武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

160. アルガルベ地方小さな旅日記

2019-01-01 | 旅日記

明けましておめでとうございます。

 

2019年1月1日 (7:55)我が家のベランダから撮影の初日の出

160. アルガルベ地方小さな旅日記

 例年ならクリスマスにあわせてアルガルベ旅行をするところだが、今年は少し早めた日程になった。元々は油彩を描くためのモティーフを求めてポルトガル全国至る所に出掛けてはスケッチを描いてきた。年間50枚ほどの油彩を描くためのエスキースであるからそれ程は必要ではなかった。それでも長年にわたってのスケッチ、それが800枚1000枚と溜まっていく。

 数年前に思い立ってスケッチに淡彩を施し『ポルトガル淡彩スケッチ』というブログを始めた。それと一緒にメモ程度の日記を掲載している。これは毎日であるから、帰国で居ない時、旅行で居ない時は除いても年間200枚程のスケッチを掲載していることになる。それが先日で1600枚を超え2018年大晦日で1668景となった。

 当初は油彩用に描いたスケッチを描き直して淡彩を施していただけが、それでは間に合わなくなってしまって、今は淡彩スケッチを描くためのスケッチが必要ということになっている。

 今までもおおよそ他人の行かないところまで貪欲に足を延ばし描いてきた。でもまだまだ行っていないところも多いし、一度は描いたところでも立ち位置を1メートル2メートルずらすと、もう違う絵が出来上がってくる。

2018年12月20日(木曜日)濃霧のち晴れ。降水確率4%。

 朝食を済ませ8:30出発。少し通勤ラッシュ。濃霧。天気予報を見てからホテルの予約を入れたのだが、予報に濃霧までは予測がなかった。先日からフロントガラスが曇る。設定が旨く出来ていないか、排気口にゴミが詰まっているのか。或いは故障か。フロントには風が出ているのに曇る。弱いのだろうか?濃霧はいっそう強くなったり、弱くなったりでグランド―ラあたりまで。グランド―ラのリードゥルでトイレ休憩。

 ミモザの少し手前の松の大木にコウノトリが集団で巣を架けているのを以前から見ていたのだが、一瞬で通り過ぎてしまい、一度は停車して写真を撮りたいと思っていた。それがこの程、クルマ助手席の窓からの撮影が実現。

01.松の大木はコウノトリの集合住宅

 ミモザのドライブイン『サン・セバスチャン』でコーヒー休憩。コーヒーx2=1,40€。バカラウ・コロッケx2=2,60€。合計=4€。ヴィザカードで支払い。ヴィザは5ユーロからとのことで、5ユーロのレシートで1ユーロの現金でお釣りをくれる。このドライブインは例年クリスマス・プレセピオが飾られていて見るのを楽しみにしている。今年のものは昨年のよりは少し小規模だが可愛らしい。

02.ドライブインのプレセピオ

 もう既にアルガルベ地方、メッシ―ネスのドライヴイン・ガスステーション『ペトロソル』で昼食。豚ステーキのタマネギソース和え、ポンフリ、サラダ=7€。バカラウ・ブラス、サラダ=7€。ノンアルコールビールx2=2€。フルーツサラダx2。合計=16€。

 アルブフェイラの『リードゥル』で今夜のツマミの買い物、茹で蟹(サパテイラ・グランデ)9,99€。チョリソパン=0,79€。ピザパン=0,79€。箱入り赤ワイン1Lt=0,95€。リンゴ800g=0,99€。ミネラルウオーター(ルーソ)1,5Lt=0,57€。合計=14,08€。

 帰る日(22日)にリスボンの中華食品店『陳氏超級市場』のアルブフェイラ支店で買い物をして帰ろうと場所を確かめに行く。住所付近には『陳氏超級市場』はなかったが別の中華食品店があった。多分『陳氏超級市場』は撤退して他の人が経営を引き継いだのだろう。置いてある商品はだいたい同じ、ついでにツマミなどを買う。レシートを貰っていないのか、失ったのか、支払金額不明。おおよそ6~7€。

 ホテルに14:30に到着。フロントにはチェックインする人で5~6組の列。部屋はA503。海も見えて良い部屋だが東向き。荷物を置き、ビーチを散策。泳いでいる少年もいた。ビーチのバーでビール、生ビールx1。ノンアルコールビールx1。合計=4€。別の道、ホテル・モニカ・イザベルの方からホテルに帰る。テニスコートの横で灌木に地味な黄色の5~6弁花。これは初見花。ホテルの正面入り口付近はブルー系のイルミネーションで飾られている。駐車場の10株程の椰子の木にもらせん状にイルミネーション。椰子の株元にはポインセチア。入り口を入るとプレセピオ。

 部屋のテレビで先日のセトゥーバル対ブラガの試合を観ながら蟹を食べる。映画は映らない。部屋は寒くて、暖房を入れ、風呂に2回入り、毛布を掛ける。星空、多くの漁火。ファーロ空港に降り立つ飛行機のライトが見える。そして潮騒の音。

2018年12月21日(金曜日)晴れ。降水確率0%。

03.ホテルの部屋からの日の出

 朝は真正面から日の出。7:50頃に朝食サロンに。初めは空いていたがやがて満席に。殆どが英語。ウエイトレスも英語。たっぷりと食べ、たっぷりと飲む。

 9:00出発。やはり『ズー・マリーン』は冬休み。寄り道スケッチをしながらサグレス岬を目指す。でもポルトガルの沿岸線はどこも都会化或いはリゾート化され、絵になるところは少ない。日本でいう寒漁村というイメージはない。寒村は内陸部にあり、僕のモティーフはそちらの方が多い。

 途中パールシャルという町に立ち寄り、少しスケッチをし『デ・ボーラ』でトイレ。ついでに店内見学、買い物。紙ナプキン=0,59€。シャンプー750ml=0,99€。ベニテングタケとマツカサのクリスマス・リース用飾り=7,99€。合計=9,57€。

 街を出ようとすると踏切線路、そして駅が見える。引き返し駅へ、撮影。丁度列車が到着、数人が乗り降り。ファーロとラーゴスを結ぶ線で1日に往復14本があるらしい。駅舎はレストランになっていて、コーヒーを飲む。コーヒーx2=2€。

 ラーゴスの手前でアンタの標識があったので行ってみた。綺麗に整備された『アンタ遺跡』で入場料が1人2€x2=4€。カタログ=1€。カタログも葡語の他に英語、仏語、独語、西語と揃っていた。初めて見る形のアンタだ。他にも2組3人の見学者。オリーブの木に小さな実が一杯成っていて道にもたくさん落ちていた。誰も収穫しないのか?勿体ない。

 サグレスの魚競り市場のレストランを目指したが休み。その手前のレシデンシアルのレストランも閉まっている。ベリッチェ岬のレストランも定休日。日本では金曜日は来ン曜日とか言って、お客は少なく定休日にしているところが多いとのことだが、ポルトガルでも金曜日はどうも定休日が多いようだ。

 アルガルベ地方では例年のクリスマス時期には既にアーモンドの花が咲いているのだが、今回は2~3日早いだけなのに一輪も見られない。

 サグレス岬の駐車場付近で野の花観察。やはりヴィオラ・ペルシシフォリア(桃葉スミレ)は咲いている。ロブレア・マリティマ(スイート・アリッサム)やアレクリン(ローズ・マリー)もたくさん咲いている。この岬のアレクリンは濃色が多い。しかし目新しい花はなし。

 ビラ・ド・ビスポの方角に帰ろうとすると『漁師の食堂』の看板。そちらに行ってみたがやはり定休日。その先にもう一軒レストランの看板。たくさんの商用車が路上駐車をしている。これは期待が出来ると入ってみる。入り口の黒板に今日のメニューは鶏の炭火焼き。冷蔵ショーケースには新鮮な鯵。これで決まり。鶏の炭火焼き=7,00€。鯵の炭火焼き=8,00€。生ビール=1,00€。ノンアルコールビール=1,50€。デザート2,5x2=5€。合計=22,50€。デザートを食べ終える頃には既に3時を回っていたので、ウエイターの小父さんはすぐに会計のレシートを持ってきた。「デスカフェイナードも注文しようと思っていたのに」と言うとデスカフェイナードを持ってきたが「もうレシートを切ってしまったのでコーヒー代金はいらない」という。なかなか良い店が見つかった。鯵などは新鮮で大きいのが7尾も付いていた。食べ切れないので持って帰ったが、ホテルでも食べられず冷蔵庫に入れておいて結局自宅まで持って帰った。日本人らしきカップルが居たが話はしなかった。旅行者だろうか?

