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大学を卒業して、トーメン(その後、豊田通商に吸収合併されました)の汎用機械部に就職。
ちょうどその頃、私の配属になった課で、イギリスのサイモン・バロン社の飼料機械の
代理店権を取り、私がその担当に任命されました。
その時、国内販売、メンテナンスで提携したのが、明治機械さんでした。
早速、機械を勉強するために、同社で技術を担当することになった足利工場のNさんと
一緒に、サイモン・バロンのあるイギリスのグロスターへ出張しました。
これが、私にとって、トーメンに入っての初の海外出張でした。
技術のプロだけど英語はまったく話せないNさん(当時38歳)と、英語は話せたけど
機械のことは何も分からない、25歳の私。 まるで弥次さん喜多さんの珍道中でした。
このイギリスでの2週間の研修後、
当時、イギリスからトーメンに常駐していたセールス・エンジニアのキースと三人で、
力を合わせて、
北海道の苫小牧に1号機を、そして青森の八戸では大きなプラントを受注することができ
ました。 懐かしい、サイモン・バロンのペレット・プレス。
そんなNさんが、1985年早々、大阪に転勤することになりました。
そこで、転勤前に、三軒茶屋のわが家にNさんをお招きしました。
当時、わが家では、お招きしたお客様に、
ツノ坊の手料理をご馳走するお代の代りに、このノートに、ひと言、記帳してもらい、
かつ動画も撮影するという独特のシステム(笑)を採用していました。
Nさんのメッセージが、これです。
Nさんの言う通り、「その辺りも、見通して」、「異常とも思える手段を使って」、ツノ坊を
「獲得」しました (笑)
Nさんが転勤になった4か月後、私もトーメンを退職して、磯輪鉄工所に入社したため、
Nさんとは、この日(1985年1月4日)が最後になってしまいました。
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