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平和とくらし  #茨木市議会議員 #山下けいきの日々是好日

平和憲法が私の原点。鹿児島の吹上浜、桜島が原風景。毎週阪急3駅、JR2駅の5駅をのぼりを背負ってアピールランしています。

桜通りラン / 「南京は地獄だった」

2019年08月18日 |  #沖縄#反戦 #侵略 #茨木市議会議員
 今朝は久しぶりに大阪ミントJC朝練に参加。8キロのゆっくりランです。「痩せたな」と言われましたが11月の福知山マラソンを意識してから3Kg余りの減量。この調子で準備したいものです。



























【今日の情報紹介】

旧日本兵が証言「南京は地獄だった」 右傾化を痛烈に批判


今年12月13日、中国は、初の「南京大虐殺犠牲者国家公祭日」を迎える。中国侵略日本軍の南京大虐殺の発生地であり、国家公祭日の主祭地である南京の主流メディアとして、新華報業伝媒集団は、ニュース行動「衆志成城(志が集まれば城壁をなす)『永遠に忘れない国家の記憶のために』」を企画。10月に記者を日本に派遣し、歴史の真相の追及と平和の維持に努める団体、南京大虐殺にかかわった旧日本兵、日本の歴史学者、政府高官、一般庶民などを取材した。

新華報業伝媒集団の傘下の新聞とウェブサイト、新メディアは、特別報道『永遠に忘れない国家の記憶のために・日本で証を尋ねて』を同時掲載する。十数本の立ち入った報道と画像で、異なる角度から史実を明かし、中国侵略日本軍の暴行を裏付け、さらには平和を愛する日本の勢力の奮闘も紹介する。

「中国侵略日本軍の一人の兵士として、私は南京攻略戦にかかわった。日本軍の暴行のことは今思い出しても恥を感じる」。元日本海軍兵士で今年95歳の三谷翔氏は、大阪のマンションで新華報業の取材に応じ、記憶の門を開き、77年前に目撃した南京大虐殺の惨状を再現した。過去を知る老人は、安倍政権は歴史を顧みようとしないと憤り、「安倍首相をつかまえてこらしめてやりたい」と語った。

三谷老人の話は2時間にわたった。侵略戦争の加害者、被害者、反省者としての三谷氏の人生を貫いていたのは、激しい移り変わりを経てきた歴史そのものであり、そこには痛ましい過去と厳しい現実があった。「真実を守ること。100歳まで生きて果たしたい唯一の使命です」

(一)加害者として

灰色で少しカールした髪、黒縁のメガネ、ゆったりした黄色い上着。三谷老人は思ったよりがっしりとしていた。だが体は少し不自由で、この日は取材前から、引き伸ばした白黒写真を椅子の横に用意していた。軍隊に入ってからの様子を写した写真だ。三谷氏は写真を見せながら話をする。話をしながら、シワだらけの両手で写真を撫ぜる。緊迫した場面に話が行くと、指が震えてくるのがわかる。歴史の真実と人間としての反省を示すその言葉は、記者に向けられたものでありながら、軍国主義に騙されていた青年時代の自分に言い聞かせているようでもあった。

【戦闘】死体を積んだ筏が流れて来た

1937年12月12日、南京防衛戦が最も激しかった時、18歳の三谷青年は日本軍艦隊と同時に南京近くに侵入し、烏竜山砲台を攻撃した。

三谷青年は当時、日本軍の駆逐艦「海風」の信号兵で、射撃などの命令を伝える役を負っていた。三谷氏は「海風」の写真を見せながら、自分は日本海軍の第24駆逐隊に属していたと語った。同隊の「山風」「河風」「江風」などの艦艇とともに、中国防衛軍の陣地を川から集中砲火した。

12月13日、南京が落ちた。日本の軍艦は下関江に停泊した。「中山埠頭の方から4隻の筏が流れて来た。上にはごちゃごちゃと人のようなものが重なっている。2メートル以上はありそうだ。偽装して襲撃しに来たのかと10分ほど射撃したが、反応はない。それで上に積まれていたのが中国人の死体だったことがわかった」