 ホテルに帰る途中、ラゴアのジュンボGSでガソリンを満タンに。24,12Ltx1,369=33,02€。クルマの正面に大きな満月。ホテルに戻ったのは暗くなってから。部屋のテレビは映画もなし、サムスンで薄型テレビに代わっていたが画像が乱れ見にくい。エアコンの温度を上げる。

2018年12月22日(土曜日)晴れ。降水確率0%。

 7:50から朝食。今朝もたっぷりと食べ、たっぷりと飲む。アルブフェイラ出発前に中華食品で豆腐などの生ものも含め、買い物をして帰る予定なので、ホテルの冷蔵庫で1,5リッターのミネラルウオーター2本を昨夜から凍らせておいた。

 ホテルを9:00出発、チェックアウト時に鍵のデポジット10€を受け取り、先日撮った花を朝の光で撮る。

 アルブフェイラ、ベラ・ヴィスタ地区の中華食品店『Folhas Queridas愛の葉っぱ』へ。土曜日の朝だからか、中国人常連客で賑わっていた。大根2,02kgx1,95=3,94€。白菜0,8kgx1,95=1,56€。即席ラーメン(出前一丁)0,60x6=3,60€。焼きそば乾麺418g=1,95€。餃子皮200g=2,50x2=5,00€。醤油(万家香)1Lt=3,50x2=7,00€。豆腐500g=1,30x2=2,60€。牡蠣油907g=4,95€。キッコーマン醤油1Lt=7,25€。油揚げ=2,80€。合計=40,65€。サーヴィスで凝った来年のカレンダーをくれたが、見にくくて恐らく使えない。凍らせた水と一緒に必要な食料、それに鯵を保冷バッグに。

 当初はヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオで話題のプレセピオを見学して、カストロ・マリム経由で帰る予定だったが、少々疲れたのでIC1で。スケッチをするつもりですぐに横道にそれた。それたすぐにはいい場所があったが、その後はなかなかスケッチの出来るような村はなく、代わりにアルブツス・ウネドが綺麗に群生しているところで撮影が出来る。

04. アルブツス・ウネド(イチゴの木)の白い花と赤い果実。この赤い実から特産の焼酎ができる。

 途中風変わりな標識、ヘリコプターとタンクローリーが水を汲める場所。小さな池があった。こんな水溜り程度の池でもヘリコプターで水が汲めるのだ。2018年8月に1週間燃え続けたモンシックの山火事もここからそれ程遠くはない。そう言えばその時のモンシックの山火事でユーカリと共にこのアルブツス・ウネドの木がたくさん燃えてしまった、とニュースは伝えていた。赤く熟した実を口に含んでも甘酸っぱくて美味しいのだが、赤い果実は蒸留酒の原料となり、アルコール度数46度もの強い酒になり、アルガルベ地方の特産品ともなっている。

05.水汲み場の標識

 いっぱいの朝露を受けて、エリカ・アルボレアも咲き始めていた。それとカモミールとアブラナ科の小さな花が一面に花盛り。この辺りは低地なのか湿度が高い。

 あちこちにため池がある。その先の地道を奥へ奥へと行くとやがて行き止まり。イギリス人のコミュンがあった。こんな奥地の古民家を買って、キャンピングカーも交えてイギリス人が数家族で暮らしているのだ。イギリスなどと比べると物価は安いし、暖房費はいらない。余程過ごしやすいのだろうと思う。それに加え、英語を話すポルトガル人は増えている。

 道は水没して行き止まりになっていたので元来た道を引き返し、舗装道路を行く。行くがスケッチの出来そうな村には行き当らず、お腹も空き始めたので、アルモドバール方面行きの道に出る。ようやく店が1軒。クルマが停まっていた食堂風の店に入ったが「昼食はやっていない。3キロ先にあります」とのことで3キロ先の食堂に入る。ほぼ満席。空いていた入り口付近の席へ。黒豚のステーキx2。ポンフリ、サラダ、ノンアルコールビールx2。デスカフェイナードx2。合計=16€。この辺りはどこも安い。黒豚のステーキが2枚ずつもついてこの価格。

 アルモドバールはつい先日もスケッチをしたところだが、再度歩き回ってスケッチ。少し大きな町ともなると、どこもクリスマス・イルミネーションの飾り付けがあり、スケッチの邪魔になるが、仕方がない。

 アルモドバールに着くまでに思った以上に難行したので、IP2に乗って、べ―ジャ経由で帰ることにした。

 西日はすぐに沈み、空一面に広がった夕焼けが美しい。美しい夕焼け空を楽しみながらゆっくりクルマを走らせたいところだが、他のクルマの流れに沿って、それ程広くもない道路を100キロ前後での運転。やはりフロントガラスが曇り始めたが、左側の吹き出し口のスイッチがオフになっていた様で逆にすると、曇りはほぼなくなる。

 フェレイラ・デ・アレンテージョからカナル・カベイラそしてIC1に入りグランド―ラ。グランド―ラの『コンチネンテ』でトイレ休憩。夕方のコンチネンテは買い物客で一杯。カフェに席が空いたのでデスカフェイナードx2。パスティス・デ・ナタx1。「コンチネンテのカードをお持ちですか?」で出す。合計=1,60€。

 家に帰りついたのが19:30頃だったか。いつもの駐車スペースは塞がっていて隣のマンションの前へ。買って帰った中華食品などを冷蔵庫に入れ、風呂に入り、テレビの映画も観ないでぐっすりと眠る。

 帰った翌日はアルガルベで買って来たベニテングタケのクリスマス・リースの追加をぶら下げ、ボーロ・レイ(ポルトガルのクリスマスケーキ)にアルブツス・ウネドの焼酎をたっぷりと振り掛けクリスマス気分を味わうこととなった。

 ちなみにボーロ・レイを食べる日は1月6日である。

 あまり描くところがないように思った旅だが、それでもスケッチブックの1冊が埋まってしまった。VIT

 

 

 

「ポルトガル淡彩スケッチ・サムネイルもくじ」

https://blog.goo.ne.jp/takemotohitoshi/e/b408408b9cf00c0ed47003e1e5e84dc2

 

 

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091. 再度、エストレラへの旅 -Estrela-

2018-12-25 | 旅日記

 日本からポルトガルへ戻って、車検を受けたり、固定資産税を払ったりその他にも諸々の雑用を早々に済ませて、未だ野の花が残っている内に小さな旅に出ようと思っていた。
 ところが今年は野の花の咲くのが早かったらしく、パルメラの野原にも殆ど目ぼしい花は残ってはいない。
 これは標高の高いエストレラ山地方へ行くしかない。でもエストレラ山には一昨年にも行ったばかりだ。しかも同じ時季に。
 そこで、前回に訪れたコースとは違うルートを考えて計画を練った。
 以前から行ってみたいと思っていたピオーダンとテルマス・デ・モンフォルティーニョをコースに盛り込んだ計画にした。

 

201112 Setubal - Arraiolos - Estremos – Covilhã

 

 家を比較的ゆっくりの出発だ。
 殆どの花が終わっているのに、セトゥーバルを出たあたりから沿道のところどころにチコリの鮮やかなブルーが目立つ。
 アライオロスを過ぎたところの時々寄るドライヴインで最初の休憩。ドライヴインの空き地では水撒きをする為にか、野の花が綺麗に残っている。アナガリス・モネリとシャゼンムラサキの群生が美しかった。
 もう少し走ったところでも濃いピンクの花が目に付いたのでシレネかなと思って停まってみると、ベニバナセンブリの群落であった。しかもその中に珍しい白花を見つけた。その他にもいろいろと咲いている。初めて見る花もある。これは期待できる。
 花を観賞しているところで、白バイの先導で自転車競走の一群が通り過ぎるのを見送った。恐らく100人以上の一群だろうが一瞬だ。
 やがて道は立派な高速になったが、フンダオンの手前から高速を下りて田舎道を行く。このあたりはサクランボの産地であるから、その様子を見ようと思ったのだが、以前見かけた時とは違う道に入ってしまったらしく、あまりサクランボの木は見かけない。
 でも今日がたぶん最終日だろうと思っていた「セレージャ(サクランボ)祭り」に迷いながらも巧く入り込んだ。それを充分見学した後でも、予定していたコビリャンのホテルに明るいうちに到着。

 

13 Covilhã – Piodão

 

 ビュッフェ式朝食を済ませ、フロントでピオーダンへの道を訊ねて出発。フロントのおじさんは細かいところまで教えてくれて的確だ。尋ねて良かった。「ほんの1時間で着きますよ。」とえらく簡単に言ってくれる。
 今日は楽勝だ。途中ゆっくり野の花探索ができるし、スケッチもたくさんできそうだ。

 ピオーダンはかなりの秘境らしく、最近ポルトガル人の間で評判の土地だ。
 ピオーダンにはホテルはイナテルの1軒しかなくそこを予約している。イナテルは半分官営的な宿舎で以前のエストレラの旅でもマンテイガスというところで泊った経験はある。その時も悪くはなかった。今回の旅では一番宿泊料の高い62ユーロである。朝食付き2人の値段でこれが1番高いのだからポルトガルの旅は安あがりで助かる。

 コビリャンのホテルのフロントのおじさんが教えてくれたウニャイスで休憩。水が豊富で古い水車小屋があった。無理やりスケッチをしたがあまり面白くない。黄色のヒメキンギョソウとジャシオネ・モンタナが大株で咲いていた。その後にも今回の旅ではジャシオネ・モンタナが今が最盛期といたるところで咲き誇っていた。

 1時間どころかもう随分と走っている。もうそろそろピオーダンかなと思ったところに標識があった。右もピオーダン、左もピオーダンである。どちらでも行けるのは、まあ、近い証拠。迷わず2人の意見は一致。少し下っている左の道を取った。


01.ウニャイスの町並み


02.右も左もピオーダンの標識

 ところが道はすぐに上りになり、しかもガードレールもない山道である。舗装はされているがガタガタ道である。2~30キロで慎重にのんびり走っているが後ろから追い越していくクルマもなければ、前からの対向車もない。もし対向車が来たら離合は出来ない狭さだ。ところどころで離合ができるふくらみはあるが、そこまでどちらかが下がらなければならないことになる。そのふくらみに停車して野の花探索だ。

 ムスク・マロウやカンパニュラが生き生きと見事に咲いている。停車時間が多かったせいか随分と時間がかかってしまった。やがてピオーダンに着いたのはお昼をかなり過ぎていた。

