2~3年前の夏、倅と倅の友人を連れて近所の市民プールに行った。専ら私はプールサイドで寝転がって本を読んだり、妻を連れて「流れるプール」で遊んだりしていたのだが、妻を連れてウロウロしていたら倅達と合流した。自称「子供の頃、海に住んでいた時期がある。ポニョは自分をモデルにしたのではないか?」と言う妻はまったく泳げないため、私が手を放すとプールの底に沈んでいく恐れがあるから、倅達とは遊んでいなかったわけだ。
しかし、よくよく見ると、倅達も、なんか、何をしているわけでもないのである。ただ、塩素たっぷりの臭い水に浸かりながら喋っているだけである。男同士でプールに中腰でプカプカしているのも教育上良くないと判断した私は次の質問をしてみた。
『おまいら、泳げるのか?ああぁ?』
返ってきた答えは絶望的なものだった。
「5メートル・・・くらいなら浮いて進めるんダ!え?お父さんは泳げるの?」
予想はしていたが、なんとも情けない。ちょっと見てろ。
不安になり泣き叫ぶ妻をプールサイドに掴まらせて安全を確保し、浮き輪をかぶせて、よっしゃみてろよ?っと、久しぶりに泳いでみた。25メートルだけどね。
私は水中では体重に影響されないから、実のところ、水中は得意なのである。暑くないしね。それに脂肪って浮くんだな、コレが。腹を膨らますと、自分で笑ってしまうほどの浮力を感じるのである。あとは、こう、マンボウのように、ばしゃばしゃと・・・
ほら、みたか。どうだ?と言う前から倅らは驚いている。何をそんなに、と思ったら、
「すごい!クロールや!初めて見た!」
と抜かしているのである。私は背泳ぎも見せてやったが、腹が浮きすぎるため「背」ではなく、なんか「腹泳ぎ」みたいだと思ってすぐに止めた。また、調子に乗ったバタフライは笑われた。デブが一所懸命に水を飲んでいるみたいだったのであろう。迂闊だった。
とか言いながら、もう、半分ほど水に沈んでいる妻を助けてプールサイドで腹を焼く。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090803-00000507-san-soci
<「カナヅチ」増加 水泳授業二極化 スクールに通わせるか否か>
そりゃ、「クロール」みて騒ぐはずだ。クロールなんぞ、世界水泳大会でしかみたことないのだろうか。「クラス対抗リレー」とか信じられないと倅らは言う。『泳げる奴』は多くないそうだ。「日本のトビウオ」も情けないと嘆いているだろう。ご冥福をお祈りします。
「2」へ
■2009/08/03 (月) 私が泳げる理由 2
ま、これも、いわゆる「ゆとり教育」の弊害である。いや、実害か。
<小学校低学年ではまず水に対する恐怖心を取り除き、水に親しむため、水の掛け合いや水中鬼ごっこなど「遊び」から始め、4年生から息継ぎなどコンビネーションを含めた水泳の指導が本格化する。だが近年は「遊び」が重視されすぎ、無理に泳法を教えず、「泳げなければ泳がないでいい」など間違ったとらえ方をされているケースがあるという。>
運動部にいた人はわかると思うが、例えば、何らかのペナルティによりグランドを走らされたとしよう。特に珍しくもない光景であったが、その際、鬼教師から言われるのは、「走れごるぁ!!」であった。中学レベルの運動部でも「筋肉痛で動けない」とか「走らされすぎて嘔吐した」など、いくらでも聞く話だった。また、親も誰もそれに文句を言うなどあり得なかった。なぜというに、先ずは「それが当然だったから」であり、なにより「危険だから」である。甘い練習で激しいスポーツをすることはとても危険であるのだ。
しかし、現在は「無理するな!」の掛け声が常識となった。餓鬼に「がんばるな!」といえば、その多くの餓鬼がどうなるのか、想像に難くないはずだ。実際、走り込みからそうらしい。現代の鬼教師は「自分が限界だと思ったら走るのを止めろ!」と指導するのだという。餓鬼の自己判断ほどあてにならず、薄らヌルイものを私は知らない。
すぐに「できなぁい~~」と泣くか「疲れたぁ~~」と文句を言う生き物ではないか。ケツ叩かれんと「本気のパワー」を出さないのが餓鬼である。そして、その「無理するな」は、自分を心配してではなく、教師が己の保身がためにかける言葉であると餓鬼は知っている。さぞかし大人に幻滅するだろうと思う。説得力はゼロ、いや、マイナスとなろう。
もちろん、教師ばかり責められない。親も「うちの子は泳げなくてもいいんです!水泳の選手じゃないんだから、そんなスパルタ教育はやめてください!!」とか言うから、もう、阿呆らしくて勝手にしろとなる教師も理解できる。
日教組とマスコミのコラボレーション、教師は指導しないし、親はそれでいいと言う。
そして、泳げない子供は水難事故に遭う。荒れてもいない川で海で「遊んでいるだけ」で溺れて死ぬのである。「子供の自由と権利」とやらが、今度はリアルに子供を奪う真因となるパターンである。気の毒な。
「3」へ
■2009/08/03 (月) 私が泳げる理由 3
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そういえば、パラオでも日本人の若い子がいたが、全員が「潜れなかった」のには驚いた。カヤックの際、シュノーケリングもあったのだが、日本人ガイドやパラオ人が何メートルか潜り、シャコガイなどを獲ってくる。若い数人が真似して潜ろうとするのだが、1メートルも潜れていなかった。もちろん、妻もライフジャケットを着て浮かんでいるだけだ。
私は妻にサンゴ(死骸)を取ってきてやろうと普通に潜る。目標を定め、何度も潜る。外れて白くなっていたが、実に格好の良いサンゴ(死骸)をみつけたので潜って取る。妻はもう、クルーザーに乗ってグァバジュースを飲んでいる。パラオ人もびっくりの実に勝手な行動であるが、もっとびっくりされたのは「パラオ人と同じところまで潜れる」ということだ。この腹で。腹だけはゆとり教育であろう。
ともかく――――
学校で「泳げない人は無理しないでください」と教えられても、川や海は手加減してくれない。「競争するな」と教えても、社会に出てからの「競争相手」は手加減してくれない。「親のいない子に配慮」して、運動会でもなんでも教室で弁当食わせても、その子供が社会に出たところで「親ができる」わけでもない。子供自身、社会に出てから、もしくは、社会的な場に身を置くとなれば、自分だけの力で乗り越えねばならないが次々に現れる。
子供のときに「泳げないまま」放っておくと、子供らは社会に出てから「溺れて苦しむ」のである。そしてそれは「水の中」とは限らない。
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久代千代太郎
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