マルコ4:3~8、その解き証しの4:14~20に関して、田川建三氏の新約聖書訳と註1(マルコの福音書)から、興味深いところを抜き出しました。まずは新世界訳でのその部分です。
マルコ4:3~8(新世界訳)
3 「聴きなさい。見よ,種まき人が[種を]まきに出かけました。 4 そして,彼がまいていると,幾らか[の種]は道路のわきに落ち,鳥が来てそれを食べてしまいました。 5 また,ほか[の種]は岩地に落ちました。もとよりそこには土があまりなく,土が深くないのですぐにもえ出ました。 6 しかし太陽が昇ると,それは焼かれ,根がないので枯れてしまいました。 7 また,ほか[の種]はいばらの間に落ち,いばらが伸びて来てそれをふさぎ,それは実を生じませんでした。 8 しかし,ほか[の種]はりっぱな土の上に落ち,生え出て大きくなり,実を生じはじめ,三十倍,六十倍,百倍[の実]を結ぶようになりました」。
マルコ4:14~20(新世界訳)
14 「種まき人はみ言葉をまきます。 15 それで,道路のわきにみ言葉がまかれる者とはこういう人たちです。彼らが[それを]聞くとすぐ,サタンがやって来て彼らのうちにまかれたみ言葉を取り去るのです。 16 また同じように,岩地にまかれる者とはこういう人たちです。すなわち,み言葉を聞くとすぐ,彼らは喜んでそれを受け入れます。 17 けれども,自分に根がなく,一時は続きますが,その後み言葉のために患難や迫害が生じると,すぐにつまずいてしまいます。 18 ほかに,いばらの間にまかれる者がいます。これはみ言葉を聞いた者たちですが, 19 この事物の体制の思い煩いや,富の欺きの力,またほかのいろいろなものへの欲望が食い込んで来てみ言葉をふさぎ,それは実らなくなってしまいます。 20 最後に,りっぱな土にまかれた者とは,み言葉を聴き,好意をもってそれを迎え,三十倍,六十倍,百倍の実を結ぶ人たちのことです」。
そして田川氏の註です。
4,5,7節の「もの(=種)」は単数。それに対し8節は複数。これはこの譬話を読む上で要の点であるから(つまり「ほかのすべての種」といった感じ)、日本語では単数複数の区別を表現しにくいので、「ほかの多くのもの」と訳しておいた。つまりこの譬話は、いろんな種がいろんな場所に落ちたが、その中で運良く良い地に落ちた種だけが実を結んだ、などと言っているのではなく、たまたま運悪く変なところに落ちてしまった種も二つ三つないわけではないが、全体としては良い地に落ちて、しっかり実を結ぶのだ、と言っている。(新約聖書訳と註1 p199より)
14節以下段落の終わりまでは、伝承をほぼそのまま記したものであろう。・・・マルコの語彙ではない。他方、もちろんイエス自身が自分でこういう解説をつけ加えることはありえない。そもそもイエスはこの種のアレゴリー的な譬話の利用の仕方はしない。アレゴリー的解釈をイエスの譬話の理解に導入したのは、初期のキリスト教会である。(同 p208より)
15節以下各節でそうだが、「種」が個々の信者の比喩になったかと思うと(道のところに落ちた、石地に蒔かれた、等)信者自身は道やら石地やらで、そこに「言葉」の「種」が蒔かれたり、そうかと思うと、その種から芽を出す植物が信者であったり、比喩の仕方が一定しない。これはいわゆるアレゴリー的解釈の特色というものであって、もともとはそういうアレゴリーとして作られたものではない話を、無理にアレゴリー的に信者の「信仰生活」なるものの比喩に仕立て上げようというのだから、どうしても首尾一貫しないのである。これまた、このアレゴリー的解釈がイエス自身に由来しない理由の一つ。・・・・・譬話そのもの(3~8節)では「良い地」に落ちた種以外は全部単数だが、このアレゴリー的解釈では全部複数になっている。その点もこの解釈と譬話本体の趣旨が大幅にずれる点の一つ。(同 p209より)
聖書そのものに、こんなからくりがあったとは驚きました。
イエスはこの話で、神の創造された自然界の素晴らしさを賛美したのであって、信者たちに実を生み出すように圧力をかけたわけではないんですよ。そんなこと、よく考えれば分かることなのに、組織宗教の教えにだまされちゃってましたよ。こわいこわい。
