「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、姥捨の月 ③

2025年01月31日 09時04分37秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・ヒヨコおまわりは更にまた、

「さいなら、
おばあちゃん、
気ぃつけてや、
何かあったらいうて来てや、
おばあちゃん」

といって帰っていった

確かに親切な男には違いない、
彼が「おばあちゃん」を連発するのも、
親愛こめて発音しているのであろうが、
そもそも日本の男は、
このヒヨコおまわりに限らない、
女には二種類しかない、
と思っているのだ、
若い女とトシヨリの二種類なのだ

女個々の人となり、
趣味、性向、値打ち、
そういうものを弁別しようという気も、
更にないのだ

トシとってれば、
「おばあちゃん」と呼んで憚らない

西洋みたいに「マダーム」という、
うやうやしい敬称は、
わずかに大阪弁の「お家はん」、
「ご寮人さん~ごりょんさん」
であろうけど、
これらはその家に隷属した、
女の敬称にすぎず、
独立した女個人への敬称ではない

「奥さん」というのも、
誰それのモチモノ、
というひびきがあるが、
それにしても「おばあちゃん」よりはマシ

これからの日本の男を教育するのは、
女の呼び方からはじまるのである

孫のようなヒヨコおまわりに、
いちいちいったところで、
のみこめるものかどうか、
大きくむくつけき体格を見たら、
ウチの孫ども同様、

「大男総身にチエがまわりかね」

という感じ、
しかしながら、
どっちかというと、
私は愛想の悪い肉親の孫より、
他人のヒヨコおまわりの方が、
可愛いってもんである

いつか長男たちが来ていたときに、
ヒヨコおまわりが来たことがあった

私が応対するのを聞いていた長男は、

「おばあちゃん、
なんでそうポキポキ、ツンケン、
偉そうに言いますねん
親切にいうてくれてんのやから、
そう偉そうにいわんと、
やさしゅう返事しなはれ
トシヨリは人に可愛らしゅう思われな、
あきまへんで」

と呆れていた

「可愛らしゅう」思われるのは、
私はかかりつけの、
向かいのビルの診療所の、
先生だけでよい

「茶飲み友達っていうのは、
どうかしら、おばあちゃん、
気が若やいで和むのと違いますか、
そういう人がいれば・・・」

と長男の嫁はいった

「ほら、
いつも電話して来はる細木さん、
なんていかが?
おじいちゃんのお友達の・・・」

「ああ、あのモウロク爺さんかいな、
死んだ嫁はんのことしかいわへん・・・
あんな退屈な爺さんと居ったら、
こっちまでシケてしまうわ

それにいうたら何やけど、
茶飲み友達なんて要らんわ、
酒飲み友達の方がええわ」

長男夫婦は顔を見合せ、

「おばあちゃん、
そんな人、居てんのん?」

「居てたらあかんか」

「いや、そら、
結構なこっちゃけど」

「なんし、
私も入ってる集まりが多いんでね、
そら、いろいろ面白い友達もいてはる
なんで茶飲み友達みたいな、
辛気くさいもんを」

ほんというと、
私は「茶飲み友達」という、
いじましい消極的な言い方が、
気にくわないのだ

まるでトシヨリ扱いだ

トシヨリは茶を飲んでいりゃいい、
というのか

枯淡が洋服を着たようなのが、
トシヨリだと、
なぜ決めつけるのかねえ

トシヨリには茶が出会いものと、
誰が決めたのだ

オール日本人、
お茶屋のまわし者か、
茶道家元のPR屋としか思えない

別にお茶を飲まなくても、
仲よしになれるのだ

この前、英会話のパーティで、
私はビルと名前をつけられた、
年輩の男性と、
踊ったり飲んだりしたが、
掛川さんという、
自称彫刻家のその老紳士は、
やはり茶を飲むより、

