忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

「すごいおとこのうた」

2011年02月05日 | 過去記事
私よりも1週間ほど後に来た新人さん。32歳の男性だ。右も左もわからぬ施設内でウロウロしている。私もまだまだわけがわからないから、先輩面して教えることもなく、同じようにフラフラしているのだが、なんだかんだと私に問うてくる。

私は良くも悪くもマイペースだから、仕事が終わるとさっさと帰るし、とくに誰かと行動を共にしたりもしない。それでも3日ほど経つと、さて、今日も頑張りましょうね!などと軽い会話くらいは交わすようになる。すると、その彼が口調も荒く怒っていることがある。周囲に聞こえない声量で「やってられない」とか「ふざけんな」とかやっている。

理由はどこにでもある人間関係だ。どこの職場にも嫌な奴はいるし、仲良しだけで弁当喰って褒められるのは幼稚園児だけだが、私の職場にも口うるさいのが何人かいて、私もよく泣かされている(笑)。何を警戒しているのか知らんが、冷たい眼つきでさらっと皮肉(?)みたいなことを言ったり、業務指導をお願いする際も、照れ隠しか何か知らんが、あからさまに邪魔臭そうにされる。他の職員さんがやったことで叱られたり、知る由もないようなことで責められたり、まあ、どこにでもある低レベルな愚痴のことだ。


私が機嫌よく仕事をしていると、彼はさっと近づいてきて、

「なにもしらないのに、なんで怒られなきゃならないんですか?」

と私に言う。私は、まあまあ、こんなのどこでも一緒ですから、と宥めるのだが、彼の怒りは収まらない。


「なんなんですか?ここは!」

嫌なら辞めればいいのだが、とりあえず、この3日間は来ている。ま、そのうち辞めるかもしれないが、私にとってはどーでもいいことだ(冷)。

とか余裕ぶっこいていたら、私にもとばっちりがきた。今朝、入所したばかりの高齢者の方が車椅子に乗って通路に放置されていた。すると、古い職員さんが近くを通り掛かった私に「この人を食堂まで押して行って!」と言った。私は元気一杯に、はい!了解です!と返答して車椅子を押した。次の瞬間である。




「ちょっと!!」



と叫びながら、10年以上勤めているという古株のパートさんが走り寄って来た。その利用者の人は足に浮腫が出来ているから、車椅子のフットレスト(足を置くとこね)にクッションなどを置かねばならないとのことだった。初耳だし、初対面だし、車椅子触っただけだし、私はぽかんとしてしまった。



「介護学校で習ったと思うんですけど!!利用者さんの気持ちになって仕事するように!あなたね、自分が痛いところを同じようにされたらどう思います?こういうところをちゃんとしないと、この仕事はできませんよ?それにね~~・・・・・」



と、まあ、やられた(笑)。私は、すいません、以後気をつけます、と真摯な態度で返答してから、しばらく、その場でずっとヤラれていた。古株パート(結構若い)は荒げた鼻息をそのまま溜息に変えて、はぁっと呆れた表情を作り、私から車椅子を取り上げると、冷たく去って行った。痛いんじゃなかったのか(笑)。


そのすぐ後ろには、事の詳細を知る新人の彼がいた。私が違う仕事をしていると、また、その後ろに来て「なんで謝ったんですか?」と問うてきた。私はちょっと忙しかったので、とりあえず、あとでね♪と伝えて知らん顔をした。

仕事が終わって更衣室で着替えていると、新人レポートを書き終えた彼が急いでやってきた。彼の存在ごと、すっかり忘れていた私だったが、それでようやく思い出し、彼の疑問に答えてみることにした。っと、その前に、彼ならどうするつもりなのか、あるいは、どうすれば良かったと思うのか、を問うてみた。すると、



「自分じゃない、自分は知らない、ということだけでも伝えるべき」



という返答だった。私は「年上風吹かせてごめんね」と断りを入れてから言った。それでは甘いのだと――――――――








スイスの哲学者でアボレー博士という人がいた。この人は怒らないことで有名だった。

あるとき、意地の悪い男がメイドを使って悪巧みした。メイドに「博士を怒らせたら褒美として金をくれてやる」と言ったのだ。メイドは思案して「ある方法」を思い付く。

博士は綺麗に整頓されたベッドで眠ることを至上の喜びとしている。作戦はずばり、これをすっぽかす。これで博士はメイドを呼びつけて叱るはずだ。

その夜、メイドはさっそくベッドメイクをしなかった。しかし、次の朝、博士に変化は見られない。メイドは焦ったが、次の日も同じく、ベッドメイクをせずに放っておいた。その次の日も、だ。しかし3日目の朝、博士は「ベッドメイクを忘れているようだが、どうか、気をつけてくれないか」と頼んできた。ここが好機だとメイドは思った。

「はい、わかりました博士」と返事しておいて、さらにベッドメイクを放っておく。5日が過ぎた。博士はメイドを見つけると、次のように言った。

「どうやら昨日もベッドメイクを忘れてしまっているね。でも、それにはそれなりの事情があると思う。それにね、私はベッドメイクが上手くなったんだ。だから、これからは私がすることにしたから、どうか、ベッドメイクに気を使わないでくれたまえ」

メイドは泣いて謝り、事情を全て話して詫びた。


「この手の話」は西洋にもあって、とある金持ちの主人の晩飯が、メイドの不注意から子羊に喰われてしまう、ということがあった。怒り狂った主人はメイドを殴りつける。メイドは腹いせに子羊にストーブに入れる薪を投げた。子羊の背中に燃え移った薪はメラメラと火炎を噴きながら、子羊と共に屋敷のほうへ・・・・というオチだ。

