・朝からしとしとと降りつづく小雨が夜に入ってもやまず、
むし暑い京の町は漆を流したような黒い闇に包まれている。
ある邸の奥の一間、女人の住むあたりに灯が明るい。
身分よき人の老いたる北の方が若い女房たち相手に話をしている。
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・「長いこと生きたというても、
わたくしなぞはうかうかと月日を過ごしたゆえ、
とりたてて物語るようなことはないのですよ。
若い人たちに語って聞かせようにも、
昔のことは忘れてしもうた。
え?それでは、
世にまだ知られぬ歌の一つ二つでもおぼえていぬかと?
ほんに、そういえば、こんな古歌がありました。
おお、それにはまず、その歌を詠んだ人のことから話さねば・・・」
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・今は昔、
京に貧しい若者がおりました。
父母も身寄りもなく、ある人に仕えていたが、
一向に芽も出ず、もしやと主人を変えてみたが、
いつまでたってもはかばかしゅうありませなんだ。
この男の妻もまだ年若く、美しく、
それに心やさしい女で貧しい夫に従って暮らしていましたが、
夫はあれこれ考えて妻に言う。
「生きている限りはもろともにと思っていたあなたと私だが、
こうして日に日に貧しくなってゆくのは、
もしや共にいるのが悪縁なのではあるまいかと思われる。
私たちは別れたほうが幸せになるかもしれない。
私にいつまでもついていてはあなたは幸福になれないかもしれぬ。
別れてそれぞれの道を往ったほうがいいのではなかろうか」
妻は反対しました。
「わたくしはそうは重いませぬ。
前世の報いで貧しさから抜けられないというのであれば、
一緒に飢え死にすればいいじゃありませんか」
それでも夫に泣く泣く説き伏せられて、
ついには泣きながら、
「あなたへの気持ちは変りませぬけれど、
もしかしたらわたくしがついているから、
あなたによい運がまわって来ぬのかもしれません。
お別れしてあなたもどうぞよい運をさがして下さいませ」
夫も、
「あなたのことは決して忘れない」
と誓い、二人は泣く泣く別れました。
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・そののち女は、まだ若く美しかったので、
あるお邸にお仕えすることが出来ました。
女の人柄がまめやかでしっとりして心やさしいので、
主も好もしく思い、召し使っておりますうちに、
その主の妻が亡くなりました。
妻を失った主はその女を妻の座に据え、
家うちのことなども任せるようになりました。
そのうち、主は摂津守になりました。
女はいまは国守の北の方と仰がれる身分になったのです。
ところで夫の方はどうなったでしょう。
これは女とことかわり、
いよいよ落ちぶれて京にいられなくなりました。
摂津の国まで流れてきていやしいしもべとなって、
人に使われておりました。
ところが生まれ素性のよいこの男は、
田作りや畑仕事、木こりなどは出来ぬゆえ、
雇い主はこの男に難波の葦を刈らせにやりました。
折も折、摂津守の一行が北の方を連れて領国へおもむく途中、
難波の浦のあたりに行列を止めて宴を張っていたのです。
守と北の方は女房たちと牛車のうちにあって、
珍しい難波の浦の景色に見とれておりました。
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・広々と見わたす限り一面の葦のそよぐ難波の浦。
夏の汐風は車の簾を吹き上げ、女たちの髪を払います。
浦では葦を刈る下人がたくさん働いていました。
この葦はやがて干されて簾になり、垣根になり、屋根を葺いたり、
燃料とされたりするのです。
北の方が葦刈り男たちを何気なく見ていますと、
その中に一人、どこか上品な都ふうな男がいました。
北の方の胸はとどろき、あやしく騒ぎました。
別れた夫に似ているのです。
辛そうに葦を刈っている姿を見て、
(まあ、なんてことを・・・)
と思うも涙がこぼれるのでしたが、
他人に聞かせられる話ではありません。
強いて涙をかくして、
「あの葦刈男の中のあの一人を呼んで下さい」
と供の者にいいつけます。使いはすぐさま、
「お車でお前をお召しになっているぞ」
と男にいいました。
男はびっくりしてわけがわかりません。
ぼんやりしていますと、使いの者が、
「さっさと早くしないか」
といいますと男は刈った葦を投げ捨て、
鎌を腰にさして車の前にひざまつきます。
北の方は近くでその男を見て、
はっきり昔の夫だと知りました。
それにしてもまあ、何と哀れな姿になったことでしょう。
土に汚れた黒い麻の帷子、
袖もなく膝の上までしかない短いものを着て、
顔にも手足にも土がついて汚げなること限りなしというあり様。
北の方はそれを見て悲しく心ふさぎ、
そばの者に命じて食べ物を与え、酒などふるまいました。
おいしそうに食べる男の姿を見るのはせつないことでした。
そばの女房たちはもとより何も知りませんから、
北の方がなぜこの卑しい下人に情けをかけるのか、
不審がっています。
北の方は弁解するように言うのでした。
「大勢いる葦刈り男たちの中でこの者が、
なぜか由ありげに見えてね・・・
さだめし名あるうちの人だったろうに、
と気の毒に思ったものだから」
そして着ている衣の一枚を脱ぎ、
これをあの男に取らせなさい、と取らせるとき、
紙の端に歌を書きつけたのを添えたのです。
<あしからじと思ひてこそは別れしか などか難波の浦にしも住む>
(お互いに相手によかれと思って別れたものを、
なぜこんな難波にまでさすらっておられるのですか)
男は衣を賜り、いぶかしく思うてよく見ると、
歌が目にとまりました。
そして車の中の北の方を、
昔の妻だと悟ったのです。
その時の男のおどろきと恥ずかしさ、
(消えも入りたい・・・こんな浅ましい姿で)
男は自分の宿世のつたなさを嘆きましたが、
やがて心を取りなおすと、硯を借りて、
歌を書きつけました。
<君なくてあしかりけりと思ふには いとど難波の浦ぞ住み憂き>
(あなたと別れてから私は不幸なことばかり続いて、
とうとうご覧のような身の上になってしまった。
こんな状態でめぐりあってしまった難波は、
何と苦しいいやなところだろう)
北の方はこれを見て、
いよいよ男が哀れでたまりませんでした。
しかし、北の方が顔を上げた時、
男の姿はもう見えませなんだ。
男は車の前から走り去ったのでした。
もはや葦を刈ることもせず、どこかへ隠れ去ってしまったのです。
そののち、男の行方は誰も知らなんだそうな。
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・北の方はその話を誰にも語らず心に秘めていました。
それゆえ、葦刈の歌は世に出ずじまいで、
誰一人知る者はいなかったのです。
でも、北の方は折にふれ、その歌を思い出します。
誰一人知らぬはずの歌を、
なぜわたくしが知っているのか、と聞くのですか?
その北の方はわたくしではないかと?
さあ、どうでしょう?
ほほほ。そうでもあり、そうでもないということにしましょう。
いずれにしても古い世のことですよ。
人の世は人の力で及ばぬ運命というものがある。
でもそれに敗れてうちひしがれてしまうのは、
人間らしくありません。
その男はそんな境遇の中でやさしくもしおらしい歌を返した。
あれこそまことの情けある人なのですよ。
人間の風流というものです。
おお、雨も止んだそうな・・・
風が出たのか前栽の呉竹がかそけく鳴る。
若い女房たちはうっとりと耳を傾け、
それぞれに難波の浦の哀切な巡り合いを思い描くようであった。