「アルコールの方が・・・」

というさばけた人であった

忙しいのか、
教室には精勤には来ないが、
私の持つボーイフレンドの中では、
いちばん楽しい人である

掛川氏はベレー帽なんかかぶって、
サファリルックの瀟洒ないでたち、
「茶飲み友達」なんていう言葉が、
全然ふさわしくない人なのだ

そういう老人も多いのだ

いったい、
息子や息子の嫁らの方が、
時勢におくれ、頑迷である

この子らはいま、
四十代、五十代はじめ、
この年代の人間が老年期になった頃は、
どれほど使いものにならなく、
なっているか・・・

何たって、明治生まれは、
心身ともに強じん、かつ柔軟である

昭和のはじめの生まれの人間は、
育ち盛りにろくに食べ物がなかったので、
かわいそうだが、
あたまも体も二番手、二流、
次点の人が多い

かわいそうだが、
仕方がない

もちろん明治生まれでも、
細木老人のような者もいるが、
しかしあの爺さん、
私が何かいうと、

「ホホウ!」

と無心に感心する、
そこが可愛い

長男がどんな風に伝えたか、
二、三日して次男が来て、

「おばあちゃん、
茶飲み友達、
ようけ居るねんて?」

「べつにそういう意味やないけど、
サークルにいろんな人居るさかい」

「まさか、
ダマされて僕ら知らん間に、
籍入れたの、名義変えたの、
いうのだけはせんといてや」

「あほらしい」

「おばあちゃんのことやから、
しっかりしてるさかい、
心配ないやろうけど、
何し、世の中ややこしい手合いが、
おるさかいな
何やったら、証券や権利書、
あずかろか?」

私の方が次男のを、
あずかってやりたいくらいだ

四十半ばだって、
私から見りゃはなたれ小僧だ

この次男は欲深で、
私の財産が気になってならないのである

それからして、
自分が管理したくてならないらしい

次男は気が気でならないらしいが、
私の金は私の好きなように使う

夫が死んだとき、
遺産は三人の息子に分け、
次男はそれをもとに、
ちゃんと家を建てている

私の今の財産は、
私がそのあとに作ったもの、
これを誰にやろうが、
私の好きに使っていい金であろう






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2、姥捨の月 ②

2025年01月30日 08時52分48秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・人が来るのはうるさくて仕方ない、
とくに朝食を邪魔されるのは、
いやなのだ

マンションの八階から海が見える

東神戸にあるこのマンションは、
反対側の窓からは山も見える

船の白い航跡、
動くともみえぬ巨大なタンカー、
水平線は春から夏は、
たいていぼうっとしているが、
夏の空は申し分なく晴れ、
風は家中をふきわたる

私はラベンダー色の絹の部屋着をまとい、
明るい涼しい部屋でゆっくり朝食をとる

私の家では、
応接セットなどをおいて、
いつ来るか分からぬ客のために、
飾り立てるなんて、
ことはしない

私ゃ、
自分自身がこの家では、
お客さまだと思っている

だから自分がいちばんいい場所に、
いつも坐り、
いい椅子やテーブルを使う

七十六までツツいっぱい生きて、
自分より偉い人間があると思えるかっ!

年とれば、
自分で自分を敬わなければいけない

自分がへりくだって、
つつしむのは、
ほんとに好きな人、
尊敬できる人の前だけである

私ゃ、この年まで、
おべんちゃらをいったり、
お上手でごまかしたり、
持ち上げたりしたくないのだ

で、イギリス風のがっしりした椅子に坐り、
キッチンからはこんだ朝食を、
海を見つつゆっくり食べる

紅茶にトースト、
目玉焼き、
グレープフルーツ

トーストは一枚をたて二つに切り、
バターかマーマレード、
ジャムをつけて食べるが、
このジャムは浅間のグーズベリーの、
ジャムでないといけない

マーマレードはイギリスのもの

一枚には濃紫のジャム、
一枚にはオレンジのマーマレード、
色どりも美しくなくては

お茶は九州の嬉野のお茶、
茶器は薄手の清水焼、
紅茶茶碗はイギリスのものがいい

私ゃまちがっても、
民芸品なんか使わないよ

あれは鈍重であたまの悪そうな印象だ
重くてもろくてモウロク爺さんさながら、
さらにいえば人の尊重する骨董品、
剥げたりくすんだり、
黒ずんだり、
茶しぶで色変わりしたという、
抹茶茶碗なんかと同じように、
汚らしい

