忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2009.1.17[2]

2009年01月17日 | 過去記事
14年前の今日の今頃、私はトラックの運転席にいたはずだ。通常、どれほど渋滞しても2時間半ほどの距離を10時間かけて仕事に行った。道路が「波」のようにうねった。携帯電話が通じたが、それもすぐに充電切れになる。▼阪神淡路大震災。テレビから流れる映像は戦争か、それとも巨大怪獣が暴れたのかという状況だった。それでも「仕事に行く」ということを決断した。今思えば、判断力はなかった。余震も続けて起こる。一向に進まないトラックの運転席で呆然とする。▼その翌年、若い社員が数人退職した。理由は「死んだらお仕舞いだと思う。自分は仕事するためだけに生きているのではない」というものだった。休日どころか寝る間もなく、日々、仕事に追われ続ける状態。労働基準法なんぞ鼻で笑うかの勤務形態。私は今でも、その会社にいた10年間よりキツイ生活を知らない。▼「そんなキツイ生活を続けている最中、災害などで死んだら後悔する」というのが彼らの言い分だ。退職した「元上司」はサーフィン三昧だという。彼は私に「やりたいことをしないまま死んだり、年を取ったりするのは嫌だと思った。人は簡単に死ぬと、あの地震で確信した。」と言っていた。私は彼らが抜けた穴を埋めるのに、さらに厳しい状況になっていたので適当に聞いた。▼私は彼らも「判断力を失った」のだと思う。労働管理が出鱈目で、命を削るかのような激務を強要する会社を辞めるのに理由はいくらでも思いつく。無計画なままサーフィンして過ごすことは、ある種の「自暴自棄」に陥っていると思われる。何年も抑圧された生活をしてきたことからの反動に過ぎない。▼あの大災害から学ぶものはリスクマネジメントやクライシスコミュニケーションなどの危機管理と、「大切なものを護る」という気概である。「大切なもの」を「大切だ」とする日常である。▼そして今後、万が一の際、私は「大切なもの」の安全を確保したあと、「次に大切なもの」を護りに行くだろう。それが「命を削るべき」ことだからだ。

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