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ザ人物伝 フェルッチオ・ランボルギーニ ランボルギーニがフェラーリに肉薄できた理由

2021-07-24 11:08:19 | 連絡
★三権分立・普通選挙・議会制・自由民主主義・人権尊重の価値観同一国企業との連携=政治・経済・安全保障一体化が必須の事例か>
★内製化は、危機「武漢起源生物兵器原型第1波=>変異=>・・・型第N波肺炎ウイルス感染環境」危機をも乗り越える力になったか>
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2020/06/05 5:25
越湖 信一(えっこ しんいち)Shinichi Ekko
PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表
イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『Maserati Complete Guide』『Giorgetto Giugiaro 世紀のカーデザイナー』『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。
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ランボルギーニは、創業が1963年という世界の自動車メーカーの中でも若い会社だ。アウトモビリ・ランボルギーニ社の創業者フェルッチオ・ランボルギーニは、モータースポーツ愛好家ではあったが、トラクター事業の大成功で財をなした人物である。 
暖房器具、クーラー、油圧機器など、時流に乗った工業製品をビジネス化していった、いわば企業家であった。そういう意味で、エンツォとはもちろん、イタリア当地の自動車産業の中でランボルギーニが異端な存在であったことは間違いない。
フェラーリの市販モデルを乗りまわしていたフェルッチオは、その構造上の問題や品質について思いをめぐらし、辛口の評価をした。それは工業製品を作りビジネスを展開していた人物にとって、当然のことであったかもしれない。
そして、うまくやればハイパフォーマンスカー作りがビジネスとして悪くない、と考えはじめるのは時間の問題であった。目の前には、ベンチマークとしてフェラーリという大物が存在するのだから、そこに革新的な技術と、工業製品としての品質“改善”を持ち込めば……。
ブランディングとマーケティングの妙
フェルッチオ・ランボルギーニは、デトロイトの自動車産業を研究したのみならず、日本の自動車産業も独自の観点から研究していた。しかし、彼は単なる技術屋ではなかった。いかにすればフェラーリの顧客を奪うことができるのか、そのためにはどんなブランディングが必要かということも、同じくらい重要なものだと考えていた。
彼は富裕層顧客が何を求めているかをよく研究した。あるときはその世界の中へ自ら入り込み、その答えを体でつかんでいった。そんな中で生まれたのが名車「ミウラ」だ。
エンツォが、レースへの思いを一寸のブレもなく追求し続けたという執念に、私は何よりも感服する。一方で、フェルッチオの持つ、どんなターゲットをも斬新なアイデアで取り込んでしまう天才的なマーケティング能力にも深く感服するのだ。まったく異なった思想から生まれた2つのブランドであるが、そのDNAがどちらも揺るがずに今も存在していることに深い意味がある。
そういった背景もあり、フェルッチオは当地のスポーツカー・メーカーの他、オーナーたちとも少し違ったメンタリティを持っていた。
大量生産を前提とする工業製品
ランボルギーニが自動車事業に参入した1960年代初頭、フェラーリやマセラティといったスポーツカー・メーカーは、プロデューサー的な存在としてモノ作りをコントロールしていた。
周辺の名人芸を持ってモノ作りを行う工房を上手く使い、1台ずつ車両を製造していた。顧客から発注に応じて、それら工房にシャーシ、ボディ、エンジン構成パーツを発注し、自らの工場で組み立てる。その工場は、さほど大きな規模ではなく、会社の創成期から大きく変わっていなかった。だから、少しずつ作っているうちはいいが、少しでも生産量が拡大すると生産の工程は混乱した。つまり、生産規模を拡大しようとするとさまざまなトラブルに出くわし、品質も一定ではないという問題がしばしば発生したのだ。 
一方、トラクターや数々の大量生産を前提とする工業製品を手がけたフェルッチオは、スポーツカーも近代的な工業製品であるべきと考えた。
