「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

36、御法 ②

2024年03月31日 08時38分30秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳
36、










・紫の上は、
明石の中宮のお生みになった、
宮たちの中でも、
とりわけ自分が手元でお育てした、
三の宮と女一の宮が可愛かった。

この宮たちのご成長を、
見ずにこの世を去るのは、
名残り惜しい気がされる。

三の宮は今年五つになられる。

紫の上は気分のよい時に、
あたりに人のいないころ、

「わたくしがいなくなりましたら、
宮さまは思いだして下さいますか」

とおたずねすると、

「おばあちゃま、
どこへいらっしゃるの?
ぼくは御所の主上よりも、
中宮さまよりも、
おばあちゃまが大好き。
いらっしゃらなくなったら、
いやだよ」

涙をためていられる。

紫の上は微笑みつつ、

「大きくなられたら、
この二條院にお住みになって、
紅梅と桜は、
花の季節には忘れず、
眺めてお楽しみになってね。
時には花を仏さまにも、
お供え下さいね」

やっと秋になって、
いくらか涼しくなり、
紫の上は少し気分を取り戻した。

中宮はもう、
御所へ帰らなければならなかった。

紫の上は、
お引き止めしたいのであるが、
また主上も待ちかねていらして、
お使いがひまなく来るので、
そうも出来ない。

中宮が紫の上の、
お見舞いに東の対から、
おいでになった。

風が荒々しく吹く夕暮れ。

紫の上は、
前栽の景色を見ようとして、
起き上がって脇息に寄っていた。

源氏がやって来た。

「おお、今日は起きているね。
中宮のお顔を見ると、
気分がよさそうだ」

と嬉しそうにいった。

(ほんの少し気分がよいのを、
ご覧になると、
こんなに喜んで下さる。
もし、わたくしが亡くなったら、
どんなにお嘆きになるかしら)

源氏を置いて逝くのが、
紫の上は悲しかった。

「でももう、
だめです・・・
わたくしね、
萩の花の露を見ています。
ほら、風に乱れて散っていきます。
あんな風に命の露も」

源氏は耐えられなくなり、

「死ぬときはもろとも。
あなたを先立たせて長くは、
生きられない」

「お母さま、
花の露なんて、
さびしいたとえを、
おっしゃらないで下さいまし」

中宮は紫の上にすがって、
泣いていられる。

源氏のもっとも身近な女人たち、
紫の上、明石の中宮、
どちらも劣らぬこよない佳人、
この美しさをそのままに、
みんなで幸福に、
千年も生き長らえることが、
出来たらと思うが、
しかし、花の命を、
取り止めることは出来ぬ。

「どうぞもう、
あちらへおいで下さい。
気分がたいそう苦しくて。
横にならせて頂きます・・・」

紫の上は中宮にいい、
几帳を引き寄せて臥したが、
そのさまがいつもより、
弱々しげなので、

「お母さま、
どうなさいました。
しっかりなすって・・・」

中宮が紫の上の手を取って、
泣く泣くご覧になると、
消えゆく露のように、
紫の上は絶え入った。

臨終と見えたので、
たちまち、祈祷誦経の使者たち、
寺々へ立てられる。

邸内はざわめいた。

以前にもこうして絶え入って、
蘇生したことがあったので、
今度も、
物の怪のしわざではないかと、
夜もすがら祈祷したが、
その甲斐もなく、
夜の明けるのを待たず、
紫の上は亡くなった。

(御所へ帰らないでよかった。
お母さまのご臨終に、
おそばにいられたのだもの)

中宮は涙ながらに、
紫の上との契りの深さを、
あわれに悲しく思われた。

誰も彼も正気でいる者はない。
女房たちは呆然としている。

源氏はまして、
どうしていいかわからない。

乱れる心を鎮めるすべもなく、
夕霧がそばへ来たのを、
几帳のかげに呼んで、

「とうとうこんなことに。
この年来、
あんなに望んでいた出家のこと、
叶えさせずにしまったのが、
いとおしくて。
僧たちはもう帰ったらしいが、
それでも残っている僧に、
この人に仏の功徳を、
授けて頂いて、
暗い冥途のみちの、
光にしてやりたい・・・
髪を下ろすように、
いってくれないか」

そういいつつ、
源氏自身も死んだようになって、
悲嘆にくれ心は破れて、
涙が止まらない。

尤もなことだと、
夕霧は同情した。

夕霧は、
源氏よりもまだしっかりし、
僧たちに指図をした。






          


(次回へ)

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