 ツーリスモでイナテルの場所を確かめて、というより、あれかなと思うところにそれしかなかったのだが、先ずは昼飯である。広場のまん前のカフェテラスで簡単に豚肉のビットークで昼食。
 昼食後、ピオーダンの村を歩き回るが、急な階段道の脇を水が勢い良く流れている。黒豚の子豚かなと思うような黒犬がわき目も振らずに水を飲んでいた。そんな水際にカンパニュラが美しく群生している。


03.ピオーダン全望


04.一心に水を飲む黒犬

 ピオーダンはポルトガルには珍しく黒いスレート石で屋根が葺かれ家の壁も黒っぽい石だ。それに扉がどこも同じ鮮やかな青色に塗られ独特の雰囲気を醸しだしている。
 ぱらぱらと観光客がやってくる様だが、本当にぱらぱらだ。広場に観光客相手のスレート石で家の模型を手作りして売っている露天が2軒あるがあまり売れている様子はない。

 イナテルにチェックインして部屋に入る。部屋からもピオーダン村の全貌が見える。そしてその遥か上方に先ほど自分たちがクルマを走らせてきた道路も見える。恐ろしげなところだ。例えばガラスのコップを型に砂糖をぎっしりと詰め、それを裏返しにして砂糖の山を作る。それに箸の先で横に一本線を引いた、そんな感じの道路だ。

 屋内プールで少し泳ぐ。イナテルのビュッフェ式夕食はワイン以外は恐ろしく不味かった。

 

14 Piodão – Seia

 

 遅い朝食時間の8時半になっても朝食室は未だ開かない。我々を含め数人がホールで待たされている。それから10分が過ぎてようやく扉が開いた。「遅れてごめんなさい」の一言もない。ビジネスマンが決して泊らない宿だから誰も文句は言わない。
 ビュッフェ式朝食は夕食に比べればまあまあであったが、今回のホテルでは料金が1番高い割には最悪と言わざるを得ない。

 昨日来た道とは別の道で引き返した。イナテルのフロントで道を尋ねたが、その入り口は判りづらく、難解であったが何とかパズルを解く要領で道を見つけた。

 このあたりにはピオーダンと同じ黒いスレートの村が点在しているがピオーダンよりさらに小さい。ピオーダンの特徴は白く可愛らしい教会を黒い家々が取り囲んで山の上まで伸びていっそう特徴を作っているところだろう。
 昨日の道の三分の一程で分岐点まで来てしまった。

 ヴィデからいよいよエストレラ山国立公園内の道路になるが、以前のエストレラ山の道とは随分と雰囲気が違う。やはり停まり停まりでゆっくり進む。前回は山頂を過ぎた付近で見事なエリカの群生地に感動したが、このあたりでもピンクや白のエリカが今が盛りとたくさん咲いている。

 きょうの予定地セイアに昼前に到着。ホテルにチェックイン。表は2階なのに裏から見れば6,7階の最上階である。

 早速お昼を食べにパン博物館へ向う。博物館併設のレストランは評判のレストランだ。前菜とデザートは食べ放題のビュッフェ式でメインディッシュはその日の魚料理と肉料理の両方が付く。
 僕たちが入った時には未だ少し空席があったがすぐに満席になった。比較的広い店内だが余程人気が高いのだ。前菜もメインも昨日とは打って変わって美味しかった。そしてウエイトレスやボーイもてきぱきとして感じが良く、もっと近ければたびたび訪れたいレストランだ。


05.パン博物館併設レストラン


06.パン博物館のショップ

 ひと通りパン博物館も見学して帰りにバン切りまな板と博物館製手作りクッキーをお土産に買う。
 食事の前には小学生の団体で大勢だったパン博物館はその時間になると、レストランに比べると空いていて殆ど僕たちだけであった。博物館は観ないで食事だけに来る人が殆どなのだろう。まあ、1度観ればそれで良いところだ。ポルトガル国内の地域のパンが模型で展示されていて興味深かった。本当に地域によっていろいろとあるのだ。

 僕たちもポルトガルに来てパンの美味しさに目覚めたと言ってよいのかも知れない。日本に帰って「このパン美味しいから食べてみ」と言われても、全く違うのだ。日本のパンはどれを食べても同じ、ポルトガルのパンに慣れてしまうと日本のパンの味が判らなくなってしまう。

 昼食はゆっくりたっぷりだったので夕食は町角のカフェでビールとつまみのトレモス(ハウチワマメ)だけ。

 

15 Seia - Gouveia - Folgosinho - Linhares – Covilhã

 

 今夜のホテルだけ予約はしていない。どこまで行けるかが判らなかったので、予約はしなかったのだ。明日のホテルはスペインとの国境にあるテルマス・デ・モンフォルティーニョにとってある。そこまで行くにはグアルダかベルモンテに今夜の宿を取れば楽勝なのだが、もっと先の先日泊ったコビリャンまで行けるともっと良いと思っていた。


07.ゴウヴェイアの教会前でエコを訴えるパレード


08.フォルゴシーニョの洗濯場

 先日のコビリャンのホテルは安くて良かったのだが、ネットで調べてみると、グアルダやベルモンテにはあまり安くて良さそうなホテルは少ない。その点、コビリャンは安売り競争をしているのかも知れない。といっても旅を急いでも仕方がない。見るべきところはしっかりと見ておきたいし、野の花も見逃せない。
 この辺りにも絵になる小さな村々が点在している。ただどこも黒い石作りの家々で、僕の絵の色彩が変ってしまいそうだ。

 グアルダからは高速に乗り一気にコビリャンに着いてしまった。同じクルマでも山道を30キロで走るのと高速を120キロで飛ばすのでは勿論違うはずだ。今まで地図上の小さな文字を追っていたのが、こんなに飛ばしてしまって良いのだろうか?と思ってしまう。

 コビリャンに着いて先日のホテルに電話をしてみた。料金はネット料金にはならなかった。でも普通料金よりは少し値引きをしてくれた。

 

16 Covilhã - Idanha a velha - Monsanto - Termas de Monfortinho

 

 今回の旅の締めくくりは温泉である。アルガルヴェ地方の温泉地カルダス・デ・モンシックにはたびたび出掛けていたが、昨年通ってみると、残念ながら愛用していたレシデンシアルが閉鎖されていた。しかたなく水だけ汲んで帰ったが、非常に残念である。そのレシデンシアルの風呂に入ると肌がすべすべになりポルトガルでの温泉気分が味わえたのに。
 テルマス・デ・モンフォルティーニョも温泉として有名なところらしく一度行ってみたいとかねてから思っていた。そして手ごろなホテルをネットで予約しておいた。

 そこに行く前に何年ぶりになるだろうか?恐らく10年以上は経っているだろう。イダーニャ・ア・ヴェーリャとモンサントに寄り道をして行く。


09.イダーニャ・ア・ヴェリャの町角


10.モンサントの家

 以前に訪れた時はは寒い12月だった。
 イダーニャ・ア・ヴェーリャは大規模な発掘調査中であちこちが掘り返されていた。カフェに入ると暖炉の火がぱちぱちと爆ぜていたのを覚えている。

 モンサントでは一軒しかなかったポウサーダに大晦日に泊った。元旦の朝、窓を開けるとその晩に降った雪で風景は雪化粧に一変し印象的な出来事であった。

 今回は夏、6月の昼間の一番長い時である。イダーニャ・ア・ヴェーリャの発掘調査は未だ続いている様であったが、すっかり整備されて綺麗に生まれ変わっていた。
 村の入り口には観光バスが何台も駐車できそうな駐車場ができ、そこから鉄板の遊歩道を歩いて村に入る仕組みになっていた。でもその日は観光客は全くなく、村人は僕たちの訪問を怪訝そうに見ていた。
 古い教会の鐘楼の上にはコウノトリの家族が大きくなってしまったひな鳥に手狭そうだった。
 昔も訪れたローマ橋まで行ってみると、突然大音量のファドが聞こえてきたかと思うと、移動魚屋さんのクルマがのんびりと走ってきた。何だか日本と良く似た田舎の風景だ。

 モンサントでも入り口の駐車場にクルマを停めて歩いた。
 以前止まったポウサーダは民間のホテルに売却したらしいが、そのホテルも営業を止めている様子だった。
 遊歩道は以前より整備されていて、お城の裏側から登れる道がハイキングコースの様に出来ていて、その道を上ったが、岩山の花々が美しかった。鮮やかなピンクのシレネ(ナデシコ)の群落あり、黄色いキスティスの群落あり、可愛く矮小化したジキタリスがひっそりと花を付け、又、白いキンギョソウが岩の僅かな隙間に生育し、本当の天然のロックガーデンが見事であった。この長い道のりで真っ黒に陽焼けしてしまった。

 モンサントからペーニャ・ガルシアを横目でにらみテルマス・デ・モンフォルティーニョまでは僅かな距離である。その町自体は何だか寂れた感じを受けたが、ホテルは素晴らしく部屋も申し分なかった。早速、シャワーを浴びプールでひと泳ぎ、プールサイドで冷たいビールを飲んだ。


11.モンフォルティーニョのホテルのプール

 スペイン国境にあることもあるが、スペインからの観光客が殆どだったが、空いていた。スタッフもスペイン語訛りのポルトガル語で聞き取りづらかった。
 昼食はモンサントの麓のレストランでたっぷり食べたので夜はビールだけ。旅に出ると外食ばかりだから、量が多く、どうしても食べすぎるので夕飯を食べないことがよくある。
 プールとお風呂で肌はすべすべになっていた。やはり温泉成分があるのだろう。

