
・もはや出立まで時間はない。
未明に都に戻り、
源氏は東宮においとま乞いのご挨拶をする。
入道の宮(藤壺)は、
ご自身の代わりに王命婦を、
東宮お付き添いとしていられるので、
その部屋へ当てて文を托した。
東宮はおん年八歳になられる。
それにつけても、
命婦は禁じられた愛に身を焼き、
心を焦がした昔の源氏の、
あの日、あの夜のありさま、
心まどわれたかつての藤壺の宮の、
お苦しみを思い返さずにはいられなかった。
あの恋さえなければ、
源氏も宮も何の物思いもない世を、
お送りになったろうものを、
と思うと、
その責任の一半は、
自分にもあるように思われて、
命婦は切なく、
悔やまれる。
源氏への東宮の返りごとは、
「いまは申し上げる言葉もございませぬ」
東宮は心細げでいらっしゃいました。
出立までの源氏は、
紫の君と話して過ごした。
旅立ちのならいとして、
まだ夜深いうちに出るのである。
「行ってくる」
源氏は低く言い捨てて、
立ちあがった。
忍びやかに供の者たちは控えている。
まだあたりは暗いが、
空の一角は明るんでいる。
都落ちの一行が明るくなってから、
出てゆくべきではなかった。
須磨まではまず、
京から伏見へ陸路四里ばかりを行く。
伏見から船に乗り継いで、
その日は一日がかりの船旅、
難波は大江の船着場に日暮れ方着く。
そこで一泊して、
翌朝、海路十二理を須磨へ向かう。
源氏は旅なれぬ身に、
心ぼそくも、風趣あることと思った。
ふり返ると、
すでに都は山にへだてられ、
雲にさえぎられて三千里も来たごとく、
遠くに思われた。
都の山や川も恋しかったが、
何より源氏の胸を焦がすのは、
紫の君だった。
源氏の住まいは、
海辺から引き込んだ淋しい山中である。
垣のさま、
茅葺きの屋根、
芦葺きの廊下など、
田舎家めいて源氏の目には珍しい。
近くの所々の、
源氏私有の荘園の管理人を呼んで、
良清が普請の指図をした。
たちまち、
風情ありげな住みかとなった。
(いよいよ、
ここに落ち着くのか・・・
何ヶ月・・・いや何年・・・?)
源氏は呆然として、
夢のような心地になる。



(次回へ)