忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ミルコ・デムーロがカッコよろしい理由

2012年11月05日 | 過去記事



「5.15事件」の前日、神戸港からやってきたのはチャールズ・チャップリンだった。大正時代の日本人からは「アルコール先生」という、ちょっとどうかという愛称で親しまれた(酔っ払いのイメージ)チャップリンだったが、その頃はもう「世界の喜劇王」だった。だから「5.15」の将校らは「日本に退廃文化を流した元凶」とか、頭の固いことで暗殺計画もした。

チャップリンはアメリカで反ナチをやった。大東亜戦争が始まる前、アメリカには親ナチ派がたくさんいたから、あの「独裁者」でヒトラーを馬鹿にしたら苦情が殺到、撮影中止にしないと殺す、とか脅迫状も届いていた。だから日本人将校の「暗殺計画」も怖がらなかった。慣れていた。

それからチャップリンと言えば高野虎市だ。チャップリンは高野を秘書にしてから、日本と日本人にハマる。17人の使用人をぜんぶ日本人にした。2番目の夫人リタは「まるで日本人の中で暮らしているかのよう」と言った。その高野が車を運転して皇居の前を通る。

「車を降りて皇居に向かい頭を下げてください」

チャップリンは素直に従う。高野が手引きしたのかどうか、そのときの写真が翌日の新聞紙面に大きく掲載された。これを「暗殺から逃れるためじゃないか」とか「チャップリンは嫌々ながらやったのだ」と言いたい左巻きもいるが、そんな瑣末なことはどうでもよろしい。大切なのは「礼節を知る外国人」は日本人から好まれる、ということだ。

私は競馬をよく知らないが、過日の東京競馬場、天覧競馬が行われた際、優勝したイギリス人騎手のミルコ・デムーロ氏がウィニングランの途中、下馬して帽子を取り最敬礼した。また、なんでも「計量室に入るまで下馬してはならない」というルールがあるそうだが、これを守らなかったデムーロ騎手に対するお咎めは一切なし。ちゃんと「天皇陛下は特別」という常識が周知されていたことに安心する。朝日新聞が主催だったらわからない。

そのデムーロ騎手が跪いている姿がテレビでも流れた。<両陛下がいらした特別な日に、勝つことができてとてもうれしい>というコメントも日本人を安堵させる。国歌斉唱に合わせて「馬の尻」を映し続けたNHKやら、天皇陛下をヘリコプターで上から撮影して喜ぶ朝日新聞らはハラワタが煮え繰り返ったかもしれないが、普通の日本人はご皇室に敬意を払う外国人を尊敬するし、好ましく思う。それから時に感動すらする。このデムーロ騎手の映像を見て「泣いた」とか「感動した」という声も結構あった。

正しい振舞いは人を感動させる。礼儀正しい人物は人を感心させる。それから翻って自分の不敬や無礼を恥じ、行いを正そうと気持ちを新たにする。より一層、ちゃんとしなければ、という決意がこみ上げてくる。やらねばならない、と思いながらもおざなりになっていたこと、どころか、なおざりにして失念していたことに反省し、身震いする。よし、今日から、と改める。

例えば、日本人は初詣に行く。手を合わせて頭を下げるだけのことながら、寒空の下、電車に乗り、歩き、神社で並ぶ。子供が「アレ買ってコレ買って」を言うも「お参りしてから」と親は言う。我が家族が毎年寄せてもらう伏見稲荷神社は、正月三が日で300万人近くが参拝する。参拝客の多さなら「明治神宮」に次いで全国2位だ。

警察庁の発表ではすごいことになっている。全国の「正月三が日、どこかに参拝した人」を足すと9939万人になった(2009年)。普段、クリスマスで遊ぼうが、キリスト教式で結婚しようが、正月になったら日本人の9割近くは初詣してしまう。しかし、これも親から行けと言われたり、半ば強制的に嫌々ながら、連れて行かれるようなモノでもない。行かないと、なんか気持ち悪い、落ち着かないという程度の理由だ。

