武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

205. 赤い鉄瓶と赤い珈琲挽き Chaleira de ferro vermelho e moedor de café vermelho

2023-06-01 | 独言(ひとりごと)

 赤い鉄瓶を買った。黒いのと二つ並んでいたが黒いのはひと回り小さく、同じ価格なので赤い方を買った。それでも600cc入りと小さい。鉄瓶というより急須程度のサイズだ。でも2人家族なのでこれで丁度良い。

 老人になるとカルシュームやビタミン、鉄分などいろいろと不足気味になる。鉄瓶でお湯を沸かせば少しは鉄分の補給になるのかも知れないと思い、鉄瓶を買った。

 実は以前にセトゥーバル郊外のアトランティックシティ内のインテリアショップで鉄瓶を見ていた。西洋梨をもっと押し潰した様な可愛い形で粉を拭いた緑青色をしていた。1種類だけだが幾つかの在庫があった。店員に値段を聞いてみると20ユーロだという。安いと思ったがその時は買わなかった。

 それから数年が経っているが、未だあるかも知れないと思いたち行ってみた。丹念に探したがその店に鉄瓶はなかった。仏像の頭部や造花の盆栽はあったが、鉄瓶はなかった。

 同じアトランティックシティ内にもう1軒インテリアショップがある。以前は『ボーラ』という名前だったが『フォーマ』と名前が代わっていた。『ボーラ』の時にはキッチンタイマーなど幾つかを買ったことがある。

 名前は『フォーマ』に代わっても店内はほとんど同じでインテリア用品、寝室用具、バスルーム用品、キッチン用品、それにガーデン用品などが迷路のような配置になっている。

 キッチン用品のコーナーでは丹念に目を凝らして探した。キッチン用品の棚の下段に小さい黒い鉄瓶を見つけた。執念で見つけたのだ。赤いのと2種類があった。同じデザインだが、赤い方が一回り大きい。鉄瓶はやはり黒がいい。黒がいいが、同じ値段ならと、かなり考えた挙句、ひと回り大きい赤いのを買った。以前に見ていた20ユーロより更に安い17,99ユーロだった。

 日本でも鉄瓶など滅多に見かけない。それに南部鉄瓶など結構な値段がする筈だ。

 ずっしりと重いのを、持って帰って見てみると日本製でもなく中国製でもなく何とフランス製だ。そういえばフランスを旅行中にショーウインドウで何度か鉄瓶をみた。てっきり日本の南部鉄瓶を輸入したのだと思っていたが、南部鉄瓶を真似たフランス製だったのかもしれない。

 さっそくお湯を沸かしてみた。沸騰させても取っ手も蓋の摘みも熱くならないので使い勝手が良い。なかなか良い買い物をしたものだと満足してぐっすり眠った。

 翌朝、再びお湯を沸かした。よく見てみるとほんの少し縦に亀裂が走っている様だ。外側に1センチ程だが内側には2センチ程が入っていた。これは取り替えてもらう必要がある。

 午後からアトランティックシティに出かけた。『フォーマ』に入り、レジのところで「昨日これを買いましたが、少し亀裂が入っている様なので取り替えて下さい。」と言ってみた。店員は愛想よくその鉄瓶がある場所まで道案内し「箱から出して別のを自由にお選びください」と言った。店内は迷路のように複雑に入り込んでいて、店員は近道を案内してくれたのだ。そして新しい同じ型の鉄瓶を選び持って帰った。

 お湯を沸かすのにも珈琲を淹れるのにも使うことにした。

 赤ではどうかな?と思ったが見れば見るほど気に入り始めている。

 大昔の話だ。1971年。ストックホルムで赤と白のツートンカラーのフォルクスワーゲンマイクロバスを買った。思いっきり古い中古車だった。住んでいた家の近くの路上に『売ります』の張り紙があるクルマであった。売主に電話を掛け中も見せてもらった。「運転してみなさい」というので、助手席に売主を乗せ少し走ってみた。売主はお世辞に「運転が巧いね」と言った。人の良さそうな売主は「私はイタリア人の血も入っているスウェーデン人だが、このクルマには愛着もある。日本車も素晴らしいが、このドイツ車は格別だよ。エンジンも載せ替えたばかりだしね。日本人に買ってもらえるのならこれ以上の幸せはないよ。」とも言った。

これは玩具のミニカーだが、こんな感じ。

 それ以上は深くは考えずに理想のクルマだと飛びついて買った。中にベッドと台所用品を吊り下げる棚を作った。カーテンも付けた。クルマが赤なので棚もカーテンも折り畳み椅子もテーブルも赤にコーディネイトした。

 実はそのクルマに寝泊まりしながらヨーロッパを南下し中東を経由しインドまで行くつもりであった。ソ連がアフガニスタンに侵攻する以前の話だ。イスタンブールでは「一緒にキャラバンを組んでインドまで行かないか」とイギリス人から誘われたこともあった。

 それがヨーロッパももっと見ておきたいという思いからストックホルムに舞い戻ったのだ。

 ストックホルムに住みながら夏休みや冬休みなど、それでヨーロッパ中を4年間で5万キロを走った。

 クルマを買って最初の旅の1972年の春であった。パリのオートキャンピング場に住み、アリアンスフランセーズに通い、毎日帰りには何処かここかの美術館見学をしていた。蚤の市にもよく行った。毎週日曜日に出るヴァンヴの蚤の市は好きな場所であった。そこで赤い珈琲挽きを見つけて買った。赤い車によく似あった。何処にでも駐車し、テーブルと椅子を出し、珈琲挽きでがりがりと珈琲豆を挽きキャンピングガスでお湯を沸かし珈琲を淹れ飲んだ。

 ストックホルムの自宅でも珈琲挽きは活躍した。

 ストックホルムからニューヨークに移住する時に大阪の実家に他の荷物と纏めて珈琲挽きも送った。6年後に実家に帰って見ると母はその珈琲挽きを上手に丁寧に使ってくれていた。

 今は宮崎の自宅にあり、今回の帰国時にも使った。日本で売られている珈琲は粗挽き過ぎてもう少し細かく挽いた方が好みに合う。

 既に50年以上も手元にある赤い珈琲挽きだが、今回、偶然に買った赤い鉄瓶と何だか一緒に使ってみたい気分にもなってきた。でも残念ながら置き場所は、日本の宮崎とポルトガルのセトゥーバルでは遠く離れすぎている。    武本比登志

 

 

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204. パリで道に迷っている夢 Sonhar que está perdido em Paris

2023-01-01 | 独言(ひとりごと)

明けましておめでとうございます。

 パリで道に迷っている夢を見た。

 どこか目的地があってそこに行こうとしているのだが目的地もはっきりとしないし、現在地もはっきりとしない。そして誰かを道案内しようとしている様なのだがその誰かもはっきりとしない。

武本比登志油彩作品F100

 目が覚めてから考えるとパリでは見たことがない場所ばかりで夢の中だけのパリで現実とは違うパリなのだ。

 夢の中では疑いようのないパリなのだが、複雑に入り込んで地図では表すことが出来ない四次元の町並の様だ。デジタル技術で作られたSF映画的なパリと言えるかもしれない。くだらない映画の観すぎなのだろうか。

 やたら幅の広い黒々とした石畳の坂道と、急こう配で滑り落ちそうな階段道だけ。それが縦と横に複雑に絡み合って重くのしかかる。

 そして目覚めるとぐったりと疲れている。そんな同じような夢をこのところ時々見る。

 花の都『パリの空の下』でエディット・ピアフは『ばら色の人生』を歌ったけれど僕の夢のパリには1輪のバラも1片の花びらさえも出てこない。

 でもエディット・ピアフの歌声も決して明るくはない。暗く重い。

 僕の夢のパリは更に暗くさらに重い。

 現実のパリに最初に行ったのは1968年の夏。エディット・ピアフが亡くなってから5年後、ジョルジュ・ルオーが亡くなって10年後、パブロ・ピカソはコート・ダ・ジュールで未だ精力的に制作に励んでいた1968年。大学から美術研修という名目で2週間のヨーロッパ旅行だった。誰もが行くべきところにしか行かない団体旅行なので道に迷いようがない。

 その次は1972年の1月から3月までの3か月間をパリのオートキャンプ場で過ごした。

 ストックホルムでおんぼろのフォルクスワーゲンマイクロバスを買い、何処でも寝られるように簡単な料理も出来る様にと自分で改造をした。

 1971年11月、小雪の舞い始めたストックホルムを出発し凍える冬に、スウェーデン、デンマーク、ドイツ北部、オランダ、ベルギーを網の目の如く、全ての美術館を見逃すことなく2か月をかけてフランスに入った。

 パリで春が来るまで少し落ち着きたいと思ったがパリの住宅事情はそれほど甘くはない。結局、オートキャンプ場でクルマの中での生活を続けざるを得なかった。

 オートキャンプ場からアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)にメトロで通った。オートキャンプ場のクルマの中、蠟燭の明かりの下で宿題などもしたが、全く身につかなかった。でもその後の旅では数字だけでも理解できるようになったからか少しは便利になった様な気もする。

 アリアンスの授業が終わってからの帰りには何処かここかの美術館に寄って帰るのを日課としていた。毎日必ず1軒の美術館。パリには大小の美術館は多い。1972年だからポンピドゥーセンター(1977年開館))もオルセー美術館(1986年開館)も未だ誕生していない時代であったが、その頃にも美術館は多くあった。パリ中をカタツムリの如く良く歩いた。よく歩いたがパリで道に迷ったという記憶はない。

 確かにパリの道は日本の碁盤の目の様な町並ではなく放射状になっているから一つ間違えばとんでもないところに行ってしまう。それでも道に迷ったという記憶はない。

 メトロを上がったところのブーランジェリー(パン屋)で1本のパリジャン(フランスパン)を買い、キャンプ場までの道すがらちぎっては口にした。夕食用に買ったパリジャンがオートキャンプ場に着くころには殆ど食べてしまっていた。旨かったのだ。

 その当時、オートキャンプ場はブローニュの森とヴァンサンヌの森にあった。最初はブローニュの森のオートキャンプ場だったのがお正月に1週間閉鎖をすると言うのでヴァンサンヌに移った。それからはずっとヴァンサンヌで過ごした。そこにはロマの人たちも定住していたし、管理人は何と日本人男性で犬とキャンピングカーで暮らしておられた。

 どちらのオートキャンプ場もシャワーなどもありトークン(専用コイン)を入れるとお湯が出てくる仕組みだが水離れした程度のぬるいお湯しか出なくて温まることは出来なかった。キャンプ場には雪も積もった。それでも今から考えると若かったからか苦にはならなかった。

 その当時パリに住む先輩、今、エディット・ピアフを歌っておられるアータンご夫妻からアラジンの石油ストーブをお借りし、クルマの中で炊いた。あれは有り難かった。

 先日、カタールではサッカーワ-ルドカップが行われ、決勝戦はフランス対アルゼンチンであったのは記憶に新しい。アルゼンチンが先行したがぎりぎりでフランスが追いつき3対3のままPK戦にまでもつれ込み、結局アルゼンチンが優勝を飾ったが決勝戦に相応しい見応えのある良い試合であった。マクロン大統領の興奮気味の応援も印象的であったが、その決勝戦の頃からパリでは暴動が起こっていた。

 クルド人コミュニティを標的とした銃撃事件で3人死亡3人が負傷。それに対する抗議行動が暴動にエスカレートしたものだが、これは夢ではなく現実のパリだ。人種差別か宗教対立かは知らないけれど、そういったことは1970年代よりも今の方が世界中で不穏になっている様に思う。

 1972年頃は人種差別や宗教対立よりも、政治に対する抗議行動で、日本でも学生運動が盛んになり校内にバリケードなどが築かれ休講の日が続いた。その頃のパリも同様で、アリアンスの帰りに、ある美術館に行くのに近道をと思って出た所が機動隊と投石用の石を持った学生たちがにらみ合いをしているちょうど真ん中に出てしまったことがある。慌てて後ずさりしたが、あれもパリであった。

 春になり旅を再開した。ロワールの古城めぐりをし、モンサンミッシェルへも行きフランスを順調に南下する筈であった。モンサンミッシェルを堪能した後田舎道で自炊をした。何かの食材にあたったのかMUZが体調を崩した。田舎町の医者は往診中で留守であった。医者の娘が「アンジェまで行けば大学病院があります」と教えてくれた。必死でクルマを走らせ、アンジェの大学病院に緊急入院した。体調は直ぐに回復したものの、検査で1週間の入院を余儀なくされた。

 アンジェにもオートキャンプ場がある筈だと、看護婦さんに尋ねると「病院の庭に泊ればいいんじゃない。」と言われたのでそのまま病院の庭でクルマの中で寝た。看護婦さんはMUZの入院食を2人前持って来てくれたりもした。入院食と言へど立派なフランス料理であった。その時のカリフラワー入りのクリームシチューの味は今でも忘れられない美味しさだった。

 毎日大勢のインターン生を引き連れて教授の回診があった。その内の1人のインターン医学生とも仲良くなった。楽しい思い出だ。

 その後は、スペインの国境を越えフランコ独裁政権下のスペインを旅した。同じ独裁政権下でスペインよりも更に厳しいと言われていたポルトガルには入国せず、ジブラルタル海峡をフェリーに揺られモロッコまでもクルマで旅した。そして再びストックホルムに舞い戻ったのだ。そんな思い出は1972年の話である。

 更に月日は流れ、1990年からはポルトガルに住んで絵を描いている。そして毎年パリのサロン・ドートンヌとル・サロンに出品して来た。幸いなことに落選をした経験はない。100号の出品作を携えて飛行機でパリに行く。作品を預け、展覧会が始まるまでの1週間を何処かここかフランスの地方を旅し、パリに戻って来てヴェルニサージュ(オープニング)に展覧会場に行き自分の出品作を確認してからポルトガルに戻ると言うサイクルで1991年から2010年までの20年を毎年やってきた。

 地方と言ってもフランス全国でノルマンディであったり、ブルターニュであったり、ロレーヌであったり、ブルゴーニュであったり、イル・ド・フランスであったり、プロヴァンスやコート・ダ・ジュールまでにもたびたび足を延ばした。主に画家たちの足跡を辿る旅とした。それはそれぞれの旅日記として書いたが充実した旅でもあった。(下段にもくじ)

 地方に行けばパリは少しだがやはりパリが拠点となり前後最低2泊はパリのホテルに泊まり、その都度パリの美術館にも必ず行く。ホテルもノードやリオン駅周辺であったり、サン・ミッシェルであったりと様々であったが、数えきれない程パリのホテルには泊まった。

 地方には行かないでパリだけの時もあった。そしてパリはよく歩いた。メトロにも市バスにもRERにも乗ったが、よく歩いた。その頃もパリで道に迷ったと言う記憶はない。

 コロナ禍以来、暫くは帰国をしていないのだが、それまでは毎年日本に帰国し、個展やグループ展に出品してきた。最近ではフランクフルト経由やロンドン経由が多いのだが、以前は必ずパリ経由にし、パリのサロンに出品した作品を預かって頂いていたのだがそれを受け取って帰国するようにしていた。その時にもパリは歩いた。

 夢は何故パリでなければならないのかが判らない。

 ローマでもなく、アテネでもなく、ロンドンでもなく、ストックホルムでもなく、アムステルダムでもなく、ブエノスアイレスでもなく、ニューヨークでもなく、大阪でもない。

 夢の中のパリにはエッフェル塔も凱旋門もオペラ座もサクレクールもグランパレもルーブル宮も出てこないし、セーヌの流れもない。現実のパリではないパリなのだ。夢の中だけで作られたパリ。でも他の都市ではなくはっきりとパリなのだ。それが厄介で疲れる。そして重くのしかかり楽しくはない。

 自分だけなら道に迷おうが何をしようが一向に構わないのだが、案内をしようとしている誰だかわからない人が居られるのでよけい焦り疲れる。

 現実のパリは楽しい筈であった。嫌な思い出などこれっぽっちもない。やはり僕にとっては花の都だ。

 このところサロン・ドートンヌにもル・サロンにも出品していない。長らくパリには行っていない。もう行くことはないのかも知れないが、だからと言って今パリに行きたいと言う願望もそれ程はない。

 僕は大阪で生まれ育ち、大阪以外では東京、ストックホルム、ニューヨーク、宮崎などに住んだ。そして1990年からはセトゥーバルに住んでいる。

 1972年には3か月をパリで過ごしたがオートキャンプ場暮らしだったので、住んだとは言えない。だからと言って今更住んでみたいと言う願望もない。

 2022年最後の夢。『パリで道に迷っている夢』はどう解釈すれば良いのだろうか。

 2023年の初夢は明るい楽しい夢でありますように。宮崎の夢でも良いなと思う。はて、宮崎ならどんな夢になるのだろうか…。

 そして2023年が皆様にとって、私たちにとっても良い年になりますように。

2023年1月1日。武本比登志

 

『ポルトガル発フランスの旅日記もくじ』

オーヴェール・シュル・オワーズ [1992年]

佐伯祐三の足跡を訪ねて [1994年]

ゴッホの足跡をたずねて [1998年]

ゴッホが観た絵 [2000年]

ニース周辺美術館巡り [2002年]

ポンタヴァン旅日記 [2003年]

ナンシー、アールヌーボー紀行 [2004年]

オーヴェル7月最後の20日間 [2004年]

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて [2005年]

イル・ド・フランス旅日記 [2006年]

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記- [2008年]

アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- [2009年]

ヴァイデンを観るために-パリ、ボーヌ、ディジョン旅日記- [2010年]

 

 

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203. ガスの定期検査 Inspeção periódica de gás

2022-12-01 | 独言(ひとりごと)

 『11月21日午前9時からガスの点検を行います。』というメールが11月16日に来た。

武本比登志油彩作品F30

 その1か月前の『10月21日19時からマンションの管理組合会合を行います。』というお知らせメールがあり出席した。そのメールと同様の内容が玄関ホールにも張り出されていた。てっきり8軒の全てが出席するものだろうと思って19時ちょうどに玄関ホールに降りて行った。

 1年ほど前から管理組合を任されているガブリエラさんだけが居られ議題となる書類の点検をしておられた。そして挨拶をした。ガブリエラさんはマリアさん宅とマダレナさん宅のベルを押して、出席を促した。マリアさんなどは部屋着のままで顔を覗かせ「ああ、忘れていたわ」などと呑気なことを言いながら出てきた。マダレナさんもすぐに降りてこられた。そしてガブリエラさんは「きょうは3軒だけですよ」と言い、「議題はガスのことでこのマンションでガスを使っているのは3軒だけで他は電気に換えているので関係ありません。」「ガスの定期点検が実施されます。日時はおってお知らせします。」と言う内容であったが、詳しい説明があって30分ほどで終わった。

 そして11月16日の『11月21日午前9時からガスの点検を行います。』というメールである。確か10年ほど前にも一度ガスの定期点検というのがあって、その時はパイプの一部を交換してもらった記憶がある。だから10年に一度くらいの割合でそういった検査があるのだろう。と言う具合に思っていた。

 ポルトガルでは時々『ガス爆発事故』のニュースがある。ニュース映像ではマンションの窓枠が吹き飛びその恐ろしさが想像できる。

 セトゥーバルでもあった。アレンテージョに向かうセトゥーバルの出口辺りの10階建て程の新しいマンションの上階で国道からクルマを走らせながらでもその凄まじさが見られた。

 だから定期的に専門家の検査は有り難いものだ。でもガス器具の周りと湯沸かし器の周りなどくらいは綺麗に掃除をしておかなくてはなどと思っていた。 

 定期検査がある21日月曜日前日の日曜日になってようやく重い腰を上げ掃除に取り掛かった。普段はあまり掃除をしないものだから、と言うよりいい加減な掃除しかしないものだからやり始めるとなかなか大変である。一部が綺麗になるとそれまでは気にならなかったところが目立ってくる。きりがないほど次から次である。そして換気扇の汚れが目立ってしまった。

 換気扇はステンレス製だからすぐに綺麗にはなるがフィルターを取り替えなければならない。納戸を探したが買い置きは切れ端しかない。 

 掃除もひと段落だし気分転換に買い物に出ることにした。でも日曜日である。『アレグレ』などの駐車場はなかなか空いていないかも知れない。『アトランティックシティ』には2軒の家電量販店があるのでそちらに行くことにした。

 その前に『オウシャン』のガソリンスタンドでガソリンを満タンにしておいても良いかなと思った。

 出かけようとしたところクルマの右前タイヤの空気がかなり減っている。これは『オウシャンGS』までもたないかも知れないと思うほどにまで減っていた。直ぐ近くの『レプソールGS』に寄ろうとしたが日曜日で空気入れは使えなくなっていた。仕方がないので『オウシャンGS』まで恐る恐る走った。

 あまり日曜日に出かけることはないのだが何処も人が多い。『オウシャンGS』ではニュースの通りガソリン価格は少し下がっていた。 

 下がっていたと言ってもこのところの高値である。ガソリンが値上がりしてからは何処へも行かれない。近くの買い物にだけクルマを使う。それでも1か月に1度位は満タンにしなければならない。 

 ユーターンして『アトランティックシティ』の駐車場にクルマを停め、家電量販店に行った。どこもクリスマス商戦でイルミネーションなども華々しく賑わっていて、子供連れも多い。

 換気扇売り場にフィルターはなかった。店員に聞いてみても判らなかった。2軒の量販店とも同様で換気扇本体は売られているのだがその交換フィルターまでは置いていない。今時の換気扇はフィルター方式ではないのかもしれない。掃除機もフィルター方式はなくなってどんどん新しい器具が出てきている。 

 仕方なくショッピングモール『アレグレ』に行った。家電売り場で順番札をとり、聞いてみるとそこにはちゃんと売られていた。5,69ユーロである。普段『アレグレ』に行くといつもの『コンチネンテ』や『リドゥル』とは違う物が売られているのでいろいろと見てみるのだが、あまりに人が多かったので家電売り場だけで早々に引き揚げることにした。

 オミクロンもまだまだ予断は許さないし。 

 帰宅して早速換気扇のフィルターを取り替えた。 これでまあまあ、ガス検査の人が来られても大丈夫だろうと思った。

 このマンションでガスを使っているのは3軒だけと言うのには驚いた。他は早々に電磁調理器に切り替えたのだろうか。

 我が家ではカレーの仕込みにガスを使う。米を炊くのにもガスだ。毎晩風呂にも入るがそれもガスだ。コーヒーを点てるのもガスだし、揚げ物なども良くするがやはりガスだ。

 ポルトガルのガスは数年前からはロシアからの天然ガスに切り替えた。と言っていたからこのウクライナ戦争でロシアからは止まっているのだろう。

 先日ヨーロッパ議会はロシアをテロ国家と認定した。

 今カタールではワールドカップサッカーが行われている。カタールでも天然ガスは豊富に採れるそうであるが、ポルトガルまで来るのだろうか?

 そのカタールで人道問題が明るみになっている。サッカー場建設とその周辺整備に40度を超える暑さと過酷な労働で6500人もの人命が失われ、賃金未払も後を絶たないと言う。

 それでも予定通り11月21日にワールドカップサッカーは開幕した。我々も主な試合は欠かさずに観戦している。勿論、選手たちには関係のない話だが、FIFAにしろ、オリンピック委員会にしろ、運営側の経済優先には問題が多い。

 ポルトガルは大航海時代或いはそれ以前のモーロの時代更にローマ時代から風力や波力利用の伝統があり、現代も風力や太陽光、波力の資源化を推し進めている。

 その電力同様、ガスも化石燃料にばかり頼るのではなく、大量に消費する豚や鶏から出る糞尿を利用しメタンガスなどの実用化が進めば良いのにと思う。

 化石燃料は地球温暖化ばかりでなく経済的にも問題が多い。

 そしてサッカーワールドカップカタール大会開幕と同じ21日月曜日のガス検査当日。

 朝食も済ませ、ガス周りのフライパン類や包丁フォルダなどもテーブルに移動させ、万全の状態で9時を待った。

 前日に見た玄関ホールの張り紙には『検査は9:00から13:00』と書いてあった。随分と幅があるが、我が家が一番上階だから多分最初に検査だろう。と思っていた。

 9時に窓から見るとガス会社『ガスカン』のワゴン車が停まっていた。これは直ぐに来るに違いない。と待ち構えていた。階下では話声などが聞こえる。階下のマリアさん宅から始めたのだろうか?それなら最後になるだろうが、3軒だけなのでそれ程時間はかからないだろう、とガスで点てたコーヒーなどを飲みながら待っていた。

 それでもあまりにも遅いので窓の外を見てみると『ガスカン』のクルマは既になかった。我が家の検査はしないで帰ってしまったのだ。或いは何か忘れ物でもして一旦会社に帰ったのだろうか?それなら13:00までには再び来るのだろう。などと考えていた。

 果たして13:00まで待っても我が家に検査は来なかった。次の日にでも来るのなら再びメールか電話でもしてから来るのだろうと思っていたが次の日もその次の日も来る様子はなかった。

 我が家では1年ほど前にガス湯沸かし器を新しいのに買い替えた。その時に検査は行われていて、それで良いと思って今回の検査は無かったのだろうか。などとも考えた。でもそれならそうとー言いってくれれば良かったのに。などとも考えていた。

 その顛末を今月のエッセイにしようと書き始めて、メールを精査してみると、何と今回の検査は「個別検査ではなく全体の検査で9:00から13:00の間にガスの供給が止まることがありますのでご了承ください。」というメールで各戸には立ち寄らないということになっていた。

 何かがないと掃除もろくにしないのにも困ったものだが、早とちりのお陰で台所が少しは綺麗になったかな? VIT

 

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202. 二つの赤いランプ duas lâmpadas vermelhas

2022-11-01 | 独言(ひとりごと)

 夜中に目が覚めた。と言っても珍しいことではない。毎晩だ。それも何回も。

 その夜もぐっすり眠ったつもりで手探りにスマホの時計を見ると未だ0時45分。

武本比登志油彩作品F30

 風呂から上がったのが9時45分。それから2本目の映画をベッドに入って観る。終わるのがだいたい23時頃。映画を観ながら半ば眠ってしまったりもする。時々目が覚め途中見逃したことに気が付く。

 映画が終わればパソコンをシャットダウンする。そして電源を切る。テレビも電話も連動しているからそれ以後は繋がらない。朝までぐっすりだ。

 ところがそうはならない。何度も目が覚める。目が覚めると取敢えずおトイレに行く。

 おトイレから直接ベッドに戻るのではなく、アトリエを一周し、暗がりの中で描きかけの油彩を眺めてみる。そして台所なども徘徊する。

 冷蔵庫の扉が開いていないか?ガス湯沸かし器の元火がちゃんと消えているか?などを点検する。尤も1年ほど前にガス湯沸かし器は最新式に買い替えて、元火は自動着火方式になったので、それからはガス湯沸かし器の点検はいらない。

 冷蔵庫の扉がほんの少し開いていて光が漏れている場合は真っ暗な台所なのですぐに判る。光が漏れない程度に開いている時もある。だから冷蔵庫の扉を押してみて確認をする。

 台所が真っ暗と言ってもカーテンは閉めないでいるので、外の明りが台所に入り込む。月の光であったり。街灯であったり。お城のライティングであったり。台所より外の方が明るい。

 0時45分に目が覚めたその夜は冷蔵庫を通り越してその先に真っ赤な明りが目に飛び込んできた。洗濯機だ。洗濯機は台所の窓寄り。台所の窓下に洗濯ロープがあるので、洗濯機の定位置なのだろう。我々が住み始める以前からこの場所にあった。洗濯機は2台目だがよく働く。元からあった洗濯機は2度ほど故障して、それから買い替えた。買い替えたのは2005年。

 パリに住む日本人商社マンの知人が「ヨーロッパの家電(家庭用電気器具)は1年しか保ちませんよ。」と言っていた。それは少々極端だが、確かに日本製に比べて寿命は短いのかもしれない。でも我が家ではそんなことはない。

 洗濯機は買い替えてもう17年も使っていることになる。イタリア製の全自動ドラム式洗濯機だ。全自動と言うだけあって見ていると実に面白い。色んな動きをする。速度を変えて回したり、逆に回ったりは当たり前だが、叩き付けたり、ほぐしたり。そして全自動と言うだけあって、いや、全自動の割には操作が簡単ではない。タイマーもある。温度調節もある。そしてウール洗いなどの素材別洗いなどもある。それに念入り洗い、と手抜き洗い。いや違うな。簡単洗い。我が家はいつも簡単洗いだ。勿論、タイマーなどは使ったことはないし、ウール洗いも使わないし、温度も入れない。水道水のまま常温だ。だからたくさんあるダイヤルやスウィッチなどはいつも同じ。

 洗剤を所定の場所に入れスウィッチを押すだけ。と言っても僕は触ったことがない。どうすれば始動するのかが判らない。MUZの専門得意分野だ。

 絵を描いている合間に、時々は洗濯機が働いているのを眺めていたりする。絵のインスピレーションが沸いたりもするのだ。いや、それは口実でさぼりたいだけだ。

 終われば扉を開けることは僕にも出来る。でもこれも難しい。終わったからと言ってすぐには開けられない。ラーメンではないが、2分程待つのだ。2分ほど経てばコトという小さい音がして小さな赤いランプが点滅に変わる。そうすれば扉は開けられる。そして点滅ランプを押して消す。

 洗濯ロープは手前と向こう側に2本ある。手前はMUZでも干せるが、向こう側は遠くてMUZにはなかなか大変そうだ。だから僕が干す。ポルトガルの洗濯ロープは実に便利に出来ている。日本では何故こういったものが普及しないのか不思議だ。

 その夜中だ。小さいスウィッチのランプではなく。大きなランプが2つ点いていた。真っ暗な中に大きな真っ赤な2つのランプ。これは非常事態かと思った。下手に触れば取り返しがつかない事態にもなりかねない。

 僕は海外に出る前のほんの少しの間、ガソリンスタンドでアルバイトをしていたことがある。そのガソリンスタンドで洗濯機が黒焦げになっていたことがある。店長以下従業員全員が青くなった。

 その前は僕は大学に通いながら音楽プロダクションでアートディレクターをしていた。月刊誌の編集レイアウトが主な仕事だったが、コンサートポスターやチラシのデザインをしたり、レコードジャケットを作ったりもしていた。

 いよいよ海外に出る日程が決まってからプロダクションを止め、昼はガソリンスタンドでアルバイトをし、夜は喫茶店のバーテンダーをして渡航費用を稼いだ。

 海外に出てヨーロッパから中東を経由しインドまでクルマに寝泊まりしながらの冒険旅行を考えていた。

 だからクルマの故障にある程度は強くならなければと最初はJAFの助手として働きたいと申し込みをしたが、JAFでは助手は要らない。と断られた。それでガソリンスタンドと言うことになった。ガソリンスタンドでも故障車がやってくるに違いないと思ったが、僕が居た半年ほどの間に故障車は1件もなかった。ガソリンスタンドではプラグを交換したり、オイルチェンジをしたり、パンク修理は毎日いくつかがあって、僕は率先して皆が嫌がるパンク修理をしたがそれも役にはたたなかった。

 ストックホルムで買ったフォルクスワーゲンマイクロバスはおんぼろすぎて、結局、インドには行かずじまい、東欧とモロッコ、トルコを含めたヨーロッパを5万キロ走破したが故障らしい故障もなかった。

