今日は午後、妻と映画を鑑賞する予定になっています。映画館に行くのかと言えばそうではなくて、借りてきた映画を自宅で見るのです。
以前から妻が観たがっていた映画、『リリーのすべて』。
性同一性障害に苦しむ主人公が女性として生きていこうとする話。ざっくり言うとそんな話の様な気がします。なんせ、まだ観ていないので……。
『性同一性障害』。昔なら、オカマとかホモとか、おとこおんな、などと馬鹿にされるだけで、何も問題視されていなかったと思います、親も「お前、男のくせにままごとばっかりしやがって!野球せー野球!」などと叱られる。でも理解がなかったのはそんな父親ではなく世の中全般。
先天的症状。でも病気なんですね。今は。それでも格段の認識の進歩かと思いますが、障害って……、でもまだ抵抗がある気がします。だからと言って、私は自分にものすごく理解があって、もっと様々な性が、自由闊達に活動できる世界を、心底望んでいるんです! などとは、とてもとても言えません。この映画を観るのだって、性同一性障害の世界に、奇異的興味があるからだと、言って言えないことはないです。
私の小さい頃にも、女の子ばかりと遊んでいる、弘道君(仮名)という男の子がいました。頭にシロツメグサの花の輪をのせて、女の子と手をつないで登下校し、一緒に縄跳びをしたりしていました。ただ、弘道君はとても凶暴で、ちょっとでもからかったり馬鹿にしたりすると、握りこぶし大の石を全力で投げてくるんです。
「あいつからかったら、マジヤバいで」と、暗黙の了解が広がり、弘道君はますます周りから遠ざけられ、そんな凶暴な弘道君と遊ぶ女の子も少なくなくなっていったようでした。彼のキレ方は今思い出しても尋常ではなく、性的な事でなくても、「お前、背中、出てんで」と、指さすだけで、近くの石や砂を思い切り投げつけてくるのです。きっと彼は女の子と遊んでいる間も、ひと時も気が休まる事はなかったはずです。自分は、バカにされている、自分は欠点だらけだ、自分に味方はいない。と。
弘道君は、女子という共通項以外には、女子も男子も、おそらく世の中全てが敵だったのでしょう。じゃあ弘道君は本当はどうするべきだったのか。
性同一性障害を題材に取り上げて、例えば小説なり、映画形を作るのは、逆に偏見がないといけないのかなぁ、と。つくづく思ったりします。弘道君にしても、彼があんなに凶暴な性格になったのは、彼自身、性のコンプレックスから逸脱させて、世の中を歪曲してみていたことも原因であるし、そうさせてしまう環境があったにせよ、フラットな目線、(そんな目線があるのかどうか知りませんが……)で、世の中を見ていなかったことは確かでしょう。
私の郷里、京都府北部ではいまだに、元被差別、と暗に区別されて呼ばれる地域があります。 暗に、ですよ。暗に。そして元、ですよ。元。 関西は根強いですよね。そういう感覚。どう問題視するにしても根強い。現代も続く問題として慎重に当たる人もいれば、そんなモン、蒸し返すからいつまで経っても消えへんねん。黙っとったらええねん、という人も、きっといる事でしょう。この場合のフラットな目線とは、単に無責任な、他人事な目線、という事にもなりかねません。
そう、逸れましたが、性同一性障害。完全と差別に対峙し、「おなじ人間だし、病気なんだから、性転換手術も保険を適用すべきだ、戸籍も申請すれば変えられるようにすべきだ」と、言って、実際そうなってしまえば問題は解決するでしょうか。そうshいて我々がその、差別ではない『差・違い』について、全く無感覚になる事が果たして本当に理想的なんでしょうか。
私は所謂、のんけ、ですから、簡単に自分を男にカテゴライズして無感覚で、というか、無関心でいる事はすぐ出来るでしょう。しかし、当の本人たち、性同一性障害の人達は、果たして私みたいに簡単に自分を、性同一性障害者(ん~、どうも言葉が悪いなぁ……)としてカテゴライズ出来るでしょうか。少数派が、少数派として自分をカテゴライズすることは、諦める事と何が違うのでしょうか?
私は、もし性同一性障害に対して一切のモラルや配慮が必要なくなったとしたら、そしてそんな私がもし性同一性障害の人と知り合ったとしたら、いろいろ、興味津々で聴いてしまうかもしれません。 それに対して、飄々と答えてくれる人もいれば、本当に嫌な思いをする人もいるでしょう。それは性障害どうこうじゃなく、その人の性格。だからその場合、新しいモラルが必要となるのかもしれません。
今現在も、ただの男女ですらですよ、例えば、速水もこみちさんみたいな人が、「あれ?髪切ったの?いいね、似合うよ」なんて言っても恐らく何の問題もないでしょう。だがもし私のような、膝が悪くて、腰を曲げ、コンビニの駐車場をよちよちと、毛玉だらけのジャージをきて歩き、頭ぼさぼさでよれよれのトレーナーの袖にがびがびのお米を付けた、伸び切った髭にも鼻毛には白いモノが混じり、酒に焼けてまっ黄色のなった卑屈な眼で舐めるように見上げながら、カップ焼酎を片手に同じことを言ったとしたら、それははっきりと、セクハラと言われてしまうでしょう。
だから、まずは偏見を以て、大いな勘違いを以て、問題に当たるべき。そうして勝手な結論を出しては堂々とそれを公表する。それに対して、怒らず、上げ足を取らず、正々堂々反論する。そんな態度が、いいのかな。と。問題を問題のまま、問題じゃなくするのは、単なる痛み止め。私の膝も、痛み止めを飲んでいても治りません。なんで?どこが?どう痛いの?と、医者には訊いて来てほしいんです。興味を持ってほしいんですよ。だから、性同一性障害の人にも、なんで?どうして? どうなってるの?と、問題なく訊ける、そんな世の中を目指すとか、ダメですかねぇ。
ささ、そろそろ映画を観ます。果たして、性同一性障害を、どう勘違いしているか??