(今朝のソメイヨシノ)
・紫の上は、
あの大病以来、
からだがたいそう弱った。
どこが悪いというのではなく、
衰弱してゆき、
病がちな年月を重ねて、
今は触れれば消えそうな、
あえかなさまになっていた。
源氏の心痛は限りもない。
紫の上に死なれて、
あとへ残ることなど、
出来ようとは思えない。
紫の上は、
この世に思い残すことはなかった。
後世のために、
紫の上は出家して、
命ある少しの間だけでも、
仏道修行に励みたいと思った。
しかし、
源氏はどうしても許さない。
「出家してしまえば、
この世のことはすべて、
捨てなければならない。
そうなれば、
あなたの看病も出来なくなる」
紫の上は、
ここ長年、
自分の発願として、
人々に法華経千部を、
書かせていた。
それを供養することにした。
二條の邸は、
自分の邸のように思われるので、
そこで行うことにした。
法会をつとめる僧たちの衣服、
儀式のすべてを、
紫の上は準備した。
楽人や舞人は、
夕霧が世話をした。
花散里や明石の上も、
この法会に出席した。
三月十日のこと。
花盛りのもと、
多くの僧たちが行道しつつ、
法華経をほめたたえる歌を歌う。
紫の上は、
明石の上に、
三の宮を、
(明石の中宮のお生みになった皇子)
お使いにしてこういった。
「この法会が、
私の最後の法会かと思いますと、
悲しくも思われます」
と、それとなく、
明石の上に別れを告げた。
「いいえ、御法が、
いつまでもつづくように、
あなたのご寿命も末長いことを、
信じております」
明石の上からの返事には、
そうあった。
夜もすがら読経に合わせる、
鼓の音が絶えず、
趣深い。
ほのぼのと明けてゆく空、
霞のあいだに花は咲きこぼれ、
鳥はさえずり始める。
終りの楽は華やかであった。
(この楽の音、
あの人の舞い、
この方の笛、
今日が聞き納め、
見納めであろう・・・)
そう思うと紫の上は、
すべての人々がなつかしく、
好もしく慕わしかった。
明石の上や花散里とも、
もう会えないと思うと、
たまらなくなる。
(明石の上に、
嫉妬したこともあった。
可愛い姫を、
あの方の手から取り上げて、
私は嬉しかったけれど、
あの方に心からすまないと、
思ったこともあった。
長い年月のつき合いに、
いつしか心とけて、
むつまじくなった。
不思議な縁で結ばれた人々、
さようなら・・・
わたくしはひと足先に、
旅立ちます)
法会が終わり、
それぞれ帰ろうとする人たちに、
紫の上はこれが最後の別れ、
のように思われ、
花散里にことずけた。
「尊き御法をご縁に、
あなたさまとは、
またあの世でもお目にかかり、
仲良くいたしましょう」
花散里は、
「私こそ、
末短い身でございますが、
あなたさまとのご縁は、
絶えますまい」
と返した。
夏になると、
紫の上はしのぎかねて、
絶え入るようになった。
容態が思わしくないので、
明石の中宮は二條の邸に、
里下りされた。
中宮にお目にかかるのは、
久しぶりで話が積もっていた。
こまやかに話していると、
源氏が入ってきて、
「お二人でお話になっていて、
私は仲間はずれだね。
あちらへ行って休むことにする」
と自分の居間へ行った。
紫の上が、
起き上がっているのを見て、
嬉しそうであった。
中宮は、
里下りのあいだは、
東の対がお居間になるはず、
その準備がしてあるが、
紫の上のそばをお離れにならない。
「別々にいますと、
お母さまが心配ですし、
あちらへお越し頂くのも、
勿体なくて」
とそのまま寝殿にいられる。
そこへ、母君の明石の上も来て、
心づかい深い話を交わす。
中宮が連れていらした、
幼い宮たちを拝見して、
「宮さまたちの、
大きくおなり遊ばすのを、
見られないのが残念で・・・」
と涙ぐんだ。
清らかにやせた面輪が美しく、
中宮もお泣きになって、
「どうしてそう、
心細いことばかりおっしゃいます。
そのうちきっとよくおなりになるに、
違いありません」
と力づけられる。
紫の上はほほえんで、
「長いこと私に仕えてくれた、
人々の中でも、
頼るところのない、
あわれな身の上の人など、
わたくしがいなくなっても、
お心にかけてやって下さいまし」
などと中宮に申し上げる。
(次回へ)