私ゃ手のひらの垢で、
黒ずんだような古ぼけた茶碗は、
きらいなのだ

「チーン!」

と音のするような西洋茶碗がいい

それから日本の清水焼、
作られ立ての新しいのが清潔でいい

そういうきれいな食器を扱おうとすれば、
爪もきれいでなくてはいけない

しかしマニキュアをすると、
爪をいためるから、
色を塗るのはやめて、
オリーブ油を爪にすりこみ、
あと鹿革でよく磨いておく

そうして絹のラベンダーの、
部屋着を楽しみ新聞をひろげる

まずスポーツ欄を見る

私は阪神びいきで、
掛布、ラインバック、小林が好き・・・

そういう時間に遠慮もなく、
ピンポン鳴らして誰かやってくる、
うるさいったらない

インターホンで確かめると、
いつもの交番のヒヨコおまわり

「やあ、おばあちゃん元気ですか」

この安ポリは、
悪気はないのだろうけれど、
「おばあちゃん」を連発し、
私はあまりいい気はせぬのだ

トシヨリには、
こういう応対が気に入られると、
思い込んでいるふしがある

「元気ですよ、
何かご用ですか?」

「変りないやろね、
おばあちゃん」

「ありませんよ」

「元気な顔見せてんか、
おばあちゃん」

ふた言目には「おばあちゃん」を、
連発する

いっちゃ悪いが、
下町暮らしの好きなエバ婆さんとは違う

鹿革で爪を磨いて、
ラベンダーの絹の部屋着を着て、
海の見えるマンションで、
紅茶を飲もうという私を、
安婆さん扱いしないでもらいたい

「おーばーちゃん
ちょっとおねがーい
開けてちょーだい」

安ポリは子供にいうようにいう

何いうとんねん
ポリやからいうて、
気安うにドア開けられるかっ!

まさかと思うことが起きる世の中
いくら私が、
七十六の婆さんだからといって、
女は女、
どんな拍子に若い男の劣情を、
そそるかもしれないではないか

トシとってからのいいところは、
想像力がたくましくなる点である

想像力が具備しなければ、
トシヨリの一人暮らしは張っていけない

しかし、仕方ないから、
私は立っていって、
ドアチェーンをかけたまま、
ドアをあけた

ヒヨコおまわりはにこにこしている

体の大きな童顔の、
二十一、二といった年ごろの男である

「や、おはよう、
年よりの一人暮らしは一応、
ちゃんと顔合わせるように、
いわれてるさかいなあ」

ヒヨコおまわりはビラを抱えており、
私にも一枚渡した

「ひとりぐらしのおとしよりへ」

というビラである

「これ、読んどいてくださいよ、
それからゆうべ、
あしこの駅の向こうの松の木坂で、
おそわれた婆さんがおってな」

「へえ、怖いこと
痴漢ですか?
夏やからねえ」

「痴漢は痴漢やろけど、
うしろから抱きついたいうさかい、
見えなんだんやな、
前からやったらそんなこと、
なかったやろけど、
男は婆さんが悲鳴あげると、

『けっ、婆あか』

いうて突き倒して逃げたそうや、
婆さん仰向けに倒れて、
頭のうしろ怪我して、
二針縫うたそうや」

「まあ、えらい災難やこと」

「痴漢が前から来たら、
そんな災難にならんやろけどな、
痴漢ちゅうもんはたいがい、
うしろから来るからな、
おばあちゃんかて間違われるねん

まさか、背中に年書いて歩くわけには、
いかんやろし、ハッハツハッ・・・」

私は笑う気もしない

「それに痴漢のつもりが、
婆さんとわかったら、
腹立ちまぎれに強盗に変じて、
金奪って逃げるかもしれんし、なあ
そないなったらえらいことや、
気ぃつけてや、
おばあちゃん、
ええか、おばあちゃん」

何をどぬかす、安ポリめ
金を奪われるより、
貞操のほうが大事ではないか、
婆さんなら貞操などないと、
思っているのと違いますか






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2、姥捨の月 ①

2025年01月29日 08時56分27秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・一人暮らしというのは、
案外いそがしいものである

家にいると、
わりに来客が多い

世捨て人や金のない一人暮らしは、
ヒマであろうが、
私ゃちがうのだ

銀行から来る、
ハンコをもらいに来たり、
残高がたまりすぎたから、
定期にしてくれの、
と頼んできたりする

証券会社、何かの寄付、セールス、
そういうのはインターホンで撃退するが、
応対しないといけないものもある

郵便局の配達、
クリーニング屋、
生協のご用聞き、
新聞代の集金・・・

どうしてこうも日本人は、
個人の時間を奪うのを、
何とも思わないのであろう

こっちはイライラしてしまう

私ゃこうみえて、
家でヒマなときってないのだ

週一で家政婦さんに来てもらうので、
大掃除、アイロンがけ、
季節の道具の出し入れは、
その日にやってもらうが、
毎日の小さい家事は、
自分でしている

合間にテレビを見たり、
油絵を描いたり、
習字、勉強(英会話、フランス語)もある

一日はあっというまにたってしまう

下らぬ雑用で中断されるくらい、
腹の立つことはない

英会話教室のエバは、
あ、ここではみな、
エバとかメアリとかビルとか、
いう名前で呼びあうので、
ふだんもついそのくせが出るが、
(私はジェーンという名前)

