〇概要
中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - 68歳)は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・コーチ。愛称は絶好調男、大将
1980年代の読売ジャイアンツの中心打者として活躍し、労働組合日本プロ野球選手会初代会長を務めた。
引退後は巨人の一軍打撃コーチを務めた後、
2004年にアテネオリンピック野球日本代表の監督を務め、銅メダルに導いた。その後
2012年より横浜DeNAベイスターズ初代監督(大洋ホエールズからの通算では第29代)に就任し、2015年シーズン終了まで在任した。
2016年から野球解説者に復帰している。
〇プロ入り前[編集]
安積商業高校で三塁手、遊撃手、捕手を務め、駒澤大学に進学した。
大学時代、東都大学野球リーグでは5度の優勝を経験し、1973年秋季リーグで優勝、最高殊勲選手に選出された。直後の第4回明治神宮野球大会でも同志社大に勝利し、初優勝を飾る。1974年春季リーグでも優勝に貢献し、1975年は春秋季連続優勝、全日本大学野球選手権大会でも決勝で大阪商大を破り優勝している。また1973年、1975年の日米大学野球選手権日本代表に選出されている。直射日光を避ける為の偏光サングラスと一本足打法で注目を浴びた。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。ベストナイン4度受賞。
「駒澤三羽ガラス(駒大トリオ)」と呼ばれた平田薫、二宮至と共に、
1975年のプロ野球ドラフト会議の目玉としてマスコミに注目され、巨人からの1位指名が有力視されており、駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業の篠塚利夫が1位指名された。
報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが、3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間(篠塚)が先に指名された」とがっかりし、内定していた北海道拓殖銀行への就職に傾きかけたが、憧れていた長嶋茂雄(当時の巨人監督)の存在や父親の助言、ドラフト1位と同じ条件を提示されたことなどが後押しとなり、内定を辞退してプロ入りを決意した。
「(プロから指名されなかった)平田と二宮も一緒なら入団する」と球団に申し入れ、巨人もこれを受け入れたため、2人はドラフト外で巨人に入団している。
〇現役時代
入団当時の巨人は、王貞治、張本勲、土井正三、高田繁らが現役で活躍しており、選手層が厚かったため、入団後3年間は一軍での出番に恵まれなかった。守備固め要員とはいえ2年目に一軍100試合出場を果たした二宮を横目に二軍中心の下積み生活が続く。
1978年に開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場しマリオ・ソトから2点本塁打を放った。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に
「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」
と進言した。
1979年より一軍に定着した。同年は三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。新人王有資格者だったが、シーズン終盤に骨折し、新人王は逃した(中日藤沢公也が受賞)。オフに地獄の伊東キャンプに参加した。
1980年の秋、長嶋が監督を辞任し、王も現役引退した。入れ替わるように、大学野球のスター選手で中畑と同じ三塁手の原辰徳がドラフト1位で入団したが、新監督の藤田元司ら首脳陣は、原を二塁手にコンバートさせることで対応した。
ー略ー
〇選手としての特徴
1979年、監督の長嶋茂雄から「調子はどうだ?」と尋ねられた中畑は「まあまあです」と返事をしたところ、それを聞いていた一軍守備走塁コーチの土井正三から「まあまあなんて言う奴を監督が起用するか? 絶好調と答えろ!」と叱られた。それ以来、中畑は何を聞かれても「絶好調!」と答えるようになり、「絶好調」「絶好調男」が中畑の代名詞となった[29]。
一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。ただ中畑を三塁手から一塁手へコンバートした藤田元司は「中畑はサード向き、原はファースト向きの性格でありながら、原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だった」と後年語っている[30]。
〇人物
中畑家は陸奥石川氏の一族で、前九年の役に石川有光の子の九郎光幹が中畑と称したことからはじまる(『白河古事考』)。戦国時代にはその系統の国神城主の中畑晴辰(はるとき)[42] が抵抗したために、豊臣秀吉から改易されて、浪人・土農の落ち武者狩りで討たれた(広瀬蒙斎『白河風土記』)。中畑はその晴辰の子孫である[43]。
祖父の代に、横浜戸塚で土木業を営み成功したものの、瓦工場に商売替えした後で失敗し、清の父を含む一家とともに帰郷した。中畑は貧しい少年時代を過ごしており、後に「米に牛乳のせる生活体験したらどんなつらい生活でも耐えられるよ」と述懐している。その後、郷里福島での牧畜業で成功した結果、父にグローブを買ってもらったのがきっかけで、野球に本格的に取り組むことになった。
1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信、吹石徳一など)による親睦会「プロ野球28会」(にっぱちかい)の会長を務めている。また野球・ソフトボールの普及を願い、
1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信、吹石徳一など)による親睦会「プロ野球28会」(にっぱちかい)の会長を務めている。また野球・ソフトボールの普及を願い、
1983年から故郷・福島で「中畑清旗争奪ソフトボール大会」[44] を毎年開催、
2001年から茨城県境町にて女子大会の「中畑清杯争奪中学校女子ソフトボール大会」の名誉会長として後援しているほか、師である長嶋茂雄の名が冠された「長嶋茂雄少年野球教室」の講師としてジュニア世代の指導にあたっている[45]。
麻雀[46][47]、ゴルフ、カラオケの愛好家で、カラオケ十八番は
吉幾三の「酒よ」
である[48]。ゴルフでは20年以上に渡り[49] 毎年「きよしのドリームチャリティーゴルフ大会」というチャリティーコンペの主催者となり開催しており[50]、プロゴルファーの飯合肇は駒澤大野球部の同窓である[51]。
現役時代の
1970年代から40年以上東京・調布市内に居を構えており、地域に対する用具・施設・図書の寄付など貢献し[52]、2012年春に市から「調布市宣伝本部長」に任命されている[53]。夫人を癌で亡くしてからは、100坪の邸宅での一人暮らしとなっている。
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