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-ALKAN-

しどろもどろでも声は出るなり。

疲れました。おやすみなさい。

2017-12-19 21:17:12 | 日記

息子が、ユタポンなるものを、レンジで温めて、父ちゃん、10分以内に寝ないとだめ。と言いました。

こんな幸せ者が、この世に二人といるでしょうか?

だから、早々に寝ます。今日は、あっという間でした。光陰矢の如し。

おやすみなさい。明日が誰もにとって、とても素敵で有意義な一日でありますように。

忘年会したいな。そういう口実で、久々に底まで飲みたいな。今日都合よく、飲み友達が久々に電話をくれました。

29日当たり、ひょっとして、若い頃の猛虎が顔を出すかもしれません。怖いような。楽しみなような。

 

その前に、膝、もうそろそろ、わがままはよせ。素直になれ。そして、昔みたいに、俺を自由に躍らせてくれ。

 

 

今日は一日お疲れさまでした。では、お先に休ませていただきます。おやすみなさい。

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お洒落でごく簡単レシピ!(アップルクランブル)

2017-12-19 18:24:00 | 料理・レシピ

 

はい、えっと、良心の呵責に耐えかねて、初めにカミングアウトしておきますが。

私が作るのではありません。私、お菓子、一切作れませーん。料理人ですけど。

だから今回は妻の作る、妻いわく、チョー簡単で、絶対失敗しない、お洒落で、しかも知ってる人もあまりいないから、ちょっと玄人気分を味わえる、まさに一石五鳥のお菓子、『アップルクランブル』を紹介します。

 

まずりんごを皮をむいて小さく切り……。

 砂糖と煮ます。 砂糖の量は、リンゴの甘さによるので、それぞれ、酸っぱいリンゴなら多い目。酸っぱいリンゴの方が味にコントラストがついて美味しいらしい。

リンゴが煮えてきました。

小麦粉、砂糖、3対1ぐらい。

 

バター投入。写真のバターなら5ミリ強。

 

チョットバターのだまが残る感じでいいそうです。

ここでリンゴとコラボ。なるべく平らに、リンゴが見えないぐらい。

これをそのままオーブンへ。200度で15分。

 

続いてカスタードクリームを作ります。スタッフはこれ。

卵黄に、

小麦粉は大さじ1。

砂糖大さじ2杯ぐらいで、

牛乳を100cc、ちょっとずつ、加えていきます。砂糖が意外に溶け残るので注意だそうです。

 

このぐらいのとろみがBEST

焼きあがりました!

 

さらに盛り付け完成!

 

いかがでしょうか。絶対失敗しないようには、私個人的にはみえませんが、ぜひ一度試してみてください。

 

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リリーのすべてを観ての感想。

2017-12-19 17:33:18 | 日記

『リリーのすべて』を今観終わりました。主演男優、エディーレッドメインの演技に圧巻。あんな顔した人がいるんだ。天才だと思いました。

演技の良し悪しなんて、テレビもドラマもろくに見ていなかった私にとやかく言えるとは毛頭思ってもいませんが、その知らない私が観ても、あの演技力は圧巻でした。

 性同一性障害、映画の中では、性倒錯者、となっていました。1900年代初頭の話。社会に受け入れられるはずもない、でも変わり者も多そうな芸術の世界。表現の自由はいつの時代も障壁を超えたがるのが常なのでしょう。

 ここからしばし、ネタバレ、含みます。これから観る人は飛ばしてください。

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 実在の人物をモデルにした話なんですが、彼は初めて性転換手術に挑み、命を落としてしまいます。映画の最後に「彼の勇気のおかげで性同一性障害の社会的認知に多大な功績を残した」という事になっていましたが、私個人としては、最後の亡くなるシーンは、出来れば省いてほしかったです。実際亡くなったのですが、死んだから、命と引き換えに、多大な業績を残した。命と、引き換えに。というニュアンスは、私は好きではない。

 映画の主人公は、おそらくその後の同性愛者のことなど何も考えていなかった。ただただ必死で自分のアイデンティティーを手に入れたかった。その必死さと、エディーレッドメインの演技がなんとも切なく噛み合ってものすごくいい展開であったのに、ハッピーエンドでよかったんじゃないかな。無理なんですかね?そういうのは、映画的に。

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 命と引き換えに。そんな人いないと思います。ジャンヌダルクも、アンネフランクも、自分の命と引き換えだなんて少しも思っていなかったと思いますよ。うまくいけばよかった。命からがらでも助かって、その後幸せになれば、本当はそれが一番良かった。

 ジェームスディーンが生きていれば、そんなタラレバ話、よく耳にしませんか? もし生きていれば、大御所俳優として、映画のチョイ役で何十億円も貰う様になっていたかもしれないが、あの三本の映画は、きっと今ほど評価はされていないだろう。死んだから、評価されたんだ。

