忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

沈黙は会話の偉大な話術である。自分の舌を閉じるときを知る者は馬鹿ではない。(ウィリアム・ハズリット)

2011年04月21日 | 過去記事

「主人への意見は一番槍より難しい」と言うのは徳川家康だが、面白いのは家康がこれを将軍になってから言ったことだ。つまり、自分が「主人」であるのに部下に対して「上にモノ言うのは戦で真っ先に仕掛けるより難しいと思わん?ww」と説いたのだ。

たしかに、言われてみれば難しい。与えられた職責を果たすことに粉骨砕身、寝食を忘れて没頭することは誰からも咎められないが、天に唾する、という言葉があるように、日頃から面倒見てくれている「上の者」に具申するのは簡単ではない。不条理とは世の常でもあるから、少々のことは我慢すべきであるし、そこはやはり組織人としての自覚と責任が優先されるべきであると私も思う。しかし、だ。

物事にはなんでも例外というモノがあって、主人から干されようとも、斬り殺されようとも、組織人には言わねばならぬときがある。組織に抗って実行せねばならぬこともある。それは「組織を守るため」かもしれないし、それよりも大切なモノを護るためかもしれないが、いずれにしても、私心で出来る範疇にはない。あくまでも公的な意味を伴う使命感から発せられる批判でなければならない。最近では「尖閣諸島事件」の映像を公開した一色氏などがそうだ。

もちろん、何が言いたいかというと、今回の桜井充財務副大臣の発言だ。菅内閣の一員でありながら、明確にトップを批判した。発言の内容は次の通りだ。


<(18日の参院予算委員会で)多くの党の方々から、『もう菅首相辞めろ』という声も出ましたよね。私が言ったわけじゃありませんよ。だけどあそこのやりとりを聞いていて、まあ、ああいうふうに言いたくなる心情もよくわかるな、と。つまり、やりとりの中で『このくらいはせめて認めたらどうです』と問いかけた際に、それまで全部突っぱねたら、『じゃあ辞めろ』と言いたくなるのも当然なんじゃないの。そうじゃない?要するに人としてどうかですよ。人としてね>


18日の予算委員会はネット配信で観た。愕然とする内容だった。震災から今日まで、この政権はいろいろと言われているが、それでも、心の隅の方には「天災だから仕方がない」とか「事故の規模が大きいから大変なのは当然」など、どこか「管政権でなくとも、この騒動は仕方がなかったのでは?」という気持ちもあった。しかし、やはり、国会中継とは見るモノだ。これは完全に菅政権による失策を真因とする「人災」だとわかった。

先ず、この素人政権は最低限の「やらねばならぬこと」をやっていない。自民党の脇議員の質問を観ればわかるが、とんでもない独断専行と怠慢、無能と無策のオンパレードだったと明らかにされている。もはや、責める側の野党議員も溜息が洩れ、脱力感を隠せずにいる。脇議員は質問の最後をこう締めくくった。


<この期に及んで、いつでも、常に言い訳しかできないあなたを悲しく思います。私は、今日の質疑を通じて、本当に菅さんという方、あなたはね、日本国の総理大臣にふさわしくないと思います。一刻も早くお辞めになることをお願いして私の質問を終わります>



多くの民主党議員も鳩山も菅も、おそらくは「運が悪かった」くらいにしか考えていない。否、そうとしか考えられないのだ。自分に原因はなく、自民党が悪かったに始まり、時期が悪かった、タイミングが悪かった、秘書が悪かった、中国が悪かった、ロシアが悪かった、アメリカが悪かった、日本はもっと悪かったから謝った、宮崎県が悪かった、海上保安庁が悪かった、那覇地検が悪かった、小沢が悪かった、マニフェストが悪かった、マスメディアが悪かった、地震が津波が悪かった、東電が悪かった、つまり、自分が悪かった、というのは、すべからく「それらの後」であり、だからこそ鳩山も菅も「国民も一定の評価をしてくれていると思う」とか「歴史が評価してくれる」などと抜かす。



「リスク」を背負えない人間だ。これは巷にも大量に増えた。

パチンコ屋時代の社長マンは、飲酒運転を咎める私に「酒を飲んだ方が慎重に運転するから、飲んだ方が安全なのだ」と真顔で言った。これは一事が万事そうであって、こういう「ダメなトップ」は仕事だから、という理由で謙虚になったりはしない。

「家族と接する時間が欲しい」と言って休日が足らないとぼやく社員は、休日になると一日中、子供を放ってパチスロに興じていた。「給料が少ないから生活ができません」と抜かす若造はローンで新車を買った。こういうのは餓鬼の頃から変わらない。「寂しかった」という理由で万引きして捕まるのと同じことで、これを病気になるまで放っておくと「誰でもよかった」として白昼、刃物を振り回して我々の安全を脅かしたりする。

