忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「ち」の話

2010年01月09日 | 過去記事
久しぶりに京橋の駅をウロウロしていると、相変わらず「献血カー」が止まっていた。「献血にご協力ください!」などと拡声器で必死に頼んでいる。もちろん、たかが血液、今から静脈注射で日本酒を入れる私にとって「ち」くらいナンボでも持ってけと言いたいところなのだが、私の血管は細くて採決しにくいのだ。それに以前、妻と二人で献血した際も、何度も注射針を刺されながらやっとこ抜いた「ち」を「いらない」といわれたこともある。ショックである。なんでも「献血はいいから病院に行け」と言われたのだ。失礼しちゃうのである。

ともかく、献血する若い人がいなくて困っているらしい。「ち」がないのである。とくに、バスク人である我が妻の血液型は「RHマイナスO型」(バスク人の85%はRHマイナスだという)だから、貴重な「ち」なのである。

ま、誰が人様のために「ち」なんか出せるかい!という人が増えたのだろう。アメリカ軍には日本を守るために血を流せというくせに、自分は献血すらイヤだと言うのは「戦後日本の平和ボケ」のようで悲しい。個人の勝手主義の亜種であろう。「ち」くらい抜かんかい。



んで、


「ち」が足りないと慌てた厚生労働省は「献血対象年齢」の引き下げを決めたが(2011年4月施行)、それでも若者の献血率は17%ほどだから焼け石に水である。

そこで私が画期的な提案をしようぢゃないか。私は公共心が酒飲んでるようなものだからな、アイデア料はいらない。なぁに、遠慮はいらん。ただし、速やかに実施するように。



提案:ンなもん、「ち」くらい、ここからナンボでも採れ。




ここ↓

http://www.asahi.com/national/update/0107/TKY201001070240.html
<東京都の派遣村200人、無断外泊 交通費2万円受給後>


税金でメシ喰って「ち」を作るわけだから、死なない程度に抜いて、また、喰わせて、また抜けばいい。寿命で死ぬまで「人様の役に立つ」ではないか。本人も本望だろう。

<受給者の多くが6日に外出したが、都が7日朝に確認した利用者数は342人。外泊の連絡は一部しかなかったという。担当者は「社会復帰のためにはルールを守る必要がある。残念な状況だ」。一方、昨冬の派遣村の実行委員らでつくる「年越し派遣村が必要ないワンストップ・サービスをつくる会」は「現金を持ち慣れていない人が多いだけに、一括ではなく2~3日分ずつ渡すなどの配慮が必要だった」と指摘する>


泣いて拝み倒して「給料前借してドロンする小僧」のような不義理である。そして、そういう場合は普通、責任者が詰められる。この件では「派遣村の実行委員」とやらの責任者がそうである。それと内閣参与の湯浅だ。責任を取らせねばならん。<現金を持ち慣れていない人が多かった>などと底の抜けた阿呆を晒してないで、速やかに失われた公金を弁済せよ。

ンで、この「2万円持ち逃げ乞食」どもは、その金をどうしたかというと、だ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100107/crm1001070048001-n1.htm
<就活費で酒、たばこ…「公設派遣村」悪質入所者に返金要求へ>

そらそうである。阿呆に金渡せばこうなると知れている。それがわからんというなら、そいつらは「阿呆も使えない阿呆」なだけだ。「国から小遣いせしめた」くらいにしか思ってはおらん。周囲の「甘デジ」とか「1円パチンコ」の売り上げ伸び、近所のコンビニの「酒と煙草」の売り上げが増えただけだ。だから無駄だと言うのである。



支那の広東省には「派遣村」ではなく「売血村」というのがある。取り仕切る者を「血頭」と言い、血を抜かれる者を「血奴」と言う。「血奴」は一切働かない。平屋に住まわされ、月に15回ほど血を抜かれるだけだ。それだけでメシは喰えるし、金ももらえるわけだ。エイズもSARSも新型インフルエンザも知ったことかと、「血奴」は列に並んで「ち」を売る。

それで、どのくらいの金になるかと言うと「400cc」で「120元(2000円)」ほどだという。派遣村で弁当4個喰ったらお仕舞いだ。そして、あの国のことだ。「ち」ですらが「質より量」ということで、「血奴」には血液の供給を補う薬品を大量に服用させる。どうせ麻薬中毒者や性病患者ばかり、今更、健康よりも酒や麻薬のほうが人生には必要だと、どんどんと命を削って「ち」を売るのだ。


しかし、こういうのは「生きるために必死」とか「必死に生きている」というのはあたらない。家畜である牛や豚が「生きている」のではなく、売られ、喰われるために「生かされている」のと同じく、何の目的も目標もなく、ただ生命体としての生存本能に任せて「死ぬまで生きている」という状態に過ぎない。テレビのCMでもあるまいし、家畜が「美味しいお肉になるんだ!」とか「あなたの食卓へあがるのが楽しみ♪」など考えているわけもなく、「いつか必ず、ここを脱出して楽園をつくるぞ!」と決意している家畜もいない。


「今日を生きること」が「明日を生きること」よりも優先されることは自明だが、それでも人間は「明日以降」を考えて生きる。火事や地震が原因でもなく、仕事がなくなったら自動的に「住むところが無くなった」など家畜と同様、「口をあけていたら餌が投げ入れられる現状」に甘んじていただけに過ぎん。

また、家畜の檻を壊すとどうなるかは、世の中を舐めた「何でもしてもらって当然」のオレ様乞食たちに金を配るとどうなるかと同じ。明日の出荷のことを憂慮して、あるいは、その牧場の「その後の経営」を案じて脱走を思い止まる牛や豚がいないのと同じく、この金がどういう意味なのかもわからない。なぜに税金から己の食費や交通費が出されるのかという理由がわからない。感謝もなければ恥ずかしいとすら思わない。「明日」を気にしないから危機感もない。「寒い」とか「腹が減った」というだけならば、その存在意義は「人語を解する家畜」で足りる。文字の読み書きができれば人間だという判断は早いのかもしれない。その結果は牛や豚の行動と同じ。本能のまま走り出して酒と煙草を買ったわけだ。


労働させても使えない。仕事を回しても「ソレはムリ、アレはダメ、コレはイヤ」、そんなんで真面目に頑張るなどあり得ない。ルールも守らない。恩義にも感じない。恥の概念もない。手間と金だけかかる「家畜」は誰も育てない。それでも、こいつらに血税を使うならば、その対価として血液を抜くべきである。

2 コメント

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Unknown (鷹侍)
2010-01-09 23:14:38
足らずの分はしっかり詰めてもらおうか?


よぉうこそ、帝愛へ!
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帝愛に就職したい (久代千代太郎)
2010-01-10 09:51:44
湯浅くんには「焼き土下座」でもしてもらおうか。心からの謝罪とはそういうことを言うのだョ!ふはははははhww
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