「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

10、須磨 ⑤

2023年09月18日 08時41分11秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・もはや出立まで時間はない。

未明に都に戻り、
源氏は東宮においとま乞いのご挨拶をする。

入道の宮(藤壺)は、
ご自身の代わりに王命婦を、
東宮お付き添いとしていられるので、
その部屋へ当てて文を托した。

東宮はおん年八歳になられる。

それにつけても、
命婦は禁じられた愛に身を焼き、
心を焦がした昔の源氏の、
あの日、あの夜のありさま、
心まどわれたかつての藤壺の宮の、
お苦しみを思い返さずにはいられなかった。

あの恋さえなければ、
源氏も宮も何の物思いもない世を、
お送りになったろうものを、
と思うと、
その責任の一半は、
自分にもあるように思われて、
命婦は切なく、
悔やまれる。

源氏への東宮の返りごとは、

「いまは申し上げる言葉もございませぬ」

東宮は心細げでいらっしゃいました。

出立までの源氏は、
紫の君と話して過ごした。

旅立ちのならいとして、
まだ夜深いうちに出るのである。

「行ってくる」

源氏は低く言い捨てて、
立ちあがった。

忍びやかに供の者たちは控えている。

まだあたりは暗いが、
空の一角は明るんでいる。

都落ちの一行が明るくなってから、
出てゆくべきではなかった。

須磨まではまず、
京から伏見へ陸路四里ばかりを行く。

伏見から船に乗り継いで、
その日は一日がかりの船旅、
難波は大江の船着場に日暮れ方着く。

そこで一泊して、
翌朝、海路十二理を須磨へ向かう。

源氏は旅なれぬ身に、
心ぼそくも、風趣あることと思った。

ふり返ると、
すでに都は山にへだてられ、
雲にさえぎられて三千里も来たごとく、
遠くに思われた。

都の山や川も恋しかったが、
何より源氏の胸を焦がすのは、
紫の君だった。

源氏の住まいは、
海辺から引き込んだ淋しい山中である。

垣のさま、
茅葺きの屋根、
芦葺きの廊下など、
田舎家めいて源氏の目には珍しい。

近くの所々の、
源氏私有の荘園の管理人を呼んで、
良清が普請の指図をした。

たちまち、
風情ありげな住みかとなった。

(いよいよ、
ここに落ち着くのか・・・
何ヶ月・・・いや何年・・・?)

源氏は呆然として、
夢のような心地になる。






          


(次回へ)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 10、須磨 ④ | トップ | 10、須磨 ⑥ »
最新の画像もっと見る

「新源氏物語」田辺聖子訳」カテゴリの最新記事