 ある朝、ガソリンスタンドに出勤すると洗濯機がまる焦げになっていた。洗濯機はお客様のクルマを拭いたりする雑巾を纏めて洗うためのもので、洗車機とコンクリート塀の隙間に置いてあったが、洗濯機だけが黒焦げになっていた。ガソリンタンクに引火していたら大惨事だ。古い洗濯機でショートでもしたのか、或いは放火か。それは判らない。謎のままだ。店長は穏便に済ませようと本社にも消防にも、警察にも知らせることはしなかった。1971年の話だ。

 MUZが寝る前に洗濯をしておこうと途中までやりかけて忘れてしまったのかもしれない。と僕は一瞬思った。何しろ真っ赤なランプが無言で2つ点灯して、洗濯機の口は少し開いたままだ。でも今までMUZが寝る前に洗濯などしたことは1度もない。

 ぐっすり寝息をたてていたがMUZを起こすしかない。

 お隣のウクライナ人のご家族はよく夜に洗濯物を干している。でもそれは乾季の夏だ。夜の内に干して水分を切り、朝日に充ててからっとさせる。色褪せはしないし合理的だ。でもいつ降りだすとも知れない今の雨季にはありえない。

 MUZは寝入りばなを起こされたのだろう。時間が掛かってようやく台所にやってきた。

 寝る前に洗濯機は触っていないそうだ。それにその場所のランプは点灯したことがない箇所だ。いつも手抜き洗いなので一番下の1個だけ点く。そして2個の赤いランプの消し方が判らない。

 夜中に取扱説明書を読む余裕はない。第一取扱説明書が何処にあるのかを探すのに朝までかかりそうだ。

 寝ぼけている割にはMUZはいいアイデアを絞り出した。コンセントを抜くのだ。

 裏側にあるコンセントを抜いたらようやく赤いランプは消えた。

 再びコンセントを差し込んだが赤いランプは点かなかった。

 次の朝、あまり洗濯物は溜まっていなかったが洗濯をしてみた。

 通常通りの正常運転だ。

 それから何度かの洗濯も正常通りでイタリア製の洗濯機は何も言わない。

 あの夜中の赤いランプは謎のままだ。

 イタリアからポルトガルの辺境の地セトゥーバル迄はるばるやって来て、訳の分からない日本人夫婦の家庭に入り込み、せっせと働き続けて17年。何か言いたいことでもありそうだ。

VIT

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201. シシトウ Pimentos Padrão Picantes

2022-10-01 | 独言(ひとりごと)

 いつの間にかショッピングカートにシシトウが入っている。僕がニンジンを選んでいる間にMUZが入れている。MUZはシシトウが目に付けば必ず買う様だ。好きなのか調理が楽だからか?それは判らない。

武本比登志の油彩作品F30

 シシトウと言えば父を思い出す。時々、父とMUZの食べ物の好みが共通しているのを感じることがある。血は繋がってはいないのにも拘わらず。

 僕はほんの小さな子供の頃、よく母に連れられ商店街に買い物に行った。北田辺商店街は今の100倍も賑わっていた。昭和30年頃の話だ。

 先ず駅の手前に『光商店街』と言うのがあった。狭い露地を挟んで20軒ほどの小さなお店が並んでいた。今では駅前マンションに変わっていて光商店街の跡形もない。

 その光商店街の駅通り側の角に豆腐屋があっていつもそこで豆腐を買っていたが、母との買い物の時には買わない。一旦家に帰って、夕方になり父が勤めから帰ってくる前頃に僕が子供自転車を走らせ1丁のキヌコシ豆腐を買うのだ。「おばちゃん、キヌコシ1丁ちょうだい」と言うと、おばちゃんは「はいはい、おおきにありがとね~」などと言いながら薄板の舟に入れてくれる。そして薄揚げを1枚新聞紙に包んでおまけしてくれるのだ。そのおばちゃんは子供好きらしく子供がお使いに来ると薄揚げ1枚のおまけがつく。母はそれを見越して僕にお使いにやらせるのだ。

 父の好みはキヌコシであった。僕は今ではどっしりの田舎豆腐が好みだが、MUZはどちらかと言うとキヌコシ派で、父に似ている。

 光商店街から駅の踏切を渡り、裏通りに入ると北田辺商店街が線路と並行して南北に長く連なっている。今では近鉄は高架になっているが、当時は地上を走っていた。だから踏切を渡る。

 踏切を渡って、南北の道に入らないでもう少し西に行くと公設市場があった。今ではパチンコ屋になっている。いや、僕が高校生の頃には既にパチンコ屋になっていた。

 南北に走る商店街の終わりにも公設市場があって、その公設市場と公設市場の間に個人商店がひしめきあって賑わっていた。200メートル程もあるだろうか。何軒もの八百屋もあれば肉屋、鶏屋、魚屋、乾物屋、味噌屋、荒物屋、惣菜屋、それに回転焼き、たこ焼き、焼き芋屋など何でもが揃っていた。

 南側の公設市場は今では『味道館』と言う名のスーパーになっているが、公設市場の面影を少し残している。南側の公設市場から細い道を渡ったところにも『新道商店街』というのがあったが、そこまで行くことはなかった。その先に中学で同級生になった八木隆雄という番長の自宅があったがその頃はまだ知らなかった。

 八木隆雄のことを少し書こうと思う。喧嘩はめっぽう強かったが、頑丈な体格に運動神経が抜群で運動会ではがぜん張り切り、なにをやらせても1番であった。明るい朗らかな性格でクラスメイトを大切に思い、弱い者いじめは決してしなかった。そして誰からも好かれていた。野球選手にでもなれば清原か江夏くらいになれたかもしれない。と残念に思う。でも八木隆雄は薬物に手を出すような奴でもなかった。

 中学3年の運動会前夜、八木隆雄から誘われた。新道商店街の裏手にあった郵便局の庭に忍び込むのだ。高い塀を乗り越えると大きな柿の木があった。柿が沢山実っていてそれを袋一杯取る。立派な泥棒だ。でも柿は渋柿だ。八木隆雄はそれを知っていて泥棒したのだ。その渋柿を運動会当日、クラスメイトなどに投げてやる。口に含んで渋い顔をするのを見て楽しむと言った子供っぽいところがあった。僕などは何が面白いのだと思ったが、夜に郵便局に忍び込むスリルも楽しかったのだろう。その後の消息は知らない。

 新道商店街に行くその道は今では広い道に付け替えられ、大阪国際女子マラソンのコースにもなっていて、ゴールの長居競技場まであと少し、選手たちにとってはへとへとの頃で、勝負を賭けて1歩飛び出すか、付いて行かれずに置いて行かれるかと言った瀬戸際のところだ。NHK国際放送を観ていた頃にはポルトガルでも何度か観られて懐かしく思っていた。

 その南北に伸びた商店街の中程に比較的大きな八百屋がある。今でもある。買い物客は当時の100分の1になってしまったが、いまでもある。

 そして子供当時の思い出である。

 シシトウが籠に盛られていた。母は「おっちゃん、そのシシトウ辛い?」などと聞く。八百屋の親父さんは「辛ないで~。甘いで~。」と返事をする。「ほな、あかんわ、うちは辛ないとあかんねん。」「え~。それ早よ言いいな~。お姉ちゃんの為に辛いのん、取ったあるで~。」と言いながら台の下から別の籠を取り出し「これ、辛いのんや~」と言う。母は「同んなじに見えるけどな。」と言うと、親父さんはすかさず「お姉ちゃん、外見では判れへんやろ、わしと神さんしか知らんこっちゃ」

 「おっちゃん、さっきからお姉ちゃん、お姉ちゃんて、私、子供連れてるやろ~。お姉ちゃんとちゃうで~。」「ほんまかいな、てっきり弟さんやと思とったわ~。」「賢そうな顔して勉強できるやろ。ぼく。クラスで1番か~。いや、学年で1番やろ。」「あほなこと言わんとって。全然勉強せえへんねん、この子。べったや。」「おかあちゃん、僕べったとちゃうで~。まだ下におるで~。」「べったとおんなじや、いっそのこときれいさっぱりべったの方がかっこええのや。」

 「お兄ちゃんと妹はそこそこ出来るねんけどな。この子はさっぱりや。」「まだ子供さん、居てはりますのんか。お使いには付いて来やはらへんな。」「お兄ちゃんは今頃、ザリガニ取りや。」「妹はバレーにダンスと習い事で忙ししてます。」「え~、将来はタカラジェンヌか?」「いや、なられへん、なられへん。そんなタイプと違うねん。」「この子の妹さんやからそこそこ行けるやろ。」

 「おっちゃん、僕と妹は血繋がってへんねん。僕は阿部野橋で拾われて来た子やねん。そやろ、お母ちゃん。えっ、えっ、えっ、えっ。」「何いうてるねん。こんなとこで泣かんでもええやろ。冗談やがな。汚いな~。鼻垂らして。早よ鼻拭き。そんな、袖で拭いたらあかんがな。おっちゃん、神妙な顔つきになっとるやんか。妹はな~。父親似や。」

 「なんや、冗談かいな。もうちょっとで、もらい泣きするとこや。キューリでも同じ株から真っ直ぐなんと、曲がったんが出来よるけど。曲がったら半額以下や。人間も同じやな。」「家は私と下の女の子以外男はみんな曲がっとるけどな。」「この子は勉強も出来へんし、宿題もせえへんし、泣き虫で、立たされてばっかりや」「学校出たらこの八百屋で丁稚で雇たってくれるか。立つのん慣れとるわ」「そらええな~。この子が店に立ったら、若い女の子わんさか寄ってくるで~。」

 「冗談もそこまで言うとエグイで~。ほな、その辛い方のシシトウとその隣の曲がったキューリひと盛り貰うわ。ぬかづけにするよって。まけとってや。」「まけときまんがな、ヌカヅケ、よろしおまんな~。苦が~いキューリでも苦み抜けまっさかい。」「いや、口が滑ってしもた。曲ってるけど苦ないで。甘いで~。いや、ちごたな。か、か、か、辛いで~。」VIT

適度の辛味と苦味もある不揃いなポルトガルのシシトウ

 

『シシトウ』(Pimentos Padrão Picantes)250g約55本厚紙パック入り=1,99€。

 

『シシトウ』(獅子唐辛子)学名:Capsicum annuum var. grossum。中南米原産。ナス科 Solanaceaeトウガラシ属 Capsicumに属するトウガラシの甘味種。また、その果実。シシトウ、また、甘とうと呼ばれることも多い。 植物学的にはピーマンと同種。ヨーロッパ人のアメリカ大陸発見後、南米からヨーロッパに入り、その後世界に広がった。ビタミンC、カロテン、カリウムなどを多く含む。また、エピネフリンの分泌を増やし脂肪の燃焼を高める働きがある。 (Wikipediaより)

 

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200. ホウレン草カレー caril de espinafre

2022-09-01 | 独言(ひとりごと)

 きょうもホウレン草のカレーだ。

 このところ毎日にようにホウレン草のカレーだがそれは良い。

武本比登志の油彩作品F50

 我が家ではもう随分以前からお昼はカレーと決めている。

 今でも朝食はパン食でお昼はカレー、夕食だけ考えればよい食生活だ。それを何十年も続けている。

 実は未だ学生だった頃。インドで暮らす計画を立てていた。

 インドで暮らすのだから身体をそれに慣らしておく必要があると考え、その頃からお昼はカレーと決めていた。

 2人で必死に渡航費用を貯めた。1ドルが360円の固定レートの時代である。外貨持ち出し制限などもあった。そして渡航費用は現在とは比較にならない程高額であった。

 1971年。新潟港から大荒れの日本海をジェルジンスキー丸という元KGB長官の名前を冠したソ連の小さな船で渡りナホトカ、列車でハバロフスク、モスクワを経由してプロペラ機でストックホルムに入った。ヨーロッパに行く一番安上がりなルートだった。

 40日かけてマルセイユに入る憧れのオランダ郵船はすでに廃船になっていた時代だ。

 ストックホルムからヨーロッパを3か月程かけ南下しながら見て歩き、中東からインドまで行き、『インドで1年程を暮らしてみる』というのが計画であった。

 ソ連がアフガニスタンに侵攻するより以前である。

 僕たちのおんぼろフォルクスワーゲンマイクロバスがイスタンブールに到着した時のことである。イギリス人から一緒にキャラバンを組んでインドまで行こう。と誘われたこともある。でもその時のマイクロバスはヨーロッパの旅行中にも何度もスタートモーターに支障をきたし、あまりにもポンコツ過ぎてインドまでは無理であっただろう。ストックホルムに舞い戻って仕切り直しの必要があった。

 それがストックホルムでの生活は4年余りにも長引き、その後、ニューヨークに1年住み、南米を1年かけて旅し、結局はインドには行かずじまいで一旦は日本に帰国した。

 宮崎で飲食店を引き継ぎ、13年間を過ごした。飲食店はカレー専門店にし、BGMにラビ・シャンカールなどをかけインドへの夢を繋いだ。

 その後、ポルトガルに住みたいと思い、何度か1か月ずつポルトガルの旅をした。1度は福岡空港発の便で便利だと思ってあまり考えずに航空券を買った。先ずは香港経由と言うことまでは知っていたが、迂闊にもムンバイに着くまで南回りだと知らなかったのだ。香港、ムンバイ、ドバイ経由でチューリッヒに到着。それからリスボンに向かった。冬だったので冬の格好で出かけたものだからムンバイでは暑すぎてトランジットの空港でたまらずTシャツを買った。ムンバイ空港内がインドに行った唯一になった。

 そして1990年からポルトガルに暮らして32年が過ぎた。

 お昼はカレーと決めているが、カレーのバリエーションは幾つかあって飽きることはない。

 ベジタブルカレー、シーフードカレー、エッグカレー、米ナスカレー、キノコカレー、カレードリア、カレーオムライス、それにガーリックカレー、ジンジャーカレーなどだ。尤もベーシックのカレーにもたっぷりのガーリックやジンジャーは入れているが、食べる時に更に追加するのだ。

 なかでもガーリックカレーは絶品だ。

 ニューヨークに住んでいる時に日本人の友人が「南米ではコメのことをアロースと言っても通じないよ、アホと言うのだよ。日本人だから長く旅行しているとどうしても米が食べたくなる。米の入ったスープを注文する時にはソッパ・デ・アホだよ」と間違って教えてくれた。僕はメキシコで友人が教えてくれた通り「ソッパ・デ・アホ」と言って注文した。カウンター式の小さな食堂であったが、店じゅうにニンニクを焼く芳ばしい香りが充満し、やがて米入りスープではなくガーリック・スープがカウンターに置かれた。その旨かったことは親父さんの自慢げな顔と共に今でも忘れられない。米は食べられなかったが、それ以上に満足のいく逸品であった。

 そして僕はそれをカレーに応用した。ガーリックをスライスし、たっぷりのバターで香り立つまで炒めそれにカレーを加えるのだ。カレー専門店をした時にはガーリックカレーは一番人気になった。

 カレーを常食していると風邪を引かない。食欲のない時でもカレーなら喉を通る。

 でも最近になって夜にテレビの映画を観ている時、どちらかと言えば観なくても良い様なくだらない映画の時など足がだるく感じることがある。検索してみるとどうやら鉄分不足の様だ。鉄分と言えばホウレン草だ。

 これはカレーにホウレン草を入れるしかない。ホウレン草とカレー。相性はすこぶる良い。ホウレン草カレーはインドでは定番だそうだ。

 近頃は冷凍技術が進みスーパーの冷凍食品の棚に冷凍野菜がいろいろと並んでいて、ホウレン草なども1年中ある。そして使いやすい。1キロ入りの冷凍ホウレン草の袋の中には小さくキューブ状に小分けされたホウレン草がたくさん入っていてそのまま要るだけの量で使えて便利だ。

