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ザ人物伝 フランツ・ヨーゼフ・ハイドンFranz Joseph Haydn

2021-06-12 14:39:47 | 連絡
●フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日 ニーダーエスターライヒ州ローラウ(英語版) - 1809年5月31日 ウィーン、但し遺体はアイゼンシュタット)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。
数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。
弦楽四重奏曲第77番(第62番)の第2楽章にも用いられた皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、現在ドイツ国歌(ドイツの歌)に用いられている。
■生い立ち、少年期
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732年に、当時はハンガリー王国領との国境に位置したニーダーエスターライヒ州(当時は下オーストリア大公国)ローラウ村に生まれた。ローラウはハラハ家(Harrach)の館がある地であり、父のマティアスはハラハ伯爵に仕える車大工、母も伯爵に仕える料理女だった[1]。アントン・シンドラーのベートーヴェン伝の中で、最晩年のベートーヴェンがハイドンの生家の絵を見て、フンメルに向かって「あれほど偉大な人物がこれほど粗末な小屋に生まれたとは!」と言ったという話が有名だが[2]、実際にはそれほど貧しかったわけではなかった[1]。おじ(父の妹の夫)でハインブルク・アン・デア・ドナウ(ドイツ語版)の音楽学校の校長をしていたマティアス・フランクに音楽の才能を認められ、6歳のときにフランクのもとで音楽の勉強を始めた[3]。
■エステルハージ家での仕事
モルツィン伯は経済的に苦しい状況になり、ハイドンは解雇されてしまったが、すぐに1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長という仕事を得た。エステルハージ家の当主パウル・アントンen:Paul II Anton Esterházy(パール・アンタルhu:Esterházy Pál Antal (1711–1762))公はハイドンが雇用されて1年もたたずに没し、ハイドンはその弟のニコラウス公に仕えることになった。当時のエステルハージ家の楽団は全員で14人しかいなかったが(楽長・副楽長を除く)[19]、ハイドンは楽団の拡充につとめるとともに副楽長時代に約26曲の交響曲を作曲した。中でも、三部作(第6番『朝』、第7番『昼』、第8番『夕(晩)』)や第31番『ホルン信号』などはこの時期に作曲された[20]。なお、1763年に父が没し、ハイドンは弟のヨハンを引き取っている。ヨハンはエステルハージ家でテノール歌手をつとめた[21]。
■ロンドン旅行
1790年、エステルハージ家のニコラウス侯爵が死去。その後継者アントン・エステルハージen:Anton_I,_Prince_Esterházy(アンタル・エステルハージhu:Esterházy Pál Antal (1738–1794))侯爵は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンに年間1400グルデンの年金を与えて年金暮らしにさせてしまった。ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではなかった[30]。ウィーンに出てきていたハイドンは、同年末にはロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで演奏会を開催していた興行主 ヨハン・ペーター・ザーロモンの招きにより、イギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになった(オペラ『哲学者の魂』は完成したものの上演されなかった[31])。
1791年1月から1792年6月、および1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めた。聴衆はハイドンの協奏曲を聴きに集まり、ほどなくハイドンは富と名声を得た[32]。この2回のイギリス訪問の総収入は20000グルデンにのぼったとされる[33]。なお、このイギリス訪問の間に、ハイドンの最も有名な作品の数々(第94番『驚愕』、第100番『軍隊』、第103番『太鼓連打』、第104番『ロンドン』の各交響曲、弦楽四重奏曲第74番(第59番)『騎士』やピアノ三重奏曲第25番『ジプシーロンド』など)が作曲されている。
ハイドンは最初のイギリス訪問の際、行き(1790年12月)と帰り(1792年7月)にボンに立ち寄っており、そこでベートーヴェンと邂逅している[34]。どちらの時期かは定かでないが、ベートーヴェンは自身のカンタータ、『皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ』WoO.87か『皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ』WoO.88のどちらかを見せ、ベートーヴェンの才能を認めたハイドンは1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束している[34]。
■晩年と死
ハイドンはイギリスの市民権を得て移住することも考えていたが、最終的にはウィーンに帰ることにした。ロンドン旅行中の1794年にエステルハージ家ではニコラウス2世が当主になり、ふたたび楽団を再建しようとしていた。ハイドンは改めてエステルハージ家の楽長に就任した。幸いにもニコラウス2世はエステルハーザには寄りつかず、冬の間はウィーンに住むことを好んだため、ハイドンはほとんどウィーンから離れずにすんだ[35]。ハイドンは1793年にウィーン郊外のグンペンドルフに家を建て、ここが晩年の住居となった(現在は博物館になっている)[36] 

1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になった。1803年を最後として指揮に立つこともなくなった[39]。ただし編曲や曲の改訂は以後も続けており、これらを組み込みながら規則正しい生活を送っていた[40]。晩年のハイドンは自分がかつて作曲した『神よ、皇帝フランツを守り給え』をピアノで弾くことを慰めとしていたようである。1803年には、弦楽四重奏曲としては最後の作品となる第83番(第68番)を作曲したが、中間の2楽章だけで放棄され、1806年に未完成のまま出版された。
1809年5月31日、ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻による占領下のウィーンで、77歳で死去した[41]。葬儀は翌6月1日に行われ、ウィーンのフントシュトルム墓地に葬られた。6月15日には市民の参列できる追悼式が行われ、大勢の参列客が訪れた[42]。



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