 ジミヘンドリックスが、今生きていたら、きっとでっぷりと太って、たまにオリンピックの開会セレモニーや、アメフトのハーフタイムショーにサプライズで出演して大歓声をもらうようになっていたかもしれないが、パープルヘイズはそこまで評価されていなかっただろう。

 そんな評価が、私は一番嫌いなんです。生きていればよかった。もっともっと、ジェームスディーンの演技も見れたし、ジミヘンの演奏も聞けた。つまらなくなっていればなっていたでいい。けど、死んだから、もう見れないから、みたいなのは、勝手な付加価値に過ぎず、評価を曇らせてしまっている気がするのです。

 性同一性障害はこれからも、様々な扱いを受ける事でしょう。予想もつきません。理解は誤解から生まれる、とは無知で乱暴な言い方だったかもしれないですが、これはこれでいいのだと決まってしまう事の方が、やっぱり怖い気がします。

 日韓基本条約も、これはこれでいいのだ、はい、おしまい。となる事に韓国は異議を唱えているんでしょう。問題は生きている、約束だけで問題を生き埋めにして殺してはいけない。そういう事でしょう。

 私は生粋の日本人で、日韓基本条約にも、竹島に関しても、従軍慰安婦問題にしても、日本海の表記に関しても、日本の立場に相違ないのですが、もし韓国が純粋に問題を風化させてはいけない、もう終わりなんだからガタガタいうんじゃねーという、日本政府の態度に真摯な異議を唱えるのならば納得できるんです。約束は約束、しかし問題が約束によって消滅するわけじゃない。その通りだと思います。でも、でもね。

 でもやっぱり約束は約束だしルールはルールなので、それは守らない事は、一切、初めから何にもしないのと一緒なんです。つまり問題そのものすら、無視しているのも同じことなんですよ。話し合いって何でしょう。ごり押しじゃないんです。カバの喧嘩みたいに、より大きな口を開けて、よりより大きい声を出した方が勝つんじゃないんです。人間の話し合いは。話し合いが必要なモノ同志は、お互いに誤解しあっているのが普通です。

 また話題が大きく逸れました。つまり、問題は生きている。だから当事者が一番心を開いて、周りの雑味を受け入れなければならない。性同一性障害から、障害の一言が取れるように願います。そこに、医療費とか保険の問題がいやらしくからまなくてもいい素敵な解釈が、いつか出てくることを望みます。

 しかし、エディーレッドメイン。素晴らしい!

 

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映画鑑賞。(りりーのすべて)

2017-12-19 11:42:47 | 日記

今日は午後、妻と映画を鑑賞する予定になっています。映画館に行くのかと言えばそうではなくて、借りてきた映画を自宅で見るのです。

 以前から妻が観たがっていた映画、『リリーのすべて』。

性同一性障害に苦しむ主人公が女性として生きていこうとする話。ざっくり言うとそんな話の様な気がします。なんせ、まだ観ていないので……。

 『性同一性障害』。昔なら、オカマとかホモとか、おとこおんな、などと馬鹿にされるだけで、何も問題視されていなかったと思います、親も「お前、男のくせにままごとばっかりしやがって!野球せー野球!」などと叱られる。でも理解がなかったのはそんな父親ではなく世の中全般。

 先天的症状。でも病気なんですね。今は。それでも格段の認識の進歩かと思いますが、障害って……、でもまだ抵抗がある気がします。だからと言って、私は自分にものすごく理解があって、もっと様々な性が、自由闊達に活動できる世界を、心底望んでいるんです! などとは、とてもとても言えません。この映画を観るのだって、性同一性障害の世界に、奇異的興味があるからだと、言って言えないことはないです。

 私の小さい頃にも、女の子ばかりと遊んでいる、弘道君(仮名)という男の子がいました。頭にシロツメグサの花の輪をのせて、女の子と手をつないで登下校し、一緒に縄跳びをしたりしていました。ただ、弘道君はとても凶暴で、ちょっとでもからかったり馬鹿にしたりすると、握りこぶし大の石を全力で投げてくるんです。

「あいつからかったら、マジヤバいで」と、暗黙の了解が広がり、弘道君はますます周りから遠ざけられ、そんな凶暴な弘道君と遊ぶ女の子も少なくなくなっていったようでした。彼のキレ方は今思い出しても尋常ではなく、性的な事でなくても、「お前、背中、出てんで」と、指さすだけで、近くの石や砂を思い切り投げつけてくるのです。きっと彼は女の子と遊んでいる間も、ひと時も気が休まる事はなかったはずです。自分は、バカにされている、自分は欠点だらけだ、自分に味方はいない。と。