 僕は子供の頃、ホウレン草も好きな子供であった。母がホウレン草を茹でた時など必ず縁側にすり鉢を持ち出しゴマを切りゴマ醤油を作るのだが僕もよく手伝った。そして僕の大好物であった。

 そういえば小学校の卒業アルバムに家庭科料理実習授業のスナップ写真があり、僕がホウレン草を鍋から引き揚げ纏めている場面が載っている。撮られた時は気付かなかったが出来上がったアルバムを見て母は大笑いしていたのを思い出す。。

 ホウレン草といえばポパイだ。子供の頃にはテレビでポパイをよく観ていた。ポパイは缶詰のホウレン草だ。

 僕はポパイの様に缶詰のホウレン草を食べてみたいと子供ごころに思っていたが恐らく日本には売られていなかったのだと思う。ニューヨークに居た時にも見たことはない。ポルトガルでも見たことはない。冷凍食品が普及し缶詰のホウレン草は需要がなくなっているのかもしれない。

 ポパイと言えば8月11日はロビン・ウイリアムズの命日であったらしく、あるチャンネルでは1日中ロビン・ウイリアムズの映画をやっていた。我が家でもその夜はロビン・ウイリアムズの映画3本を観た。今までも何度も観た映画ばかりだったが、改めて良い俳優だったと思う。その夜には『ポパイ』は観なかったが、『ポパイ』がロビン・ウイリアムズの映画デビュー作らしい。でも『ポパイ』は実写映画よりもやはりアニメの方が僕は良かった様に思う。

 大男ブルートにやられかけたところでポパイは缶詰のホウレン草を口に流し込む。たちまち力がみなぎりブルートをやっつけてしまい、オリーブの祝福を受けめでたしとなる。

 我が家でのサップグリーンのホウレン草カレー。色も味も食感もなかなか気に入っている。そして元気が漲る気がする。VIT

茸ミックスとホウレン草のガーリックカレーライスとコラサォン・キャベツとニンジンのピクルス

 

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199. ハトに餌をやらないでください Por favor, não alimente os pombos

2022-08-01 | 独言(ひとりごと)

 『ハトに餌をやらないでください』という張り紙があった。

 張り紙に気が付いたのは7月15日、金曜日、買い物に行くのに下に降り、玄関ホールの掲示板に貼られているのが目に留まったのだが普段なら見過ごしてしまうところだ。

武本比登志の油彩作品F100

 鳩に餌をやっているのは我が家のすぐ下のファティマ小母さんだ。

 ファティマさんは2年ほど前から住み始めた独居老人。

 以前そこにはフルナンドさんが住んでいた。フルナンドさんは南アフリカの大学教授で大学教授は既に退官していたとはいえ南アフリカとポルトガルを行ったり来たりセトゥーバル以外にリスボンにもマンションを持たれていて、セトゥーバルに来るのはそれこそ3分の一。声が大きく来られたらすぐに判る。そのフルナンドさんがお亡くなりになったとマリアさんから聞いたのはもう随分前だ。リスボンには娘さんも住んでおられたのだが、セトゥーバルの部屋は直ぐに買い手が付いたらしくそれから2年ほどもリフォーム工事をしていて、ようやくファティマさんが住み始めたのが2年ほど前から。

 ファティマさんも元学校の先生で英語もフランス語も流暢に使われる。マンション管理組合会議の時など複雑な議題に入ると、僕たちに英語で判りやすく説明をしてくれたりする。クルマも運転されていて、買い物ついでに、いつもどこからか水を汲んで来られる。コーヒーやお茶を淹れるのに美味しいのだそうだ。5リッタータンクが2本もあるので2階まで運ぶのを手伝おうとすると「手伝わないで」と言われる。運動がてらと思っておられるのだろう。どこからか美味しい水を汲んで来られる、お元気な女性だ。でもセトゥーバルの水道水もアラビダ山の水だから美味しいのだが。

 ファティマさんの楽しみは鳩に餌をやること。

 食べ残したパンを小豆大に小さくちぎって風呂の窓から道路に向かって放り投げるのだ。

 だいたい時間は決まっていて、その時間になると鳩が勢ぞろいする。そして1日中居ついている鳩も居る。

 鳩はファティマさんが餌をやり始める以前から実はいたのだが、でもファティマさんが餌をやり始めて鳩の数が格段に増えたのは確かだ。

 我が家の屋上軒先にずらりと並んで止まり、餌を待つようになった。

我が家の屋根の上にずらりと並んで餌を待つ鳩

 そしてやっかいなのは糞公害だ。

 建物の前に停めてあるクルマに鳩が糞を大量に落とす。

 フロントにもフロントガラスにも天井にもリアウインドウにも鳩の糞。

 でもファティマさんは自分が住み始めてから鳩が増えたとは思われていない筈だ。

 それは以前と同じだとたぶん思われている。以前のことは御存じないからだ。

 僕はクルマに付いた鳩の糞はせっせと掃除をしている。

 以前から出かける前には僅か5分間ほどだが毎回掃除をしてから出発することにしている。

 濡らしたタオル2枚と洗剤を含ませたスポンジを使う。それでたいていは綺麗になる。

 出掛けるのは週一くらいだから鳩の糞もこびり付いてなかなか落ちないが何とか綺麗にはなる。

 鳩の糞をゴシゴシしていると、そんなところにマリアさんやマダレナさんが通りかかった時などは「鳩の糞で掃除が大変ね」などと挨拶してくれる。僕は「いや、それ程でも」などと返事をしていた。

お向かいの屋根の上で餌を待つ鳩

 ファティマさんが住み始めてから鳩が増えて糞が多くなったとはいえ僕はあまり気にはしていなかった。

 鳩は可愛いものだ。僕も子供の頃に鳩を飼っていたことがある。リンゴ箱で鳩小屋を作った。餌をやり、毎日放す。ある程度の時間上空を飛行して必ず自分で小屋に戻って来る。雛が生まれる。鳩友達が出来、交換などする。中には競技にも参加していた友人も居たが、僕はただ飼っていただけで競技などには参加するまではやらなかった。

 僕が「鳩は可愛い」と言うとMUZは目を吊り上げ口を尖らせて「鳩の何処が可愛い!」などと宣う。

 今、我が家ではパンは残らないからやらない。毎朝の朝食はパン食だが殆ど残らない。残ったパンは漬物に使うのだ。糠は手に入らないのでパンで代用する。

 先日は露店市で食事をした。パンが余ったので糠漬け用に持ち帰った。糠漬け用に持ち帰ったものの夜小腹が空いたのでカマンベールを乗せて食べてしまった。鳩まではとても回らない。他の人が鳩に餌をやるのも見て楽しんでいるだけ。

 ファティマさんが鳩に餌をやり始めるより以前から、実はマダレナ小母さんもパンくずを撒かれていた。食事の後のテーブルクロスを窓からパタパタと振るうのだ。それ以外にもパンをちぎって放り投げる。でもマダレナ小母さんのパンくずはピンポン大ほどもの大きさだ。見ていると鳩は大きいパン屑は苦手の様だ。パンをくわえて首を左右に振らなければならない。それでもなかなか千切れない。千切れないで何処かに飛んで行ってしまう。それをすかさず雀が持って行く。雀は大きいまま咥えて藪などに入ってゆっくり食べるのだろう。だからだろうマダレナ小母さんが何年もの間パン屑をやっても鳩はあまり増えなかった。

地面で餌を探す鳩

 それがファティマさんがパン屑をやり始めて急激に鳩が増えたのだ。

 お向かいのウクライナ人のローマンさんも建物の前にクルマを停めている。三菱のカリスマだ。かなり古いクルマだが、塗装をやり直し綺麗になった。それに鳩の糞がべっとりと付く。

 ローマンさんは1ユーロショップか中華雑貨ででも見つけてきたのだろう。鳩除けのプラスティック剣山を我が家の屋根の軒先に取り付けてくれた。

 鳩はさすがにその場所には止まらなくなった。ローマンさんは良い方法を思いついたものだ。軒先だけではなく我が家のベランダの手すりにも鳩は止まる。それで僕もその剣山の真似をして6リッターのペットボトルを解体して剣山を作りベランダの手すりに取り付けた。

 もうこれで大丈夫と思っていたところ7月15日に、張り紙があった。

「鳩に餌をやらないでください」と書かれた張り紙

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Por favor, não alimente os pombos

ハトに餌をやらないでください

Dar comida a pombos é proibido e punível com coimas.

ハトに餌をやるのは禁止されており、罰金が科せられます。

Estas aves são uma potencial ameaça para a saúde pública, já que podem transmitir algumas doenças, além de criar muita sujidade.

これらの鳥は、多くの汚れを作り出すことに加えて、いくつかの病気を感染させる可能性があるため、公衆衛生に対する潜在的な脅威です。

Muito obrigada  A Administração do condominio

ありがとうございました。 マンション管理

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 訳してみると結構厳しい内容だ。

 

 パリのサクレクール寺院前の広場で鳩に餌をやる小父さんの映像があった。頭にも肩にも腕にもたくさんの鳩が止まり餌を啄んでいる。観光客はそれを見て楽しんでいる。

 以前にはセトゥーバルの中心ボカージュ広場にもたくさんの鳩が居て、キオスクで鳩用の餌が売られていた。買ってまで鳩に餌をやる人も居なかったのか、キオスクの小母さんの目を盗んで鳩が餌のビニール袋を直接突っついて破ってしまう。万引き鳩だ。

 奈良の鹿煎餅と同じだ。強引な鹿よりもおとなしそうな鹿に買った鹿煎餅をやりたいと思い後ろに隠す。後ろから別の強引な鹿が横取りをする。

 ニューヨークでも鳩が増え、それを餌に猛禽類のハヤブサが摩天楼を断崖絶壁にみたて巣を架けている。何でもマンハッタンのハヤブサ密度が世界一らしい。と言ったものや「鳩なんて病原菌を運ぶネズミと同じだ」というニュースもあった。人の手によって生態系は簡単に覆ってしまう。鳩は平和の象徴だというイメージからはほど遠くなってしまっている。鳥インフル以来鳩に対する風当たりは一層強い。

 そして独居老人ファティマさんのささやかな楽しみを奪ってしまったのだろうと思う。

 その後、ファティマさんは餌のパン屑をやってはいない。

 そして7月28日、追加の張り紙があった。

 先日の張り紙の下、掲示板の枠外にカラー写真入りの張り紙がアズレージョに貼られていた。

「一羽の鳩がヒト一人を死なせます」鳩による感染症(オルニトースオウム病、サルモネラ感染症、エルシニア症など)の症状が写真入りで詳しく書かれてある張り紙。

 最初の張り紙以来ファティマさんは餌やりを控えておられる。ここまでしなくても思うが、ファティマさんへの個人攻撃的でかえって気の毒だ。

 でも鳩は時間になると勢揃いをする。元通りになるには多少の時間が必要なのだろう。鳩たちは玄関ホール掲示板の張り紙を見ていないのだから未だ気が付いては居ない。

引き込み電線に止り餌を待つ鳩

 

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198. パルメラ城 Castelo de Palmela

2022-07-01 | 独言(ひとりごと)

 我が家から贅沢にも城が2つ見える。

『パルメラ城』F50

 一つはセトゥーバルのサン・フィリッペ城。ポルトガルがスペインに併合されていた時代(1580-1640)、当時のスペイン王フェリペ2世の命により建てられた。イギリスからの脅威に備えた砦でサド湾を見下ろしている。

我が家のベランダから『夕焼けのサン・フィリッペ城とトロイア半島』F30

 天正時代日本から遣欧少年使節団がリスボンに到着した時1584年には未だサン・フィリッペ城はなかった。或いは丁度工事中だったと思われる。完成は天正遣欧少年使節団が帰国した時と重なり1590年になる。

 サン・フィリッペ城は我が家の南西方向直線距離で1,5キロ、台所の窓からと、居間のベランダから見ることが出来る。スケッチは何枚もしているが、100号と50号など多くの油彩にもなっている。

 そしてもう一つはパルメラ城。我が家の真北にあり、アトリエの窓から直線距離3~4キロだろうか?丘の上に見ることが出来、両方とも夜にはライティングがされていて美しい。

0032. 0042. 0078. 1125.

 パルメラ城はサン・フィリッペ城より遥かに古く、礎石はイスラム時代(711-1139)モーロ人によって建造された。テージョ川とサド川の河口とその間の広大な地域を支配するには戦略的に重要であったのであろう。イスラム教徒とキリスト教徒で激しい戦いが幾度となく繰り返された後、12世紀、レコンキスタ、キリスト教徒の国土回復が達成され、14世紀~18世紀にかけ徐々に整備がすすめられ今の姿となった。

 城の一番高い塔に隣接してサンタ・マリア・ド・カステロ教会などが建てられたが1755年のポルトガル大震災で崩壊したままの形を今に留めている。人類史上最大の被害を出した大震災である。東北地震と同程度のマグニチュード9と言われているが人的被害は最悪であった。リスボンだけで地震による即死者は2万人、洪水でさらわれた人は1万人と言われている。リスボンの洪水は15メーターに達したそうであるが、アルガルベの洪水はそれを遥かに凌ぐ30メーターだと言われている。勿論その間に位置する、セトゥーバル、パルメラの被害は甚大なものであっただろうと想像できる。

1563. 1578. 1713. 1888.

 パルメラ城内に1470年、サンチアゴ修道会本部として建造されたサンチアゴ修道院とサンチアゴ教会は地震には耐えたのであろう。修道院はポウサーダ(国営城ホテル)として現在も使われている。名前の通りサンチアゴの巡礼道にあり、教会入り口にはその目印となるホタテ貝のレリーフが施されている。

 パルメラ市の紋章にもホタテ貝が施されているが紋章で注目をしなければならないのはパルメイラ、ヤシの木である。パルメラ市の名前の由来にもなっているパルメイラが中心に描かれているがそれを手が支えている。でもその意味は判らない。

2039. 2052. 2068. 2089.

 地域のお祭りの時、家の門の両側にまるで日本の門松の様に大きなヤシの葉が左右一本ずつ取り付けられていたりする。宗教的な意味合いがあるのだろうが何か関連がありそうだ。

 以前のスケッチを見てみると役場隣のサン・ペドロ教会の前に3本のヤシの木が植えられていた。カナリーヤシである。でも今はない。側面に枯れた1本の幹が3メーターほどの所で切られ残されていて、ここにヤシの木があったことが判るが、いまは1本もない。今、パルメラの町を歩いてもあまりヤシの木は見当たらない。中心部で3本を見ただけである。それもカナリーヤシではなく、別の種類である。

 実は10年程前になるが、ポルトガル北から南まで植えられていたカナリーヤシの木に害虫でも付いたのだろうか。或いは同時期に寿命を迎えたのだろうか?次から次に枯れてしまったのを目の当たりにした。日本ではフェニックス、不死鳥と呼ばれている大型の丈夫なヤシであるが、それに天敵の害虫が付いたのだろうと思う。他種類のヤシは大丈夫の様だ。

2098. 2442. 2683. 2698.

