今日、66年目の8月15日をむかえました。日本が韓国(朝鮮)を併合し、中国北東部に満州国を樹立し、真珠湾攻撃を敢行し、東南アジアにまで戦線を拡大し、最後には本土爆撃と原子爆弾の洗礼を受けて「敗戦」をむかえるまで、結局誰もこの戦争拡大を止められませんでした。アメリカへの宣戦布告に勝ち目があると思った人間は、軍部の中でも少なかったはず。韓国併合や満州国樹立に対しても異論はあったはず。しかし今、歴史の中にそういう異論の痕跡はほとんど残っていません。
アジアの人々から歓迎されない「負の遺産」をつくることが外交的にどれほどマイナスか、圧倒的に物量の違うアメリカに挑むこと自体が無謀であるか。そういうことは冷静に考えればわかることでした。そして、国の進路を決める人たちはおそらくほとんど皆わかっていただろうと思います。
でも日本は、最後にボロボロにあるまでアメリカに挑み、その敗北のトラウマは今も日本政治を大きく決定づけるに至っています。アメリカとの関係において、日本はまだ戦後を終わらせることができていません。
アメリカの「ポチ」としての存在
日本は軍備は持たない、が、アメリカの武力のもと、飼いならされた番犬として生きる。これが、戦後日本外交の基本ルールだったと思います。軍備は持たないことは基本だが、アメリカが望む軍備であればそれは別です。
警察予備隊としてはじまった日本の戦力は、自衛隊となり、今もアメリカの兵器産業の上得意先です。年間何兆円ものお買い物をして上げながら、最近はアジアでの緊急事態に備える兵力として、実際に血を流す貢献も行えと、合同軍事演習や自営の枠を超えた役割を求められています。
自分の国は自分で守るという立場からは、軟弱な腰抜けですが、その持てる力は米ロに次ぐ世界第3位の、自衛というには不釣り合いな国になっています。よその国から見ると、アメリカには飛びかからない従順なシェパードです。本気で向かって来られると、腕でも首でも引きちぎられかねません。
防衛だけでなく、外交でも金融でも貿易でも、どうもスタンスが同じに感じます。強烈なトラウマ!その中でも、戦前に政治を支配していた人たちが、結局いまも日本国内ではのさばっています。国内での、「政治と国民との関係」での構図は変わっていない。
彼らは戦前、明らかに方針を間違った。そして国民に大きな苦痛と損害を与えた。しかし、A級戦犯として処刑されたほんの一部の人を除いて、その責任はほとんど問われることなく、彼らは政治を支配しているように見えます。
「彼ら」が誰なのか、定かには見えません。多くの彼らが、官僚組織はもとより、政治家や商社、マスコミ、鉄などの基幹産業の中に深く入り込んでいたのではないかと思います。「彼ら」の多くは、すでに人生を全うしています。でも「彼ら」は、彼らの理念を叩き込んだ無数の後継者たちを日本社会に放っています。
「彼ら」はアメリカに屈服するという路線変更はした。しかし、そのもとで彼らの利権を守り拡大するという、大きな目的は達成したのです。そして、今度は再び、その権益の維持という大命題のために頑張るのです。
日本国民総懺悔(ざんげ)論の魔法
戦後に「彼ら」の責任を曖昧にした呪文が「日本国民総懺悔」。いや、実際には、この呪文がそんなに効果があったのか知りません。私はその時代にまだ生まれるか生まれないかの頃だったので。でも、「あなたも戦争を賛美し、天皇陛下万歳と叫び、徴兵に応召した若者たちを笑顔で送り出したでしょう。」と言われ、「いいや!」と言える人は、監獄に入れられていた人たちくらいしかいません。
そして、この無意味な戦争が「なぜ引き起こされたのか」、「誰によって引き起こされたのか」、「どうして途中で方針変更ができなかったのか」、そして何より「二度と引き起こされないために何をすべきか」を考えることを止めさせたのです。反天皇制の人たちが、「それはすべて天皇の責任だ!」というのも、同じく思考をやめさせる呪文です。
この手の呪文が、日本ではいろいろな場面で幅を利かせているのではないでしょうか?会社が反社会的なことをやろうとしているとき、それを批判する勢力に「君たちは会社が潰れても構わないのか」と。したがって批判する勢力は「反会社」勢力とされ、意見に耳も貸してもらえません。本当は、会社にとって最も大事な人たちであるのに、最悪の場合は会社を追われます。
同じようなことが、行政機関でも、大学などの研究機関でも、もしかしたらNPOのようなところでもあるのではないでしょうか?批判者の言論封殺がいとも簡単に行われています。
戦争中においては、この呪文は「天皇陛下の御名御而」だったのではと思います。戦争を継続したい者たちは、「これは天皇陛下が命じた戦争だぞ!」と言う恫喝を、方針変更を考えた者たちに浴びせたのです。
いままた「電気が止まるぞ!」の呪文
