磯野員昌(いその かずまさ) 別名 秀昌
生年: 1523年(大永3年
没年:1590年(天正18年)
享年68。
主君: 浅井久政⇒浅井長政⇒織田信長
子:行信 政長 女(小堀正次室)
養子:員次 信澄
養子:員次 信澄
磯野員昌とは戦国時代の武将であり、近江浅井氏の家臣。
姉川の戦いで猛攻をみせつけ活躍した、近江国の佐和山城主として知られている。
姉川の戦いで猛攻をみせつけ活躍した、近江国の佐和山城主として知られている。
磯野員昌は1523年(大永3年)に生まれた。
磯野氏はもともと京極氏の家臣であったものの、浅井亮政の代に京極氏は浅井氏に取って代わられて、それに屈する形でその臣下となったとされている。
員昌の父である磯野員宗は、養子として佐和山城主であった礒野員吉に迎えられたという。
父・員宗が死去すると叔父であった磯野員清が家督を継承し、その跡を員昌が継いで、佐和山城主となる。
員昌は武勇に長けていたこともあって、浅井氏と長年抗争していた六角氏との戦いでも功を挙げ、戦では先鋒を任せられるほどに活躍した。
主君・浅井長政が織田信長と対立するようになると、1570年(元亀元年)に姉川の戦いが勃発する。
この戦いにおいて、浅井軍は奮闘。
特に磯野員昌は織田方を相手に敵陣深くまで斬り込んで、信長本陣の寸前にまで迫る猛攻ぶりを見せ付けたという。
しかし稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就らの救援と、同盟国であった越前の朝倉勢が徳川勢に敗れ、その増援が浅井勢にも指向したため総崩れとなって、浅井・朝倉連合軍は敗退。
この時、員昌がみせた猛攻は員昌の姉川十一段崩しとして浅井勢の勇名を馳せ、今も名を残すに至っている。
姉川の戦いに勝利した織田方は、野村直隆らが守る浅井方の横山城を攻略。
これによって、浅井氏の本拠であった小谷城と佐和山城は分断され、磯野員昌は孤立無援の状態に陥ってしまうことになる。
それにより1571年(元亀2年)に、佐和山城への攻撃が始まると、員昌は織田信長に降伏した。
降伏後、居城であった佐和山城は失うことになったが、その引き換えに近江国高島郡を与えられることになる。
この時の織田氏の重臣達は、軒並み琵琶湖周辺に配置されていた。
横山には木下藤吉郎、佐和山には丹羽長秀、安土には中川重政、長光寺には柴田勝家、永原には佐久間信盛、宇佐山には明智光秀といった具合で、員昌がそれに並ぶ待遇であったことからも、織田家中にあってもその武勇や武名が認められていたことが伺える。
この時に員昌は、織田信長の甥にあたる津田信澄を嗣養子に迎えたという。
織田家臣として員昌は、1573年(天正元年)に杉谷善住坊を捕縛したり、1575年(天正3年)の越前一向一揆の鎮圧に従軍したりと功を挙げることになる。
しかし1576年(天正4年)、員昌は織田家より出奔。
これは信長に叱責されたことが原因とされ、その領地は津田信澄に与えられることになる。
これは信長に叱責されたことが原因とされ、その領地は津田信澄に与えられることになる。
具体的にどのような理由で叱責されたかは不明であるものの、その家督を信澄に譲るように要求されたもののそれを拒んだ為、ともいわれている。
出奔した後の員昌の足取りは不明ではあるが、1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が横死すると、員昌はかつての領地であった近江国高島郡に戻り、帰農したとされている。
その後1590年(天正18年)に死去。享年68。
Vol 3. 激戦!姉川の戦い
2011年3月1日火曜日
戦国北近江国人名辞典
磯野員宗【いそのかずむね(15??~15??)】
宮沢員村の男(磯野員吉の養子)。1571年、磯野忠吉が討死すると、その養子となり磯野家の家督を相続した。
宮沢員村の男(磯野員吉の養子)。1571年、磯野忠吉が討死すると、その養子となり磯野家の家督を相続した。
磯野員清【いそのかずきよ(15??~15??)】
磯野員吉の弟。
磯野員昌【いそのかずまさ(15??~15??)】
磯野員宗の男。官途は丹波守。父磯野員宗の死後、叔父の磯野員清が磯野家の家督を相続後したが、後に磯野員昌が相続した。浅井長政勢の先陣を務め、数々の戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」では、織田信長の本陣まで攻め込むが、稲葉良通、氏家直元、安藤守就らの横槍を受け進撃が止まった。その後、朝倉義景勢を撃破した松平元康勢の攻撃も加わり、浅井長政勢は総崩れとなり、佐和山城は再び織田信長勢に包囲された。磯野員昌に翻意ありという流言を信じた浅井長政が佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめたため、織田信長に降伏した。その後、高島郡新庄城を領して、津田信澄を養子に迎えた。1578年、織田信長の勘気を蒙り所領を没収され、高野山に追放された。
磯野行尚【いそのゆきなお(15??~16??)】
磯野行信の男。通称平三郎。石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成家が討死すると、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂夏の陣」では、増田盛次と戦いこれを討取る戦功を挙げた。
磯野行信【いそのゆきのぶ(15??~1619)】
磯野員昌の次男。通称右近。石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が討死すると、、藤堂高虎に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、旗奉行を務めた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます