、その「若い人」とやらは電気ガスを支払って、水道を支払っていないわけだ。水道が出ないのに、ガスで何するんだ。当然ながら湯も沸かせない、シャワーも出ない。その「若い人」が実在するなら、それは馬鹿なんじゃないか。それに水道だけは法定免除もある。生活保護なら減免もある。意味が通らない。それで<たくさんいる>だぁ?

しかし、いちばん馬鹿らしいのは<靖国参拝が中国韓国に影響を与えたことは否めない>だ。知ったことか。この福永某という阿呆は「みのもんた」の付き人だったらしいが、やはり、相当阿呆で有名な「師匠」よりも阿呆なのだろう。まったく、論評に値しない阿呆というのはこういうことだ。民主党、これは嫌味でもなんでもないが、もう、本当に解体したらどうか。哀れ過ぎてみてられんし、もう立て直しなんか無理だろう。もともと立っていたかどうかも怪しいもんじゃないか。

グッピーで言うなら、もう負け負け負け、だ。どうやっても勝ち目はない。自分たちは「法則の外」にいると理解したらどうか。





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