奥武蔵の風

13 共存する新旧の追分(1)横手の分岐

 追分(おいわけ)は、街道が二方向に分かれる分岐(ぶんき)点です。街道があれば、当然、追分も少なからずあるわけで、全国各地に「追分」という地名が残っていることは、周知のとおりです。

 追分のイメージは Y 字路が典型で、国語辞典にも「街道が左右に分かれるところ」と説明されていますが、実際には甲州街道と青梅街道が分岐する内藤新宿の追分のように、直進路と直角に分岐する追分もあります。要するに、街道の三叉路が、すなわち追分なのです。ちなみに、「正」の字の縦線と横線が交わるところは、上下左右どちらの方向から進んでも三叉路ですから、追分が4か所あることになります。

 ここに紹介する横手の分岐は、奥武蔵を代表する追分の一つで、江戸時代の名残を色濃く留めている場所です。

 江戸時代、江戸から飯能(はんのう)を経て秩父(ちちぶ)へ向かう道と、川越(かわごえ)から秩父へ向かう道は、武蔵国 高麗郡 横手村で合流していました。逆に言えば、秩父から来た道は、ここで江戸方面と川越方面へ分岐していたのです。分岐点には、丸みを帯びた岩の道標が今も残っていて、表面の右下に「横手村」と現在地を示す文字が刻まれ、中央に大きく「南無観世音」の文字、右と左にそれぞれ「右 はんのふ 中山 江戸道」「左 こま 川古へ 坂戸道」と彫られています(「はんのふ」は飯能、「川古へ」は川越)。

 すぐ近くには、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)(元文3年)、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)(安永6年)の石仏と、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を彫刻した庚申塔(こうしんとう)(延宝4年)が、並んで立っています。

 往時(おうじ)には、ここを多くの秩父札所の巡礼者が、お地蔵様と観音様に道中の無事を祈りながら、旅したことでしょう。今は、もっぱら地元民とハイカーのためのローカルな道となっていますが、歴史散歩を楽しむには、格好のスポットです。

 アプローチとしては、西武池袋線の武蔵横手駅で下車して、横手渓谷を歩き、諏訪橋を渡って「清流苑」という高齢者施設を左に見ながら歩けば、横手の追分はもう目の前です。ちなみに、清流苑は、平成の初めまで「高麗清流園」という東京豊島区の保養所があったところで、今でも地主さんは豊島区だそうです(定期借地権契約)。そういえば、私が当地へ越してきたころは、夏休みになると、豊島区の小学生たちがここへ林間学校にやってきて、にぎやかな声がしていましたっけ。

 おっと、追分のせいか、話が脇道にそれてしまいました。横手の追分でしばし江戸時代のたたずまいに浸ったら、さあ、この先、左右どちらの道を進みましょうか。

(次回に続きます)

 

(写真上)©横手の追分道標。文字は「南無観世音」「右 はんのふ 中山 江戸道」「左 こま 川古へ 坂戸道」。

(写真上)©横手の追分 全景① 右:秩父方面。左奥:飯能方面。手前左:川越方面。黄色い道路標識のポール下に「道標」。

(写真上)©横手の追分 全景② 石仏の背後から撮影。右:秩父方面。後方:飯能方面。石仏の真左:川越方面。 

(写真上)©秩父方向から見た追分。現在の道路は秩父・飯能方面が本線となり、消火器の左から川越方面へ分かれる道は枝道となります。黄色い道路標識のポール下のガードレールの背後に「道標」。

(写真上)©川越方面への入り口。

(写真上)©川越方面への道を下りた先は大門橋。

(写真上)©飯能方向から見た追分。電柱と赤い消火器のあるところが川越方面への分岐。

(写真上)©川越方向からみた追分。右上に石仏。

(写真上)©横手の追分の拡大地図

(写真上)©全体地図(本文中の地名・施設等を確認できます)

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