弘道君は、女子という共通項以外には、女子も男子も、おそらく世の中全てが敵だったのでしょう。じゃあ弘道君は本当はどうするべきだったのか。

 性同一性障害を題材に取り上げて、例えば小説なり、映画形を作るのは、逆に偏見がないといけないのかなぁ、と。つくづく思ったりします。弘道君にしても、彼があんなに凶暴な性格になったのは、彼自身、性のコンプレックスから逸脱させて、世の中を歪曲してみていたことも原因であるし、そうさせてしまう環境があったにせよ、フラットな目線、(そんな目線があるのかどうか知りませんが……)で、世の中を見ていなかったことは確かでしょう。

 私の郷里、京都府北部ではいまだに、元被差別、と暗に区別されて呼ばれる地域があります。 暗に、ですよ。暗に。そして元、ですよ。元。 関西は根強いですよね。そういう感覚。どう問題視するにしても根強い。現代も続く問題として慎重に当たる人もいれば、そんなモン、蒸し返すからいつまで経っても消えへんねん。黙っとったらええねん、という人も、きっといる事でしょう。この場合のフラットな目線とは、単に無責任な、他人事な目線、という事にもなりかねません。

 そう、逸れましたが、性同一性障害。完全と差別に対峙し、「おなじ人間だし、病気なんだから、性転換手術も保険を適用すべきだ、戸籍も申請すれば変えられるようにすべきだ」と、言って、実際そうなってしまえば問題は解決するでしょうか。そうshいて我々がその、差別ではない『差・違い』について、全く無感覚になる事が果たして本当に理想的なんでしょうか。

 私は所謂、のんけ、ですから、簡単に自分を男にカテゴライズして無感覚で、というか、無関心でいる事はすぐ出来るでしょう。しかし、当の本人たち、性同一性障害の人達は、果たして私みたいに簡単に自分を、性同一性障害者(ん~、どうも言葉が悪いなぁ……)としてカテゴライズ出来るでしょうか。少数派が、少数派として自分をカテゴライズすることは、諦める事と何が違うのでしょうか?

 私は、もし性同一性障害に対して一切のモラルや配慮が必要なくなったとしたら、そしてそんな私がもし性同一性障害の人と知り合ったとしたら、いろいろ、興味津々で聴いてしまうかもしれません。 それに対して、飄々と答えてくれる人もいれば、本当に嫌な思いをする人もいるでしょう。それは性障害どうこうじゃなく、その人の性格。だからその場合、新しいモラルが必要となるのかもしれません。

 今現在も、ただの男女ですらですよ、例えば、速水もこみちさんみたいな人が、「あれ?髪切ったの?いいね、似合うよ」なんて言っても恐らく何の問題もないでしょう。だがもし私のような、膝が悪くて、腰を曲げ、コンビニの駐車場をよちよちと、毛玉だらけのジャージをきて歩き、頭ぼさぼさでよれよれのトレーナーの袖にがびがびのお米を付けた、伸び切った髭にも鼻毛には白いモノが混じり、酒に焼けてまっ黄色のなった卑屈な眼で舐めるように見上げながら、カップ焼酎を片手に同じことを言ったとしたら、それははっきりと、セクハラと言われてしまうでしょう。

 だから、まずは偏見を以て、大いな勘違いを以て、問題に当たるべき。そうして勝手な結論を出しては堂々とそれを公表する。それに対して、怒らず、上げ足を取らず、正々堂々反論する。そんな態度が、いいのかな。と。問題を問題のまま、問題じゃなくするのは、単なる痛み止め。私の膝も、痛み止めを飲んでいても治りません。なんで?どこが?どう痛いの?と、医者には訊いて来てほしいんです。興味を持ってほしいんですよ。だから、性同一性障害の人にも、なんで?どうして? どうなってるの?と、問題なく訊ける、そんな世の中を目指すとか、ダメですかねぇ。

ささ、そろそろ映画を観ます。果たして、性同一性障害を、どう勘違いしているか??

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謎の双美人。

2017-12-19 07:24:32 | 日記

おはようございます。今日も一日始まりました。

 今日の埼玉県は、天気は晴天なのですが、どうにもどんよりとした朝を迎えております。何ですかね、一進一退というか、一喜一憂というか、なかなか、これで良し、回復傾向。と宣言できません。

 まあ、どこまで根気よく付き合うか、でしょうね。しかし差し当たって困るのが寝られないこと。

 眠りの専門家の話を聞くと、五分・十分ずつでも熟睡できていれば睡眠は足りている。らしいのですが、寝られなかった、という意識がそれを納得させないんですよ。欲しいのは実際の睡眠時間じゃなく、よく寝た!という実感。ぐっすり寝たい。すっきり目覚めたい。そして颯爽と仕事に行きたい。

