昨日のブログで、「スマホ脳」という言葉を否定するために、思わず感情的な記事を書いてしまった。
なぜこの言葉に感情的になるのだろうと通勤の路上で考えてみた。
おそらく、ロジックで否定しながらも感情面では否定しきれていないからだと思う。
実際娘と同じ時間、同じ場所にいながらディスコミニュケーションされているというのはやられる側からすると愉快なものではない。前の記事では、スマホとゲームを挙げたが、このディスコミュニケーションの構造を持っているのは、他にも沢山ある。
我々の記憶に新しいのは携帯である。今でもたまに車内での携帯マナーを呼びかけるアナウンスがあるが、あの携帯が不愉快なのは、時間場所を共有しながら、目の前の人が自分以外の人と別の何かを共有することに対する反発だという説明があり、激しく納得したことがありました。
実際デートなのに、目の前の相手ではなく、SNS上の相手との会話に熱中されて不愉快だったというのはよくある話でしょ。
この手のツールというのは他にも沢山あり、例えばテレビもそうです。大事な話をしてる時に相手がテレビに気を取られていとそれは一瞬で伝わります。うちでは夫婦の会話が始まると家内がスパッとテレビを消します。ここでそのテレビに名残り惜しい表情を浮かべたら、その後の展開が非常に危険なことになるのは、皆さんのご想像の通りです。
余談ですが、うちの父は妹が将来の旦那を挨拶に連れて来た時に、その大切な場で、ラジオのイヤホンを片耳に挿して阪神戦の中継を聞いていたという強者です。
閑話休題(それはさておき)、もう少し古くは本もそういうツールでした。今思うと、自分が激しくいじめられたのは、小さい頃から本好きで、小学校の休み時間に本を読んでいたせいかもしれません。ただ、これは本当にマジで、同級生とのつまらない会話より、書籍を通じた過去の賢人との対話のほうが圧倒的に楽しいのは、単なる事実でした。うちの奥さんも普通にそういうタイプで、本好きというだけで理解できる部分あります。
ディスコミュニケーションツールとしての本を強烈に意識したのは、土門拳の戦後直後の写真で、お昼に貧しくて弁当を持って来れない子供が他の子がお弁当を食べているのをひもじくて見ていられなくて、一生懸命本を読んでいる光景でした。これが本当に土門拳か自信が持てなくて、さっきネット検索かけたら見つからないのです。検索キーワードの選び方がまずいだけかもしれないけど。
と思わず熱く語りましたが、ゲーム脳、スマホ脳という言葉は子供にディスコミュニケーションされて不愉快な親が自分を正当化するために便利使いする言葉ということでどうでしょう?
そして、ある種のサバイバーにはディスコミュニケーションが必要になるシチュエーションがあり、ディスコミュニケーション体験の共有という、一周回って戻って来るみたいな話までしました。
世の中に人の来るこそうるさけれ
とは云うもののお前ではなし
世の中に人の来るこそうれしけれ
とは云うもののお前ではなし
内田百閒が玄関に貼り付けたとかいう名言です。
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