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終戦後の人々の生きる希望や勇気を…混乱の中で流れた歌謡曲、並木路子「リンゴの唄」誕生秘話8/15(月)笹森文彦

2022-08-15 08:33:11 | 連絡
きょう8月15日は77回目の「終戦の日」である。
1945年(昭20)8月15日正午、昭和天皇の肉声による玉音放送がラジオから流れ、国民が太平洋戦争の終結を知った日である。
数多くの犠牲者を出し、国土は焦土と化した。敗戦の混乱の中で、人々に生きる希望や勇気を与えたのはエンターテインメント(娯楽)だった。
特に「リンゴの唄」(並木路子)は、戦後初のヒット曲として大流行した。
同曲を中心に、終戦直後のエンターテインメントの“胎動”を振り返る。(敬称略)
 玉音放送は「朕(ちん)、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ」で始まる。  
玉音とは天皇の肉声の意味。
昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」を録音して、45年8月15日正午にNHKラジオで放送された。
当時の詔書とは、天皇の命令を伝える公文書のこと。
国民は4分37秒の玉音放送で、ポツダム宣言の受諾による敗戦を知ったのである。  
長い戦争が終わった。町は焼け野原となり、食糧も行き渡らない中で、人々は必死に生きようと努めた。
そんな人々の心の飢えや渇きを癒やしたのが娯楽だった。
日本を占領・管理する連合国軍総司令部(GHQ)の検閲や接収などがあったが、文化やスポーツはすぐに息を吹き返した。 
 その代表が並木路子(当時24)の歌う「リンゴの唄」(作詞・サトウハチロー、作曲・万城目正)だった。 
 <歌詞>赤いリンゴに くちびる寄せて だまって見ている 青い空

終戦から約2カ月後の10月11日に公開された映画「そよかぜ」(佐々木康監督)の挿入歌である。
並木の映画初主演作である。
歌手を目指す少女のスター誕生物語だった。
松竹の作品データベースによると戦後に製作され、GHQの検閲を通った第1号映画という。
映画は戦前から娯楽の王様だった。
ロケは終戦からわずか半月後の9月に始まった。
「戦意高揚ではなく娯楽映画を届けたい」という映画人の熱意だった。
  映画を見た人は「リンゴの唄」に聞き入った。
レコードはまだなく、NHKラジオで並木が歌う同曲が流れたことで火が付いた。
大本営発表と軍歌ばかりだったラジオから、歌謡曲が久々に流れた。
人々は戦争からの開放を実感し、明るい歌声に魅せられた。
実はその歌声には、並木の壮絶な戦争体験が隠されていた。
 並木は36年に15歳で松竹少女歌劇学校に入学した。
翌年に初舞台を踏むなど順風だったが、戦争が愛する人を次々と奪った。  45年3月9日の東京大空襲で、母を亡くした。
無数の焼夷(しょうい)弾で炎が迫る中、並木は母の手を引いて墨田川のほとりに逃げた。
熱さで母が川に飛び込んだ。
流れは急だった。
並木は母の襟首をつかんだ。
離すまい、流されまいと必死だった。
母の姿が消えた。
直後に並木も意識を失ったが、引き上げられた。
5日後、警察から呼ばれた。
増上寺の遺体安置所で母と対面した。
決め手は母の懐に入っていた、並木の松竹歌劇団の給料袋だったという。
「私が手を離さなければ…」。後悔が脳裏から離れなかった。
  悲劇は重なった。
出征していた兄が戦死し、会社員の父も乗っていた船が撃沈され亡くなった。初恋の立教大生も学徒出陣で帰らぬ人となった。
並木は悲しみの連鎖を抱えたまま、映画のヒロインに起用されたのだ。
「リンゴの唄」の録音の際、作曲した歌唱指導の万城目は「もっと明るく」とダメ出しを続けた。
並木は後に「(悲しみを)引きずっていました。
明るく歌えと言われても無理だった」と振り返った。
事情を知った万城目は「1人だけが不幸なんじゃない。みんな悲しいんだ」と励まし、録音を中止して「上野に行ってみなさい」と指示した。
上野には闇市が立ち並び、大人も子供も必死で生きていた。
靴磨きの少年に「いくつ?」と聞いた。
少年は「母ちゃんが(空襲で)いなくなったから分かんない」と答えた。
上野にはそんな戦災孤児が懸命に働いていた。
並木は「この子たちのために、今を必死で生きようとしている人々のために歌おう」と決意した。
上野から戻った歌声は一変した。
明るく伸びやかで、希望に満ちた「リンゴの唄」だった。
年が明けた46年1月に「リンゴの唄」は、霧島昇とのデュエット曲として、戦後のレコード第1号として発売された。
<
リンゴの唄 - 並木路子、霧島 昇 (1946)
>
誰もが口ずさんだ。
敗戦の暗いモノクロの世界で生きる人々に、「赤いリンゴ」と「青い空」という色彩のコントラストは鮮烈だった。
そして「何にも言わないリンゴ」に自分を投影し、黙々と頑張ろうと誓った。発売元の日本コロムビアの社史には「戦後最初のヒット曲」と明記されている。
77年を経ても色あせない、戦後を象徴する1曲である。
【笹森文彦】 
 ▼参考文献 
「詞と曲に隠された物語 昭和歌謡の謎」(合田道人著、祥伝社新書)「昭和歌謡1945~1989」(平尾昌晃著、廣済堂新書)  
◆並木路子(なみき・みちこ)本名南郷庸子(なんごう・つねこ)。1921年(大10)9月30日、東京・浅草生まれ。
49年にソロ歌唱による「リンゴの唄」のレコードを発表。
他の代表曲は「森の水車」「可愛いスイートピー」など。
93年から日本歌手協会副会長。99年に勲四等瑞宝章。
01年4月7日に心筋梗塞のため79歳で死去。
◆8月15日 玉音放送で国民に戦争終結を公表した日。
82年4月に「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と閣議決定された。
63年以降毎年、同日に「全国戦没者追悼式」が実施されている。
一般的に「終戦の日」「終戦記念日」と言う。
アメリカは太平洋戦争の降伏文書に日本が調印した9月2日を対日戦勝記念日(VJ Day=Victory over Japan Day)としている。
イギリスは8月15日をVJ Dayとしている。
  <戦直後の娯楽>  終戦の日以降の娯楽の主なアレコレを紹介する。  
◆舞台(歌舞伎) 2代目市川猿之助一座が、終戦からわずか16日後の9月1日に、東京劇場で「黒塚」など上演。
これは戦災者慰問の8月公演用に、配役や衣装の準備が整っていたため即応できた。 
 ◆映画 GHQの事前検閲は「公開許可」「一部削除の上での公開許可」「不許可」があった。 
 ◆GHQの接収と改称 神宮球場は「ステイトサイド・パーク」に改称され連合国軍専用球場に。
明治神宮外苑競技場は「ナイル・キニック・スタジアム」に改称。
いずれも日本人も使用できた。
両国国技館は「メモリアルホール」に、東京宝塚劇場は「アーニー・パイル劇場」に改称。  
◆NHK紅白歌合戦の前身 敗戦の年の瀬を明るくしたいと、NHKが男女の人気歌手約20人が歌で競うラジオ番組「紅白歌合戦」を企画した。
しかしGHQが「合戦」は「バトル」(戦闘)を意味すると却下。
番組名を「紅白音楽試合」に替え、12月31日に1時間40分生放送された。



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