「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

3、姥日和 ④

2025年02月06日 08時55分54秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・エレベーターまでだ、
と思って私はロックしていなかった

一、二分のことだと思って、
キィを持って出ていない

ドアを開けて、
すぐ玄関に八の字に脱いである、
靴を見つけた

大人のズック靴、
今風にいうとスニーカーであるが、
昔の運動靴である

昔は学童用でみな黒であったが、
今は色とりどりで、
大人たちもはいている

それはかなり、
はきくたびれた水色のスニーカーである

私はなぜかすぐ、
(コソ泥!)と直感した

それは、
その運動靴のせいである

昔人間の私は、
子供のはく運動靴をはいているような、
大人はなぜか大物ではない、
吹けば飛ぶような小物、
という感じがある

そしてまたこれが、
地下足袋ででもあれば、
ギョッとするかもしれないが、
そういうのをはいて無断で、
乱入してくる曲者なら、
いちいち玄関で脱いだりしないであろう

孫なら電話をかけてくるはずだし、
外へ飛び出して助けを求めようか、
という気も一瞬かすめたが、
助けを求めにいってる間に、
コソ泥はまんまと窃取して、
逃走するかもしれない

そんなことが許されてよいものか
なまいきやないか

私は昔人間だから、
窃取、着服という横着な根性に、
腹が立つ

その根性を叩き直したい、
という怒りの気分もある

できるっだけ、
そおっとドアを閉め、
靴を脱いで足音をしのばせ、
(といっても絨毯の上なので、
音はしない)
奥へすすむと、
畳の間に曲者はいた

桐のタンスの引き出しをあけて、
中を物色している

案の定若い男で、
うしろから見ると学生風である

首すじのかくれるほど、
長い髪をして、
うす汚れた白い毛糸の、
とっくり首のセーターを着ている

私はカッとした

若者を見ると、
反射的にカッとするのは、
ふだん孫を叱りつけているからに、
違いない

かつまた、
私は息子ばかり三人育ててきた女である

次男が、
「ドイツ式にきびしく育てられた」
と四十面さげて私を怨むくらいである

若い男に向かうと、
おのずとその頃の気魄が、
五体にみなぎり、
遠慮会釈がなくなるのである

早くいうと、
あたまごなしに叱りつけたくなる

「ちょっと!
何を勝手なことしてますねん!」

男はギョッとしてたちすくみ、
向こうをむいたまま、
体をこわばらせている

そのさまは、
大学生だったころの次男が、
夜遊びして閉めだされ、
午前三時ごろトイレの窓から入り込み、
ぬき足さし足のところを、
私に見つけられたさまに、
よく似ている

「これ!
人の家へ黙って入ったら、
泥棒やないの
そこで何してますねん!」

その時電話が鳴った

男は弾かれたように、
飛び出そうとする

その姿は、
学校の月謝を使い込んで、
麻雀ばかりしていた三男が、
私のへそくりをこそね、
脱兎のごとく飛び出していく姿に、
重なってみえる

「待ちなさい!」

私は非力であるから、
腕力では若い男にかなわない

その代り、
凛然たる気合のこもった一喝で、
相手を圧する

これも雲つくような大男の息子たちを、
叱り慣れた貫禄である

男はますますうろたえ、
逃げ場をまちがえて、
応接間へはいりこみ、
何かにつまずいて、
どたーんと倒れ、
陶器かガラスの割れる音がする

見ると、
男は血の吹き出る右手の小指をなめなめ、
青い顔で起き上がるところだった

まだ二十一、二ぐらいの、
子供っぽい顔の青年である

「何を暴れているのや」

「お茶椀、
割ってしもた、
すみません」

と男はいい、
ごく普通の家庭に育った、
人間の口吻である

お茶椀どころかいな、
さっきは何か盗ろうと、
物色していたくせに

「待ってなさい
いうことがあるから」

と私はおごそかにいい、
おもむろに鳴りつづけている、
電話をとった

電話は竹下夫人である

「あら、いらしたんですか、
お留守課と思って、
切るところでした」

「ええ、
ちょっと取り込んでいたもので」

男の子は、
おびえたような目で、
私を見ていたが、
私が電話口で、

「110番!」

ともどならなかったので、
安心したような疑わしそうな、
おちつかぬ顔でいる

この頃のはやりの、
可愛らしい顔であるが、
どことなくしまりのない表情である

茶碗のかけらで、
指を切ったのであろうか、
血がとまらないようなので、
私はティッシュの箱を示して、
使えという身ぶりをする

「それが奥さん、
例の縁談ですけど、
まあ、こんなケース、はじめて、
生まれてはじめてこんなの、
経験いたしましたわ!」

「あの、ぼてれんの娘さんが、
どうかしたんですか?」

「男の方がやっと、
結婚を承知なさったら、
今度は娘さんのほうが、
いやだとおっしゃって

まあ奥さん、
呆れるじゃございませんか、
なんとなんと、
おなかの子の父親というのは、
その男の方ではないんですって!」

「今日びのことですからね」

と私はいいつつ、
ふと目をあげると男の子がいない、
逃げたか、
卑怯者ッと腹が立ち、
思わず、

「これッ!
まだ行ったらあきませんよ!」

と声を荒げてどなりつけた

「ここにいてます」

と男の子は小声でいう

応接間のソファに坐っているらしい

電話の向こうでは、

「何か、おっしゃいました?」

「いいえ、
ちょっとこっちの話

それでこの縁談は、
結局お流れになったんですのね」

「いいえ、
おなかのややこが、
よその人のだとわかって、
男の方はかえって、
娘さんに夢中になられまして
どうしても結婚したいって、
いきまいていらっしゃるんで、
ございますの

まあ、何と申しましても、
ややこさんのためには、
そのほうがよろしいんで、
ございますけどねえ

ほんとの父親が誰であろうと、
双親そろってこそ、
ややこさんには幸せなんでしょうけど、
でも、もう私、
びっくりしてしまって、
天地がでんぐりがえる思いで、
ございましたわ・・・」

それほどのことでもあるまい






          


(次回へ)

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