
・私の夫の仕事場兼住居は神戸の下町にあった。
湊川神社をさらに西へ行き、ちょっと北へ上がった通りで、
神戸医大の大病院が近くにあるのに、この辺、医院が多い。
家の前を下がると、
(神戸は南の浜側へ行くことを下がるといい、
北の山側へ行くのを上がるという。
「楠公さんの上に住んでいます」というのは、
湊川神社の二階に間借りしていることではなくて、
神社の北側に家があること)
もとの赤線の福原のメーンストリート、柳筋である。
その近くに大きい湊川市場があって、
およそ売ってないものはない。
私は神戸で住む気はなかったのだ。
尼崎に住んでいても、いつかは大阪へ帰ると信じていた。
神戸に住むことに抵抗があって、尼崎に住み続け、
別居結婚をしていたが、めんどくさくなって、神戸へ来た。
とうとう神戸で同居したが、
私はまるで都落ちのような気がした。
神戸というと、港や異人館、元町とハイカラでモダンなところ、
と思っていたのに、下町にはそんな匂いもなく、
夏祭りには、男たちはチヂミのシャツにステテコで参ったりし、
向いの銭湯からパジャマ姿で出てくるおじさんもいたりして、
エキゾチシズムもどこの話かいな?と思わせるのであった。
つまり、神戸の基盤はざっくばらんな庶民文化が根にあって、
それが神戸の風通しのいい気風を作り、
異人館もモダンも、その上に咲いた花といったものなのだ。
神戸は新興の庶民都市なのである。
その分、キメ荒く、豪快なところがあり、
フロンティア精神に富んでいる。
うわべだけのハイカラ都市ではないのだ。
神戸でハイカラで優雅に暮らす夢は破れたが、
この下町は充分面白くて、順応力のある私は、
たちまちなじむことが出来た。
~~~
・新開地・湊川というと、神戸庶民文化の拠点である。
昭和四十年代はじめ、赤線が廃止されて七、八年、
福原はさびれ、新開地もそれに心中立てして火が消えたようになり、
暗いイメージがあった。
私が住むようになった時期から、少しずつ景気がよくなり、
にぎやかになって、三の宮や元町に吸い取られる客を、
呼び戻そうと策が講じられた。
湊川は、センスのいい商店街がつづき、
若い女の子の買い物客もあふれて、見違えるようになった。
その頃は、寄席の神戸松竹座も映画館あった。
私が来たころは、すでに映画も斜陽で何となく暗い感じだったが、
私には好ましかった。
新開地は市電通りをはさんで上と下に分かれるが、
下の方が庶民的であった。
通りをずんずん下がってガスビルの近くまで行くと、
町は暗く、男たちがたむろして不気味なときがあった。
そういう町を私一人で歩いたわけではない。
夫が連れ歩いてくれるのである。
夜はちょいちょい「新開地で飲もか」になった。
ここで飲んでいるのは男ばかりであった。
女が入れないように出来ている。
だからさびれたのだ、ということも出来る。
女が一人で飲みたくなるときが多くなる。
女のストレスが増大するからである。
現代の商売でいちばん大きな穴場は、
女たちの需要や欲求に応ずることなのだ。
これからの金儲けは、
女性を喜ばせないと成立しないのではないか。
これは日本男児には難しい。
伝統的に日本男児は女性への理解力が乏しい。
女を女として見ない。
女は二種類しかないと思っている男が多い。
つまり、母親か、単なる性的対象である。
妻という存在すら思いも及ばず一生を過ごす男が多い。
これは、妻を母親代用にしているのである。
現代の男性は、お袋に可愛がられて育ち、
長じて結婚するときも妻にそれを求める。
妻とお袋は違うのだ、という最低の女性認識さえできない。
無視された妻は、息子を可愛がり、かくて果てしなく悪循環は続く。
この日本にあるのは、大人の男と女の世界ではなく、
お袋と息子の親子の世界がすべての心情を支配している。
女は無視され、バカにされ続けてきたから、
男を観察する余裕があったが、男は男同士が戦うものと思い込み、
女に対する防御を怠っていた。
今、その報復がじわじわと男たちに加えられる。
中年男の正義の味方を標榜する私としては、
まことにお気の毒に堪えないのであるが、
これは長年、蓄積されたしわよせが貯まり貯まって、
ツケとなって回ってきたのであるから、
こんな時代に生まれた身の不運を呪うほかない。
会社でライバルと丁々発止とやり合い、
疲労困憊して家へ帰ると、妻は妻で、
「こんな結婚生活、無意味と思わない?別れましょう」
と切り出し、進退きわまる男たちが増えるのではないか。
真剣に「妻という女」と対決しないといけない。



(次回へ)