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ザ人物伝 チェ・ゲバラ 39歳没銃殺

2021-05-15 16:37:10 | 連絡
エルネスト・ゲバラ(Ernesto Guevara、1928年6月14日 - 1967年10月9日39歳没)は、アルゼンチン生まれの政治家、革命家で、キューバのゲリラ指導者。
「チェ・ゲバラ(Che Guevara)」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」「おい」「お前(親しみを込めた)」「ダチ」といった砕けた呼び掛けの言葉であり、ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していたことから、キューバ人たちが「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。ラテンアメリカではキューバ革命以降「チェ」もしくは「エル・チェ (El Che)」(「el」男性定冠詞単数形)といえば彼のことを指す。
幼年期
1928年にアルゼンチン第二の都市ロサリオでバスク系アルゼンチン人とアイルランド系アルゼンチン人の両親のもとに誕生する。父はアルゼンチン人のエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。
1824年にシモン・ボリーバル、アントニオ・ホセ・デ・スクレらのラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョで戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親はカトリック国であるアルゼンチンの保守的な慣習にとらわれない比較的リベラルな思想の持ち主であった(母のセリアは無神論者でもあった)。
未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を生涯苦しめた。医学生時代には友人と「タックル」というラグビー雑誌を発行し、自ら編集もつとめた。

日本来訪[編集]
1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの通商使節団を引き連れて日本を訪れた。当時の日本での知名度は低く、『朝日新聞』が「カストロ・ヒゲ[1]」と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。
7月23日には午前中に愛知県のトヨタ自動車工場のトラックやジープ型4輪駆動車の製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。
24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅、鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために東京都内の帝国ホテルで池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くないことを知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった大原博夫と会談している[2]。
娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に[3]、2017年8月には息子のカミーロ・ゲバラ(アレイダの弟)も[4]平和公園を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花している。
なお、このゲバラの広島行に関しては、「市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かった」という説もある。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、1972年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。日本語の全く分からない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、夜行列車で抜け出したにもかかわらず広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いもしくは脚色である可能性が高いと考えられている[5]。
このとき、『中国新聞』の記者であった林立雄が単独取材した。その際ゲバラは「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うたという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。
日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコを歴訪して
9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。
1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる[11]。部隊を指揮していた“ウィリー”シメオン・クバ・サラビアとともに、渓谷から7キロほど南にある村イゲラに連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバジェグランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前10時に「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信[12]。午後0時40分にまずウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹[13]にM1で撃たれた後、午後0時45分、ゲバラは政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹[14]に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた[15]。
銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」、そして撃ち損じた当人に向けての「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!臆病者め!!」が最期の言葉であった[16]。
ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。
死後の影響と「帰国」
1997年、キューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアの空港滑走路の下で発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。ボリビアはゲバラが英雄視されているために位置を伏せて置きたがったが、関係者の告白によってこの事実は陽の目を見た。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル・カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体はキューバ中部の都市サンタクララに設けられた霊廟に葬られた。
革命の英雄として高い評価を受けるある一方、混乱や戦闘を引き起こした当事者として批判も根強い。故郷のアルゼンチンの都市ロサリオの公園にはゲバラの銅像が建立されているが、2017年にはゲバラに批判的な人々により銅像撤去に向けた署名活動も行われた(2018年時点で撤去は行われていない)[17]。





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