だから「お願い事」も大したことじゃない。「許したまえ」とか「守りたまえ」みたいな重いことを頼まない。受験生は「合格しますように」とか、商売人は「儲かりますように」みたいな、結果的に「自分でなんとかせねばならないこと」を確認するだけになる。私は一応、人類として「世界平和」を毎年祈る。あとのこと、他のことは自分でなんとかすべきだし、また、それが「できる」ことを慶びとするのが「正しい」と思う。七夕じゃないんだから、あまり私的なことをカミに頼んだりはしない。

日本人は古代から感謝の民だった。感謝の念を表すことを「正しい」としてきた。だから日本を創造したイザナギとイザナミの7代目の子孫、神武天皇陛下から連綿と続く今上陛下と皇后陛下に最敬礼するイギリス人は「正しい」と認識する。そのあまりの「正しさ」に感動するのである。その一方、普通の日本人は朝日の「アエラ」が天皇誕生日の前日、皇太子妃殿下に「雅子さまへの20の質問状」と題し、中身で「本当の病状、離婚の可能性、愛子さまの教育方針」とか、面白可笑しく不敬を行う様を見ると嫌悪感を覚える。

御皇室を敬う、という極自然な振舞いとは初詣みたいなもの。敬わないのがいれば、どことなく気持ち悪いし、どうにも落ち着かない。戦後の食糧難の時代、皇居の周辺で「朕はたらふく食っている。汝、人民飢えて死ね」と書いたプラカードを持ち、共産党に扇動されてデモ行進する連中を見た日本人が「不気味」を覚えたのと同じく、なにやってんだ?罰当たりだなぁ、と情けない気持ち、汚れたモノを見るような感覚でいるのと同じだ。



左巻きの頭では綺麗なモノは汚したくなる。正しいモノは否定したい。続くモノは止めたい。良いモノは悪くしたい。つまり、戦後レジームを死守したい。だから朝日新聞は5年前、安倍晋三氏が「美しい国・日本」と言ったら大騒ぎで暴れた。

日本が美しいなどあり得ない。格差は広がり経済は疲弊、親が子を殺し、子が親を殺し、自殺者は増え続け、失業者は溢れ、弱者は放置、コレのどこが美しいのか、と因縁をつけた。朝日新聞は日本が美しいと困る。発作が出る。是が非でも汚い部分を探し、それでも無ければ自分で汚し、アザミサンゴにも傷をつけ、慰安婦問題も捏造し、日本が汚れていると喧伝したい。それも「社是」である。

先日、また八坂神社に行ったが(吉本を観に行った)、平日の昼間でも多くの参拝客がいた。大人でも子供でも、手を合わせて頭を下げている姿は安心できるモノだ。それをみると、普通は清々しい気分になり、心が洗われたように感じる。とくに「宗教の自由」とか野暮ったいことも日本人は考えない。朝日新聞にはコレがわからないから、靖国参拝「問題」として支那共産党も煽った。政治カードに使える、日本を叩けると判断して御注進した。

出征する日本の兵隊さん。小さな子供が頭を下げて見送る。これを普通の日本人は「美しい」と感じる。でも朝日新聞は「軍国主義教育」として怖がる。普通の新聞は天皇、皇后両陛下が「御訪問」と書くが、朝日新聞は「訪問」とする。「御到着された」と書くのが嫌で「到着した」と書く。「お会いになった」は「会った」。なんと「文字数がどうした」がその言い分けになる。2006年、両陛下はシンガポールに御訪問された。その際、昭和45年に植えられたソテツを<懐かしそうにご覧になった>(産経新聞)も、朝日新聞が書くと<大きく成長したソテツと対面した>になる。

朝日を読むと違和感を覚える。この感覚こそ大事にしたい。たぶん、イギリス人騎手にはわかると思う。




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