 ポルトガルに住み始めて1年目、1991年に明治生まれで80歳になったばかりの父がポルトガルの我が家を訪ねてくれた。僕も未だ40歳代の前半であった。その頃は今のマンションではなく下町の古い集合住宅のフラットを間借りしていた。クルマも未だ持ってはいなかったのでどこに行くにも公共交通機関のバスや列車であった。クルマどころか洗濯機も掃除機もなかった。勿論、パソコンもなかった。小さな古い冷蔵庫だけは備えられていて助かったが、冷蔵庫の扉を開けるたびに製氷室の扉もカタっと外れた。テレビもあったが、モノクロテレビで映りはすこぶる悪くて殆ど見なかった。

 父は僕がパリのサロン・ドートンヌに入選した作品を観るためと、ついでにポルトガルでの生活も見てみたかったのだろう。ホテルに泊まるつもりだと言っていたが無理やり同居させ、1か月の滞在であった。でも少し前にバスルームの天井が落ち、大家さんが修繕をしてくれていて、足場が組まれたままで、父は「戦争中を思い出す」などと言っていた。僕たちも住み始めてそれ程は経っていなかったのと、旅行をすれば快適に風呂にも入れると思い、あちこちとスケッチ旅行をした。

2716. 2724. 2736. 2822.

 最初にパルメラにも出掛けた。路線バスである。バスターミナルに着いて早速スケッチを開始した。目の前に良い形のパルメラ城が横たわっている。絶好のスケッチアングルだ。父もスケッチブックを広げているが、ふと見るとあらぬ方向を描いている。「城を描かないのだろうか」と思っていた。後でスケッチブックを見てみるとちゃんと城も描かれていた。僕もスケッチは早い方だが、父のスケッチは僕以上に早く本当にメモ程度なのだ。そういえば戦争中のスケッチも多く、ポストカードサイズの小さいものだが複数のスケッチブックが残されている。今の中国でのスケッチだがよくそんな余裕があったものだと思う。

 父は100歳まで生きた人だ。94歳に病気をした。それまでは毎日絵を描いていた。80歳でポルトガルに1か月来て、日本に帰ってからは主にポルトガルを油彩にしてグループ展などに出品していた様だ。94歳の頃、最後に描いていたのは確かに『パルメラ城』であった。

父と一緒にスケッチし1991年に描いた『パルメラ城』F10の油彩

 父がポルトガルに来た頃にはフェニックスヤシは至る所に植えられていて不死鳥の如く葉を広げていた。

 パルメラ城もサン・フィリッペ城もあまりにも身近にあるので、いつでも描けると思っていたからだろうか?案外と絵にしていない。それがコロナ禍でどこへも行かれない環境が続き「ああ、パルメラ城を描こう」と思い至ったのである。

 セトゥーバルのサン・フィリッペ城は東側にはセトゥーバルの町が広がっているが南側はサド湾、西側にはアラビダ山脈が視界を阻み、描くことが出来るのは東側からと我が家がある北東側のせいぜい100度程だろうか?それも街中に入ると建物に阻まれ城は見えないし、東側にも北側にも丘がありそれを超えるともう城は見えない。

『サン・フィリッペ城とセトゥーバル漁港』F10

 それに対しパルメラ城は小高い丘の上に建っているので360度から描くことが出来る。そして近寄っても、遠ざかっても無限にモチーフを提供してくれる。

 何しろアトリエからも描くことが出来るのだ。そしてスーパーに買い物に行くついでにちょっと寄り道をすればスケッチブックを広げることが出来る。セトゥーバルはスーパーの激戦区なのだろう。食品、商品によって我が家では9軒ものスーパーを使い分けている。その道すがらどこからでもパルメラ城を見ることができる。

 『ポルトガル淡彩スケッチ』も間もなく3000景に達する。その内何枚の『パルメラ城』を絵にしているのだろうと数えてみた。番号の入っている絵は77枚であった。そして未だ番号を入れていない絵が20枚。合計97枚。100景に王手といったところだが、3000景の内たったの100景である。この先、未だまだ描けそうに思う。

2932. 2974. 2981. 2990.

2991. 2992. 2999. 3000.

 

 

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197. 画材としての牛の頭蓋骨 Crânio de vaca como material de arte

2022-06-01 | 独言(ひとりごと)

 大阪芸大に入って1回生の未だそれ程は経ってはいなかった頃だったと思う。1968年の梅雨前か恐らくその頃だ。

 美術科同級生の浅場一司君から「屠殺場に行こう」と誘われた。藤井寺にあった牛の屠殺場である。それは大阪芸大最寄り駅喜志駅と僕の自宅北田辺駅とのほぼ中間地点になる。僕のクルマで僕が運転して、浅場君の誘導で2人で行った。でも50年も昔の話だから記憶もあやふや、だがその情景ははっきりと覚えている。

 到着すると屠殺場の人達は「よう来たね!学生さん」と言って、いたって親切に対応してくれた。

 実際にその場で牛が屠殺されているのだ。牛は狭い通路に押し込まれ上から脳天目掛けて楔が撃ち込まれる。ドスンと鈍い音。牛の悲鳴。コンクリートの水路には真っ赤な牛の血がどろどろと流れて僕にとっては大変なショックであった。

 そこでは男女大勢の人たちが平然とした面持ちで忙しく立ち働いていた。両手に地面に届かんばかりの大きな牛たんをぶら下げて小走りに働く小柄な老婆など。僕などは目を瞠るばかりであった。

 ルネッサンスの時代から或いはそれより以前から画家や彫刻家たちは骨格を描いて来た。とりわけダ・ヴィンチと解剖学は切り離すことは出来ない。実に多くの骨格デッサンを残している。ダ・ヴィンチだけではなくデューラー、レンブラント、ルーベンス、勿論、ミケランジェロやロダンなども多くの骨格デッサンを残している。骨格を描くことはデッサンの重要な基礎なのだ。

 当時は聖人像、人物画の骨格つまり人骨である。でも現在社会において人骨は問題だ。ホラー映画並みの犯罪と結び付けられてしまいかねない。その後は人骨ではなく動物の骨、主に牛の頭蓋骨が重要なモティーフとなったのだ。

 浅場君は何事にも一生懸命、やる気のある人物で、例えば大学の体育祭でマラソン大会があり、それに出場すると言うのだ。そしてその1か月も前から喜志駅と大学の間は結構な距離、2,3キロ程もがあるのだが、スクールバスに乗らないで毎日往復を走って足慣らしをしていた。優勝は逃したものの見事2位銀メダルを獲得したと言うことなどもある。そんなことや他にもいろいろとあって僕は浅場君には全幅の信頼を寄せていた。

 浅場君は屠殺場の人と事前に話をつけていたらしく、牡牛の頭部があらかじめ用意されていた様に思う。牛の頭部と言っても皮と肉は削ぎ取られ角と骨だけになっているのだが、その骨に血糊がべっとりと残っている。浅場君が用意していったのか、屠殺場で貰ったのか、古新聞をクルマの座席にもトランクにも敷き詰め、骨だけになった牛の頭をぎっしりと載せた。10個である。10頭分の牛の頭である。角は出張っているし結構大きなものでよく載せられたものだと思う。それを大阪芸大まで運び、適当な場所に埋める作業だ。

 当時、大阪芸大は開校して未だ4年目の新しい大学で、山や田畑を切り開いて造成したのだろう。そんな名残が至る所にあった。墓地も隣接していたし、農業用のため池もあった。校舎といえば半数はバラック小屋であった。

 浅場君は骨を埋める場所もあらかじめ決めていたのだろう。早く肉片や脳味噌が腐る様にとじめじめした湿地に埋めた。誰も近寄らない場所だ。3か月か半年かは忘れたがそれくらいの期間だったと思う。

 決めていた時期まで待って掘り上げた。綺麗に肉片は腐っていて、大阪芸大事務所前の洗車場で洗い流した。ホースからは勢いよく水が噴き出し頭蓋骨の奥まで綺麗に洗い流せる場所なのだ。その場所も浅場君が決めていて、その作業の最大のパフォーマンスだと彼は言っていた様に思う。空手部の新庄先輩はよくその場所で糸東流空手の型の練習をしていたし、勿論、同級生の鳩山君や金森君が加わっての合同練習などは部員も多く事務所の上階大教室からの眺めは壮観であった。そして大学への抗議行動デモは決まってその場所だった。事務所からも大教室からも良く見える一等場所、大学の玄関なのだ。

 綺麗な牡牛の頭蓋骨10個が出来上がった。浅場君は早く描きたそうにしていた。牡牛の頭蓋骨と言っても形は様々でそれぞれに個性がある。浅場君は「先ず君が一番かっこいいのを選べよ」と僕に言ってくれた。僕は迷わず一番かっこいいのを選んだ。次に浅場君だ。そしてその次は又僕の番だ。僕は2個を選んだ。

 僕が2番目に選んだ牡牛の頭蓋骨は母校の浪速高校美術部に寄贈した。

 浪速高校美術部はNACKと言う。顧問の藤井先生が考えられたロゴマークもある。浪速高校アートクラブの略でNACとなるのだが、NACだけならアメリカンフットボール部、洋弓部(アーチェリー)、天文部(アストロノミカル)などもNACとなり、その他にもNACとなるものは多い。それらと差別化するために発音上最後にKを追加したのだと言われていた。そのN、A、C、Kを組み合わせ横に倒すとピカソの牡牛の頭蓋骨になりいかにも美術部らしくなる。そんなロゴマークは僕が高校に入学する以前から浪速高校美術部にはあった。

 僕が高校現役生の頃、藤井先生はOB用のロゴも作られた。更に簡略化したロゴマークで僕は未だにそのロゴマークを愛用している。ティシャツにもジーンズにもバッグにもアップリケしたり、刺繍したり、パッチワークしたりして楽しんでいる。

 浪速高校美術部に牡牛の頭蓋骨を寄贈したことについては藤井先生からは「武やんがNACKのシンボルを持って来てくれた」と大そう喜んで頂いた。

 僕が最初に選んだ1番かっこよい牡牛の頭蓋骨は僕が持っていた。ストックホルムやニューヨーク更に南米に居た時には大阪の実家に置いていた。帰国して宮崎で店を継いだ時に宮崎まで運んだのだが飲食店に飾る訳にも行かず、倉庫に仕舞ったままであった。

 いよいよポルトガルに移住する段になってそれまでの思い出の品などあらゆるものを捨てざるを得なかったのだが、牡牛の頭蓋骨はお店の河原に置いて来たのだ。捨てたと言っても良い。店は他人に手放したものの、未だ家は買ってはいなかったし、宮崎市内にアパートを借りて荷物の一切合切を押し込んでポルトガルに来たのだった。牡牛の頭蓋骨は嵩張るし捨てざるを得なかった。

 ピカソは牡牛の頭蓋骨を何度も繰り返し絵にしている。残念ながら僕は牡牛の頭蓋骨を一度も絵にはしなかった。1番かっこよいのを持っていながら。

 浅場君は何度も絵にしている筈である。卒業制作展にも牡牛の頭蓋骨を配した40号くらいの静物画を出品していた様に思う。

 僕はというと大学を卒業もしていないし、牡牛の頭蓋骨も一度も描いてはいない。

 牡牛の頭蓋骨を屠殺場から貰って来た頃には工場のパイプや機械などをグレーとローズグレーで抽象的に表現するのに没頭していた頃だ。

 宮崎に居た13年間は倉庫に仕舞いっ放しだったとはいえ、毎年大阪でのNACK展には出品していたのに何故シンボルマークの牛の頭蓋骨を一度も絵にしなかったのだろうと今になって悔やむ。

 或いは、宮崎に住む前のニューヨークでは僕はマクロバイオティック料理店のコックをしていた。マクロバイオティックは玄米を中心にした健康食で肉は一切食べない。魚も白身だけ赤身や青魚は禁止である。野菜もトマトなどナス科は禁止で鶏卵も牛乳も砂糖も禁止食品であった。そんな影響が未だ宮崎にいた頃まで残っていたのかもしれない。牡牛の頭蓋骨は画材なのだが、何だか描くこと自体に、いや、倉庫から出して見ること自体にも後ろめたさが残っていた様にも思う。

 過去を悔やんでも仕方がない。今できることはせいぜいポルトガルの町角を、闘牛場を含めた町角を…絵にすることくらいだろうか?

 

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196. 節約 Poupança

2022-05-01 | 独言(ひとりごと)

絵の具に関しては節約をしないでたっぷりと使いたい

 コロナ禍以来、そうとうの節約をしている。節約がもう殆ど趣味になりつつある。

 スーパーのチラシなどには必ず目を通す。それぞれのスーパーで何が安くて何が高いかを比較検討する。スーパーでは急いで買い物をしない。じっくりと値段を確かめる。1センチモでも安いものを買う。保存の効くものなどは特売日などに纏め買いをする。スーパーのクーポンなどは最大限に利用する。生鮮食品以外など保存の効くものは10%引きクーポン、15%引きクーポンがある時に纏めて買う。酒肴品、例えば珈琲豆やワインなども少々品質が落ちても一番安い物を買う。慣れればそれでも結構いける。メーカー品は避けスーパーのプライベートブランドがあればそちらを選ぶ。メーカー品と比較しても品質はさほど落ちることもなく、たいてい格安だ。

 そしてグルメなどは禁句だ。

 コロナ禍で出かけられないと言うこともあるが外食は殆どしない。勿論、旅行にも行かない。

 コロナ禍がそろそろ終わるかなと思っていたら、ウクライナ戦争で、蟄居生活がまだ続きそうだ。ウクライナ戦争の影響もあり物価は相当上昇している。ポルトガル政府はインフレスパイラルだけは絶対に避ける。と言っているが、3月は5,3%、4月は7,2%のインフレだったらしい。

 そもそも今までもヒマワリ油は殆どがウクライナからの輸入だったそうで、1,5倍の値上がりでスーパーの棚にヒマワリ油は既にない。それに連れてオリーヴ油も値上がりだ。

 アレンテージョの酪農に使う飼料も殆どがロシアからの輸入だったそうで、当然、食肉の値上がりは必至だ。

 天然ガスもロシアからの輸入なので使えない。電気もガスもガソリンも値上がりで出来るだけ使わない様に努力をしている。

 例えば朝食のトーストを焼くには電気を使う。トーストを止めてサンドイッチにした。サンドイッチにはキュウリとチーズそれにハムを挟む。でも今まで食べていたどっしりパンに比べると食パンは安い。朝食準備は慌ただしいのでサンドイッチは前夜に作ってビニール袋に密閉しておくとパンがしっとりとなじんで旨い。朝食はかえって豪華になった。

 もう随分以前から昼食はカレーと決めている。毎日、カレーを食べていると風邪は引きにくいし、夏バテもしない。元気が出る様に思って続けているが、お昼は何にしようなどと考えないで済む。只、カレーのヴァリエーションは幾つかあるので飽きることはない。

 カレーは10日分ほどを纏めて仕込む。牛のバラ肉か豚の三枚肉などで作ると旨く出来るが、1年ほど前に鶏の砂肝を使うのを思いついた。最寄りのスーパーでは1キロで2ユーロ以下と格安なのだ。フライパンで炒める時に水分が出て少々難儀をするが、最近は巧くいきつつある。鶏肉なら崩れてしまって巧くないが、砂肝は長時間煮ても形が崩れないで食べる時にとろける食感で案外といける。特許ものだ。

 なるべく安価で栄養価の高いものを選ぶ。バナナもリンゴも安くて栄養価が高く欠かしたことがない。それにキャベツやニンジンなども欠かしたことはない。1キロで0,78ユーロと野菜の中ではニンジンが一番安い。時には2キロで0,98ユーロという特売の時もある。そしてベータカロテンやビタミンAなど栄養豊富で、抗発ガン作用や免疫賦活作用で知られている。皮なども出来るだけ工夫して残さず全部を食べる。ミキサーにかけてカレーに入れるのだ。タマネギも欠かしたことがない。血液をサラサラにしてくれるので高血圧や動脈硬化予防にもなる。ニンニクや生姜も欠かしたことがない。いかにも元気が出そうだ。以前には出かける予定がある日などにはニンニクは控えるようにしていた。やはり口臭が気になる。でも今はマスクをしているので気にならない。ニラとイタリアンパセリはベランダで育てている。無料だ。野菜くずも工夫して使う。生塵はできる限り最小限に抑える。

