★92歳=白寿 九十九歳-7年
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2021年11月19日 17時15分
認知症診療の第一人者・長谷川和夫さん死去 自身の認知症を公表
認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長で精神科医の長谷川和夫(はせがわ・かずお)さんが13日、老衰のため死去した。92歳だった。葬儀は親族で行った。喪主は妻瑞子さん。
聖マリアンナ医科大名誉教授。認知症診断のための簡易スクリーニング検査として広く使われている「長谷川式認知症スケール」を1970年代に開発。認知症診療の第一人者として、認知症への理解を広げることに力を注いだ。
侮蔑的な意味を含む「痴呆(ちほう)」という呼称の変更を国に働きかけ、「認知症」という新たな用語を提起した厚生労働省の検討会(2004年)にも、委員として参加した。
17年に認知症との診断を受けた。その後、その事実を各メディアで公表した。朝日新聞のインタビューでは、「『隠すことはない』『年を取ったら誰でもなるんだな』と皆が考えるようになれば、社会の認識は変わる」と、専門医である自分が認知症になった体験を伝える意味を語っていた。
その後も、「認知症というのは決して固定した状態ではなくて、認知症とそうでない状態は連続している。つまり行ったり来たり、なんだ」など、当事者としての言葉で、認知症についての発信を続けた。
認知症診断後の18年、子どもたちにケアの理念を伝えようと、認知症の祖母と孫の交流を描いた絵本「だいじょうぶだよ―ぼくのおばあちゃん―」を出版、自身の家庭で実際に起きた出来事をもとに、原作を手がけた。
認知症の人が安心して暮らすために、人のきずな、つながりが大切であることを晩年まで訴えた。
〇長 寿 の 心 得
還暦 六十歳で お迎えが来た時は、ただいま留守と云え。 古希 七十歳で お迎えが来た時は、まだまだ早いと云え。 喜寿 七十七歳でお迎えが来た時は、せくな老楽これからよと云え。 傘寿 八十歳で お迎えが来た時は、なんのまだまだ役に立つと云え。 米寿 八十八歳でお迎えが来た時は、もう少しお米を食べてからと云え。 卒寿 九十歳で お迎えが来た時は、そう急がずともよいと云え。 白寿 九十九歳でお迎えが来た時は、頃を見てこちらからボチボチ行くと云え。
http://irumagakuen9ki.sakura.ne.jp/file/hiroba/hiroba-170622-choujyunokokoroe.pdf
◇大河ドラマで封印された、渋沢栄一華麗なる男の生きざま
経営学者ピーター・ドラッカーは渋沢をこう賞している。
「誰よりも早く、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した」
「20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」栄一曰く、「すべて世の中の事は、もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である」「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ
」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68136?page=10
長谷川 和夫(はせがわ かずお、1929年2月5日[1] - 2021年11月13日)は、日本の医学者、精神科医。認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医科大学名誉教授[2]。専門は老年精神医学・認知症。認知症医療の第一人者とも呼ばれた[3]。
愛知県東春日井郡牛山村(現・春日井市牛山町)で銀行員の子として生まれる[2][4]。18歳ころにキリスト教徒となる[4]。1953年東京慈恵会医科大学卒業。IBC(基督教事業連合委員会。北米8教派の外国伝道部による戦後の日本におけるキリスト教事業支援組織)のキリスト教振興事業のひとつである留学生派遣に選ばれ、1956年より2年間米国へ留学し、米国最古で最大の精神病院である聖エリザベス病院とジョンズ・ホプキンズ病院で研修生として精神医学・脳波学を学ぶ[4]。1960年「性犯罪者の精神医学的研究」で慈恵会医大医学博士。同年よりカルフォルニア大学医学部精神内科の客員講師(研究のみ)として2年ほど留学[4]。1969年慈恵会医大助教授。1972年東京都老人総合研究所の心理精神医学部長、1973年聖マリアンナ医科大学教授。1996年同学長、2000年定年、名誉教授、同理事長、2005年高齢者痴呆介護研究・研修東京センター長、2009年退職。
「長谷川式認知症スケール(HDS-R)」を作成したことでも知られる。
2004年に厚生労働省の検討会の委員として「痴呆」という用語を「認知症」に変えることに貢献した[5]。「長生き時代には誰もが向き合う可能性がある、認知症になっても大丈夫な社会を作ることが大事」と訴え続けた[5]。2005年瑞宝中綬章受章。
2018年、自らが認知症であることを告白した。当初、長谷川は自身の症状をアルツハイマー型認知症でないかと疑っていたが、2017年11月に認知症専門病院である和光病院での診断の結果、嗜銀顆粒性認知症であると判明したという[6][7][8]。 さらに認知症の理解を広めるため、2018年10月には 絵本『だいじょうぶだよ ぼくのおばあちゃん』を出版した[2]。
2021年11月13日、老衰のため東京都内の病院で死去。92歳没。家族葬を行った[9]。死没日をもって従四位に叙された[10]
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