日本の原子力は、よく太平洋戦争になぞらえて語られます。危険性の面でも、放射性廃棄物のリスクでも、コストという観点でも他の発電お方法に劣る、これだけ「負け」のはっきりしている発電方法なのに、「国策である!」の呪文で推進が続けられてきました。引き返すチャンスは何度もあったのに、その度に強引な呪文の強制が行われたようです。
そして結果として、3月11日の福島第一原発の深刻な事故を引き起こしてしまいました。事故の直接の当事者は東京電力ですが、戦犯はそれだけではありません。まず東芝、日立、三菱という原発メーカー御三家が、原発建設に関わる発注を受け巨額のお金を受け取ってきました。そのお金には「雇用」という名のもとにたくさんの下請、孫請け、ひ孫請け・・などがぶら下がっています。これを利権といいます。
彼らはメーカーとして、少なくとも安全に原発を動かす義務を負っています。運転は事実上、東電から丸投げであるということは公然の事実です。何ごともないときの「お猿の電車」なら東電社員にも動かせますが、トラブル時には東電にはほとんど何もできない。メーカーを呼びつけて「対処せよ!」と言うだけ。対処できなかった彼らは、この事故の拡大の最大の直接的戦犯です。彼らが原発の海外輸出。とんでもない!という話でしょう。
次に原子力安全・保安員。どうしていま彼らがえらそうな顔をして東電に指示出しをしているのでしょう。本当は、この原発の事故発生を未然に防げなかった安全規制と管理システムの責任を問われて、責任者は更迭、組織も機能停止されていなければならないはず。いても、事故の収束には何の役にも立たないことは、すでに誰の目にも明らかになったはずです。
そんな戦犯たちの責任不問のまま、東電救済スキームがつくられ、今回のまったく方針なく無尽蔵にお金を使い、ほとんど効果を出さなかったメーカーたちの対策費はすべて支払われるのだろうと思います。これだけの事故を引き起こして「損害を受けないのか!」と。
今回の呪文は「事故の拡大防止!」「ほっとくと、莫大な海洋汚染を引き起こすよ!」と戦犯の張本人が、恫喝して、したい放題の仕事をしています。そして、原発の存続。当面は定期点検中の原発の再稼動。それに関する呪文は「電力不足!」「企業が海外に拠点を移すぞ!」「日本は空洞化するぞ!それでも良いのか!」と。本当に懲りない人たちです。
電力不足がまったく起こらないこと、さらに10年程度で日本の電気は自然エネルギーに置き換えることも実は可能であること、などなど、次回ブログで展開します。
アジアの人々から歓迎されない「負の遺産」をつくることが外交的にどれほどマイナスか、圧倒的に物量の違うアメリカに挑むこと自体が無謀であるか。そういうことは冷静に考えればわかることでした。そして、国の進路を決める人たちはおそらくほとんど皆わかっていただろうと思います。
でも日本は、最後にボロボロにあるまでアメリカに挑み、その敗北のトラウマは今も日本政治を大きく決定づけるに至っています。アメリカとの関係において、日本はまだ戦後を終わらせることができていません。
アメリカの「ポチ」としての存在
日本は軍備は持たない、が、アメリカの武力のもと、飼いならされた番犬として生きる。これが、戦後日本外交の基本ルールだったと思います。軍備は持たないことは基本だが、アメリカが望む軍備であればそれは別です。
警察予備隊としてはじまった日本の戦力は、自衛隊となり、今もアメリカの兵器産業の上得意先です。年間何兆円ものお買い物をして上げながら、最近はアジアでの緊急事態に備える兵力として、実際に血を流す貢献も行えと、合同軍事演習や自営の枠を超えた役割を求められています。
自分の国は自分で守るという立場からは、軟弱な腰抜けですが、その持てる力は米ロに次ぐ世界第3位の、自衛というには不釣り合いな国になっています。よその国から見ると、アメリカには飛びかからない従順なシェパードです。本気で向かって来られると、腕でも首でも引きちぎられかねません。
防衛だけでなく、外交でも金融でも貿易でも、どうもスタンスが同じに感じます。強烈なトラウマ!その中でも、戦前に政治を支配していた人たちが、結局いまも日本国内ではのさばっています。国内での、「政治と国民との関係」での構図は変わっていない。
彼らは戦前、明らかに方針を間違った。そして国民に大きな苦痛と損害を与えた。しかし、A級戦犯として処刑されたほんの一部の人を除いて、その責任はほとんど問われることなく、彼らは政治を支配しているように見えます。
「彼ら」が誰なのか、定かには見えません。多くの彼らが、官僚組織はもとより、政治家や商社、マスコミ、鉄などの基幹産業の中に深く入り込んでいたのではないかと思います。「彼ら」の多くは、すでに人生を全うしています。でも「彼ら」は、彼らの理念を叩き込んだ無数の後継者たちを日本社会に放っています。