ここでエバと先生に名を与えられた、
魚谷さんという七十くらいの婦人は、
夫に先立たれたひとり暮らしの人である

子供もなく、
姉妹もいないが、
いくばくかの資産を持っているようで、
大きい郊外の家を売り払い、
最近下町に小さい古家を買って、
移り住んだ

この人は、

「下町のほうがにぎやかで、
人もよくたずねてくれるんです
近所となりのおつきあいがない、
マンションなんか、
考えただけでも恐ろしくて・・・」

といっている

私なんか、
人がよく遊びに来る、
下町暮らしなんて、
考えただけでもゾッとする

エバはどういう経歴の人か、
わりと新聞も本もよく読んで、
開明的であるが、
それでも、

「おとなりに二つの男の子がいまして、
若い夫婦だけで暮らしていますので、
遊びに行くときは、
私にお守を押しつけますの
男の子がなついてくれるので、
私、もうかわいくてかわいくて・・・
よそ孫ができた、
いうもんですわ」

と喜んでいた

いったい、
人間というものは、
自分の可愛がっているもののことを、
人さまの前で告白したり、
論評したり、
するものではないのだ

相手は白けはて、
(それがどうした!)
という気になるのだ

長いこと生きてきて、
なんでそれがわからんのか、
二十代の連れ合い自慢、
三、四十代の子供自慢、
五、六十代の財産自慢、
みな同じ、
七十まで生きてきて、
そのへんの機微も見抜けないようでは、
この女もやっぱり、
ボンヤリの一種であろう

ことにトシヨリの孫自慢は、
モウロクが添っているだけに、
よけい見苦しい

まだしも人間は、
人のワルクチをいってる時の方が、
聞く身としては面白い

その人間の度合いが、
ワルクチをいうとき、
露呈するからである

ともかく私ゃ、
人が来るのがいやなんだ

来てくれて嬉しいのは、
服の仮縫いのデザイナーだけ、
三人の息子が来たって、
あまりうれしくない

私の息子たちはみな、
中学高校とむつかしい年頃の、
男の子や女の子を抱えている

来ていい話を聞かせてくれたことなど、
ないのだ

試験にすべった、
成績が落ちた、
兄弟仲が悪い、
学校ぎらい、

「おばあちゃんに預けるよって、
よういい聞かせてくれへんか」

などなど、
私ゃ数年前まで働きに働いて、
浮世のご奉公は終わっているんだよ!

なんでデキの悪い孫どもの、
尻ぬぐいまでしなきゃいけないのだ

私にいわせれば、
総体に嫁たちの子育てが、
間違っている

過保護にしすぎ
牛と子供の尻はどつき倒せばいいのに、
宿題があるからといって、
家の手伝いもさせず、
若さまではあるまいし、
ハレモノにさわるように、
奉っているから増長するのだ

子供なんて宝ではないのだ

誰や?
子供は天使とか神の子だなんて、
いうのは

子供は「不良の素」「非行の素」
なのだ

「味の素」ではないが、
子供というのは元来、
不良の芽、非行の芽、悪の芽を、
持っているのだ

そいつが充分な滋養を与えられると、
ワーッと芽を出し、葉をひろげ、
ふき上がって悪の花、
非行の花を咲かせるのだ

そいつを小さいうちから摘み取り、
激しく見守り、矯正し、
やっとどうにか一人前の人間になるのだ

「そういう考えは、
ドイツ方式やな、
そういうたらおばあちゃんは、
きびしかったからな、
かわいがってもろた記憶ないな」

とズケズケいいの次男はぬかすが、
何をいうてんねん、
きびしく当たるのは、
愛の裏返しやないか

「子供いうもんは、
ほっといても可愛いもんやからね、
皮膚はすべすべして桃色やし、
顔は可愛いし、声もかわいい
それで可愛らしい声でしゃべると、
よけいメタメタとなる、
そこを腹ひっくくって、
ビシッときびしいしつける、
これはなまなかの愛では、
できんことなんや」