 

17) Termas de Monfortinho - Idanha a Nova - Crato - Ponto de Sol – Setubal

 

きょうは帰るだけ。夜遅くに着いても一向に構わない。
 以前にはイダーニャ・ア・ヴェーリャには行っているが、イダーニャ・ア・ノヴァには行っていないから寄って行くことにした。

 テルマス・デ・モンフォルティーニョで温泉水を汲んでくるのを忘れたので、そのあたりの温泉を地図で調べると、モンテ・ダ・ぺドラという地がある。そこまで田舎道をのんびりと走ってその町の中心地に着いたので聞いてみると「今は出ていない。数年前に枯れてしまった。」と言う。この辺りも山火事が多かったので枯れてしまったのかも知れない。でも温泉の標識はそのまま残されている。

 そしてクラトのお城の下あたりで以前にもスケッチをしているが、そこで再度スケッチをしたくて寄ることにした。


12.クラトでスケッチ

セトゥーバルの我が家に戻ったのは未だようやく薄暗くなりはじめた頃だった。セトゥーバルの6月は10時になっても未だ明るい。
VIT

 

(この文は2011年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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087. ヴァイデンを観るために -パリ・ボーヌ・ディジョン旅日記-(下)-Paris-Beaune-Dijon-

2018-12-17 | 旅日記

ヴァイデンを観るために-パリ、ボーヌ、ディジョン旅日記- (上)へ

 

2010/11/11(木) 曇り時々雨 / Beaune-Dijon

 ボーヌ近代美術館は残念ながら工事のため閉鎖されていた。


20.ボーヌのオテル・ド・ヴィレの菊飾り


21.オテル・ド・ヴィレの中庭

 今回の旅で唯一予約をしていないのが、ボーヌからディジョンへの切符だけだ。列車にしてもバスにしても良いと思っていたが、バスの姿が見えなかったので列車にした。
 先日、来る時は各駅停車だったが今回は途中の駅には殆ど停まらない。たかだか30分たらずの道のり。
 ディジョンは駅前のホテルに予約を取っている。機能的なビジネスホテルだ。


22.ディジョンのホテル


 駅前のインフォメーションで「ふくろうの道案内」を購入。早速、美術館に行ってみたがあいにく祭日で休館。11月11日は第一次世界大戦の戦勝記念日だ。
 サロン・ドートンヌやル・サロンでフランスに来るとたいていこの日とぶつかる。そう言えばボーヌを発つとき胸に勲章をたくさん着けた古い軍服を着たおじさんとすれ違った。
 ディジョンを2日間取っておいて良かった。
 「ふくろうの道案内」とは各国語で作られたディジョンの観光冊子で日本語版もある。道にも同じ番号、矢印のプレートが埋め込まれそれに従って歩けば、主たるポイントを見逃すことはない。それに従って歩くが雨で傘が手放せず思うように写真が撮れない。
 でもかつての一眼レフに比べれば片手でも写真が撮れるデジカメは素晴らしい。
 途中のマルシェはかなり大規模でブルーの鉄枠とガラスのアールヌーボー建築が美しい。
 昼食はマルシェ前のブラッセリ。今日の定食には前菜に牡蠣が6個付ずついている。それと羊のステーキ。


23.牡蠣を半分食べてしまってから撮影


24.ディジョンのマスタード


25.ポワソン料理


26.羊のステーキ

 

2010/11/12(金) 曇り時々雨 /Dijon

 

 昨日は休館だったディジョン美術館へ。
 ここにもヴァイデンの「天使」と「聖マリア」「聖人の肖像画」の小さいが素晴らしい作品があった。


27.ヴァイデンの作品


28.ヴァイデン作の聖人肖像画


 本当にヴァイデンの駄作というのは観たことがない。
 それにロレンツオ・ロットの秀作。イコンの数々。
 ルーブルに移されたといえやはりかつてのブルゴーニュ公国。良い作品がまだまだ残されている。
 1階の古いものから順次2階、3階へと観ていくうちに未だ11時半だというのに追い出されてしまった。昼休みだ。逆に1階2階は昼休みなしで、それなら3階から観れば良かったのに…。
 朝食はたっぷり食べるのであまりお腹が空かない。
 もう一軒のマニン美術館も昼休み。
 美術館カタログを先に買って一先ずホテルに置きに帰ることにし、一休みしてから遅めの昼食を摂る事にした。
 MUZは「寒いし風邪気味なので温かいシュクルートが食べたい」などと言っている。
 マルシェの周りにはたくさんのブラッセリ・レストランがある。
 表の黒板に今日のメニューが書かれている。昨日入ったブラッセリの今日のメニューは何とMUZが食べたいと言っているシュクルートである。
 でも昨日と同じブラッセリではどうも…。と思う。
 ずっと見て歩くと、ここディジョンの郷土料理「コック・オ・バン」(鶏の煮込み)をメニューに出しているところがあったので迷わずそこに入った。コック・オ・バンならシュクルート以上に温かいに違いない。

 若者や中高年のお客で一杯で流行っている店である。前のお客が出たところを片付けてもらってようやく座った。
 これは期待できる。と思ったのも束の間。「コック・オ・バン」は売り切れ。「ステーキかチーズ・バーガーなら出来ます。」とのことだったが後ろ髪を引かれる思いで出た。
 ウエイトレスは「ごめんなさいね~」と愛想が良い。フランスはパリから離れると感じの良い人が多い。あまりぐずぐずしても昼食を逃してしまう。

29.マルシェ前のブラッセリ

 仕方がないので昨日と同じブラッセリに飛び込んだ。通された席は昨日の隣。大急ぎでシュクルートを注文して…気が付くとお隣から日本語が聞こえてくる。NISSANのパリ駐在員の方で連休を利用してご夫婦でドライブ旅行とのことであった。少しの時間であったが会話も弾み楽しいひと時を過す事ができた。
  早速、パリからポルトガルまでメールも頂いた。

 ここではシュクルートの写真を撮り忘れてしまった。シュクルートは今までもたびたび食べています。
 MUZのエッセイ「アルザス・ロレーヌ旅の味」の下の方、ストラスブールのところにシュクルートについての写真と文を載せていますので良かったらご覧下さい。
 午後からは美術館の3階の残り。ミレー、テオドール・ルソー、クールベ、ドラクロワ、ジェリコーなど観るものが多い。それに珍しくモンチセリの作品が3点あった。ルオーの作品も良かったが、ヴィエラ・ダ・シルバの大作を含め多くの作品が展示されていた。ヴィエラ・ダ・シルバはポルトガル人画家だがポルトガルでもこれ程多くの作品をまとめて観たことがない。と言うよりフランスの地方美術館ではどこででも観るがポルトガルではほんの少ししか観ることが出来ないのが現状だ。
 ピカソや藤田嗣治などと同時代パリで活躍した女流画家でポルトガルでも人気が高い。
 藤田嗣治作品の多くが戦後の高度成長期に日本人愛好家にフランスから買い漁られたのとは違い、
 ポルトガル人愛好家はヴィエラ・ダ・シルバをフランスから買い漁ることは未だ出来ないでいるのかも知れない。


30.ヴィエラ・ダ・シルバの大作


31.モンチセリの作品


 古いブルゴーニュ時代の作品のみならず新しい近代の作品にも地方の美術館には見逃せないものが多くある。
 マニン美術館にはペーテル・ブリューゲルの秀作があった。
 只、宮殿の調度品などと一緒に絵画も展示されていて、2段掛け、3段掛けでキャプションはなく絵画だけ観るには少々観にくかった。でもここでも膨大なコレクションである。

 

2010/11/13(土) 曇り時々雨 /Dijon-Paris


 ディジョンからパリへのTGVからの車窓風景はうっとりするほど美しい。
 紅葉はもう過ぎていたが、空は明るい灰色で全てをパステルカラーに調合して牧場や畑の様々な緑はそのまま抽象絵画になってしまいそうだ。
 パリのホテルは先日と同じ、本来なら4人まで泊れる部屋だがその部屋を用意してくれた。バスタブはあるし広々とした屋根裏部屋である。
 この日もパリの美術館を予定していたが、少々疲れたので止めにした。
 又もやベルビルまで北京ダックラーメンを食べに行くことにした。雨模様で寒いしで温かいラーメンに触手が動く。リヨン駅からメトロで比較的簡単に行ける。


32.パリ・リヨン駅


33.ベルビルの北京ダックラーメン


 サンミッシェルに泊ればバスの便が良く殆どメトロは使わないで済んでいたが、リヨン駅からはバスが使いづらくメトロとRERばかりになってしまう。
 ラーメンで腹ごしらえしてサロン・ドートンヌへ。
 入場した時には詩の朗読が行われていたが、帰ろうと思う時にピアノコンサートが始まった。
 弦を直接引っかくなどの前衛的なピアノ演奏だったが面白かった。


34.真ん中の赤いのが僕の出品作


35.ドートンヌ会場でのピアノコンサート

 

2010/11/14(日) 曇り時々雨のち晴れ /Paris-Lisbon-Setubal


 植物園を予定していたが雨なので諦め、ゆっくり朝食を済ませ帰るだけ。
 RERの切符売り場には長い行列。自動販売機で買おうとも思ったが、列に並んだ。でもRERの空港行きの切符くらいは自動販売機で買える様にしておかないと…。以前にはカルネ(回数券)を買った経験はあるのだから。

