「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

4,姥嵐 ①

2025年02月08日 08時25分06秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・ハワイ旅行のきっかけは、
ひょんなことであった

マンションの応接家具など、
取り換えたためだ

私はそれまで、
マンションの寸法に合わせた、
特別注文家具を置いていた

これががっちりとしていて、
イギリス風で手造りで堅牢だったが、
ある日、家具屋ですてきなのを見てから、
どうも野暮ったく鈍重に思え出した

鈍重というのは、
悪趣味の最たるものだ

駅前にかなり大きな家具屋がある

時折ここをひやかすのが楽しみ、
この店はよくはやっている

そこには舶来家具や、
また和家具の上等なのを置いている

七十六歳の私が、
小学生の学習机や、
べニヤ板の嫁入り道具をひやかして、
どうしようというのだ

それにあの、
キンキラキンの嫁入り道具、
というもの私は嫌いだ

私もはるか昔、
親に作ってもらったが、
それは戦災で焼け、
かえって今はさっぱりした

婚家の家運を盛り返そうと、
しゃにむに働いている間は、
家具どころではなく、
戦後の物資欠乏時代ではあり、
ペコペコのべニヤ板の家具を、
一つずつ買っていて、
ずっと愛着があった

力いっぱい働いて、
今は功成り名を遂げたところ、
こういう身分の私にしてはじめて、
好みの家具、
贅沢な品を身近において、
楽しめるというものだ

苦労もしていない、
横着な若い者に、
なぜあのような豪華絢爛の、
嫁入り道具など、
親は買い与えねばならぬのか

親が甘すぎるというのだ

結婚する若者は、
しっかりした根性と、
気働き、
それに苦労をいとわぬ健康、
腰の軽さがあればいい

それに双方ほれあっていれば、
なおいいが、
ま、一番大事なのは、
「やる気」であろう

今風にいえば「ガッツ」
というのかいなあ

ガッツのある若者に育てることこそ、
親の最大のはなむけであろうのに、
いまどきの親は、
中身にかまわず、
外側の入れ物をそろえることばかりに、
狂奔して、キンキラキンの、
嫁入り道具に夢中になっているのだ

何より「ガッツ」のある、
男の子、女の子なら、
文無しでも結婚生活は、
楽しいであろう

ウチの長男の嫁など、
今から娘の嫁入支度に狂っている

まだ短大へいってる娘のために、
嫁入り道具一式注文し、
それらは嫁入りの日まで、
油単を掛けられて、
納戸に眠っているわけである

「私のときは、
終戦後まもなくのころで、
充分に支度も、
してもらえなかったものですから、
あの淋しさを子供には、
味わせたくないんですよ、お姑さん
やはり支度は人並みに」

と嫁の治子はいい、
何をぬかすか、
子供のためと称して、
おのれの虚栄心の満足の、
ためであろう

私の顔色を見て、
長男はとりなす如く、

「ま、いっぺんに作ると、
大ごとなんで、
ぼちぼちやると助かるよってな」

と嫁とうなずきあう

なんでこうも、
二人そろって近頃の親は大甘なのか、
真の嫁入り道具は、
タンスや鏡台だけではない、
ただただ、本人の「ガッツ」や、
ということ知らんのかいな

私だとて、
長男のところの孫が可愛くない、
というのでもないが、
何しろ、ハレモノにさわるように、
大事に育てられた子供らは、
温室育ちのスカスカで、
いずれをみても、
「ガッツ」のあるなし以前、
という顔、
何を考えているやら、
こういう娘などは、
オマケでもつけて売り出さねば、
仕方あるまい

いや、何もいうまいいうまい

いつか、
朝日新聞の歌壇欄に、
こういう歌が載っていた

<世に遠くいて
世に瞋恚なしとせず
七十路の梅雨の夜
爪を切る>

東京の松井武夫さんという人の歌

私は同じ年輩だから、
妙に心に残って記憶しているのだが、
ほんとうに年をとると、
円満具足どころか、
腹立つことが多くなるものだ

愛されるお婆ちゃんだの、
慕われるお爺ちゃんだの、
という手合いは、
あれはボケの代名詞である

モウロクしてるだけである

まともな神経と教養、
厚みのある人生キャリアを持った年寄りは、
何かにつけてカッカとくることが多いのだ

しかしながら、
それは私の場合、
ズケズケ言いで忌避されることになる

これがよく出来た男性であれば、
ぐっと内心の瞋恚を抑え、
崇高なる諦観のうちに煩悩から解脱し、
一人黙々と、
梅雨の夜爪を切っている、
というところ

なんという重厚な、
魅力的男性像であろう

それで以て私は、
この松井武夫氏という、
見も知らぬ男性に、
ほのかなあこがれさえ抱いている

人間が年の功を重ねて、
重厚になるのはいいが、
家具の重厚は鈍重になりやすい、
私は家具の話をしているのだった

マンションはすべてサイズが小さいので、
西宮の家具は入りきらない

出来合いにものは、
みな安っぽくみえたので、
私は特注で作らせたのだが、
それが手造りとはいえ、
身もふたもなく頑丈であった

はじめは、
こう頑丈なら一生道具だと思って、
気に入っていたのだが、
駅前の家具屋で、
軽やかな線の、
優美な椅子やテーブルを見たとき、
ふと思ったのだ

(一生、ったって、
あと十年か二十年、
二十年たったら九十六である
なんでその貴重な十年二十年を、
あの馬鹿頑丈な、
野暮丈夫な家具で、
我慢しなけりゃならないんだ?)

そんなに保ちがよくなくてもいい、
もっと華奢できれいなのがいい、
そう思うと、
一刻も早く新しい家具と、
入れ換えたくなった






          


(次回へ)

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