 買い物に行くのにもクルマは使わないで歩いて行かれれば運動にもなり良いのだろうけれど、我が家は丘の上の家で長い坂道はちょっと無理だろう。どうしてもガソリンを使う。でも遠出はしないで近場で済ませる。それにクルマはたまには走らせないとバッテリーが上がってしまう。

 この冬はことのほか寒かったのだが、オイルヒーターを我慢して、あるだけの厚着をし、湯たんぽで通した。さいわい風邪も引かないで良かったと思う。薬も殆ど飲まない。クリニックへも運転免許更新時以外は全く行かない。気が張っているから病気にもならないのだろうか。病気にでもなれば節約など吹っ飛んでしまう。

 その他にも他人には話せない様な節約はいろいろと工夫して、そこまでやるか。と言うところまでしている。

 何故これほどまでにして、節約をしなければならないのだろう。

 コロナ禍以前には毎年1回、2~3か月を日本に帰国していた。2020年の2月29日の帰国便をキャンセルして、2年が過ぎたが、ずっと蟄居生活が続いている。その前の1年を足すともう3年も帰国しないでセトゥーバルの我が家に居る。

 コロナ禍以前に毎年帰国していた折にはその1年間にVISAカードでポルトガルで使う金額程度を日本の銀行の定期預金から普通預金に移してからこちらに戻って来た。それが帰国しないからできないのだ。VISAカード引き落とし口座にはあまり残金は残っていないはずだ。

 コロナ禍以前には、スーパーの買い物も、レストランも、旅行の際のホテル代もガソリンも殆どをVISAカードで支払って日本の預金口座から引き落とされていた。現金は露店市の買い物、メルカドの買い物、カフェくらいだ。

 ポルトガルの銀行にも口座はあるが、電気、ガス、水道などの光熱費はそこから引き落とされる。

 だからコロナ禍以後はVISAカードを使わないで、ポルトガルの銀行に残している光熱費と同じ預金からムルチバンコで全てを使っている。それは節約しているお陰で未だ当分は大丈夫だろうと思うが、蟄居生活がいつまで続くか判らないので、出来るだけ長く使えたらと思って節約を心がけている。

 宮崎の自宅も数年前にリフォームし、そろそろ日本に引き揚げをと考えていた。だからポルトガルに置いてある預金も減らしつつあった。

 そんな矢先のコロナ禍だが、蟄居生活を過ごす内にむしろ蟄居生活の快適さ、何もしない快適さを肌で感じているのかもしれない。マスクをしての外出も案外と快適だ。セトゥーバルでも良いな。もしかしたら日本に引き揚げしないでも良いのでは?などとも思い始めている。

 コロナ禍ではセトゥーバルの人達の親切にも思いもかけず触れることが出来、セトゥーバルで良かったなと何度となく思った。

 宮崎に帰っても自宅からの見晴らしは良くはないし、別に何もすることはないし、と考えてしまう。その点、セトゥーバルの自宅からの眺めは飽きることがない。季節の移ろい、野鳥たちの囀り、人々の動き、それにセトゥーバル港に出入りする貨物船、漁船、観光船やヨット、たまにはカラベラ船やサグレス号もやってくる。きょうも2本マストの大型帆船が入港した。

 4月24日の真夜中、日付が替った0:00に漁港あたりからの豪華な花火が10分間続いた。我が家の寝室のカーテンを開けるだけで真正面の1等席だ。大晦日のカウントダウンの花火は自粛で今年はなかったのだがその分で『革命記念日』に打ち上げたのだろう。

 セトゥーバル港などを歩けば自分自身が住民にも観光客にもなれてしまう。大きすぎず、小さすぎず、ひととおり何でも揃う。労働者の町なので物価も安い。本当にセトゥーバルで良かったな、と今更ながら満足している。

 家にばかり居ても絵を描いたり本を読んだり、パソコンをしたりと1日が瞬く間に過ぎて飽きることがない。そして節約も苦にはならない。いや、節約を楽しんでいる。お金を使わない。

 でもお金は使わないとあの世までは持ってはいけない。自分で稼いだお金は自分で使わないと、とは思っているが、ケチが身についてしまいそうだ。

 だが、ポルトガルに置いている預金には限度がある。出来れば帰国して定期預金を普通預金に移し、VISAカードでたっぷりと使いたい。この生活がいつまで続くのだろうと心細くもある。

 

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195. 狂気の風景画家 Pintor de paisagens louco.

2022-04-01 | 独言(ひとりごと)

 『人物の入った風景画程つまらないものはない』とは司馬遼太郎さんの言葉である。どこかのエッセイで読んだ記憶があるのだが、どこだったかは定かではない。

 実は僕もかねがねそう思っていたし、ポルトガル風景スケッチに人物を入れたことはない。

 でも僕が最も尊敬しているゴッホにも佐伯祐三にも風景画に人物が描かれているものもある。佐伯祐三の風景画の人物は無くても良かったと思うが、ゴッホの風景画の中の人物はそれが物語だ。もはやそれは風景画では括れない絵だと思う。

 それはミレーの絵と同じように農夫の作業の様子だったり、祈りの絵であったりは確かに風景の中に溶け込んではいるが風景画では括れない。

 何故、風景画の中に人物が描かれているとつまらないかを司馬遼太郎さんは書かれている。

 『風景に人物があると物語が出来上がってしまって、もはや風景画ではなくなってしまう。

 風景画は風景画を見ている人が自由に眺めたり、もし道があればそこを歩き回ってみたり、夢の世界に誘ってくれる、見ている人が物語を語ることができる風景画でなくてはならない。』と言った意味を書かれていたように思う。

 人物が入っていたら既に物語が出来上がってしまい、その風景に入り込めないのだ。魅力が半減してしまうというのだ。

 風景画の中の人物はともすれば写真から切り取った様な静止画になってしまう。それは折角の風景の邪魔になってしまうようにも思う。

 風景画といわれるものを最初に描いた画家はヤーコプ・ファン・ロイスダール(1628年頃=1682)だと言われている。17世紀のオランダの画家だ。17世紀はレンブラント(1606-1669)やフェルメール(1632-1675)が活躍した時代でオランダ絵画の黄金時代であった。

 それまでの絵画はイタリア、ルネッサンス期の絵画、例えばダ・ヴィンチ(1452-1519)の『モナリザ』の様に聖人を描くのが絵画であったのだ。でもモナリザの背景には緻密に風景が描かれている。更に遡って15世紀のオランダのロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1400-1464)の聖人像の背景にも緻密な風景が描かれている。聖人像と風景は一体となって描かれていたのだ。

 それが17世紀頃からヤーコプ・ファン・ロイスダールなどが風景を独立させて描き始めた。その後の19世紀イギリスの画家ターナー(1775-1851)なども風景画家といえるのかもしれない。コロー(1796-1875)も多くの風景画を描いている。それに続くバルビゾン派などは尚更だ。画家たちは競って戸外で絵を描いた。刻々と変わる光をとらえようとした。そしてそれは印象派へと繋がっている。

 でもバルビゾン派の風景画にはよく人物が描かれている。戸外でダンスに興じている姿や、ピクニックを楽しむ恋人たちだ。それらは風景の中に溶け込むように小さく描かれているものが多いが、もはや風景画ではない様にも思う。物語が出来上がっているのだ。そのスタイルは印象派にも繋がっている様にも思う。

 印象派以降、フォービズムの時代の風景画が僕は好きだ。例えばヴラマンク(1876-1958)。そのスタイルはヴラマンクを通して佐伯祐三(1898-1928)にも受け継がれている。

 僕は絵を描きはじめの頃、天王寺美術館半地下にあった、デッサン研究所に通っていた。通っていたと言っても、行っても行かなくても良い様な場所で、アトリエにイーゼルはたくさん立てかけられていて、描きかけのデッサンも多くあったが、一日を通して描いているのは僕一人だけという日もあった。そこの研究生は天王寺美術館の入場はフリーパスで、デッサンに飽きると美術館内が散歩コースで、たびたび架け替えられる常設展を観て歩くのが楽しみであった。

 そんな中に佐伯祐三の風景画があった。架け替えられ、常に10点ばかりが常設されていた。それ以前から佐伯祐三は僕の最も好きな画家の一人であったので、美術館のフリーパスは有り難かった。

 美術評論家の朝日晃さんの佐伯祐三に関する文章に興味深い一節を見つけた。

 ―『村と丘』の稜線は、『扉』の歩道上の擦り減った部分の表現、墨書の筆致に共通している。実景は何度見てもほぼ水平、佐伯の画の様に稜線が波打ってはいない。モラン河越しのなだらかな丘、佐伯が絵筆を握りしめているあいだ風-で飛んできたものか、一本の折れ釘のような小さな草の枝が中景の屋根に塗りこめられて、稜線の曲線と呼応する。同質の線が、佐伯の足元からゆるい下り勾配になる麦畑の畝、左右に一本、三本と走る。見おろす空間は拡がり、風のリズム—が描出されている。(中略)三十か所ちかいパリと、イル・ド・フランスの佐伯祐三の写生地、に立つとき、私はいつも佐伯の描いた同じ季節を選ぶ。彼の足跡はぬかるみ、氷が張り、重い雲のたれこめた曇り日、みぞれが降り始め、雲が切れても決して陽光は長続きはしない。しかし、靴底から佐伯祐三の視線と体温までがじわじわと伝わってくることだけは確かだ。(『佐伯祐三のパリ』朝日晃より)

 実は僕も佐伯祐三が描いた場所には殆ど立っているし、住んだ場所も確認はしている。僕はサロン・ドートンヌに出品するためパリを訪れ、その合間を利用しての佐伯祐三の足跡を訪ねる旅をしたので、季節もほぼ一致している。『佐伯祐三の足跡を訪ねて

 今では僕は好きな画家は大勢居て、数えきれないがその絵を描きはじめの頃は佐伯祐三とルオーが最も好きであったと思う。そういえばルオーの風景画にも必ず人物が入っている。でもそれももはや風景画とは言えない。ルオーの場合はやはり宗教画なのだろう。

 ルオーと同様フォービズムで好きな画家にスーチン(1893-1943)が居る。教科書などにはスーチンは静物画が良く掲載されているが、南仏セレの美術館でスーチンの風景画40点ほどをまとめて観ることができた。この時の感動は今も忘れられない。スーチンは僕が最も好きな画家の一人だが、スーチンの風景画には必ずと言っていいほど人物が描かれている。これも無かっても良かった人物の様にも思うが、いや、必要だったのだろう。狂気の人物、狂気の風景ではないだろうか。思いっきり歪んでいるのだ。もはや風景画では括ることが出来ない素晴らしい画面だ。スーチン自身の内面が全て画面に叩き込まれていると言った感じだ。

 佐伯祐三とスーチンを同一視は出来ないが、どちらも最も好きな画家である。そして図らずも思いっきり歪んでいるのだ。僕などが歪んだ風景を描いたなら、それはわざとらしくなってしまって、見られたものではない、見るに堪えない。

 同時に風景の中に人物も描かれている。狂気の人物だ。僕などが風景の中に人物を入れたなら、やはり、わざとらしくなってしまって、見られたものではない、見るに堪えない絵になってしまう。

 でも朝日晃さんが書かれている様に、佐伯の絵の如くに『モランの稜線は波打ってはいない。』フランスの風景は殆どまっ平で道も真っ直ぐに延びている。

 でもポルトガルは違う。実に曲線が多い。大地も道もそして建物も。わざとでなくても歪んでいるのだ。性格的にいやという程、几帳面?な僕ですら歪んで描けてしまうのだ。

 風景画にしろ、静物画にしろ、人物画にしろ、勿論、抽象画にしろ、それはモチーフを借りているだけで自己表現に他ならない。それは絵にしろ、彫刻にしろ、音楽にしろ、演劇にしろ、また文章にしろ、全く同じなのだと思う。芸術家だけではない。料理人でも政治家でも同じだと思う。自己表現なのだ。

 印象派の重鎮で誰からも慕われていたカミーユ・ピサロ(1830-1903)に自分の絵を観てもらおうとした画家が謙遜のつもりで言ったのだろう「ほんのアマチュアですから。」それに対しピサロは「絵にアマチュアもプロもない。良い絵があるか、悪い絵があるか、だけだ。」と応えた。

 数年前『『アドルフの画集』(Max)2002年。ハンガリー、カナダ、イギリス合作映画。108分。監督・脚本:メノ・メイエス。主演:ジョン・キューザックノア・テイラー。』という映画を観た。もう一度は観たいと思っているのだがなかなかやらない。『画家を目指していたアドルフ・ヒトラーはなかなか思う様な良い絵が描けない。やがて絵を描くことよりもアジ演説に自身の才能を見いだし、それにのめり込んで行く。民衆の支持を受け、どんどん政治家として頭角を現し、やがて独裁者となってゆく。そして狂気は留まるところがなかった。…』という映画だ。 

 歴史に『もし』はないけれど、もし、アドルフ・ヒトラーがアジ演説に長けてはいなくて、政治には見向きもせず、辛抱して絵を描き続けていたなら、或いはスーチンやムンクのような狂気の画家になれていたのかも知れない。

 ウクライナの民間人集合住宅に毎夜爆撃し、瓦礫と化し、その中に死体の横たわるニュース映像などを見ていると、プーチンは狂っているとしか思えない。

 

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194. 本日は2739と194也。 Hoje é 2739 e 194.

2022-03-01 | 独言(ひとりごと)

 毎月1回掲載、月初めのエッセイが194にもなった。

 1年間は12か月だが、毎年帰国する間はお休みをするので、年間に9つ程。なので194は自分では驚く数字、驚く年月である。

 そもそもはポルトガルに住み始めた1990年当初、日本の友人知人たちへ挨拶文を書くのだが、だいたい書くことはほぼ同じ文面になってしまう。それでA4の紙に手書きをしてそれをコピーし『ポルトガルのえんとつ』という情報紙にして手紙代わりに郵送したものだ。返事を頂いたものに対して又次の号を郵送した。MUZが中心になって文章を書き、僕も少しの文を書いた。

 何号続いたかは忘れたが、結構続いたのだと思う。そのMUZの文章が出版社の目にとまり『ポルトガルのえんとつ』と『ポルトガルのこうのとり』という2冊の本になった。何れも日本図書館協会の選定図書に選ばれた。

 元々はポルトガルに移住する前、宮崎の山あいで飲食店をしていたのだが、その後半ごろに『山あいVOICE』というタイトルで情報紙を作っていた。毎月催す『ジャズマニア集中講座』と民芸陶器や絵画などの展覧会のお知らせ、それに購入ジャズレコードの紹介、そしてあいさつ程度のエッセイ。それをB4の紙両面びっしりと手書きをして、200枚程をコピーし店に置いていたものだ。山あいVOICEのVOICEはニューヨークの文化情報新聞『VILLAGE VOICE』をもじったものでVOICEのロゴ文字も同様にした。その『山あいVOICE』は朝日新聞地方版でも紹介された。

 ポルトガルに移住して暫く経った頃、パソコンに入る前にワープロを購入した。手書きの文字はワープロ文字になった。

 ポルトガルに住み始めて10年程経った時、当時僕たちより長くポルトガルにお住いだった日本人女性から「武本さんたちもパソコン始めなさいよ。」と勧められたのがきっかけだったのだが、丁度2000年のミレニアムという時代でパソコンの『ウインドウズME』を日本で購入しポルトガルに持ってきた。僕たちにとっては最初のパソコンである。パソコンはいかにも難しそうであったが、日本での僕の個展期間中にMUZが1週間パソコン教室に通った。

 元々機械音痴、アナログ人間、携帯電話も使ったことがない(いや、だいたい電話が苦手なのだ)僕はパソコンに触るのも怖くてMUZがパソコンを操るのを後ろから見ていたのだ。