 今回の旅では当初懸念していたストライキの影響が全くなくて良かった。
 リスボン行きのイージージェットは満席だった。通路を挟んで2人の席は別れた。
 でもその方が真ん中の狭苦しいのよりかえって開放感がありトイレにも立ちやすいし悪くはない。
 リスボンに着いて久しぶりに太陽を見た気がした。上着を1枚脱いだだけでは汗が収まらなかった程だ。


-Epilogue-

 

 ポルトガルに戻ってからの天気は連日晴である。
 僕たちがフランスを去ったその日から1週間のフランスの天気予報も晴れである。それが恨めしくもある。
 今までは予報で目的の日が雨でも当日になれば晴れることが多かった。そんな訳で我々は「晴れ男・晴れ女」を自負してきた。それが今回のフランス旅行でみごとに崩れ去った。
 雨と言っても僕たちはぽつりと降り始めるとすぐに傘を広げたが、フランス人や観光客などの半数ほどは傘をささず、それでも道行くことができる程の小雨ばかりであった。
 薬局の景品で貰った雨傘とシェルブールのスーパーで買った折りたたみ雨傘がこれ程役に立った旅もない。
 行列や工事中そして雨で予定の3分の2程しかこなせなかった旅となったかも知れない。
 旅人にとって雨よりも晴れるほうがありがたいに違いないが、雨に洗われた木々の緑と石畳の鮮やかさを愛でることが出来た旅にもなった。
VIT

 

(この文は2010年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

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087. ヴァイデンを観るために -パリ・ボーヌ・ディジョン旅日記-(上)-Paris-Beaune-Dijon-

2018-12-17 | 旅日記

-Prologue-

 

 サロン・ドートンヌの搬入日が11月8日。それに合わせてのパリ行き。
 今までは画家誰かの足跡を辿る、というテーマの旅が多かった。そして少しずつ新しい、現代に近い画家が望ましいのではと思っている。
 一昨年はルオー、昨年はアンドレ・ドランだったから次はアンドレ・ドランと同時代のマルケかそれともデュフィか。
 でも日程のこともあるし、マルケならボルドーが外せないだろうし、デュフィなら又、コート・ダジュールか?
 距離と言うこともある。パリからあまり遠くへ離れるのも経済的な負担にも繋がる。
 いずれは企画をしたいと思っているが、クールベやドラクロワは時代が遡るので今回は「ちょっと」と避けたい。
 画家とは関係なく、フランスの地図を広げてみて1~2時間で行くことの出来る範囲。
 かつてのブルゴーニュ公国の首都、ディジョンが浮かび上がった。そしてもう一箇所ディジョンの南ボーヌという町である。ディジョンの北東にクールベゆかりのオルナンがあるがあえて避けた。
 ディジョンへは1974年頃行った記憶はあるのだがあまりの年月の隔たりに初めて訪れるのと同じだ。
 結局、今回はパリ3泊、ボーヌ2泊、ディジョン2泊、パリ1泊、全部で8泊の例年より1泊長い旅となった。
 かなり早いうちから全ての予約をネットで取っておいた。イージージェットの往復航空券。TGV。パリ、ボーヌ、ディジョンのホテル。予約をしてしまってからボーヌに重要な絵があることが判った。

 

2010/11/06(土) 晴れのち雨 / Setubal - Lisbon - Paris

 

 自宅を始発から一つ、1時間遅い6時発のバスで出発。リスボン空港であまり時間をもてあますこともなく、丁度良かった。
 パリに着くとやはり予報通り雨だった。
 サロン・ドートンに出品の100号の作品を預けムッシュ・Mのクルマでホテル近くまで送っていただく。
 今回はネットで見つけた初めてのホテルでディジョン方面に行くには都合の良いパリ・リヨン駅からすぐのところだ。
 今まで使っていたサンミッシェルより少し安いので不安だったが想像以上に良かった。良かったので [Booking.com] の口コミ評価で僕は10点満点を付けてしまった。
 グラン・パレで大規模な「モネ展」が開かれていると言うことは前もってインターネットで調べていたし、パリ在住の画家溝口典子さんから「モネ展は評判が良いですよ」というメールも頂いていたので、これは是非観なくてはと予定に入れていた。早速、メトロでモネ展が催されているグラン・パレへ。
 でも雨の中長い行列。しかも少しも前へ進まない。
 諦めることにした。いくら大規模とは言えモネはこれまでいやと言うほど観ている。いや「いや」、と言うことはないが、相当観ている。
 当初はモネを今年のテーマ…とも考えてみた。
 モネゆかりのジベルニーとルーアンやノルマンディ地方へは数年前も訪れているし、オランジュリーとマルモッタン美術館へもつい最近も訪れているので足跡を訪ねる旅は済んだも同然ではないだろうか?でも体系的に纏めることまではしていない。
 再びメトロで IKUO さんの店へ。ちょうど IKUO さんも居られたし、KEIKO さんもお元気そうな様子でゆっくり話すことも出来て良かった。

 

2010/11/07(日) 曇り時々雨 / Paris


 朝食を早くに済ませ歩いて1駅のバスティーユの朝市に出掛けた。ホテルからサン・マルタン運河がセーヌに注ぎ込んでいるところから運河沿いに歩く。
 寒いけれど雨にも降られず気持ちの良い朝の散歩だ。
 サクランボほどの小さな真っ赤な姫りんごだろうか?見上げる木にたくさん鈴なりに生っている。紅葉の残りと菊の植栽が美しい。
 フランスの朝市は見ているだけでも楽しい。場所によっても少しずつ個性があり見飽きることはない。
 きょうはパリの美術館は殆どが無料だ。
 バスティーユの朝市が途切れたところにメトロの入り口があった。メトロとRERを乗り継ぎオルセーに行った。
 ここでも行列があるかも知れないとも思ったが、それ程でもなかったし、どんどん進んでいる。
 上がっていた雨が少し降り始めたと思ったらすぐに傘売りが数人何処からともなく出現したがだれも買う人はいない。
 陳列の様子が様変わりしていた。上階は工事で閉鎖され、下の階に主だった絵が陳列され、作品数はかなり少なく、しかもぎっしりと陳列されていたからか?撮影は禁止になっていた。
 一角でジェロームの特別展が行われていた。Jean-Leon Gerome [1824-1904] は新古典派の画家で彫刻家でもある。当時台頭してきた印象派と対峙したサロン(官展)の大御所である。コルモンやカバネルなどと共にたびたび近代美術史に名前を馳せる人物で、印象派や後期印象派など当時の革新派、ゴッホやロートレックなどからすれば悪名高き?と言うことになる。
 でもデッサン力は勿論のこと色彩の冴えハイライトの使い方などさすがと言わざるを得ない。
 昼食はオルセーのカフェテラスで。と思っていたがここでも長い行列。諦めざるを得ない。
 小雨の中歩いてルーブルに。ルーブルには長い行列が出来ていた。入り口の整列枠をはみ出してガラスのピラミッドをすっぽり1周取り巻き更に裏側のルーブル・リボリ方向へと列は延びていた。


01.雨の中ルーブルは長い行列

 ルーブルでこれ程の行列を見たことがない。しかもあまり進んでいない。ここでも諦めることにした。
 ルーブル・リボリ駅からメトロでベルビルまで行き北京ダックラーメンで遅い昼食。ベルビルは昼食、夕食以外の時間帯でも食べられるから便利だ。
 午後からはポンピドーセンターにした。行列は全くなかった。
 ここもいつ来ても陳列替えがあり実験的な面白い構図のアンドレ・ドランやピカソ、ブラック、レジェなど新たな作品もたくさん観ることができた。


2010/11/08(月) 曇り時々雨 /Paris

 

 ホテルからバスティーユまで歩き更に一駅ほど歩くとピカソ美術館だ。
 バスティーユの朝市が今日もやっているかなと期待して歩いたがやっていない。この日の午前中は久しぶりにピカソ美術館を予定していた。前まで行ってみると閉まっていた。閉ざされた門には張り紙があり、2012年春まで工事で閉鎖とのこと。
 インターネットで何でも調べることの出来る時代。これは迂闊であった。
 途中カフェに立ち寄りながらルーブルまでゆっくり歩くことにした。
 昨日は長い行列で諦めたルーブルだったが、きょうは少しの行列で殆ど待たずに入ることができた。
 外は雨模様だし、ルーブルで丸1日過ごすのも悪くない。
 ルーブルに入ってもテーマを持って観る事が最近は多いが、今日は別にテーマはない。まあ、しいて言えば絵画を中心にというところか。
 シャルダンなどは今までに観たことのない作品が多く展示されていた。
 何人もの画家が模写をしているが観光客が多くて落ち着いて描くことが出来ないのではないだろうか。年々、パリの美術館の観客が多くなっている様な気がする。


02.ルーブルで模写をする人


03.ルーブルのルーベンスの部屋

 ドラクロワ、ジェリコー、クールベなど古い画家と現代の変なプリズム的な写真とを対比させた奇妙な企画の展示スペースがあった。昨年アングル美術館で観た企画と共通する様なもので、贅沢な企画だが、観ていてあまり良い気持ちはしない。昔の画家を冒涜している様にも見える。
 現代の学芸員の資質を疑ってしまう。そう思っているのは僕だけだろうか?
 久しぶりにモナリザとミロのビーナスも観たがモナリザなど以前とは陳列も変わってえらい人だかりに面食らってしまった。あれではジョコンダさんも赤面してしまわれる。

 

2010/11/09(火) 曇り時々雨/ Paris-Beaune

 雨ばかりで仕方がない。朝は市立近代美術館で過すことにした。美術館前にはまたしても長い行列。
 とりあえず一番後ろに並び、前の人に聞いてみると特別展の行列だとのこと。一番前の整理係りの人に更に聞いてみると、常設展の入り口は別だとのことでそちらに行ってみると、ガラ空き。

 今年の夏ごろだったか?この美術館からモディリアニなどの作品が数点盗難にあったことはニュースで大きく取り上げられた。さぞセキュリティは厳重だろうな。とは思っていたが、空港よりもオルセーよりも至って簡単で、上着を脱ごうとすると「そのまま通って」と言われた程であった。
 ここでも特別展のため、会場は縮小されていたが、今まで観たことのないルオー、スーティン、モディリアニなどがあって良かった。
 例によってデュフィの大壁画を観る。これを観るだけでも毎年この美術館へは訪れる値打ちがある。


04.デュフィの大壁画「エレクトリックシティ」一部


05.大壁画の一部 (おおよそ 1/100 か?)
 地階の会場でガザの写真展が行われていた。Kai Wiedenhöterというドイツ人フォトジャーナリストの個展で、目を背けたくなる様な場面も多く写真の訴える力に凄みを感じた。そして構図が一貫していて個性を感じると共にパネル1枚1枚の芸術性が非常に高い。

 

06.