きびしくしつけ、
手に職を持たせた方がまし、
下らぬ知識をつめこんだって、
クソの役にも立たないのは、
私の長男を見たってわかるのだ

亡夫の遺した会社を守り立てたのは、
大学を出た長男より、
無学な番頭の方だった

私も古い時代の女学校しか、
出ていないが長男よりは、
肝っ玉があり、
世間智があった

ましてこの頃みたいに、
大学行きが多くなったら、
値打ちも下ろうというもの、
麻雀と酒と女をおぼえるだけの、
大学なんかやらなくていい

それはともかく、
私はエバとちがって、
人が来るのはうるさくて仕方ない






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1、姥ざかり ⑤

2025年01月28日 08時41分10秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・法事は、
近所の仕出し屋でとったりして、
どうやらすませたのであるが、

「世間の年よりは、
法事を楽しみにする」

というのがまた気にくわない

たのしみにしない年よりもいるのだ

それからして、
お茶をならう、
わび、さび、などというのもきらい

お花は四季の花を、
玄関や床の間に飾れるから、
習っているが、
お茶なんかはしんきくさい、
わびさびといわれても、
カビの種類ぐらいの気がする

向かいのビルの医者へ行った

定期的に血圧をはかってもらっている

ここの医者は親子でやっていて、
曜日によって、
老先生だったり若先生だったりする

私は何か病気をしたとき、
診てもらうのは、
老先生のいるときにする

頼りにならない若僧なんか、
アテにならない

しかし血圧を計るぐらいなら、
若僧でも間に合うであろうと、
若先生のいる日にいってみた

若先生はさわやかな男前である

「大丈夫ですよ、
おばあちゃん」

と大川橋蔵みたいな若先生がいうと、
「おばあちゃん」も、
不快にひびかない

大川橋蔵先生は、
やさしい口調で、

「おばあちゃんは、
一人暮らしやそうやから、
気をつけなあかんよ
ちょっとでも具合悪うなったら、
すぐ来てくださいよ
電話でもええ

ウチは往診せえへんのやけど、
年よりの一人暮らしは別や

市役所からの連絡は来ますか?

