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・私が学校を出たのは昭和二十二年であるが、
それからすぐ、大阪の島の内にある問屋につとめた。
そこに七年いた。
商人の世界には、ある種の愚昧さがある
(たとえば、学問芸術に対する体質的な蔑視や、
自分に理解できないことは徹底的に軽べつする。明快な合理精神)
ことはみとめるから、
一部で美化されているような商人のイメージはとらない。
そういう教養高い実業家の紳士はほんのひとにぎりで、
大阪にむらがっている零細な中小企業の商人は、
やっぱり、しぶちんでこまかくて抜け目なくて、
ハッタリをかまし、冗談ばかりいっている。
いかし、そういうクラスの商人の中で撹拌されているうちに、
私は何ともいえない一種の呼吸みたいな、
大阪の生活感覚を覚え込んだ。
自分自身、大阪生まれの大阪育ちだけれど、
そういう呼吸で触発してもらわないと、
大阪を知らずに過ごしたかもわからない。
若い時に、中小企業の大阪商人の中で、
七年過ごしたということが、
私には決定的な大阪人の精神構造の理解になった。
やっぱり面白いのだ。
その店には、
新しく入ってきた丁稚(でっちというより、大阪弁ではぼんさん)
に一番さきに教えるのが、煙草と冗談の言い方である。
外回りの商人が、
(外交とかセールスとかいわない。
名刺には営業課と刷ってあっても、外回りの若い衆と呼ばれる)
煙草を吸えないと手持ぶさたで話に穴があく、
一つでも多く注文をとるためには、
話に穴があいてはさっぱりワヤで、
穴があかないようにするには、
冗談の一つも言って相手を笑わせなければならない。
いろんなシャレをおぼえ、
商いのかけひきをおぼえ、
「さよか」のとぼけかた、
「よういわんわ」の愛嬌、
「まあひとつ、あんじょう、頼んまっさ」
のあいまいさを身につける。
大阪弁を縦横に駆使し、
そのニュアンスに通暁するころには、
もういっぱしの商売人になっている。
大阪人の精神の根源には大阪弁がある。
大阪の人間は男も女も、
緩急自在に息をつめたり抜いたりして大阪弁で用をたすから、
そして大阪弁そのものが起伏に富んでいて楽しめるから、
駄洒落や機智を楽しむのに適当である。
気の合った友達とおしゃべりすれば楽しいのは、
どの国の人間も同じだが、
それを第三者が聞いても楽しめるのが大阪人の会話だ。
そこがさすがに大阪の土地柄で、
普通の人間の会話が漫才的なのであるから、
漫才師はそういう気難しい客をどう笑わせるかに、
汗を絞らなければならない。
大阪人の発想法というもの、
身のかわしかた、攻め方はみんな大阪弁から来ているので、
その大阪弁は、商売を抜きにして考えられないのだから、
そこに大阪人を解く鍵がありそうである。
相手を傷つけないで、丸く和やかに、
笑わせながら、楽しみながら、
こっちの言い分も通し、相手の顔を立て、
最高のところで手を打とうという精神が大阪弁を作り、
そこからすべてのものの考え方を育ててゆく。
男も女もへんな敬称をつける。
菜っぱでいいのに「お菜さん」
「豆さん」「お大根(だい)」「お日さん」
神社仏閣はみな「さん」づけ、
「天神さん、えべっさん、弁天さん、聖天さん」
いかにも聞こえがやさしくて、
それにおかしいのはあのまどろこしさだ。
「不便」といったらいいのに、
「便利が悪い」とわざわざ長くいう。
「バカ」とひと言ですむところを、
「あほとちがうか」とぼかしていう。
決して断定しないで、
最短距離的に相手を怒らせたりしない。
そのくせ、大阪人は無類のせっかちで、
何でも縮めていうのが癖である。
「おます」「ちがいます」「行きます」などは、
「おま」「ちゃいま」「行きま」ですませる。
「日本橋一丁目」「天神橋筋六丁目」「上本町六丁目」
そんなことを市電の車掌さえいわない。
「日本一」「天六」「上六」ですませてしまう。
冗談と性急の矛盾。
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