07.ガザの写真展

 午後のTGVでボーヌへ。ディジョンでTGVからローカル線に乗り換え。リヨン近くで事故があったらしくディジョンからの電車にダイヤの乱れ。30分遅れでボーヌに着き、道行く人に尋ねながらホテルに到着。
 ホテルは元修道院の一部と言うだけあって雰囲気は良くしかも現代風にリメイクされていて快適。


08.ボーヌのホテル


09.ホテルの寝室

 

2010/11/10(水) 曇り時々雨 / Beaune

 ビュッフェ式の朝食もグレードが高くて全てが美味しかった。ボーヌ名物のジャンボン・ペルシェなどもあり、試食できて良かった。そしてたっぷり食べ過ぎてしまった。
 早速、オテル・デューへ。入り口前のマルシェには小さな朝市が出ていた。


10.オテル・デュー中庭

 オテル・デユーとは「神の館」という意味だ。あでやかな屋根をもつこの病院は1443年、ブルゴーニュ公の大法官であったニコラ・ロランと彼の妻によって建てられた。今も15世紀当時の病棟がそのまま残されており、当時の教会や第二次世界大戦中も使われた病室、厨房、調剤室などを見学することができる。またこの病院が所有していたブドウ畑は当初1300ヘクタールもあったが現在58ヘクタールと縮小されてしまったとか。それでもグラン・クリュ(特級)のワインとして人気は高く、売り上げは建物の修復などに使われている。見逃せないのは、サン・ルイの間にあるロジェ・ヴァイデン作「最後の審判」の装飾屏風。-後略-(地球の歩き方「フランス」ダイヤモンド社より)
 ということでこの ロジェ・ヴァイデン Rogier van der Weyden [1399/1400-1464] の絵を観ることを今回の旅のメインテーマとした。
 ロジェ・ヴァイデンの作品はリスボンのグルベンキャン美術館にも小さいのが2点ある。
 以前にカーンの美術館で聖母子像を観て感激もした。
 今までに観たどの作品も素晴らしいものばかりで最も好きな画家の一人だ。特にヴァイデンの小品、肖像画には絶大な魅力を感じている。
 レオナルド・ダ・ヴィンチより更に53年古く、今、人気の高いフェルメールより233年も昔の画家だ。
 3人の画家に共通して言えることは描く人物(神)に崇高な気品が漂っていることではないだろうか。
 当初、古いからと敬遠したクールベやドラクロワどころではない、クールベより420年も、遥かに古い画家が今回の旅のテーマとなってしまった。ここまで古いと「まあ、ええか」と納得せざるを得ない。
 暗く閉ざされたサン・ルイの間ではヴァイデンの「最後の審判」に正に神々しいばかりの照明で作品を浮かび上がらせ観るものを圧倒する。
 今までに観たヴァイデンでは最大の作品だ。(215x560cm)
 代表作はルーブルやプラド美術館にもあるがこのボーヌの祭壇画も代表作の一つだ。
 観ているのは「ボンジュール」と笑顔で挨拶を交わした監視員のお嬢さんと僕たち2人の3人だけ。パリの美術館の行列、モナリザの人だかりが嘘のように感じる。

 


11.ヴァイデン作「最後の審判」中央部分。両端が1枚ずつ切れている。


12.下段左部分


13.下段右部分
 その他、タピストリもわざわざ行ってでも観る価値があると感じた素晴らしいものが数多くあった。


14.タピストリ
 ブルゴーニュ公国が繁栄した時代、この地にフラマン派の画家を招請し、たくさんの歴史的価値の高い絵画がこのブルゴーニュ地方で生れた。その多くはその後ルーブル美術館などに移されたが、少しはこの地に残されている。
 ホテル近くのブラッセリでブルゴーニュワインと共に遅い昼食。


15.ポワソンのテリーヌ


16.ミートボールのミートソースパスタ


17.ショコラタルト

 午後からはワイン博物館を見学。ブルゴーニュ地方といえばブルゴーニュワインとしても名高い。11月の第3週にはここボーヌでブルゴーニュ最大のワイン祭りが催され世界各地からバイヤーや観光客が集まるとのこと。我々にとってはそれと重ならなくてかえって良かった。
 ワイン博物館の展示もやはりセンスが良く見応えがある。各部屋には説明文のプリントが各国語で配され日本語までもがあった。ワイン好きの日本人観光客も多く訪れるのだろう。昔の樽造りの様子をドキュメントした白黒映画が上映されていて面白かった。


18.ワイン博物館


19.ワイン博物館の展示

 

087. ヴァイデンを観るために -パリ・ボーヌ・ディジョン旅日記-(下)-Paris-Beaune-Dijon-へつづく。

 

(この文は2010年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

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078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(下)-Troyes-

2018-12-09 | 旅日記

078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(上)-Troyes- へ

 

2009/11/13(金) 晴れ / Paris


 今回の旅でのもう一つの楽しみはロダン美術館での「マチス、ロダン2人の出会い」という企画展だ。

 アンヴァリッドまでバスで行きロダン美術館に入った。
 もしかしたら入り口で行列しているかも知れないと心配していたが全く行列はなかった。

 タイトルを見ただけで、面白い企画だと思っていたが、観てみると想像を遥かに超えて面白い企画であった。


25.ロダン美術館


26.マチスとロダンのカタログ


 マチスはドランと一緒にフォーヴをやっていたと思うと、ほぼ同時期、ロダンと一緒に彫刻も作っていたのだ。
 勿論、今までもマチスのブロンズ彫刻は数多く観ている。でも案外とロダンとは結びつかなかった。
 同じポーズのクロッキーが何枚も並べて展示されているし、同じポーズのブロンズ像がある。
 彫刻はロダンの専門だからマチスはロダンの手ほどきを受けたのかとも思ったが、それだけではない。むしろロダンもマチスに引っ張られる様なクロッキーやブロンズ像を残している。ここでもお互いに影響しあっていたのが伺える。僕には想像のつかない発見であった。

 先月、僕が書いた「モントーバン旅日記」の中に『マチスはドランと共にコリウールに滞在し、地中海の輝く太陽の下でフォーヴをやっていた同じ年、パリに戻ってアングルの「黄金世代」からヒントを得てフォーヴの実験的な絵を描いている。それはやがてマチス生涯のテーマとなった「ダンス」へと繋がっている。』と書いたが、何とロダンはそれよりも10年以上も前にその同じアングルの「黄金世代」からのダンスのスケッチを描いていた。
 会場でロダンのクロッキーを観てスケッチしている人がいた。


27.ロダン美術館展示室、絵画はゴッホ{タンギー親父」とルノワール


28.ロダンの「バルザック」とアンヴァリッド


 トロワの2日間はものすごく寒かったがパリに来てからは暖かい。
 ロダン美術館の庭にあるカフェテラスで昼食。屋外のマロニエ並木の下なのに全く寒くはない。スープが旨かった。

 常設会場もひと通りじっくりと観た。
 思えばロダン美術館に来たのは実に久しぶりだ。パリには行きたい美術館が多すぎて毎年来るたびに複数の美術館を訪れるがロダン美術館はすぐ側を通ってもなかなか入らなかった。
 全集のバルザックを2年間もかかって先日読み終えたばかりなので、ロダンのバルザック像の前で記念撮影。

 再び82番のバスに乗り予定はしていなかったパリ市立近代美術館に昨年に引き続いて行った。ここのアンドレ・ドランをもう一度観たかったのだ。

 先月に行った「コリウールの鐘楼」の絵がここにある。
 ドランは作品傾向が様々なので展示はまとまってではなく、散り散りに掛けられている。別々の部屋であるがある程度の点数が展示されていた。


29.ドランの「コリウールの鐘楼」の前で子供たちの課外授業


30.パリ市立近代美術館カタログ

 

2009/11/14(土) 曇り時々雨 / Paris


 インターネットで検索すると、今、パリでは「マチスとロダン2人の出会い」以外にグランパレで「後期ルノワール展」と、ルーブルで「ヴェネチア絵画展」が開催されている。でも今回、その2つは観ないことにした。