交番のおまわりさんとも、
心安うなっとくほうがええね」

などと、
脈をとりながらいってくれる

この先生にいたわられるのは、
気持ちがいいので、
私も反発せず、

「はい・・・はい・・・」

とにこにこしてうなずく

「子供がねえ、
たくさんいますのに、
誰も寄りついてくれないんです・・・
先生」

と私は知らず知らず、
辛そうな声をふりしぼり、
大川橋蔵先生はうなずいて、

「今日びはみな、
忙しいからねえ・・・
しかしみな心の底では、
おばあちゃん心配してはりますよ
気にかけてくれはりますよ」

と慰めてくれる

「大丈夫ですよ、
おばあちゃん、
あんたどこも悪くないから、
いつまでも元気でいられる
年にしては達者ですよ」

人のいい先生は、
けんめいに私を力づけてくれる

当り前や、
達者すぎるくらいや、私は

そのあと西宮へ出て、
駅前の天ぷら屋で、
天どん定食を食べる

上と並があり、
何を迷うことあろう、
上をとって大ぶりの車海老、
かるやかにパッと揚がったのが、
熱いごはんの上にのっている

タレも申し分なく、
たっぷりの漬物と、
おすましのおつゆで、
満足してひと粒のごはんも残さず、
食べた

めでたい限りの食欲、
いつまでこうしておいしいごはんを、
頂けるやら、
先の短い私にこそ、
「上」の定食を食べる資格があるのだ

先の長い孫たちや、
息子や息子の嫁なんかは、
インスタントや「並」でいいのだ

おなかへご馳走が入って、
足どりにも力が出、
そこからバスに乗って山手の、
画塾へ行く

タクシーに乗るのは、
無用の費えである

私は贅沢はしても、
浪費はしない

バスはちゃんとタクシーと同じように、
体を運んでくれる

絵が好きなので、
友人や先生と絵を描いていると、
全くこの上ない気晴らし、
手を動かすということは、
つれづれが慰められていいものである

先生は六十くらいの男性で、
少し浮世ばなれた人で、
絵にしか関心のない人である

だから私のトシにも関係なく、
うまく描けると、
夢中でほめるし、
下手だとわき目もふらず、
指導してくれるのである

画塾からまたバスで町へ戻り、
長男の家へ寄った

嫁一人が留守番をしていて、
茶の間のテレビがついている

「今まで大掃除して、
庭の手入れもして、
やっとホッとして坐ったところ・・・」

と嫁は弁解がましくいい、
私にお茶を汲んで出す

「おや、
あんたとこも、
このドラマ見てるの?」

それは嫁姑の闘争ドラマで、
姑が新時代の嫁にいつも、
いい負かされ悔し涙をのみこむ筋で、
ドラマの中では姑はむしろ、
儲け役になっている

見る人の同情は姑に、
あつまるからである

「私ゃ、
こんなジメジメしたドラマ、
腹が立ってきらいやな」

「ええ、
私もきらいですわ
きらいなもん見たさに、
つい見るけれども」

と嫁がいい、
珍しく意見が合う

尤も私がきらいというのは、
いつも悔し涙をのみこんでいる、
姑がふがいないからである

見るともなく二人でテレビを見ていると、
とつぜん電灯が消え、
昔風な家だから採光が不十分で、
昼間なのにひどく暗い

「おや、停電かしらね」

「あ、ヒューズがとんだんですわ
この頃よくとぶんです
・・・さあ困った、
どうしようかしら」

嫁は周章狼狽というていである

「今日はパパも男の子も帰りが遅いし、
電気屋さんはすぐ来てくれないし・・・」

といいながら、
電話をかけようとする

「ちょいと、
電気屋さんへかけるの?」

「はい」

「ヒューズぐらい、
よう修繕せんの?治子さん」

「電気なんか、
こわいやありませんか」

「何をアホなことをいう
道具持って来なさい、
脚立ももっといで」

私は老眼鏡をかけて、
よっこらしょと立ち上がり、
懐中電灯を下から嫁に照らさせて、
こちょこちょと触い、
しばらくしてパッと電灯をつけさせた

一人暮らしは、
こういうことにも強くならないと、
人をあてにしてはやっていけない

嫁は面目を失った顔で、

「お母さんは電気に強いんですねえ
メカにも強いですか?
私のカメラにフィルム入れて頂けます?」

「どんなカメラやのん?
持っといで」

嫁の出したのは、
ごく普通のワンタッチカメラである

私は前のフィルムを抜き取って、
新しいフィルムを入れ、
何気ないさまでつぶやく

「カメラにフィルムも入れられなくて、
よく子供が生めたもんだ」

「え?何かおっしゃいました?」

といい、
嫁は嫁で、

「ほんまに、
けったいな婆さんやわ」

とごちているようである

「え?何かいうたか?」

「いいえ、ほほほ・・・」

ふふふ、と私たちは、
仲良く茶をすすりあい向き合っている






          


(了)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1、姥ざかり ④

2025年01月27日 09時13分20秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・私の若いころは、
きびしく育てられた

母親の叱言は雨あられと降り、
ボヤボヤしていると、
親父の煙管さえ飛んできた

「女の子は気を利かせて!
名を呼ばれたら、
返事より先に腰をあげる!」

とスパルタ教育をされた

しかしこの頃の女の子ときたら、
まあ、腰の重いこと、
返事はすれど姿は見えず、
横着にも声だけ張って返事する

すべて母親、
つまり嫁の世代がわるい

なんでああも子供を、
大事にするのかねえ

尻が重いわりに口が軽く、
へりくつ百万ダラ、
いやだいやだ、
あんな孫とは共に住めない

淋しいどころかいな

こっちが願い下げだ

なんでこうも、
この頃の若い者は、
こうも可愛げがなくなったのかしら、
孫たちはかげで、

(シブチン婆)