マルコ4:3~8(新世界訳)
3 「聴きなさい。見よ,種まき人が[種を]まきに出かけました。 4 そして,彼がまいていると,幾らか[の種]は道路のわきに落ち,鳥が来てそれを食べてしまいました。 5 また,ほか[の種]は岩地に落ちました。もとよりそこには土があまりなく,土が深くないのですぐにもえ出ました。 6 しかし太陽が昇ると,それは焼かれ,根がないので枯れてしまいました。 7 また,ほか[の種]はいばらの間に落ち,いばらが伸びて来てそれをふさぎ,それは実を生じませんでした。 8 しかし,ほか[の種]はりっぱな土の上に落ち,生え出て大きくなり,実を生じはじめ,三十倍,六十倍,百倍[の実]を結ぶようになりました」。
マルコ4:14~20(新世界訳)
14 「種まき人はみ言葉をまきます。 15 それで,道路のわきにみ言葉がまかれる者とはこういう人たちです。彼らが[それを]聞くとすぐ,サタンがやって来て彼らのうちにまかれたみ言葉を取り去るのです。 16 また同じように,岩地にまかれる者とはこういう人たちです。すなわち,み言葉を聞くとすぐ,彼らは喜んでそれを受け入れます。 17 けれども,自分に根がなく,一時は続きますが,その後み言葉のために患難や迫害が生じると,すぐにつまずいてしまいます。 18 ほかに,いばらの間にまかれる者がいます。これはみ言葉を聞いた者たちですが, 19 この事物の体制の思い煩いや,富の欺きの力,またほかのいろいろなものへの欲望が食い込んで来てみ言葉をふさぎ,それは実らなくなってしまいます。 20 最後に,りっぱな土にまかれた者とは,み言葉を聴き,好意をもってそれを迎え,三十倍,六十倍,百倍の実を結ぶ人たちのことです」。
そして田川氏の註です。
4,5,7節の「もの(=種)」は単数。それに対し8節は複数。これはこの譬話を読む上で要の点であるから(つまり「ほかのすべての種」といった感じ)、日本語では単数複数の区別を表現しにくいので、「ほかの多くのもの」と訳しておいた。つまりこの譬話は、いろんな種がいろんな場所に落ちたが、その中で運良く良い地に落ちた種だけが実を結んだ、などと言っているのではなく、たまたま運悪く変なところに落ちてしまった種も二つ三つないわけではないが、全体としては良い地に落ちて、しっかり実を結ぶのだ、と言っている。(新約聖書訳と註1 p199より)
14節以下段落の終わりまでは、伝承をほぼそのまま記したものであろう。・・・マルコの語彙ではない。他方、もちろんイエス自身が自分でこういう解説をつけ加えることはありえない。そもそもイエスはこの種のアレゴリー的な譬話の利用の仕方はしない。アレゴリー的解釈をイエスの譬話の理解に導入したのは、初期のキリスト教会である。(同 p208より)
15節以下各節でそうだが、「種」が個々の信者の比喩になったかと思うと(道のところに落ちた、石地に蒔かれた、等)信者自身は道やら石地やらで、そこに「言葉」の「種」が蒔かれたり、そうかと思うと、その種から芽を出す植物が信者であったり、比喩の仕方が一定しない。これはいわゆるアレゴリー的解釈の特色というものであって、もともとはそういうアレゴリーとして作られたものではない話を、無理にアレゴリー的に信者の「信仰生活」なるものの比喩に仕立て上げようというのだから、どうしても首尾一貫しないのである。これまた、このアレゴリー的解釈がイエス自身に由来しない理由の一つ。・・・・・譬話そのもの(3~8節)では「良い地」に落ちた種以外は全部単数だが、このアレゴリー的解釈では全部複数になっている。その点もこの解釈と譬話本体の趣旨が大幅にずれる点の一つ。(同 p209より)
聖書そのものに、こんなからくりがあったとは驚きました。
イエスはこの話で、神の創造された自然界の素晴らしさを賛美したのであって、信者たちに実を生み出すように圧力をかけたわけではないんですよ。そんなこと、よく考えれば分かることなのに、組織宗教の教えにだまされちゃってましたよ。こわいこわい。
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