 でもほぼすぐに慣れて、1年後には『ホームページビルダー』のソフトを日本から購入してきホームページの立ち上げに成功していた。『YAHOOジオシティーズ』にMUZと僕と別々にホームページを掲載することが出来た。毎月月初めエッセイは今と同じである。紙のプリントと違うのは写真やアニメーションを作って載せられること。遊び半分で簡単なアニメーションも毎月作った。

 その『YAHOOジオシティーズ』が突然閉鎖になってしまった。

 でもその前から、別の『gooブログ』にMUZは『ポルトガルの野の花』と僕は『ポルトガル淡彩スケッチ』をほぼ毎日1景を掲載し始めていた。その『ポルトガル淡彩スケッチ』が2022年3月1日現在『2739景』となった。MUZの『ポルトガルの野の花』も更新に更新を重ねて数えきれない。

 ヨーロッパはどこでも絵になる。などと良く言われるが、いざ歩いてみると、それ程でもなく絵に出来るところは限られていると言うのが実感だ。同じ場所は何度も描いてはいるが2739景に同じ絵は1枚もない。0号サイズ程(17x12cm)の小さな画面に簡単な線描き淡彩だけれども2739景は我ながらよく描いたものだと思う。『淡彩スケッチ』は高島屋での個展にも油彩と一緒に展示したこともあるし、大阪西天満の『マサゴ画廊』と大阪長居の『ギャラリーキットハウス』で『淡彩スケッチ』だけの個展も併せて3度して頂いた。

 元々は長年に亘って油彩を描くために鉛筆だけでラフスケッチした膨大にあるエスキースであるがブログ用に小さな画面に描き直し淡彩を施したものである。どこまで続けられるかは判らないが、せいぜい描いてみようと思っている。

 そして『YAHOOジオシティーズ』の閉鎖に伴い、ホームページのエッセイ部分は僕のとMUZのエッセイ『ポルトガルのえんとつ』も共に『gooブログ』に移転したのだ。その僕のエッセイ『端布キャンバス』の部分だけで194だ。

 暫くはブログも2人分を併せて情報紙版にレイアウトし直しプリントし郵送もしていたのだが、プリントしての郵送はだいぶ以前から止めている。プリンターはなかなか言うことを聞いてくれない。セトゥーバルの郵便局は順番を並ばなければならないし結構大変なのだ。日本からも手紙はほとんど来なくなっている。もう郵便の時代ではないのかもしれない。

 でもパソコンの文章などなかなか読んではくれないのだと思う。

 友人知人に宛ての挨拶文、という感覚からは外れて自分自身の記録という意味合いに傾いてしまっているように思う。

 パソコンはウインドウズMEから数えて4台目だが、実はMEも未だに使っている。MEには写真ソフト『オリンパス蔵衛門』というのを入れているのだが、それを使っているのだ。『蔵衛門』はウインドウズ10には入れることが出来ない。他のソフトで同じピクセルに縮小しても『蔵衛門』の方が画素数は小さくなってブログに挿入しても負荷がかからない。と思っているからだ。

 エッセイは誰かに読んでもらおう。などとは最早思ってはいなくて惰性で書いている。でも自分で振り返って読んでみると、ああ、そうだった、そうだった、こんなことがあった。などと振り返り楽しんでいる。旅行記などは尚更だ。1回分のブログには入りきれないで前半、後半に分かれることもある。ぐだぐだと書いた旅日記でも自分自身では旅を反芻出来て楽しかった思い出がよみがえる。

 誰に読んでもらおうなどとは思って書いていなくてもアクセス数の多さには驚かされる。

 エッセイのブログにはアクセス数のカウントは入れていないのだがそれでも毎週お知らせが来る。そして『ポルトガルの野の花』と『ポルトガル淡彩スケッチ』ブログのアクセス数の多さに驚いている。

 長い文章はなかなか読んでもらえないから短くまとめている。などというブログもある。でも僕はむしろ出来るだけぐだぐだと長い文章を書きたいとも思っている。自分で書きたいから書いているのだ。自分で読みたいから書いているのだ。読んで頂く方には申し訳ないが、他人に読んでもらうことを想定していない。

 その姿勢は文章も絵も変わらない。絵も全く同じだ。他人に見てもらおう。とかは考えないで絵は描いているのだ。

 絵はどこかにはありそうでいて、実は今までに誰も描かなかった、隙間の様な、自分でしか描くことができない絵を模索し続けている。かと言って革新的な斬新な絵でもない。重箱の隅を突っつく様な感覚の絵だ。

 でもブログのアクセス数の多さを考えるとやはり励みになるし頑張ろう…?などと思う。

 

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193. 蕁麻疹と四谷怪談お岩さん Urticária e Yotsuya Kaidan Oiwa

2022-02-01 | 独言(ひとりごと)

 僕は終戦の次の年、終戦の日から500日足らずのところでこの世に生を受けた。戦後ベビーブーム、いわゆる団塊の世代の先頭になる。高校生の時に一つ上の学年は4クラスしかなかったのに、僕たちの学年は15クラスであった。しかも1クラスに52人もが詰め込まれ、教壇のギリギリから教室の後ろの壁まで、通路も狭くといった状態であった。

ヴァスコ・ダ・ガマ絵柄花瓶のバラ

 僕が生まれた時には北九州から母の姉、つまり僕の叔母さんが汽車に揺られわざわざ大阪まで来て出産に立ち会ってくれたらしい。

 途中、広島で原爆から1年後の惨状なども汽車の窓から目にしている筈だ。

 僕が生まれて叔母さんの最初の一言は「この子は生きられんよ」だったらしい。僕が成人してからそのことは笑い話の様に聞かされた。

 とにかく目と鼻と口ばかりが大きく、身体は本当に貧弱であったということらしい。母も戦中戦後の食糧難で栄養失調気味ではあった。

 でも僕自身の生きようとする力がそれに勝ったのだろう。母の母乳をむさぼり飲んだのだそうだ。母は僕を生んでから歯がボロボロになっていった。という話も後になって聞いた。

 叔母さんが言った「この子は生きられんよ」という言葉は覆す結果にはなったが、身体は小さいままであった。小学校の教室では机はいつも最前列であった。

 風邪は引きやすいし、骨が弱く骨折もたびたびした。小学校近くにあった淀井外科病院では僕は常連患者であった。怪我をしても血がなかなか止まらなかった。それにアレルギー体質が酷かった。

 その頃はアレルギーの研究など今ほど出来てはいなくて、小児科の先生に診てもらっても「青魚は食べさせない様に」という程度のものであった。兄や妹は鯖や鰯を普通に食べていたが、そんな時、僕には決まって塩鮭が用意された。

 でも北田辺商店街の裏手にあった内科小児科の友廣先生の自宅にはしょっちゅう出かけて診て貰っていた。友廣先生は阿部野橋のビル内に診療所を開院されていたのだが、ご自宅で早朝、特別に診て貰っていたのだ。

 特に季節の変わり目などには蕁麻疹が身体中に出るのだ。痒くて一晩中眠れなくて、傷が出る程にも掻く。最初は小さい蕁麻疹が身体中に出る。それがまるでアメーバのように融合し、朝には身体じゅうが腫れあがり、顔は四谷怪談のお岩さんの如くになっていた。

 僕は当然、学校に行くのをぐずった。でも母はそれを絶対に許さなかった。

 先ず友廣先生のところに無理やり僕を引っ張っていき、注射を一本打たれるのだ。それから遅れてでも学校に行かされた。

 そんな時は休み時間になっても、僕は友達と遊ぶことも出来ずに、机にかじりついてうつむいて、誰とも顔を合わせない様に我慢していたのだ。

 小学1年生の時だ。幼稚園からも一緒で家も比較的近く仲の良い女子の友達がいた。家が近くと言っても、その娘の家は大きなお屋敷で何か大きな会社の社長の娘であった。

 普段は僕のことを「ポコちゃん」などと呼ぶ。不二家のポコちゃんである。

 僕の席は一番前の出入り口に近い一番右にあった。その娘の席は隣であったと思う。

 休み時間になっても僕は机にかじりついてうつむいていた。

 その普段は仲の良い社長の娘が子分の女子2人を従えて、僕の机によじ登るのだ。そして手を合わせて「なんまいだ、なんまいだ、どっぼーん」と言いながら僕の机から床に飛び降りる。それを3人の女子が休み時間じゅう、繰り返し繰り返しやり続けるのだ。

 僕は逃げることも出来ず、只、我慢するしかなかった。

 『なんまいだ、なんまいだ、どっぼーん』は四谷怪談のお岩さんが古井戸に飛び込む時の様子なのだ。

 それ以外はあまりいじめられたという記憶はないのだが、男子からも「武本に近付いたらうつるど~」などと言われたこともたびたびである。が、僕に近付かないでいてくれてむしろ助かった思いである。

 友廣先生は「中学生くらいになったら自然に治りますよ」と言ってくれていて、それが何よりの救いであった。

 小学校4年生の時、浅田君と一緒のクラスになった。浅田君の家は小学校に行く道すがらにあった。僕は毎朝、浅田君を誘って一緒に通学した。浅田君は僕よりも更に小さく、青白い顔をしていた。そして体育の時間にはいつも見学である。喘息が酷く走ることも運動をすることも出来なかった。無理して走れば死んでしまうかも知れないのだ。

 浅田君の家の玄関を開けると、時々は浅田君ではなくお母さんが出て来られて「きょうは休ませるから、一人で行ってちょうだい」などと言われた。

 母は「浅田君、可愛そうやな~」と言っていた。僕よりかわいそうな人はこの世にいっぱい居るのだ。と思った。

 蕁麻疹で死ぬことはないのだ。でも痒くてたまらない。夜には寝ながら母がよく身体をさすってくれた。僕が寝入ったと母は思ったのだろう。「こんな身体に生んでしまってごめんね」と母が小さくつぶやく声が聞こえた。

 中学生になって、小学生の頃に比べると格段に蕁麻疹は少なくなっていたが完全には治っていなかった。

 小学生高学年の時に『浜寺水錬学校』に通って、身体はかなり丈夫になっていた。浜寺水錬学校では同じクラスに俳優志望の可愛らしい男子がいてすぐに親友になった。俳優養成教室にも通っていると言っていた。

 でも僕の水泳の技術はめきめき上達し試験にもどんどん合格し上のクラスに上がっていったので、その後その男子がどうしたのかは判らない。僕の身体は小さいままだが見違えるほど丈夫になっていたのだと思う。僕はブレストストローク(平泳ぎ)では誰にも負けなかった。そしてどこまででも泳ぐことが出来た。

 高校になって水泳部に入りたいと思っていた。でも高校にプールがなかった。

 プールがない水泳部では仕方がないな、と思い、美術部に入った。

 美術部の顧問の藤井先生は身体こそ小さいのだがどんなことにも動じない図太い性格の持ち主であった。美術部だけではなくラグビー部と山岳部も兼任しておられて、ジャージを着て頭にはプロテクターを被って生徒と一緒に運動場を走り回っておられる姿に僕は感銘を覚えていた。

 そして僕の性格も変わっていったように思う。母は「藤井先生のお陰や」と言っていた。

 美術部では毎年合宿を行う。小豆島や尾道などいろいろと行ったが僕が3年生の時に僕の企画で信州での合宿を行ったことがある。運動部や山岳部、スキー部などは格好の合宿地なのだが絵にするには難しい。遠くまで来た割には失敗だったかなと思っていた。

 それでもやけくそでグラウンドに部員全員の絵を並べた。それを地元の人が褒めてくれた。

 そしてその夜、地元の盆踊りに参加した。盆踊りではのど自慢大会もあった。僕はビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」を歌った。そんなことを数年前エッセイに書いた。僕のバックコーラスをしてくれた人を勘違いして書いてしまった。それをその時の美術部の仲間だった、はるき悦巳があの時のバックコーラスの一人は僕ですよ、と指摘してくれた。『じゃりン子チエ』作者のはるき悦巳である。

 僕は高校ではすっかり蕁麻疹は出なくなっていたと思っていた。でも、最近、はるき悦巳が「武やんはしょっちゅう口を腫らして高校に来ていたよ」と言っていたから蕁麻疹は未だ少しは出ていたのだろう。でも小学生の頃に比べたら無かったも同然である。

 中学生や高校生の頃、それに大学に入ってからも一人で九州の祖母のところに遊びに行った。時には友人を誘ったこともあるし妹が一緒のこともあった。近くに叔母も住んでいた。2人はいつも歓迎し可愛がってくれた。

 祖母は八幡製鉄の技術者の夫、僕にとっては祖父が亡くなった後、同じ八幡製鉄の技術者と再婚して苗字が替わっていたが義祖父も歓迎してくれた。

 そして折尾という町の芦屋という地区に住んでいた。1964年、ユル・ブリンナー主演のハリウッド映画「あしやからの飛行」の芦屋である。戦後、アメリカ駐留軍の基地があったところで駐留軍住宅の払い下げ家屋を祖母は買い取って住んでいたのだ。だから当時としては全てが西洋式で僕にとっても珍しい家であった。そして海水浴場がすぐ側にあった。

 僕は身体が丈夫になったといっても、今でも高温多湿には弱い。日本の梅雨時、秋の長雨の時期など、体調が悪くなることがある。エアコンのある部屋に逃げ込みたくなる。

 その点、ヨーロッパの気候風土がしっくりとゆく様な気がする。暑い時期には空気はからっとしていて、寒い時期に湿度が高い。日本とは逆なのだ。

 スウェーデンに住んでいた4年間はずっと調子が良かったし、ポルトガルに来てからも調子はすこぶる良い。一方、南米ではもひとつ調子が悪かった。

 1976年、南米を10か月かけてゆっくりと旅した。ブラジルからパラグアイ、アルゼンチンと旅し最南端まで行きチリからボリビア、ペルー、エクアドールと北上しコロンビアに入った。その頃にはいよいよ体調は悪化し蕁麻疹がかなり出てしまっていた。ボコタのツーリストインフォメーションで医師を紹介してもらって診てもらった。注射を打って薬を貰ってようやく良くはなったが、コロンビアの高温多湿に参ってしまったのだ。でも注射1本と薬で瞬く間に良くなったのは驚きであった。医学の進歩、アレルギーの研究が進んでいるのを実感した。子供の頃にこれだけの医療技術があれば良かったのにとも思った。でも薬には出来るだけ頼りたくはない。

 高温多湿のバリ島でも調子が悪くなった。

 僕のアレルギーは青魚などではなくて『高温多湿』なのだとようやく理解することが出来た。

 でも『この子は生きられんよ』と言われてから70年以上も生き、コロナ禍にも今のところ動じず、ますます元気になりつつある。かな? 