そして後発の利を生かし、効率的な製造工程を可能とする大型の工場を一から建築し、最新鋭の工作機器や計測マシンを導入した。使用するコンポーネンツの精度を高め、品質のバラツキをなくすため、エンジンやギアボックスなど、多くの部品を内製化し、社内で製造工程を極力完結させることとしたのだ。
内製化は危機をも乗り越える力に
当時はボディ製造を例外なく、外部カロッツェリア(ボディ組み立て工房)に発注していたが、ランボルギーニは1970年代初頭には自力で完成させていた。その第1号車は名車としての誉れ高き「カウンタック」だ。
そういった製造工程をとることによって、ランボルギーニは誕生したばかりのメーカーとしては異例のスピードでいくつものニューモデルを開発。苦労しながらも、品質の安定化を実現していったのだ。そしてそのメリットは、それだけにとどまらなかった。
オイルショックによって、ほかの自動車メーカーと同様に大きな打撃を受けたランボルギーニだったが、厳しい経営環境の中、限られた資金とマンパワーでカウンタックを細々と作り続けることができた。会社の火を消すことなく生き延びることを可能にしたのは、この内製化戦略あってのことであった。
ランボルギーニでは、今も当時の画期的なエンジンとギアボックスの配置やスタイリングコンセプトが、ぶれることなく受け継がれている。革新的であり、未来的であるというランボルギーニのDNA、そしてフェルッチオの思いを引き継いだユニークなマーケティング思想が、今もランボルギーニには生き続けているのだ。
ランボルギーニの工場見学に参加し、組み立てラインへと足を踏み入れるならば、スタッフが足下にある煉瓦を指さしてこう説明してくれる。「貴方が踏んでいるこの工場の床は、ランボルギーニ社が創立された1963年のままです。当時も今も変わらず最新鋭のアッセンブリーラインがここで稼働しているのです」と。 
そう、現在でもその”歴史的工場”は、組み立てラインの主力部分として活躍している。熟練工によりアヴェンタドールに搭載される12気筒エンジンが組み立てられ、構内にあるCFRP系複合素材製造棟で作られたシャーシをはじめとする各コンポーネントが集まり、ここで組み付けられる。もちろんこれらはすべて手作業だ。
10気筒エンジンを搭載するウラカンの組み立て工程は、12気筒のそれとは少し異なる。エンジンやボディなど、多くのコンポーネントはドイツ(注2)のアウディグループのファクトリーから届けられ、このラインで組み立てられるのだ。
ある程度の量産が要求されるウラカンにおいては、生産の効率化が重要なファクターとなる。ランボルギーニは、そこをアウディグループとしてのリソース活用で解決する手法をとった。少ない人数によって高品質かつスピーディに製造する秘密である。 
■イタリア共和国(注1)サンタアガタで作られることの意味
新しいカテゴリーであるウルスの生産に向け、ランボルギーニは18カ月間をかけて工場の敷地面積をそれまでの2倍となる16万平方メートルへ拡張した。これも創業者であるフェルッチオが、将来を見据えてサンタアガタ
(サンターガタ・ボロニェーゼ(イタリア語: Sant'Agata Bolognese)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある、人口約7,300人の基礎自治体(コムーネ)。高級自動車メーカー・ランボルギーニの本拠地である。) 
という“田舎”に本拠を構えたおかげとも言える。
この本社の敷地内に管理・営業部門から開発部門、製造部門、そして品質管理部門まですべてが集約され、約1800名の従業員がここで働く。
ウルスの製造は、より効率化を追求して新たに作られた専用の組み立てラインで行われる。ウラカンと同様に、ドイツ(注2)よりV8エンジンやボディなどが送り込まれ、ここで組み立てられるのだ。また、新たにウラカン用のペイント棟も新設され、作業の効率的とクオリティの強化を図っている。
このように、どのモデルにおいても製造工程の効率化のために万全の手法を彼らはとっている。しかし、クルマを組み立てるのは、あくまでの熟練した職工の手であることは変わりない。
そして、ここサンタアガタの歴史的な工場ですべてのモデルが組み立てられ、顧客の手元に渡るということが、ランボルギーニを名乗るうえで何よりも重要なのだ。創始者であるフェルッチオの神話を至る所に感じながら……。
(注1)イタリア:民主主義指数35位、欠陥のある民主主義
(注2)ドイツ:民主主義指数13位、完全な民主主義








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