「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

8,姥あきれ ①

2025年03月04日 07時29分10秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・かねて私は、
病気になる人を軽蔑していた

病は気から、で、
気が萎えたり落ち込んだり、
しているとそこへどっと、
病につけこまれる

つけこまれるスキを作らぬよう、
せねばならぬ

いつもりりしく、
雄々しくしていなければならぬ

私は七十六だが、
このお正月があけて七十七になった

私ゃ明治人間、
古いしきたりのほうが好きで、
正月がきて一つトシをとる、
という思想が好きなのである

目も見え、
耳も聞こえ、
脚もすこやかで、
内臓はきれいなもんである

戦前、船場の我が家にいた、
上女中のお政どんは今も時々来るが、

「ご寮人さんは、
お色が白うて美しゅうて、
ほんまにけなるい
一回りのトシ下の私の方が、
日焼けしてまっくろ婆さんや」

という

けなるいというのは、
古い船場言葉というか、
大阪弁で「うらやましい」という意味だが、
今では使う人もなくなってしまった

このお政は、
ウチが親元になり、
久宝寺町の小間物屋の番頭へ、
嫁入らせたが、
戦争で店はあかんようになるわ、
亭主は兵隊に行くわ、
で、在所の河内へ子つれて疎開していた

終戦後、
亭主も復員してきたが、
店はそのまま再興せずじまいだったので、
お政一家も河内に居ついて、
百姓になってしまった

若いときのお政は、
こぎれいな船場の女中衆であったが、
いまは日に焼けて化粧っけもなく、
頑丈な、野太い手足をしている

終戦後の食べ物のないころ、
お政はよく泥のついたままの、
野菜を運んでくれたものである

息子は勤め人になり、
畠の一部を売って家を建て替え、
羽振りも悪くない

安穏な老後であるようだ

尤もこのお政どんは、
もともとい陽気なしっかり者、
たとえ逆境でも、

「ワタエのは、
日焼けというより貧乏焼け、
いうもんでござりますやろ、
家計はいつも赤子(ややこ)の行水、
やりくりにせわしのうて、
やりくり焼けいうもんかも、
しれまへん」

とあはあは笑ってるかもしれない

「赤子の行水」というのは、
「タライで泣いてる」
つまり足らいで泣いてる、
という大阪の古いシャレ、
昔の船場人が面白がって使っていた

そういうところが、
お政のよいところで、
私も好きなところである

お政も病気をした、
というのは聞いたことがない

私が丈夫なのは、
一人で住んでいるせいもあろう

どうしても体を動かさねばならぬ

週一で家政婦に来てもらうが、
毎日の料理は自分でする

その上、
絵の教室、
英会話クラブ、
フランス語のてほどきの塾、
これらは私が教わるほうで、
私が教える習字教室がある

猛烈に忙しいのである

しかしいやいやしている、
仕事ではないから、
忙しさも無理な点がなく、
いそいそと消化してゆけるのである

病気しているヒマがない

長男など、
私に向かってふた言目には、

「おばあちゃんは文句が多すぎる
何でも感謝の心持ちなはれ
何かしてもろたら、
ありがたいこっちゃ、
ああ、すまん、
ああ、結構なこっちゃ、
と何でもありがたいいうて、
手合す心持てまへんか」

というが、
そういうあんたこそ、
文句が多い

いつもありがたいいう心持って、
暮らしているのか、

税務署や競争相手の同業者に、
ああ、ありがたい、
かたじけないと手合せられるか、
考えて見い

「あほなこと
ワシは現役や
現役の修羅場に居るもんが、
税務署あたりに、
ありがたがっていられるかい」

とうそぶく

「そんなら私も一緒や
人間は生きてるかぎり現役や
いちいちありがたがってるような、
人間は性根が坐ってないからや
つまりモウロクして、
曲がったこととまっとうなことの、
区別もつかんいう、
しるしやないか」

「おばあちゃんの根性悪も、
死ぬまでなおらんやろな」

「なおらんで幸せや
私がああありがたいと、
手を合わせるようになったら、
お迎えが近うなってますわいな」

と言い負かしてやった

人間は猛然と人のワルクチが、
いえるようでないといけない


ああ、ありがたい、
と目も鼻もなくありがたがってる、
というのは生命力の希薄な証拠、
ただし私はいまの暮らしに満足して、
幸せなことと思っているが、
しかしこれは私が一生懸命、
働いてきた成果だから、
当たり前のこと、
誰に手を合わせるものでもない






          


(次回へ)

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