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ザ人物伝 大塩平八郎

2021-07-17 14:58:54 | 連絡
大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。
通称は平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)。字は子起。号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は今川氏の末流で、代々大坂東町奉行組与力を務めており、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満に生まれた。かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから、養子である可能性は否定されている。
大坂町奉行組与力[編集]
奉行所時代は、組違いの同僚である西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職を内部告発するなど、汚職を嫌い、不正を次々と暴いた。奉行所内では大塩を疎む者もいたが、上司の東町奉行・高井実徳が大塩の行動を後押しした。前述の弓削新左衛門の一件と、切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自らが三大功績としている。切支丹の摘発は京都町奉行所との連携で行われ、また腐敗役人糾弾と破戒僧摘発は京都町奉行所や奈良奉行所、堺奉行所など上方の諸役所にも波及し、上方の綱紀粛正に一役買った。
陽明学者[編集]
文政13年(1830年)の高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲った。学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾・洗心洞で子弟を指導した。江戸の陽明学者・佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わした。大塩の存命時は寛政異学の禁の影響が続いており、朱子学がもてはやされたため、もともと狷介人である大塩は朱子学者からの不毛な論戦に時間を取られることを避けて、来客にはほとんど面会せず、送られてきた書簡への返信もしなかった。
飢饉対策[編集]
天保の大飢饉は、全国的には天保4年(1833年)秋から同5年(1834年)夏にかけてと天保7年(1836年)秋から同8年(1837年)夏にかけてが特に酷かった。
前者の際には、大坂西町奉行の矢部定謙が大塩を顧問のごとく遇し、また矢部の配下に内山彦次郎のような経済の専門家が揃っていたため、無事切り抜けた。
しかし後者の際には、矢部は勘定奉行に栄転しており、大坂東町奉行の跡部良弼は幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に廻米し、また豪商が米を買い占めたため米価が高騰した。大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛め、跡部に対して、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなど、米価安定のためのさまざまな献策を行った。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商・鴻池幸実に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかけたという。幸実が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかったとされる。内山彦次郎は、跡部の指揮の下で江戸強制回米の実務を主導した。跡部は江戸への回米を徹底するため、京から5升1斗程度の米を買いに下る者をさえ召し捕えるほどであったため、京の都は餓死者で溢れた。自ずと流民は大坂に流れ込み、大坂市中の治安は悪化した。儒学は孝と忠を重んじるが、儒者たる大塩が認めた『檄文』からは、大塩が朝廷への忠を念頭に、主君たる幕府への諫言を行う意図が明らかに読み取れる。このスタンスは、陽明学徒の主たる特徴である。
乱とその後[編集]
蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。
跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年(1837年)2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)[1]。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。
大塩は戦場から離れた後、跡部の暗殺を志してか、淀川に船を浮かべて日が暮れるまで大坂東町奉行所の様子を伺った。その後、四ツ橋のあたりで長刀を川に投げ捨て、河内国を経て大和国に逃亡した。数日後、再び大坂に舞い戻って下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏した。1か月余りの後、美吉屋の女中がいつも2人分の食事が余分にあるのを不審に思い、大坂城代(下総国古河藩主)土井利位の摂津平野郷陣屋に密告したことで幕府方に発覚し、役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。享年45。



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