「彼ら」はアメリカに屈服するという路線変更はした。しかし、そのもとで彼らの利権を守り拡大するという、大きな目的は達成したのです。そして、今度は再び、その権益の維持という大命題のために頑張るのです。
日本国民総懺悔(ざんげ)論の魔法
戦後に「彼ら」の責任を曖昧にした呪文が「日本国民総懺悔」。いや、実際には、この呪文がそんなに効果があったのか知りません。私はその時代にまだ生まれるか生まれないかの頃だったので。でも、「あなたも戦争を賛美し、天皇陛下万歳と叫び、徴兵に応召した若者たちを笑顔で送り出したでしょう。」と言われ、「いいや!」と言える人は、監獄に入れられていた人たちくらいしかいません。
そして、この無意味な戦争が「なぜ引き起こされたのか」、「誰によって引き起こされたのか」、「どうして途中で方針変更ができなかったのか」、そして何より「二度と引き起こされないために何をすべきか」を考えることを止めさせたのです。反天皇制の人たちが、「それはすべて天皇の責任だ!」というのも、同じく思考をやめさせる呪文です。
この手の呪文が、日本ではいろいろな場面で幅を利かせているのではないでしょうか?会社が反社会的なことをやろうとしているとき、それを批判する勢力に「君たちは会社が潰れても構わないのか」と。したがって批判する勢力は「反会社」勢力とされ、意見に耳も貸してもらえません。本当は、会社にとって最も大事な人たちであるのに、最悪の場合は会社を追われます。
同じようなことが、行政機関でも、大学などの研究機関でも、もしかしたらNPOのようなところでもあるのではないでしょうか?批判者の言論封殺がいとも簡単に行われています。
戦争中においては、この呪文は「天皇陛下の御名御而」だったのではと思います。戦争を継続したい者たちは、「これは天皇陛下が命じた戦争だぞ!」と言う恫喝を、方針変更を考えた者たちに浴びせたのです。
いままた「電気が止まるぞ!」の呪文
日本の原子力は、よく太平洋戦争になぞらえて語られます。危険性の面でも、放射性廃棄物のリスクでも、コストという観点でも他の発電お方法に劣る、これだけ「負け」のはっきりしている発電方法なのに、「国策である!」の呪文で推進が続けられてきました。引き返すチャンスは何度もあったのに、その度に強引な呪文の強制が行われたようです。
そして結果として、3月11日の福島第一原発の深刻な事故を引き起こしてしまいました。事故の直接の当事者は東京電力ですが、戦犯はそれだけではありません。まず東芝、日立、三菱という原発メーカー御三家が、原発建設に関わる発注を受け巨額のお金を受け取ってきました。そのお金には「雇用」という名のもとにたくさんの下請、孫請け、ひ孫請け・・などがぶら下がっています。これを利権といいます。
彼らはメーカーとして、少なくとも安全に原発を動かす義務を負っています。運転は事実上、東電から丸投げであるということは公然の事実です。何ごともないときの「お猿の電車」なら東電社員にも動かせますが、トラブル時には東電にはほとんど何もできない。メーカーを呼びつけて「対処せよ!」と言うだけ。対処できなかった彼らは、この事故の拡大の最大の直接的戦犯です。彼らが原発の海外輸出。とんでもない!という話でしょう。
次に原子力安全・保安員。どうしていま彼らがえらそうな顔をして東電に指示出しをしているのでしょう。本当は、この原発の事故発生を未然に防げなかった安全規制と管理システムの責任を問われて、責任者は更迭、組織も機能停止されていなければならないはず。いても、事故の収束には何の役にも立たないことは、すでに誰の目にも明らかになったはずです。
そんな戦犯たちの責任不問のまま、東電救済スキームがつくられ、今回のまったく方針なく無尽蔵にお金を使い、ほとんど効果を出さなかったメーカーたちの対策費はすべて支払われるのだろうと思います。これだけの事故を引き起こして「損害を受けないのか!」と。
今回の呪文は「事故の拡大防止!」「ほっとくと、莫大な海洋汚染を引き起こすよ!」と戦犯の張本人が、恫喝して、したい放題の仕事をしています。そして、原発の存続。当面は定期点検中の原発の再稼動。それに関する呪文は「電力不足!」「企業が海外に拠点を移すぞ!」「日本は空洞化するぞ!それでも良いのか!」と。本当に懲りない人たちです。
電力不足がまったく起こらないこと、さらに10年程度で日本の電気は自然エネルギーに置き換えることも実は可能であること、などなど、次回ブログで展開します。
いや。当時はオランダ、イギリス、フランスをはじめとする西欧諸国の植民地でしたから、日本軍は解放軍として当初は歓迎されてましたよ。
圧制に回って、すぐに評判は落ちましたが。
そして、戦後、東南アジア諸国が次々と西欧の植民地から独立した国になったということは、ちゃんと評価すべきでしょう。