と呼んでいるらしいけど、
私よりは嫁の実家のおばあちゃんの方に、
親身な身内感覚を持っているらしい

そんな奴らに、
お年玉だって弾めるもんか

全く、
この頃の若い者って、
波長が合わない

竹下夫人のところへ、
縁談のことで電話したら、

「先方さんのお嬢さんも、
おつき合いしてみたいので、
お願いします、
ということでした」

との吉報であった

やれやれ、
橋渡し役の私は肩の荷が下りた

「それならあとは、
ご本人同士で話し合って頂いたら、
ええでしょう」

と私がいったら、

「いいえ、何ですか、
本人同士というのは遠慮があって、
双方の意見を調整できにくいそうなので、
やっぱりここは間に人を立てて・・・」

「そんなことをしていると、
よけいややこしくなりますわ
あとは本人に恋愛してもろたら、
ええやありませんか」

「でもそれでは、
放縦になってもいけませんし、
それぞれ親御さんもご家庭も、
うしろにあることですから」

何さまのご大身と思っているのだ、
たかがサラリーマンの息子と娘で、
恋愛もでけへんのかいな、

「でも、今どき珍しい、
おくゆかしい方々やありませんか、
親御さんのご意見を聞いて、
それで態度を決めたい、
とおっしゃるのですわ

まあ私、感激いたしました
今日びこんな親孝行な方が、
いらっしゃるんですのよ」

と竹下夫人はいうが、
私は感激できない

頼りない若者だ、
自分で決められないのか、
それにどっちみち、
先々では嫁さんの尻に敷かれ、
親を抛るようになるのだ

そういったら竹下夫人は、
誤解したのか、

「まあ、ご苦労はようくわかります
奥さんの・・・
でもいずれはきっと息子さんも、
目がさめて親御さんのことを、
思い出されるときが来ますよ
それまでの辛抱ですわ」

と涙ぐんだ声になった

男は嫁さんの尻に敷かれる、
といったのが、
私の息子たちへの概嘆と取られたのか、
なんてまあ、早とちり

私は息子たちに、
目をさましてほしくない

別に私のことを、
思い出してくれなくともよい

私は私の持ってる財産を、
目の黒いうちは息子らに、
分ける気はなく、
じっと持ってるつもりだから、
思い出してもらっては困るのだ

「奥さん、
前々からおすすめしていますけど、
天地生成会へいっぺん、
おまいりなさいませ
現神さまを拝みますと、
心が晴れ晴れして、
そういう悩みごともなくなりますのよ」

と竹下夫人はすすめ、

「奥さんぐらいのお年の方多いです
お連れもできますわ」

「気の毒に、
ええ年してまだ神信心せな、
救われへんのやったら、
それまで何をして過ごしたんでしょ、
ちゃんとした人間なら、
これぐらいの年になったら、
それなりに性根も固まってるはずです」

宗教を信じてる人には、
水準よりかなりキツイことを、
いってやるのがコツである
そうでないとこたえない

私は、
自分自身が教祖のようなもの、
と思っているから、
あほらしくて何を信じる気も起らない

亡夫の十七回忌だって、
お寺さんにいわれなければ、
忘れていた

「うるさいわねえ、
面倒やねえ、
どうでも法事はせな、
いかんもんかしら、ねえ」

と息子たちにいって、

「おばあちゃん、
何をいうてんねん
自分の連れ合いやないかいな」

と長男にたしなめられた

「しかし、
私ゃほとけさんなんか、
信じてへんのや
来世も信じてへん
地獄極楽なんか、
あるとは思えてえへん」

「そら僕も信じてへんけど、
この際そんなこと、
いうてられへんのとちゃうか」

と長男はあやふやな表情である

「信じてへんのに、
何もすることないやろ、
どうせあんたらとこも、
喜んで来るもん一人も居らへん、
義務でくるのや
誰も喜ぶもん居らへんの、
わかってるのに強行する、
いうのは理に合わんこっちゃ

喜ぶの坊さんだけや
金つつんで拝んでもろといたら、
それでええやろ」

「ま、しかし、
そないいうたら、
ミもフタもないわなあ」

長男は嘆息し、
次男は苦り切って、

「おばあちゃん、
世間の年よりはみな、
法事楽しみにやりはんねんで
ちとそういう、
しおらしい気持ち、
持てまへんか」

といった

息子らは、
あとで三人寄り集まり、

「どや、お袋、
ごついこと、いうで」

息子の嫁たちは、
これまた三人集まって、

「やっぱり何ですわね、
一人でおいとくと、
気性も烈しいなりますわね
角がますますキツクなるみたい
どこかのおうちと、
同居しはった方がええのん違います」

「でも同居したぐらいで、
あのキツイのがおさまるかしら
ますますキツクなるのと、
ちがいますか」

などといっていた






          


(次回へ)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする