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3年前に亡くなった虎おじさん(母末弟)。 コロナの真っ只中で、かつ東京だったこともあり、
名古屋の親戚は誰も葬儀に参列できず、その後もお墓参りにも行けていませんでした。
名古屋が大好きだった虎おじさん。そんな叔父と我々のことを考えて、叔母が偲ぶ会を名古屋で
開いてくれました。
母の3人の弟はみな他界して、配偶者である叔母が二人残るだけになり、ずい分寂しくなりました。
名古屋大学の機械工学科を卒業した虎おじさんは、トヨタ自工に入社して、最後は荒川車体
(現在のトヨタ紡織)の役員まで務めましたが、本当は日立に就職したかったそうです。
ただ祖父がトヨタ自販の産業医だったので、
「絶対 トヨタ!」
と言うことで、トヨタに就職。 祖父のつながりで、入社時の保証人がトヨタ生産方式の生みの親
である大野耐一さんでした。
入社式の集合写真を見せてもらいました。
昭和10年生まれだから、昭和30年代初めですが、当時のトヨタの大卒社員は30名くらいで、
その数の少なさに驚きました。
集合写真を見ながら、叔母が、
「ここの父も写ってるの」
と最前列の一人を指差しました。 そうなんです、叔母のお父さんは、トヨタで『人事の神様』と
言われ、副社長まで務め、その後はダイハツの会長になったというものすごい方なんです。
で、私、叔母に、
「でももし虎おじさんが日立に入っていたら、おばさんと結婚することは
無かったってことですね。トヨタに入って、よかったですね」
そんなトヨタ一家ですから、
「車は絶対トヨタ車。トヨタ以外は乗っちゃダメ。
タクシーもトヨタだけ」
私も、
最初のクルマはトヨタのセリカだったけど、その後、トヨタのクルマには乗ったことが
なく、クルマを買う度に、虎おじさんに、
「どうしてトヨタを買わない?」
から始まって、クルマ談義をしたことが懐かしいです。
虎おじさんがトヨタで商用車の開発主査を務めたことは知っていたけど、ハイエースの主査だった
ということは、昨日初めて知りました。
今、『どんがら』というトヨタの86開発の小説を読んでいますが、その中で、
「主査は製品の社長であり、社長は主査の助っ人である」
という言葉が出てくるくらい、トヨタでの開発主査はすべての技術者の憧れのポジションで、
虎おじさんの頃だと開発主査はせいぜい20人くらいだったと記されていました。
「ハイエースは、今でも、会社でたくさんお世話になってます」
と伝えたら、叔母がとっても喜んでくれました。
「ハイエース大好き人間だったから」と、虎おじさんの墓石にはハイエースが刻印されていると
その動画を見せてくれました。 これぞ技術者魂! この話、豊田章男さんに聞かせたい。
私はもうずっとトヨタ車には乗っていないけど、ハイエースはたくさん使っているので、
ちょっと安堵しました。
ホームドクターであるTくんとは年に数回検診でお世話になっていますが、残りの二人の叔母、
従弟とは久しぶり。 こうして再会できたのも、会を開いてくれた叔母、そして虎おじさんのおかげ
です。 本当にわざわざ名古屋で開いてくださり、ありがとうございました。
叔母曰く、
「東京でひとりで暮らしてるから、上京した時はぜひ寄ってください」
はい、必ず、ハイエースが刻印されたお墓参りに出掛けます!
そして、これからもハイエース 愛用するね、虎おじさん!
このところ、頻繁にコメントありがとうございます。
確かに叔父が日立に行ってたら、ハイエースは
どうなったんでしょう?
セリカは後からスライディングルーフに
改造しました。当時からオープンカーが
スキでした。
ラリーをやってたので、ヘッドライトも
補助灯もシビエでした。あ~、楽しかったな~