世の中、あまり馬鹿みたいなことで怒ってはつまらぬ。馬鹿みたいなことなんだから、それらは笑って済ませるほうがよい。それに私は「自分のこと」では怒らない、と心に決めている。私が怒るときは、私の宝物を汚されたときだけだと決めている。また、その宝物が何かは言うまでもあるまい。







古株連中が集まって施設やら管理職の悪口をやりだす。まあ、見事に不満タラタラだ(笑)。自分らは損をしている、自分らはしんどいことをさせられている、あーでもない、こーでもない、誰が悪い、アレが悪い、コレが悪い、悪くないのは自分だけ、だ。しかし、施設長などが現場を通れば裏声で「おつかれさまですぅ~♪」とやる。実に可愛らしい。


私は彼に言った。



「ピタゴラスは、怒りとは無謀を持ってはじまり後悔を持って終わる、と言った。それに、どこかの誰かが、口から怒りの蛇を出すのは小物。その蛇を抑えるのに必死なのは中物。それを顔にも出さず、周囲から“なんで?”と思われたら大物、とかも言った。あなたは今日、私に理由を問うてくれた。ありがとう。我慢した甲斐があった」



続けて、



「どーでもいいじゃん♪あんなのww」



と言ったら、彼は初めて職場で笑った。よしよし、今度、美味いホルモン喰わせてやる。








――――さて、この彼にもこの後問われたのだが、他によく訊ねられるのは「なんで介護の仕事を?」ということだ。これが介護学校でも何度かあった。

私はその際、福祉介護に興味がありまして~とやるときもあるが、ちゃんと話せる環境がある場合は、ちゃんと答えることにしている。現在の職場でも面接のときに言った。

「私の尊敬する人物の背中を見たから、です」






http://www.kakimotoatsuya.jp/
<柿本あつやの公式サイト>


この人は私よりも怒らない。ただし、怒ったら誰にも止められない。

私は若いころから、年上であっても「同姓」ならば舐めてかかる癖があった。男兄弟もおらず、父親も知らずに育った環境もあるかもしれないが、私の周囲に「凄い男」がいなかったのかもしれない。友人やら教師やらに「良い人」は多くいたが、海でばったり出会ったら、サメが御免と涙ぐむような「凄い」のはいなかった。それに、私が思い出せる「凄い人」というのは祖母や母親を含める女性ばかりだった。

喧嘩の強い男もいた。頭の良い男もいた。金持ちもいたし、女にモテるのもいた。私はその全てを「たいしたことない」と舐めていた。勝てぬとも「負けている」と思えぬ野郎ばかりだった。しかし、この人には完敗でいい。桜が満開の大阪護国神社で、今は亡き祖母様の車椅子を押す背中に、私と河内屋の親父は手を合わせたい気持ちになったのだ。




いまどき、こんな人がいるのだ―――――




という事実は、それからの私の運命も決定づけた。大仰ではなく「何があっても真面目に生きて見せる」という気持ちになった。疎遠になっていた母親や妹と連絡を取り、今では「おにいちゃん!」と妹が電話してきてくれるのは、この時の出会いがあったからだ。

この人はずっと、仕事をしながらも祖母様の介護もしてきた。それを笑顔でやり遂げてきた。私はそれが今、ようやく、どれほどの労苦だったのかを理論的に説明できる。また、公式サイトをみてもらえばわかるが、この人は「苦労を幸福に変容させる」というスキルを持っている。世の中の毒を中和させることができる。

「この人は尊敬してもいいのだ」という安心感は、実は絶大である。また、腹の底から「疑わなくてよいのだ」ということは思考停止ではない。打算的で疑り深い私はそんなに甘くない。だから、当時の私の部下らは一同に驚きを隠せなかった。酒席に同席した部下は、私が本気で楽しそうにしている、とビビっていた。当時の社内では「金正日」と陰口を叩かれたほど独裁的で独善的な私が「凄い人やねん」とするのを、私をよく知る人は信じられぬという思いでみていた。もちろん、最も驚いていたのは妻だ。

妻は「おとしゃんが本気で人を褒めるのを初めて聞いた」と失礼なことを言ったが、おそらく正解だ。しかも、負けん気の強い私が「あの人には勝てない」と言うなど、地元を歩けばチンピラが挨拶してくる時代の私を知る妻からすれば、おとしゃんはホモになったのかと疑われても仕方がない(笑)。私は男尊女卑の精神に基づく思考経路を有しているが、それは「男は威張りたいなら凄くなれ」という意味であり、くだらぬ男は世に蔓延るスーパーウーマンに顎で使われていればよい、とも思っている。

男というのは見栄を張ったり、空威張りをする生き物であるが、それも雄同士ならば仕方のないことで、本来は「戦う可能性のある者同士」というスタンスで成り立つ関係であるから、同じ群れの中でも激しくぶつかり合うことを前提ともしている。しかし、この人は別だ。これは「戦うことがない」わけではなく、少なくとも「戦いたくない」と雄に思わせるということだ。もちろん、これは「勝つ・負ける」というレベルになく、それより上の次元にある「尊敬」とか「畏怖」という感覚が似ている。チカラで負ければチカラを増せばいいが、感じて動く、すなわち、感動を得られる相手とは競うことは出来ても、決して戦えない。

つまり、この人の前では「虚勢を張る必要がない」ということだ。

その真因はズバリ「許容」である。許容する範囲が半端ではない。包容と換言してもいい。なんでも受け止めてくれるし、なんでも真面目に聞いてくれる、というのは男であれ女であれ「惚れる」に決まっている。器が大きい人に会えば、自分の器も大きくなる。

だから、ここを読む読者諸賢にも是非、会って欲しいのだ。





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