【入城式】広場に積もった死体の山

三谷老人は、海軍の冬服を着た写真を取り出し、語り続けた。「12月16日夜、翌日入城式に参加せよとの命令が来た。参戦してから2カ月以上経つが、足が泥で汚れていない。岸に上がって式典に参加できると聞いて、みんなハイキングにでも行くような気持ちだった」

埠頭からユウ江門までの道は瓦礫だった。南京占領から4日経って、衣服や死体が町中に散乱していた。「中山北路付近の広場には、あちらこちらに死体の山が積み上がっていた。死体の山は一つで死体が5、60体はありそうで、地上にも血が凝固していた。死者の多くは老人や女性で、子どももおり、すぐに一般市民であることがわかった。刀で刺されて死んだらしいのもいれば、首が落とされたのもあった。裸の死体もあったし、手が後ろで縛られているのもあった。酷くて見ていられなかった」。三谷老人はそう言って目を閉じた。

「中山北路だけがこうだったわけでなく、南京全体が地獄だったはずだ。陸軍は恥知らずで、やりすぎた!」 写真を握る三谷老人の両手が震え始めた。「町全体が生気を失って、死んだように静かだった。鳥さえ見なかった。日本兵以外には、日本国旗を持った中国人が時折通った。日本国旗を持っていないと殺されるからだ」。写真を置いて、三谷老人はしばし黙った。

【長江べり】機銃掃射で惨殺

軍艦に戻った三谷老人は翌日、さらに恐ろしい情景を見ることになった。「12月18日午後、軍艦のブリッジで見張りをしていると、下関の南岸から機関銃の銃声が聞こえてきた。悲鳴も時々聞こえた。軍艦は岸から500メートルほど離れていた。望遠鏡で見ると、中国人が一組ずつ、銃声と一緒に倒れる。映画のスローモーションを見ているようだった」

三谷氏はその後数日、朝から晩まで、一群一群の中国人が下関江の川原でまとめて虐殺されるのを見ることになった。「トラックで20人、時には30人もいっぺんに川原に連れて来て、機銃掃射する。ダダダッ、ダダダッ」。老人が機関銃の音を真似る。

恐ろしい悲鳴が機関銃の音にまじって響きわたり、数十秒してから静かになる。静かになったと思ったらまた響き始める。「南京を離れたのは12月25日だが、それまで下関の岸では毎日こうだった」。長江は当時、渇水期に入っており、水位が下がっていた。「殺された後、一部の死体は泥に埋まって、一部の死体は岸辺に重なっていた。日本兵が中国人に死体を回収させているのも見た。穴を掘って埋めたり、川に投げ入れたりしていた」。三谷老人は投げる動作をしてみせた。

【専門家】証言は史実と符合

中国侵略日本軍南京大虐殺史研究会顧問で江蘇省社会科学院の研究員を務める孫宅巍氏によると、南京下関は、中国侵略日本軍の虐殺と暴行が集中した地の一つで、この一帯の石炭港、魚雷営、中山埠頭、草鞋峡などの地では大規模な集団虐殺が起こっている。三穀氏の証言は、日本軍のの時間から地点、方法、さらには死体処理の方法に至るまで、既存の南京大虐殺の史実と符合しており、重要な史料的価値を持っている。

・・・・続く・・・・・


【山下けいきのラン日誌】
・今日のラン    8㎞
・8月のラン計  79㎞
・7月のラン計 153㎞
・6月のラン計  73㎞
・5月のラン計  76㎞

【山下けいきの健康日誌】
・今日の体調 良好。
・今日の体重 68.3kg、ラン後70.0kg
・今日の筋トレ 腿上げ(0回)、スクワット(0回)、足裏刺激(5分)、つま先立ち(100回)、ギャザー(2分)

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HK & Les Saltimbanks "On l�・che rien" (Japanese subtitles)あきらめないぞ! (いつの世もあきらめたらおしまい。自民党安倍政権が政治の私物化をもくろみ、国民だれでも逮捕自由自在の「なんでも秘密」法(特定秘密保護法は自由民主党が自由と民主の真逆であるのと一緒で、特定ではなく官僚が秘密と言ったら秘密になる)に反対し続けます。この歌に勇気をもらって頑張ります。)
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