 以前ここでも言いましたが、寝られないから夢を見るんですね。しかもいつも同じ場所。行ったことのない、ひなびた保養施設、温泉場。家族と一緒なんですが、いつも直ぐにはぐれてしまう。そこは、昭和の臭いがプンプンする巨大なコンクリート作りの建物で、階段横の壁はかつてはおしゃれであったであろう不必要な凸凹がいっぱいあったり、突然壁に大きな丸い穴が開いていたり、重々しいシャンデリアが、煙草の煙と脂に燻されてどんよりとぶら下がっていたり、合皮の薄っぺらいスリッパの甲に金の文字で施設の名前が書いてるのだが、消えかかっていてはっきり読めなかったり。

 家族を探していた私は、気付くと謎の双美人と狭い布団部屋にいます。なんともいけない雰囲気で、私は双美人から目を背けているのですが、「ビールの販売機、どこ?」とか、「おつまみ売ってないから、買いに行かない?」など、聞こえよがしに話すんです。そして、「あ、プール行かない?」と、一人が言うと、もう一人が「でも、何処で着替える?」というんです。「あ、いいですよ、俺、出ますから」と私は部屋を出ます。部屋を出るとすぐにエレベータがあり、それに乗って階下に降りると、広いフードコートの様なガラス張りの場所に出ます。プールも見えます。しかし誰もいません。外は木枯らしの吹き荒れる冬真っ盛り。どんよりとたまったプールには枯葉が溜まり、とても泳ぐどころではありません。そこに、水着に着替えた双美人がおりてきます。「どうする?寒そうだよ」と言いながら、外に出ていきます。

「ちょっと、ちょっと!やめた方が……」と言いかかった時、自分は家族とはぐれている事を思い出します。慌ててエレベータに乗って元の階に戻ろうとするのですが、エレベーターには階床表示もボタンも何もありません。乗ったら扉が開くまで下りられません。私は自分が何階にいるのか全く分からなくなります。元の布団部屋さえ、もう戻れる気がしません。

 その時、髪をそぼ濡らした双美人がエレベーターに乗ってくるんです。「ちょっと寒かったね」などと言いながら。私はなぜかホッとします。双美人と同じ階で降りると、そこは元の布団部屋。私は思い切って、「ちょっと家族とはぐれてしまったんですけど、フロントって、何処ですかね?」と双美人に訊きます。じゃあ、一緒に行きましょう。と双美人は私と一緒にエレベーターに乗ってくれます。私はすごく安心しています。一人だと、何処に行くのかわかりませんから。そしてエレベーターが開くとそこはフロントで、家族はそこでもうチェックアウトを済ませて憮然とした顔で待っています。双美人はまるで他人の様にフロントをどこかに歩いて行ってしまいます。

 帰りの駅に向かう途中に寺があり、その境内で電車の時間まで、子供を遊ばせることにします。実際は三年生ですが、夢ではまだ二歳か三歳ぐらいなんです。天気は回復していて寒くありません。西寄りの日差しが小さな社殿の屋根から射しています。

ふと振り返ると、さっきの双美人が茂みに隠れながら我々家族を見ています。あ、と思ったんですが、私は妻の手前、やあやあ、と手を振る訳にもいかず、そのまま見て見ぬふりをします。心配そうに、茂みの陰からじっと我々を見つめる。双美人。

 

 そこで目が覚めます。ひなびた保養施設。ボタンのないエレベーター、そして双美人。いったい何を表しているのでしょうか。

 夢は潜在的な劣等感や性欲の象徴的表現だといいます。ひなびた保養施設は、不安定な自分の年齢と体調を、家庭のまだまだ長い将来を衰退的に考えている事の象徴のような気がします。ボタンのないエレベーターはそのまま、無職を。じゃあ、謎の双美人は。

 これは、きっと膝です。ひょっとすると、膝は冷えているのかもしれない。布団部屋、極寒のプール。じゃあ茂みから心配そうに眺めているのは? 

 さらにひどくなるか、回復するか、その境目にいるのかもしれません。もし回復すれば、私はもうこの夢を見なくなるでしょう。そうしたら、双美人とはお別れです。さらにひどくなると、きっとまた双美人の夢を見るでしょう。双美人はどっちを望んでいるのでしょう。私は出来ればもう会いたくない。しかし、とても綺麗な双子の姉妹に、会いたくない、わけはない。なぜ、双子の姉妹は、美しいのか……。

 思うんです。これは、無職で日がな何もせず、だらだらとテレビを見て、ご飯の時間にはご飯を食べ、酒を飲み、風呂に入って寝る、こんな療養生活を、早く治して働きたいだの、社会復帰したいだのと言いながら、愛着を感じている、楽しみ始めている、この生活が、足が治れば終わってしまう事への愛惜の感情の象徴的表現なのではないかと思うのです。

 どうしても、甘えてしまうんですね。自分にウソはつけても、夢にウソはつけないんですね。恐れ入ったよ、双美人。

 

 

 

 

 

 

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