 朝からモンパルナスに行き、露天のマルシェ(市場)を見る。
 フランスのマルシェは飾りつけが素晴らしくて見ているだけで楽しい。
 八百屋でゴボウを見つけた。ポルトガルでは見たことがない。

 このゴボウはミレーを多く所蔵するシェルブールのトマ・アンリ美術館で展示されていたGuillaume FOUACE(1837-1895)の静物画にも描かれていて「おやっ!」と思ったことがある。だから昔からあったのだろう。

 フランス人はゴボウをどのようにして食べるのだろうか?
 以前にもリヨンのマルシェで同じものを見つけたが旅の前半で買えなかった。今回は明日ポルトガルに戻る。絶好のチャンス。1束が1キロ、8本ほどが縛られて5ユーロ。それを買ってしまった。


31.ゴボウもどきとカボチャ


32.モンパルナス露店市のパン屋


 昨日、ロダン美術館が良かったので、今日はブールデル美術館に入るつもりでモンパルナスに来たのだ。
 ブールデルはロダンの弟子というか、15年程、ロダンの下で荒彫りなどの制作にあたっていた。

 先日アングルを観にモントーバンまで行ったが、ブールデルもモントーバンの生まれで、モントーバンのアングル美術館1階第1室はブールデルの展示室になっていた。そこには「弓を引くヘラクレス」もあったし、ファサードにはブールデルの巨大なブロンズ像が建っていた。

 「弓を引くヘラクレス」を完成させた1909年頃よりブールデルはパリのグランド・シュミエールで彫刻指導も始めるが、その生徒にジャコメッティとヴィエラ・ダ・シルヴァが居た。
 フランスに於ける近代美術ではおおよその芸術家たちがどこかで繋がっているというのも興味深い。

 ゴボウを下げてブールデル美術館に入るのも気が引ける。
 モノプリがあったので折りたたみバッグでもあれば買おうと思ったが適当な物が見つからなかった。C&Aの袋を提げた人とすれ違ったのでそちらに行ってみた。折りたたみではないが、ズック生地で男性用の使い良さそうなメッセンジャーバッグがあったのでそれを買ってゴボウと傘を入れた。中にはいかにもノートかスケッチブックでも入っていそうで誰もゴボウが入っているとは想像もつくまい。

 ブールデル美術館は入場無料である。
 庭には大小たくさんのブロンズ像、それにアトリエも見学する事ができる。展示室には大理石彫像、デッサン、油彩。ロダンともブールデルとも交流が盛んだったというカリエールの油彩なども展示されていた。

 ブールデルの作品にはロダンやカミーユ・クローデルの影響を感じる作品も無きにしも非ずだが、むしろロダンからの流れを極力避け、古代ギリシャ彫刻や神話、或いはセザンヌの造形理論、そしてジャポニズムなどから多くを学ぼうとしたと言われている。
 それがアール・ヌーボーにも少なからず繋がっていく。
 美術大学の学生たちだろうか?数人の若者がスケッチブックを広げて彫刻のスケッチを始めた。


33.「自由」「勝利」「力」「雄弁」ブールデル美術館前庭


34.ブールデルのアトリエ


 初めて来たがモンパルナス駅からも歩いてすぐだし、結構見応えのある充実した美術館である。日本語のカタログがあったので買った。それもメッセンジャーバッグにすっぽり入った。


35.ブールデル美術館カタログ


36.「瀕死のケンタウロス」のある美術館中庭とアトリエ


 夜7時を過ぎてからIKUOさんの自宅に向った。歩いて10分もかからない。
 買ったゴボウに鼻を近づけてもゴボウの香りがしないので、IKUOさん家に持って行き、パリ在住の方たちにゴボウを見てもらったが、どうやらゴボウではないらしい。「瓶詰めも売られています。」とのことだった。
 IKUOさんの家では日本語での会話がはずみ、いつも時間があっという間に経ってしまう。12時近くにホテルに戻る。

 

2009/11/15(日) 曇り /Paris - Lisbon – Setubal


 今回のパリはバスばかりを利用して一度もメトロは使わなかった。いや、着いた時、北駅からサンミッシェル・ノートルダムまでだけ使った。バスとメトロ両方に使える切符カルネ(回数券)をいつも無くなった時点で最寄の駅で買う。今回はイエナ駅のメトロ切符売り場で買った。切符売り場には人がいたが案内だけで売ることはしない。
 「私は売ることが出来ないので自動販売機で買って下さい。」とのことだ。日本の地下鉄の自動販売機の様に簡単ではないがいろいろやってみてようやく何とか買うことが出来た。「意外と便利じゃん」などと高をくくっていた。

 ドゴール空港まで行くのにリュクサンブール駅で切符を買おうとするともう既に全くの無人駅になっていた。先日と同じ自動販売機だが、カルネなら買えたがドゴール行きがどうしても判らない。仕方がないのでパリ市内切符を2枚だけ買った。
 RERの中で車掌が来れば精算すればよいと思ってドゴール行きのRERに乗った。ストが回避されていて良かった。ドゴール空港駅まで車掌は一回も来なかった。アコーデオン弾きや寄付金集めはひっきりなしに来たが…。出口に精算機があるだろうと思っていたが、それもなかった。
 自動改札口の横の扉が大きく開放されていた。観光客たちは少し後ろめたそうな表情でその開放されたところを通過していた。それも何十人も。
 そう言えばリュクサンブール駅も開放されていた。
 僕たちはまじめに切符を使って自動改札口を使ったが…。僕たちと同じように切符が買えなくて、同じような気持ちでこのRERを利用していた人が殆どだったのではないだろうか?

 空港のセキュリティーの列に並んでいるところに[100cc以上の液体は持ち込めない]と書いてある。僕はうっかりメッセンジャーバッグの中に1リッターの水が入っているのを忘れていた。メッセンジャーバッグには何でもすっぽりと入ってしまう。まあ、言われてから捨てればいいかと思っていたら、モニターを監視している女性は他の係官とお喋りに夢中でモニターに眼は行っていなかった。1リッターの水はそのまま持ち込んだ。
 ゴボウもどきも土が付いているので引っかかるかな?と心配していたがそれも大丈夫だった。

 リスボンのオリエンテ駅でセトゥーバル行きのバスを待っている時に少し雨が降り始めた。旅行中は1度も傘を開くことはなくラッキーであった。A型インフルエンザも僕たちにはどうやら近寄って来なかった様だ。一応マスクは用意していたが旅行中マスクをしている人は一人も見なかった。

 家に帰ってゴボウもどきを早速料理してみた。処理をするのに松脂の様なものがべたついて大変な作業になった。キンピラにしてみたがやはりゴボウの香りはなく、それでもしゃきしゃき感がありそれはそれで美味しかった。搔き揚げテンプラにしたらしゃきしゃき感もなくなり、もうそれはじゃがいもと変らない。次にパリで見かけても2度と買っては帰らないだろう。

VIT

 

(この文は2009年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(上)-Troyes-

2018-12-09 | 旅日記

 今回のパリ旅行は昨年行き逃したトロワに行くことにした。
 昨年はランスからトロワ行きのバスの便がちょうど悪くてランスで1泊、トロワで1泊のつもりがランスだけで2泊にしてしまったのだが、それが返って良かった。ランスを十二分に堪能することができた。

 今回、トロワでは見る物が少なくて退屈するかも知れないとも思ったが、昨年の経験があったので初めからトロワを2泊とした。パリ4泊、トロワ2泊、6泊7日の旅である。

 イージージェットの往復航空券、パリからトロワの往復列車乗車券、それにトロワのホテル、パリのホテルと全てインターネットで予約、もしくは買ってしまっていたので便利といえば便利だが変更は難しい。


2009/11/09(月) 晴れたり曇ったり / Setubal - Lisbon - Paris

 

 きょうの出発は比較的ゆっくり。
 朝9時45分セトゥーバル・バスターミナル発ヴァスコダガマ経由の高速バスでオリエント駅まで。2階建てバスの2階先頭に座ったのでヴァスコダガマ橋を渡るときなど迫力満点である。
 いつもなら自分で運転だから前をしっかり見ていなければならないが、きょうはよそ見ができる。塩田にフラミンゴの群れも見ることができた。しかも高い位置から。
 リスボン空港でもゆっくりと時間をもてあますほどであった。

 イージージェットの出発は少し遅れた。
 到着便に病人が出たらしくて、医療チームが慌しく機内に入っていった。若い青年だったが青白い顔をしてよろよろしながらも自力で歩いて出てきた。
 イージージェットは自由席だが比較的後ろの方に座った。僕たちの席も、通路を挟んで隣の席も3人掛けに2人だけでゆっくり。ゆっくり出来たと言っても、映画も音楽も食事も何もないのでパリまでの3時間が退屈だ。
 出発した飛行機の中ほどにも気分が悪くなった人が居て、客室乗務員たち3~4人が集まって手当てをしていた。A型インフルでなければよいが…。これくらいの出発遅れなら取り戻せると思ったがパリ到着も少し遅れた。

 ドゴール空港のいつもの場所にムッシュ・Mは待っていてくれた。サロン・ドートンヌに出品の100号の作品を預け手続きをお願いする。
 「パリのホテルまで送っていきます。」と言って頂いたが、今回は辞退した。パリ市内はそろそろ夕方のラッシュ時で、ムッシュ・Mの自宅からホテルまではパリ市内を縦断しなければならない。かえってドゴール空港駅から直接RER(パリ高速郊外鉄道)で行ったほうが早いし簡単だ。

