「ごめん、仕事で行けないんだ」
行けないんじゃない、自分が仕事を優先して「行かない」を選択しただけでしょう?
「この作業できなかった」
できなかったじゃなくて、しなかったんでしょう?
ずーっと思っている疑問。
非難ではない、疑問。
口にするたび、人を怒らせる。
だけど、誰も納得する答えを持ってない。
自分が、選択したことを、何か他のもののせいにするのはなぜ?
いいじゃない、あなたが選んだことなのだから。
「お金もらってるときに優先できるわけない」
「そんなこと優先するとか、人としてありえない」
そう思って、「お金もらってる責任」とか「人道的」を優先したのは、あなたでしょう?
別に悪いことじゃない。それを胸を張って言えばいいじゃない。
なんで別のもののせいにするの?
少しだけ、この謎の答えが、わかった気がする。
コミュニケーションは、「論理」である。
それは人の「感情」も組み入れた「論理」である。
人は感情も含めれば、非常に合理的に動いているという話を聞いた。
「感情」と「論理」を切り離すことがそもそも間違い。相反する概念ではないだろう。
人間が自然界から「技術」としてくくり出していることなんて、ほんとうにごく一部。
「感情」が「技術」でないと誰が決めた?
自分たちにわからないもやもやしたものをブラックボックスとしてみるのは、「技術」を知らない人間だから。
(パソコンだって、なんだかこういうもの、と思っている人がどれだけ多いだろう?)
自分にも「感情」があるから、厄介ではあるけれど。
そのマネージメントをしつつ、「いかに目的に近づくか」を考える。
感情を無視しない。
「できない」という言葉を選ぶ裏に、
「こういう理由を無視したほうが、マイナス」そう思う感情があって、
だけど「それをそのまま伝えると起こるであろう反感」を避けようとする感情と、「自分だってその理由を無視できたら楽だと思ってるけど心を鬼にしてこっちを選択したんだから」という逃げている感情、
そういうものがあるのだろう。
"I'm sorry, but I can't."
can'tじゃねーだろ、don'tだろと思うけれど、合理主義と言われる英語ですらそうなのだから。
「できない」の言葉には、「能力的に不可能」だけではなくて、「感情的に選択しない」ことを「できない」という意味もあるのだろう。
私の辞書に用語を足す。
人の感情まで含めて「ことば」というコミュニケーションのツールが使われている。
ごく自然なこと、だ。
行けないんじゃない、自分が仕事を優先して「行かない」を選択しただけでしょう?
「この作業できなかった」
できなかったじゃなくて、しなかったんでしょう?
ずーっと思っている疑問。
非難ではない、疑問。
口にするたび、人を怒らせる。
だけど、誰も納得する答えを持ってない。
自分が、選択したことを、何か他のもののせいにするのはなぜ?
いいじゃない、あなたが選んだことなのだから。
「お金もらってるときに優先できるわけない」
「そんなこと優先するとか、人としてありえない」
そう思って、「お金もらってる責任」とか「人道的」を優先したのは、あなたでしょう?
別に悪いことじゃない。それを胸を張って言えばいいじゃない。
なんで別のもののせいにするの?
少しだけ、この謎の答えが、わかった気がする。
コミュニケーションは、「論理」である。
それは人の「感情」も組み入れた「論理」である。
人は感情も含めれば、非常に合理的に動いているという話を聞いた。
「感情」と「論理」を切り離すことがそもそも間違い。相反する概念ではないだろう。
人間が自然界から「技術」としてくくり出していることなんて、ほんとうにごく一部。
「感情」が「技術」でないと誰が決めた?
自分たちにわからないもやもやしたものをブラックボックスとしてみるのは、「技術」を知らない人間だから。
(パソコンだって、なんだかこういうもの、と思っている人がどれだけ多いだろう?)
自分にも「感情」があるから、厄介ではあるけれど。
そのマネージメントをしつつ、「いかに目的に近づくか」を考える。
感情を無視しない。
「できない」という言葉を選ぶ裏に、
「こういう理由を無視したほうが、マイナス」そう思う感情があって、
だけど「それをそのまま伝えると起こるであろう反感」を避けようとする感情と、「自分だってその理由を無視できたら楽だと思ってるけど心を鬼にしてこっちを選択したんだから」という逃げている感情、
そういうものがあるのだろう。
"I'm sorry, but I can't."
can'tじゃねーだろ、don'tだろと思うけれど、合理主義と言われる英語ですらそうなのだから。
「できない」の言葉には、「能力的に不可能」だけではなくて、「感情的に選択しない」ことを「できない」という意味もあるのだろう。
私の辞書に用語を足す。
人の感情まで含めて「ことば」というコミュニケーションのツールが使われている。
ごく自然なこと、だ。