 

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192. 冬の眠れない夜に Em uma noite sem dormir no inverno

2022-01-01 | 独言(ひとりごと)

 明けましておめでとうございます。

2022年1月1日、7:55 ベランダから撮影の初日の出とセトゥーバル港

 足がイライラして眠れない。明らかに運動不足だ。

 コーヒーは朝の9時に一杯飲むだけ。お茶も朝一番に1杯だけ。どちらも極濃いのを飲むが朝だから夜の就寝時までの影響はない。カフェインのせいではない。カフェインで眠れない時とは明らかに症状は違う。

 コロナ禍で何処へも出掛けない。家に居て隠遁生活がもう2年も続いている。家に居てはなかなか身体が動かせない。明らかに運動不足だ。出来るだけこまめに動くようには心掛けてはいるが、家の中だからせいぜい動いてもたかが知れている。

 昼間窓際で本を読みだしては「あっ、けん玉をしよう」などと思う。けん玉は案外と運動になる。南極の越冬隊員がブリザードで屋外活動が出来ない時など昭和基地で運動不足解消のため、けん玉をするそうである。でも僕は中皿100回、小皿100回程度で飽きてしまう。もう少し巧くなって止め剣が連続で出来る様にでもなれば今よりは続くのかもしれない。

 絵を描くことは僕にとっては仕事だ。毎日必ず絵筆を持つ。絵を描くことも運動になる。中川一政先生は「絵を描くことは相撲のぶつかり稽古と同じだ」と言われたくらいだ。中川一政先生は大相撲の横綱審議委員をしておられたくらいだから、間違いがない。

 その通りで冷蔵庫の中の様な北向きの凍え切ったアトリエでも絵を描き始めると、身体がぽかぽかと温かくなってくる。でも絵もそれ程長時間は描けない。描くのは毎日ほんの少しだけ。描きかけの絵を眺めている時間の方が長い。

 ついついパソコンの前に座ってしまったり、陽当たりの良い窓辺で読書と言うことになり座る時間が多くなる。3度の食事ももちろん座って食べる。

 夕食後、夕方のニュース情報番組が終わったら映画のチャンネルに切り替える。映画を観ながらベッドの上でストレッチ体操などをしてみる。足のふくらはぎが伸びて気持ちが良い。1本を観終わったところで21:00頃となり風呂に入る。

 風呂から上がるとベッドの中に入って2本目の映画を観る。その映画が面白い映画なら良いのだが、面白くない、観なくてもよかったと思う映画の方が多い。

 映画には日本語の字幕スーパーはない。ポルトガル語の字幕スーパーだ。アメリカやイギリスの映画なら英語のまま、フランス映画ならフランス語のままで、それにポルトガル語の字幕スーパーが入る。どうしても細かいところまでは判らない。翌日には検索をして内容を確かめる、が観ている時には訳が判らないことが多い。

 風呂から上がって身体がぽかぽか温かいので睡魔が襲ってくる。時々は寝てしまう。そのまま朝まで眠れてしまえば良いのだがそうはいかない。映画の終わりと同時に目が覚める。23:00頃だ。

 そうなると今度は眠れない。眠くて仕方がないのに眠れない。足がイライラして眠れない。

 夏なら寒くはないのでパソコンを開いたりしていろいろとできる。眠らなくても一向に構わない。パソコンで何かをし始めるとその内眠くなってベッドに入るとすぐに寝てしまう。

 でも冬の夜は寒い。眠くて仕方がないのに眠れないのは辛い。ベッドに横になっていても足がイライラしてそこら中を歩き回りたい気持ちだ。老人ホームなどで夜中の徘徊が問題になるが、あの気持ちが判る。

 寒い部屋を歩き回って風邪を引いても大変だ。

 以前には帰国時に鹿児島の温泉宿にたびたび出かけた。大浴場前のホールにマッサージ機があったりする。肩や腰のマッサージだけではなくふくらはぎのマッサージをしてくれる機械もあった。あれは気持ちが良い。それに足裏マッサージ機。そんなものが自宅にあればなと思う。でも何れもモーターで作動する。夜中ではモーターの低周波音が気になるかも知れない。第1、ポルトガルではそんな日本のマッサージ機など売られていない。

 MUZは寝られない時にはウイスキーかブランデーを1杯引っかけるそうである。夢心地の中でMUZが瓶をカチャカチャ選定している音が聞こえる。でも僕には強いアルコールは駄目でますます寝られなくなってしまう。

 ある映画の中でアンソニー・ホプキンスが寝る前にホットミルクを飲んでいる場面があった。ガウンを羽織ってベッドの周りを歩きながらマグカップに入ったホットミルクを飲んでいる。コニャックが似合いそうな俳優だが何故かホットミルクだ。

 寝る前にホットミルクなど消化に良くはないのでは、と思うが一度試してみようと思った。

 赤ん坊は母親のおっぱいにぶら下がったまま寝てしまっていたりする。或いは哺乳瓶を手に持ち、シリコンゴムの乳首をくわえたまま寝てしまっている。

 ブラッド・ピットのベンジャミン・バトンが、老人で生まれて赤ん坊で死んでゆく話ではないが、赤ん坊で生まれてその人生を全うし赤ん坊でその一生を終える。何か理想の様な気がしないでもない。

 絵も同じで赤ん坊まではいかなくても、小さい子供の様な無心な気持ちで絵を描きたいと思う。

 そしてこれはいけるかもしれないと僕は直感した。

 僕はマグカップのホットミルクに大匙一杯のココアを入れる。真夜中に冬の星座を眺めながらマグカップ1杯の熱いココアを飲む。これが案外といける。

 試しに最初にやってみたのがもう1年も前になるだろうか?

 たっぷりのココアを飲み干して、もう一度歯を磨き、ベッドに入る。

 これが不思議に今のところ功を奏して、いつの間にか眠ってしまっている。

 僕にとっては90%程の効果だ。

 これが効いているのか、効いていないのか、関係があるのか、関係がないのか、実は判らないのだが、それ以来、足イラで眠れない夜、週に1~2度はマグカップにたっぷりの熱いココアを真夜中に飲むことが習慣になってしまっている。

 

 2021年の夏の終わりころにはもうそろそろ終息かな、と思わせましたが、12月頃から感染者が急増し、規制が再び強化されつつあります。ワクチン接種も2回目3回目を済ませている筈なのに、検疫所に長い行列です。このコロナ禍、いつまで続くのでしょう。

 カナリアの火山噴火は先日、終息宣言が出されました。今年は早い段階でコロナも終息してほしいものです。

 皆様にとって、そして私たちにとっても2022年が良い年になりますように。武本比登志

 

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191. シンコ・デ・オウトブロのモシュカテル Moscatel na avenida 5 de outubro

2021-12-01 | 独言(ひとりごと)

 電化製品などいろんな物の対応年数が同時に来てしまって買い替えに忙しい。魚焼き器などは更に短く、もう既に3~4台目だ。でもどこの量販店を探しても以前に使っていた様な魚焼き器は見当たらなくて、仕方なく電気オーヴンを買ってしまった。

 日本にある様なガスの魚焼き器はポルトガルには全くない。電気だ。日本のオーヴントースターとも違う。

 電気魚焼き器では魚も焼くけれど、朝のパンを焼いたり、唐揚げを温め直したり、ピッザを焼いたりといろいろと使っていた。

 ピッザは確かにこの新しい電気オーヴンが便利だし、旨く焼くことが出来る。朝のトーストには時間がかかってしまって、如何にも電気代がかかりそうだ。魚は全く駄目で美味しくはない。でもピッザを焼くためだけなら何だか無駄なものを買ってしまったと後悔をし始めていた。

 実はオーヴンなら大型のガスオーヴンが以前からあり、大きな七面鳥でも焼くことが出来る。

 魚を焼くことが出来ないのは困ったものだ。以前にはベランダに炭火コンロを出し、炭火を熾し、それで焼いていた。でも20年程前から消防署の通達でベランダでの炭火焼きは禁止になってしまったのだ。

 それで仕方なく電気の魚焼き器と言うことになっていた。

 最初はマリアさんが窓際で魚を焼いていたのを見て、「その器具は何処で買われましたか?」と聞いたのだ。

 何とその店は以前に住んでいたアロンシェス・ジュンクエイロ通りからも近い下町のシンコ・デ・オウトブロ通りの荒物屋さんで下町に住んでいた時にもオイルヒーターを買ったし、圧力鍋も買ったお店だ。丘の上に引っ越してきてからも浴室の収納鏡棚やタオル掛けなど専門家に頼んで取り付けて貰ったのだが、一緒に品物を見定めに行ったのがこの荒物屋だった。

 『シンコ・デ・オウトブロ通り』は『10月5日通り』と訳すことが出来る。どこの町に行っても、どんな田舎に行ってもシンコ・デ・オウトブロ通りと呼ばれる道がある。10月5日はポルトガルにとって最重要の祝日でポルトガルが王政から共和制に代った日なのだ。10年程前のカバコ・シルバ政権の時には王政復古の話も出ていたのだが現在はそれも立ち消えになっている様だ。

 マリアさんに聞いて、すぐにその10月5日通りの荒物屋に行き、天火で煙の出ない電気魚焼き器を買ったのはもう20年も昔だ。そして窓際にそれ専用の台を作り、魚を焼き始めたのだ。鰯でも鯵でも、金目鯛でも鮭でも、黒太刀魚でも、ドーラーダでも。そして朝のパンも焼いたし、ピッザもドリアもグラタンもアップルクランチも簡単に便利に焼くことが出来た。

 毎日便利に酷使するものだから何処かここか故障をしてしまう。でも安いものだから次々に買い替えたのだ。下町の荒物屋でなくても郊外型の量販店でも同じようなものが売られていたので次からは量販店で買ったのだ。下町では駐車場が遠いし、量販店なら広い駐車場があり、クルマに載せるのが便利だからだ。

 でも最近はどこの量販店でも電気魚焼き器の姿を見かけなくなってしまっていた。

 それで仕方なく電気オーヴンを買ったのだが、それが失敗だった。

 それ以来、魚には苦労をした。オーヴンでは駄目だし、シャッパスでもうまく焼けない。フライパンでも駄目。でもどうしても焼き魚が食べたい。

 レストランでは炭火焼きの焼き魚が食べられるが、お供はジャガイモとパンだ。やはり日本人だから御飯と一緒に焼き魚は食べたい。

 1年も我慢してから「もしかしてあの10月5日通りの荒物屋には未だあるかも知れない」と思い立ったのだ。

 思い立ったが吉日。早速、行ってみることにした。

 水道橋の駐車場にクルマを停め、10分程の道のりだ。水道橋の周辺は大規模に道路工事中であったが、何とか駐車は出来た。6月にはジャカランダの並木が美しいジェジュス修道院の裏通りから中央郵便局の前を通り、左手に高校、右手に老人ホーム、税務署の角を回ると10月5日通りだ。昔からの小さな店やカフェ、銀行などもある商店街だ。この10月5日通りにバスターミナルがあるがその少し手前に目指す荒物屋がある。

 実はこの荒物屋で30年も昔に買った圧力鍋の蓋のパッキンが千切れて圧力がかからないで使い物にならないのだ。我が家には圧力鍋は8リッターと6リッターの2つあるのだが、蓋の口径は同じなので両方に使える。それで1つの蓋を両方の圧力鍋に交互に使っていたのだが、出来れば2つ共使える方が便利だ。それでこの際、圧力鍋の蓋も持参し、パッキンを交換してもらうことにした。以前には圧力鍋の取っ手も交換してもらったこともある。

 それとこの店で買って専門家に取り付けて貰った浴室の収納鏡棚も一部に錆が来て鏡が落ちてしまう危険がある。とMUZが言うのだ。何しろ取り付けて貰って30年だ。

 それも見てみることにした。

 とにかく何でもある、何でも揃っている便利な店なのだ。間口はそれ程広くはないのだが、入るとカウンターがあり、カウンターの後ろとその奥に収納棚があると見えて、自分で探し出すことは出来ないけれど、親父さんに欲しいものを言うとすぐさま見つけ出してくれると言うものだ。

 狭い場所に少しは展示スペースがあり、魚焼き器が展示してあった。でもそれは天火ではなく下から焼くもので、煙が出てしまう。

 僕は「このようなもので煙の出ない器具はないのですか?」と聞いてみた。

 親父さんはいかにも「やった」と言わんばかりの表情を浮かべ「あんたのすぐ後ろにあるじゃないか」と言った。

 振り向くと眼よりも高い所にその『電気天火魚焼き器』は鎮座なされていた。

 値段を聞いてみると案外と高価だ。でもオールステンレス製だから仕方がないのだろう。

 「ちょっと考えてみます。」と言った。

 MUZは目ざとく浴室の収納鏡棚を見つけている。今使っているのとほぼ同じサイズだ。30年も経っても同じものが売られているのだ。それもゆっくり考えればよい。

 「別件で圧力鍋蓋のパッキン交換は出来ますか?」と言いながら持参した鍋の蓋をカウンターに置いた。親父さんは大きく頷き裏側に引っ込みパッキンを持ってきた。サイズを合わせてみるとピッタリの様だ。古い切れたパッキンをドライバーでこじ外し始めた。「まるで木の様になっているな」と言いながら外していった。

 そこに常連さんらしい人がやって来て、親父さんと世間話を始めた。親父さんと年恰好も同じくらいで、いかにも毎日顔を見せる昔ながらの幼馴染といった感じだ。生まれたのもこの辺りで小学校も中学校も高校も同じ。親父さんは話に受け答えはするが、顔を上げないで懸命に古いパッキンを外している。

 世間話がひと通り終わったのか、常連さんは胸のポケットから50センチモ硬貨を1枚ずつ取り出しパチン、パチンと2枚をカウンターに並べた。2枚で1ユーロである。

 並べてから少し間があった。

 常連さんは意を決した様に「モシュカテル」と一言、発した。

 親父さんは初めて顔を上げた。あんぐりと口があいている。

 僕も常連さんの顔を眺めてしまった。

 更に間があった。いや、長い沈黙が続いた。3者がフリーズしてしまっていた。

 やがてフリーズから溶け、常連さんは何も言わず2枚の50センチモ硬貨を胸のポケットに戻し、無言で荒物屋を出て行った。

 どちらかと言うとかっこいい、すらりと背が高くやせ形でクリント・イーストウッドの様な老人であった。店を出る時は何も言わなかったが店を出てから「店を間違えたな」と独りごちたに違いない。

 モシュカテルとは『モシュカテル・セトゥーバル』と呼ばれ、名前の通りセトゥーバルが誇るワインの一種で、白ブドウ、マスカットを原料に、甘口でアペリティフまたはデザートワインとして小さなリキュールグラスで供され、ストックホルムのノーベル賞の晩餐会でもウエルカムワインとして使われたりもする。と言っても高級なものではなく一般的で、セトゥーバルではコーヒーと一緒に飲んだりもする。アルコール度数は17~18度で普通のテーブルワインに比べるとアルコール度数は高い。

左からJPのモシュカテル、ジョゼ・マリア・ダ・フォンセッカのモシュカテル1995年産、グラスに注いだ1997年産のモシュカテル、2000年産のモシュカテル。

 マスカットを絞ってあまり発酵が進まない甘いうちに、やはり葡萄の絞り粕から造った蒸留酒のアグアデンテという強い酒で発酵を止め甘さとアルコールが馴染むまで早いものでも3年は樽で寝かせてから市場に出される。古いものでは100年物と言うのを僕は町角のショーウインドウで見たことがある。100年物はやはり高価で5万円程の値札が付いていた。

 それを未だお元気だった頃のファド歌手月田秀子さんに話したら「5万円なら買っとけば良かったのに」だった。

 ポルトガル全国どこのカフェでもレストランでもパステラリア(お菓子屋)でもモシュカテルは置いてあるが、まさか荒物屋にはない筈である。荒物屋だけではなく、金物屋にもないだろうし、本屋にも文房具店にも恐らくはない。でも画廊にはある。個展などのオープニングパーティには欠かせられないものだ。

 圧力鍋の蓋が綺麗に出来上がったので、天火魚焼き器と浴室用収納鏡棚もまとめて購入することにした。何れもメイド・イン・ポルトガルだ。

 そして水道橋の駐車場まで急ぎ足でクルマを取りに行き、10月5日通りの荒物屋前にクルマを横付けした。

 親父さんは天火魚焼き器と浴室用収納鏡棚、そして圧力鍋の蓋をクルマまで運んでくれた。

 その後ろ姿は何かを考えている風にも見えた。

 今頃、親父さんは「モシュカテルも店に置くべきかな」と考えているのかもしれない。VIT

台所窓に専用台を置き、真新しいオールステンレス製の電気天火魚焼き器で早速鮭を焼く。後ろにサド湾とトロイア半島、そしてサン・フィリッペ城。

 

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