むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

36、御法(みのり) ①

2024年03月30日 08時08分23秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳





(今朝のソメイヨシノ)







・紫の上は、
あの大病以来、
からだがたいそう弱った。

どこが悪いというのではなく、
衰弱してゆき、
病がちな年月を重ねて、
今は触れれば消えそうな、
あえかなさまになっていた。

源氏の心痛は限りもない。

紫の上に死なれて、
あとへ残ることなど、
出来ようとは思えない。

紫の上は、
この世に思い残すことはなかった。

後世のために、
紫の上は出家して、
命ある少しの間だけでも、
仏道修行に励みたいと思った。

しかし、
源氏はどうしても許さない。

「出家してしまえば、
この世のことはすべて、
捨てなければならない。
そうなれば、
あなたの看病も出来なくなる」

紫の上は、
ここ長年、
自分の発願として、
人々に法華経千部を、
書かせていた。

それを供養することにした。

二條の邸は、
自分の邸のように思われるので、
そこで行うことにした。

法会をつとめる僧たちの衣服、
儀式のすべてを、
紫の上は準備した。

楽人や舞人は、
夕霧が世話をした。

花散里や明石の上も、
この法会に出席した。

三月十日のこと。

花盛りのもと、
多くの僧たちが行道しつつ、
法華経をほめたたえる歌を歌う。

紫の上は、
明石の上に、
三の宮を、
(明石の中宮のお生みになった皇子)
お使いにしてこういった。

「この法会が、
私の最後の法会かと思いますと、
悲しくも思われます」

と、それとなく、
明石の上に別れを告げた。

「いいえ、御法が、
いつまでもつづくように、
あなたのご寿命も末長いことを、
信じております」

明石の上からの返事には、
そうあった。

夜もすがら読経に合わせる、
鼓の音が絶えず、
趣深い。

ほのぼのと明けてゆく空、
霞のあいだに花は咲きこぼれ、
鳥はさえずり始める。

終りの楽は華やかであった。

(この楽の音、
あの人の舞い、
この方の笛、
今日が聞き納め、
見納めであろう・・・)

そう思うと紫の上は、
すべての人々がなつかしく、
好もしく慕わしかった。

明石の上や花散里とも、
もう会えないと思うと、
たまらなくなる。

(明石の上に、
嫉妬したこともあった。
可愛い姫を、
あの方の手から取り上げて、
私は嬉しかったけれど、
あの方に心からすまないと、
思ったこともあった。
長い年月のつき合いに、
いつしか心とけて、
むつまじくなった。
不思議な縁で結ばれた人々、
さようなら・・・
わたくしはひと足先に、
旅立ちます)

法会が終わり、
それぞれ帰ろうとする人たちに、
紫の上はこれが最後の別れ、
のように思われ、
花散里にことずけた。

「尊き御法をご縁に、
あなたさまとは、
またあの世でもお目にかかり、
仲良くいたしましょう」

花散里は、

「私こそ、
末短い身でございますが、
あなたさまとのご縁は、
絶えますまい」

と返した。

夏になると、
紫の上はしのぎかねて、
絶え入るようになった。

容態が思わしくないので、
明石の中宮は二條の邸に、
里下りされた。

中宮にお目にかかるのは、
久しぶりで話が積もっていた。

こまやかに話していると、
源氏が入ってきて、

「お二人でお話になっていて、
私は仲間はずれだね。
あちらへ行って休むことにする」

と自分の居間へ行った。

紫の上が、
起き上がっているのを見て、
嬉しそうであった。

中宮は、
里下りのあいだは、
東の対がお居間になるはず、
その準備がしてあるが、
紫の上のそばをお離れにならない。

「別々にいますと、
お母さまが心配ですし、
あちらへお越し頂くのも、
勿体なくて」

とそのまま寝殿にいられる。

そこへ、母君の明石の上も来て、
心づかい深い話を交わす。

中宮が連れていらした、
幼い宮たちを拝見して、

「宮さまたちの、
大きくおなり遊ばすのを、
見られないのが残念で・・・」

と涙ぐんだ。

清らかにやせた面輪が美しく、
中宮もお泣きになって、

「どうしてそう、
心細いことばかりおっしゃいます。
そのうちきっとよくおなりになるに、
違いありません」

と力づけられる。

紫の上はほほえんで、

「長いこと私に仕えてくれた、
人々の中でも、
頼るところのない、
あわれな身の上の人など、
わたくしがいなくなっても、
お心にかけてやって下さいまし」

などと中宮に申し上げる。






          


(次回へ)

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