この財務副大臣は管直人に対して<要するに人としてどうかですよ>と、実に的を得た批判をしている。これはまったくその通りで、管直人とは「総理大臣として」ではなく「政治家として」でもなく、まさに「人として」「どうなのか?」を問われている。もちろん、この場合の「人として」というのは「人間性」だけのことではなく、おそらくは「一社会人として」とか「一大人として」という常識的な疑問が含意されている。

普通、人は何の用意もなく「ジャンボジェットを操縦しろ」と言われたら断る。その理由は「墜落したら自分も死ぬから」ではあるまい。遠隔操作でも断るはずだ。なぜなら、普通、常識ある人間ならば、ちゃんと「リスク」を背負える人間ならば、その意味の重要性にまで関心が向くからである。自分の所為でたくさんの人が墜落して死ぬかもしれない、と思えば、いくら自分は安全でも、面白がって、あるいは名誉欲に支配されて「やってみます」とは言えないことになっている。

また、組織人なら上を目指すのがマナーだ。社会に存ずる組織とは、例えばマラソンで言うと、それは芸人も参加する「東京マラソン」ではなく、0.1秒を競う「国際試合」であり真剣勝負の場だ。すなわち、そこで「完走が目標です」というのはマナー違反となる。会社組織で言えば「結果はともかく、毎日頑張って通勤します」と言っているようなもので、そういうマナー違反を許せば全員のモラルに悪影響することは言うまでもない。

だから政治家は全員が「総理大臣の椅子」を目指すことも、ある意味ではマナーと言ってよい。しかし、それは「そのポスト」の意味役割を理解し、自分がそうなった暁にはこうするのだ、という理念や目的があり、それをゆっくりと熟成させ、紆余曲折ありながらもなんとか形にまで創り上げ、ようやく、そのポストで活かせるかどうか、を己に問うことが条件でもある。会社組織で部長になり、抱負を問われて「とりあえず部長になりたかった」という馬鹿はいない。また、普通の会社組織であれば、そういう人間は決して上になれない。目的があるから上を目指すのだし、上を目指すことで目的も具現化するからモチベーションは維持されるのだし、且つ、その姿勢こそが「評価」の対象ともなるわけだ。

また、優れた管理職はケチでもある。正確に言うと「ケチ」というイメージがある。仕事で必要だから購入してくれ、と頼んでも「検討する」とか言って即断してくれない。稟議書を提出しても、ちょっと待ってくれ、と繰り返され、不満に思う勤め人はごまんといる。

しかし、その管理職が帰りの赤提灯ではケチじゃなかったりすれば安心だ。今日はオレが奢るから気にせず飲れ、と言ってくれる上司ならばついて行ったほうが良い。それは「会社の金」と「自分の金」を峻別できる人間だからだ。さて、世の中にはこの峻別が出来ても、まったく逆の発想で生きている人間もいる。会社の金なら湯水の如く、自分の金なら身を切る想いで出す人間だ。これが政治家なら、その仕事の性質上、我々の血税を切り分ける仕事となるから、こういう人間が公金を扱う、それも政権与党となれば、どれほどの不具合が行われているのかもわかる。

だから民主党は、この期に及んでもバラマキを止めない。税金だからだ。「子供手当」などという不要なものなど直ちに止めればよいものを「10月以降」に減らすのか、所得制限をつけるのか、とまだやっている。党内には未だ「政権公約を反故にすべきではない」というお粗末な意見や「社会全体で子供を育てるという理念が失われる」などというポルポトのようなことをいう連中がいる。

さらには震災復興対策にて平成23年度第二次補正予算案の財源として「復興再生債(仮称)」などというモノを発行し、その償還財源として消費税率の引き上げを視野に入れた増税も検討している。統一地方選の後半戦もボロ負けすることがわかって、もはや、開き直って怖いものなしという状態、フラフラの日本に止めを刺すつもりだ。

そもそも、だ。その詐欺のようなマニフェストを見直すならば、今のタイミングを逃してどうするのか。「やってみたけどダメでした」よりはマシな言い分けもできるのではないか。





今の民主党には、徳川家康が言った「主人への意見は一番槍より難しい」が無意味化している。桜井充財務副大臣の具申というか批判は尤もであるが、それでも「今更なにを・・」という倦怠感は否めない。もうそろそろ、その「一番槍」をどこに向けるのが日本国民のためなのかを考えねばならない。敵は本能寺にあり、だ。


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