「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

22、わが町の歳月 神戸 ②

2022年02月10日 09時17分40秒 | 田辺聖子・エッセー集










・なんで女性評論に及んだかというと、
これからの盛り場、町に活気を呼ぼうとすると、
女性パワーを無視してはあり得ないと思うからである。

つまり、男たちとそっくり同じことを、
女がやるようになっている。

ともかく、動き出した女たちに対して、
社会は後手後手にまわっている。

いま、婦人雑誌にどんな特集があるか知っていますか?

「女が一人で入れる飲み屋」 
ここなら安心などというガイドがある。

女が一人で楽しめる機会や場所を研究提供したら、
もっといろいろな新商売が出来るはず、町が発展するはず、
それでいえば、神戸という町は、
この後、ユニークな発展をするのではないか。

神戸には働く女性が楽しむところが多い。
だいたい、この町は女性的発想が多くて、
女の発言権が強いように思う。

その辺が大阪の古さと違うし、
京都の因習の強さとも違う。

遊び好き、パーティ好き、新しもの好き、
これこそ女性本来の体質にぴったり一致しているのではないか。

それでいうと、昭和四十年代のはじめの新開地は、
全く女の姿を見なかった。

遊郭というものはなくなったものの、
どことなく陰惨な生臭い風が吹く感じの福原から下りていくと、
その近辺だけが灯が明るく、男たちだけがうろつき、
パチンコ屋だけが流行っていた。

安い小料理屋の店があって、安いだけにまずかった。
その安直なる小料理屋はかなり大きかったが、
いつも客で満員であった。

しかし、客は男ばかり。
私が夫と共によく行ったおでん屋もそうで、
女客はいなかった。

このおでん屋はたいそう美味しくて、私は大好きで、
「今夜、おでんを食いに行こう!」と夫がいうと、
夕食を用意してあっても、私は嬉しがって応じた。

高級料亭で、美しいお姐さんたちにお酒を頼み、
長い廊下を伝って持って来られる、それもよさはあるが、
私は「ねぎまとこんにゃく!」などと叫び、
「お酒一本!」というと、ただちに目の前に供せられる、
そして女の子が伝票に「正」の字を書いてゆく、
あの手軽さが好ましい。

つくづく思ったのは、客が男ばかり、という異常さだった。
今にきっと、こういう店にも働く女の子がやってきて、
飲み食いするようになるだろう、と私は思った。

夫は私が神戸に住んでいるのだから、
いっぺんは「アラカワ」などという一流のステーキ屋へ行ってみよう、
と提案すると、生返事でしぶるくせに、「おでん!」というと、
どんぐり目を光らせ「よし、行こう!」と叫ぶ。

そして私も、いつか新開地に骨がらみ魅せられるようになってしまった。


~~~


・神戸のロマンチックな部分を落としては、
神戸の町自体への敬意を欠くと思われるので、
紹介しておきたい。

今は異人館通りなど大混雑であるが、
ブームになる前は北野界隈は静かな住宅街であった。

私は結婚のはじめ、諏訪山の異人館に住んでいた。
夫は異人館で私を釣ったといってよい。

大家族の中へいっぺんにほりこんだらビックリしよるやろ、
だんだん慣らして、という意図があったのかもしれない。

諏訪山は神戸の真上で、家の庭から中突堤が目の下に見え、
夜は沖縄行きの船が灯りをつけて出て行った。

大きい洋館で、古風な鎧扉のある窓は海に向かって開かれ、
裏山に来る小鳥たちは庭に群れた。

晴れた日は淡路島が見え、海も空も手いっぱいにあふれた。
こういう美しい眺めは、むしろ人を退廃させる。

私はこんな異人館に住んでいると、
生きる張りをなくして呆然としてしまった。

こういう幸福は働き盛りの人間が味わうものではなかった。
人生を退役した人が享受すべき幸福だとしみじみ思った。

そこに住みつかなかったのは、
その美しさのせいではなく、実生活に不便だからである。

それだけの眺望をほしいままにするには、
物すごい坂道を登らなければならなかった。
石段なので車も上がれない。

今の神戸の観光名所になっている異人館のほとんどは、
坂の上にあり、車が門前に止る家は少ない。

それから異人館は天井が高いので冬の寒さは大変なものである。
少々の暖房では追いつかない。

一階も二階も広くて、全部の鎧戸を開けているだけで、
一時間はかかってしまう。

外から見るとツタのからまる美しい洋館だが、
実際に暮らすには大変であった。

しかし、私は海の見える洋館が好きで、
女の子向きのロマンチックな小説がたくさん書けた。
神戸は海と山の間が狭いので、それが独特の雰囲気を形作る。

私は生活の便利さの方をとって、下町に住み、
気苦労の多い大家族の中に暮らして、
海の見える洋館を恋しがりながらせっせとラブロマンスを書いた。

もし私があのまま異人館に住んでいたら、
ペンを折っていたに違いない。

小説を書くより自分が主人公になってしまったように、
ムードに酔ってしまう、それを誘うものが神戸にはある。

神戸に観光に来る人たちを見ていると、
ロマンに積極的に参加する弾みが感じられ、
京都や奈良とまた違う雰囲気がある。






          

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