「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

1、革命とアリガタバチ ②

2022年06月15日 08時14分41秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私の子供の頃には毎年一回、
町内あげての大掃除があった。

この日は「その筋のお達しにより」区内全戸、
もれなく行われるので、
ウチだけ都合悪い、
と止すことはできない。

すむと区役所から「大掃除済」の紙が配られ、
軒に貼ることになっている。

大掃除は夏に決まっている。

雨天順延になるから、
いつも朝から快晴のカンカン照りである。

各家々では、
大掃除の前日までに、
用具を買いととのえる。

手箒、畳叩き、塵取り、石灰、それにワラジ。
人々は大掃除の日はワラジをはいて活躍するのである。

子供たちは子供用のワラジを買い与えられる。
私たちはこれがうれしくてたまらなかった。

母は私と妹に赤い鼻緒のワラジ、
弟には黒い鼻緒のワラジを買ってくれた。

早朝六時に人々は活動を開始する。

私の家は二十何人の大家族であった。

八十歳の曽祖母、
祖父母に父母、叔父叔母たち、
女中衆(おなごし)さんが二人、
店の男たちがいつも七、八人から十人いた。

写真館だったので、
技師やらその見習いやら、
使い走りやらいた。

私の家にはスタジオもあり、
一般の人も写しにきたが、
一方、会社や工場関係の仕事も多かったようで、
商業写真、工業写真なども扱っていたから、
人手が要ったのかもしれない。

朝ごはんを早く食べ、
どんどんと家具や商売道具を外へ運び始める。

市電は通っていたが馬車は通行禁止ではなかったか。

町内ごとに縄が張られて、
あっちでもこっちでも畳をパンパン叩く音が響き出す。

埃だらけの仏壇や、
あやしいガラクタもみな白日のもとにさらされるが、
どこの家もそうなのだから気にすることはない。

男はちぢみのシャツにステテコ、
あたまに鉢巻をしめ、女はアッパッパ姿、
髪には日本手ぬぐいを姉さんかぶりにし、
みんな素足にワラジ、
これがまことに軽くて足元もよく、
働きやすいのであった。

畳をあげた床板でも、
そのまま歩けるし、
畳一枚を二人で持って、
そのままスタスタと外へ出られる。

畳は町内で決めたところへ持ちだして、
二枚を寄せ合わせ、たてかけて風を通す。

曽祖母は大掃除のあいだ、
向かいの天神さんの境内へ疎開させられている。

祖母が曽祖母の手を曳き、
そろそろと電車道をわたる、
その後ろから女中さんが片わきにゴザを抱え、
片手に弁当を提げて従う。

そうして木かげの涼しいところにゴザを拡げて、
夏座布団など敷いた上へ曽祖母は「やれやれ」とばかり、
坐り込む。

同じようなお家はんが、
そこへ疎開させられてやって来るので、
おしゃべりに花が咲いて、
婆さん連中は退屈しない。

羊羹だの、露のふいた冷たいヤカンの麦茶など運ばれ、
(それぞれの嫁が運んでくるのである)

「あんさん、お一つどうぞお上がりやして」

「へえ、大きに。よばれまほか」

とやりあっているのだ。

祖母は曽祖母をそこへ置くと、
すぐさま家へとって返して大掃除の差配をしていた。

祖父母は、まだ現役であって、
疎開させられるのは引退した人ばかりのようであった。

お昼はどんぶりや握り飯、
三時に西瓜が出る。

立ったまま食べる男衆、
バケツの中に西瓜の皮がどんどんほりこまれる。

しかしそのころは、
もうほとんど掃除も終わりかけている。

夕風の立つまでに家具はしまいこまれてしまう。
モタモタして、夕方までかかると、
人に嗤われると祖母はいましめたものだ。

手際よさを誇り合うところがあった。

床下には石灰が撒かれ、
畳の裏に書かれたチョークの数字や印を見て、
父たちは、「それは奥の六畳、北や」
などと指示する。

その畳は焼けているから、それを南に、
と母たちが口を出すこともある。

そうしてうまくはめこまれると、
男衆はその上をトントンと踏んでならし、
道具を運び込むのであった。

人手が多いので、
子供は手伝うとうよりも、
大人の脇の下をくぐり抜けて足もつれになることが多かった。

飽きると曽祖母のいるところへ行って、
お菓子をもらい、何ということなく、
大掃除の日は楽しいのであった。

やがて町内のゴミの山が一か所にまとめられる。
今でいう粗大ゴミも、市役所の車が来て、
収拾してゆく。

清らかに磨き立てられた家々に灯が入る頃、
向かいの風呂屋へ三々五々人々はいそぐ。

子供は家風呂で洗い立てられ、
浴衣など着せられ、
首筋にアセモよけの天花粉を真っ白にはたかれる。

とっくに曽祖母は連れ帰られていて、
足は立たなくとも口の立つ婆さんであるから、
清掃した家中をじろりと眺めまわし、
気に入らないと文句をいうが、
祖母はそれを、
「へえ、へえ」と聞いているのであった。

こんな、子供のころの、
つまり戦前の大阪の下町の大掃除を思い出したのは、
畳を上げたせいだが、
それにしても日本の家というものは、
人手がないと住めないように出来ている。

あるいは若者向けといおうか。
日本家屋は非力な老人が住むとなると負担が大きい。

もちろん、
非力な老人であれば、
何によらず大変には違いないが、
しかし、
洋風の方が老人には住みやすいのではなかろうか。

板の間にカーペットを敷いておけば、
何年もそのままでいいし、
ベッドを据えれば朝夕、布団のあげおろしで、
体力を消耗することはない。






          


(次回へ)

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