のせいか、とても涼しいです。今にもが降り出しそう~
父が6月に亡くなる前に、社会法人北海道ウタリ協会の職員の
竹内さん(52才)に会い取材を受けてました。
父が北方領土の樺太で受けた事につていです。
あまり世間に語られない真実がありましたので
その事を知ってほしい~忘れてほしくないという父の願いから
興味を持たれた竹内さんが、何とか文章に残したいと
後数回父に会い細かい話を聞こうとしてた時に
急に天に逝ってしまったので、この話は無くなるのかと思いましたが
竹内さんのおかげで、ローカルの季刊誌ですが、父の話した事が
載ることになったそうです。原稿も見せて頂きましたが
満足出来るものでした
北海道と正反対の沖縄の季刊誌です
けーし風(かじ)という雑誌だそうです。
題名は『もうひとつの戦後 消された収容所』です。
サハリン(樺太)の敷香(シスカ)に生まれ育った父達6人兄妹と
両親ロシア革命の際ロシア聖教会の牧師であった祖母の父(ロシア人)
が革命の混乱の中命を長らえるために国を離れ
一家で樺太に渡ったそうですが革命軍によって家族はバラバラ
祖母の兄は目の前で撃ち殺されたそうです。
そこで祖父(日本人)と出会い結婚幸せに暮らしてましたが
戦争が始まり、日本軍により、外国人専用の収容所に家族全員
送られました。エチオピア人やトルコ人などいたそうです。
ここで殺されると思った頃終戦を迎え、今度はソ連兵が収容所に
やってきたそうです。それまで「ここは、お前らの墓場だ」と威張ってた
日本兵は、祖母に助けを求め、祖母は富内方面へ逃がしてあげました
その後2年間祖母は通訳として父達と共に富内に住んでたそうです。
その間も祖母は日本人が軍人だとソ連兵に解るとシベリア送りになるので
民間人だと嘘の通訳をして日本へ返す手伝いをしたそうです。
昭和23年に函館に行き、その後祖父の故郷の十勝に行き
今の道東の町に落ち着いたのでした。
原稿はもっと詳しく書いてて地図や写真も載ってますが
かいつまんで書き出しました。祖母は絶対に戦争時代の話は
してくれませんでした。86才まで長生きしましたが・・・
いくら聞いても答えてくれませんでした。きっと辛い経験をしたのだと
思ってましたが、これほど波乱万丈だったとは・・・
父も、もっと話したかっただろうに・・・残念です。
私にも収容所の話は昨年初めて話してくれたくらいです。
話したくないほど、辛い経験だったのだと思いました。
祖父母が生きててくれたおかげで、父がいて私が生まれ
私の子供達に、孫もいて・・・先祖が繋がっていくのですね
雑誌に載ったら本を送ってくれる事になってます。
楽しみにまってます仏壇にまっさきにあげたいと思ってます。
随分と涼しくなった道東より
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なくならないんだろう~誰が戦争を
起こすの?市民には何の相談もなく
知らない内に戦争に巻き込まれ
犠牲になり・・・戦争をやろうと
言い出した人達は、一目散に安全な場所へ
オカシイヨね~絶対に、せめて日本は
もう2度と戦争にならないように
しなくては、先祖の犠牲者達に
申し訳ありませんから・・・・
先祖がいたからこそ、沢山の犠牲者の中で
戦争で生き残ってくれたからこそ
今の私達が生きてるんですものね~
今回原稿を読んで、つくづく思いました。
戦争のため、祖国を裏切らないと
生きていけなかった祖母辛かったと思います。日本語は漢字やひらがなは、読めませんでしたね、カタカナやローマ字に、ロシア語しか書けませんでした。話すにも日本語は、男言葉に
なり、あまり上品とは、言えなかったかも~
毎年サンフランシスコから、祖母の友人
ベリノコフのおばさんがお墓参りがてら
遊びに来てたのを、覚えてます。
二人の会話はロシア語だったので
ま~たく理解出来ませんでした
その他に、ある有名人のお母様と仲がよくて
毎年祖母と遊びに行ってましたが、どうして
仲がいいのかと聞いたら遠い親戚だと
言ってましたが、本当は樺太の収容所で一緒だった家族でした。ず~と仲が良かったです。息子さんがスポーツの世界で大活躍されて
誰でも名前を知ってる方です。
優しいお母様でした。祖母より先に
お亡くなりになりましたが・・・
私たちは忘れてはならない
沢山の人の命の上に私達が
生かれていることを
私の父も戦争に行き・
地獄の中で生きて来たそうです
今は亡くなった父にもう少し
親孝行が出来なかったものか?
いつも悔いる私です
雨が降りました。たけさんの御両親も戦争を生き抜いてきたからこそ、今のたけさんが
いるのですものね~悲劇があった事
戦争があった事を忘れないように
私達は生きて行かなくては、いけませんね~
平和な日が続くように願わずには、
いられません
あれば、そういう夢も叶ったかも~
沖縄は私も行きました。新婚旅行で・・・
戦没者の慰霊碑に祈りを捧げて帰って
来ましたよ。その沖縄の雑誌に載るなんて
これも縁でしょうか?
子供の頃祖母がロシア人だったため
虐められた事もありましたが、今は感謝してます。私の娘達もむしろ喜んでるくらいです
時代は変わったのですね
不思議と孫にも血が出たみたいで
色白の目が大きい子になりました。
この本を読んで娘達もルーツが解るでしょう
戦争は、もう2度とないように祈ってます。
あったのですね~ありがとうございます。
どういう意味なのか調べようと思ってた
ところでした。本当は新聞に載せようと
思ってたらしいのですが、父が70才で
突然心不全で逝ってしまったので
まだまだ取材不十分で・・・
それでも父の意志を尊重してくれて
何とか記事にしたいという記者さんの
気持ちがありがたかったです。
まだ30代の若い記者さんです。
父とは偶然居酒屋で一緒になり
この話しを聞き、興味を持たれて
後日正式な取材となったみたいです。
これも何かの縁ですね~今月お会いする
事になってたのに~大学の教授とも会う
予定でした。でも本に載るなら父も
喜んでるでしょう