 ところがプラットホームに下りてみると、電光掲示板では全て北駅止まりになっている。きょうRERはホテルのあるリュクサンブール駅までは行かないらしい。RERがストライキ中とのことである。
 サルコジ政権に変ってもフランスのストライキは相変わらずの様だ。

 北駅からメトロに乗り換えだが、ホテル最寄のクリュニュに行くにはオデオンまで行って乗り換え。ところがそのオデオンが工事中。
 仕方がないので手前のサンミッシェル・ノートルダムで降りて歩くことにした。パリのメトロ2駅分だが散歩と思って歩けばほんの僅かだ。寒いのにサンミッシェル大通りの歩道には人が溢れている。ポルトガルから来ればやはり人の多さを感じる。気温は10度以上低い。

 ホテルの部屋は良かったが暖房が入っていない。最初はそれほど思わなかったが、真夜中にありったけの毛布3枚をかけパジャマの下に肌着を重ね着。


2009/11/10(火) 晴れ / Paris – Troyes

 

 フロントに「暖房が効かなかった」とひと通り文句を言って出発。
 列車の切符はインターネットで買って自分でプリントした物だから、そのままで乗ることが出来るのか少し不安だったので早めに東駅に行く。
 インフォメーションで聞くとあっさり「そのままで良いです。20分前から列車に入れます。」とのこと。またもや時間をもてあます。

 東駅も以前に比べると随分とすっきりとなって、ブランド品のブティックなどのショーウインドウを見て歩くが、見るものもないし、お客もあまり入っていない。
 リュックを担いだままあちこちのベンチに場所を変えて座る。近くに咳をする人がいたり、プラットホームからの風が吹き抜けて寒かったり…。

 例によって駅地下にあるPAULのサンドウィッチを買って列車に乗り込む。
 時刻通りに発車。パリを出たあたりでサンドウィッチの包みを広げたが、すぐに検札が来た。車掌はプリントした切符にパンチを入れてくれた。そして「ボナ・プティ」と言って立ち去った。インターネットの切符は通常運賃の半額くらいで買えた上に慣れれば随分と楽だ。


1.トロワのホテル


2.ホテルのロビーもコロンバージュ


 トロワまでは1時間半。
 ホテルに着き名前を告げようとすると、ホテルのマダムが「マダム&ムッシュ・タケモト~?」と先に言った。「地球の歩き方」に載っているホテルだから日本人がよく利用するのだろう。
 日本語で「シャシン・オ・イッショニ・トリマショ~」などと明るい声で言う。
 部屋もコロンバージュで広いがバスタブはなく、シャワーのみ。でも暖房は良く効いている。荷物を部屋に下ろし、早速トロワ近代美術館へ。明日は祝日で休館なので今日中に観なければならない。

 美術館入り口には「ルオー展」の表示があった。
 昨年、パリのピナコテカで観た展覧会が巡回して来ているのであろうか?と思ったが観ると全く違う作品ばかりでサン・トロペ美術館からの巡回で、これはついていた。


3.ルオー展カタログ


4.トロワ近代美術館カタログ


 この美術館にはアンドレ・ドランがたくさんあるというので今回はそれを楽しみに観に来た。
 先月、モントーバンにアングルを観に行ったが近くのコリウールでアンドレ・ドランとマチスのフォーヴ運動の息吹を感じたので今回はこの美術館でドランを観るのを楽しみにしていたのだ。アンドレ・ドランについては最大のコレクションかもしれない。

 


5.トロワ近代美術館入り口


6.アンドレ・ドランの「ビッグ・ベン」のある展示室

 最初期から晩年まで、それに最盛期ロンドン時代の「ビッグ・ベン」など実に多くが所蔵されていた。
 ドランはフォーヴィズムの先駆者としてフォーヴ時代の絵の評価は高いが、その後は比較的暗い沈んだ絵になったためか、もう一つ評価は低い。
 でもこうして生涯の作品を通して鑑賞してみると実にいろんなスタイルに挑戦していることが判る。そしてその作品どれもが、ある意味で実験的で革新的なのだ。それが時代の流れとはただ単にかけ離れていたに過ぎなかっただけの様な気もする。


7.トロワ近代美術館の庭


8.トロワ近代美術館裏とカテドラル鐘楼が少し見える


 この美術館にはドランの他にミレーの肖像画、クールベの雪景色、描き潰したドガ、点描以前のスーラ、フォーヴのブラック、抽象画家ドローニーの具象画など珍しい作品と、ゴーガン、ヴィヤール、ボナール、マルケ、デュフィ、モジリアニ、マチス、ドンゲン、ヴィエラ・ダ・シルヴァそれにビュッフェなどあまり今まで観た事のない作品が多く展示されていた。

 夕食にはメインストリートの観光客が一番多く入っているレストランにした。
 町に観光客はあまり見かけなかったのだが、この店に集中している様に思う。
 トロワ名物の「アンドゥイエット」を食べるのも楽しみにしていた。臓物のソーセージだが、ガイドブックには少々臭いと書いてある。殆どの人がアンドゥイエットを注文している。
 ナイフとフォークを使って切る時に強烈な臭いが鼻をかすめた。息をしないで口に入れたが、歯ざわりは悪くない。
 隣の席の人は殆どを残して皿を遠くへ押しやっている。早く下げてくれ~と言いたげだ。
 僕は一応一皿は全部平らげたが2度と食べたいとは思わない。せっかくこの地に来て、この地の名物なのだから1度は試してみなければならないのだとは思うが、しばらくその臭いが脳天から離れなかった。


09.トロワ名物「アンドゥイエット」


10.トロワのメインストリート

 

2009/11/11(水) 晴れ /Troyes


 昨日より増して寒い一日。そして祝日なので殆どの店が閉まっている。
 ホテルで貰ったトロワの地図には観光ルートが示されていた。一日それに従って歩くことにした。思っていた以上にコロンバージュ(木骨レンガ造り)の家が多いのに驚く。


11.写真以上に歪んでいたコロンバージュの家


12.今にも崩れ落ちそうなコロンバージュの古い家並


 20世紀半ばからしだいに昔の家並が失われていたところ、当時の文化相アンドレ・マルローの提唱により再びコロンバージュの家並が取り戻されたのだそうだ。
 そんな情報もあって、もっと新しいコロンバージュだろうと思っていたが古いものが多く残されている。ブルターニュでもノルマンディーでも多くのコロンバージュの家並を見たがここのが一番古い様な気もする。


13.マンホールの蓋までもがコロンバージュ


14.2階がせり出した典型的なコロンバージュの家


 途中、ポルトガルのフランゴ料理の店を見つけたがあいにく祝日で休み。
 サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂のステンドグラスは美しく見事であった。正面のバラ窓の黄色いステンドグラスはさすがであったが、遠くてデジカメでは色が出ていないのが残念。


15.サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂


16.黄色が美しいバラ窓


17.側面のステンドグラス


18.正面のステンドグラス


 道具博物館が開いていたので入った。
 コロンバージュの町にふさわしい博物館だが、展示のセンスが実に素晴らしい。古い道具を使ってのまるで現代美術を観ている様で感動さえ覚えた。入る時は入場料が少し高いと思ったが、出る時には安いと感じた程だ。


19.道具博物館入り口


20.道具博物館の展示

 

 

 

2009/11/12(木) 晴れ /Troyes – Paris


 マルシェ(市場)の肉屋にもアンドゥイエットは売られていた。店によっても味に違いがあるのだろう。地元のおじさんが品定めをして買っていたが、こういった癖のある物ほど慣れればやみつきになるのかも知れない。


21.マルシェのアンドゥイエット


22.トロワの街並


 ポルトガルに戻る前夜にIKUOさんの自宅にお招ばれしている。その時に持っていこうとシャンペンを専門店で調達。パリでも勿論買えるが、トロワ産のトロワでしか買えないシャンペンを買いたかったが、店の親父にはそれが通じたのか通じなかったのか「これだ」と言ったのでそれにした。

 画集やシャンペンでリュックが重くなったので、列車内で食べるサンドウィッチは駅のキオスクで買った。これが不味かった。フランスのサンドウィッチはたいてい旨いが、今までフランスで食べたサンドウィッチの中で最悪だった。

 パリのホテルのフロントには従業員ではなく経営者のマダムが居た。僕たちの名前と顔は良く覚えてくれていていつも歓迎してくれる。

 荷物を下ろしムッシュ・Mに電話。
 「ドートンヌに搬入するとカタログを渡されたのでどうしましょう?」と言う。いつもなら会場で直接貰うのだが今回から搬入時に配布する様になったらしい。ムッシュ・Mの自宅まで取りに行くことにした。
 85番のバスで1本だが道が混んでいて小一時間もかかってしまった。でもこのバスは名所や下町の猥雑なところなども縫って走るので楽しい。カルネたった1枚で随分値打ちがある。

 ドートンヌは今回初めての会場でエスペス・シャンペレという今まで行った事がないところ。
 ホテル近くのパンテオンからポルト・シャンペレまで84番のバス1本で行く。始点から終点までだ。
 ムッシュ・Mの自宅のあるジュール・ジョフリン往復とドートンヌのあるシャンペレ往復でパリ市内観光を全てしてしまった感覚だ。

 今年も目立つ良い場所に僕の絵が掛けられていて満足であった。


23.正面の100号が僕の出品作(サロン・ドートンヌ2009)


24.サロン・ドートンヌ2009カタログ

 

078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(下)-Troyes-へつづく。

 

(この文は2009年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- (下) -Montauban-

2018-12-08 | 旅日記

2009/10/04(日)晴れ/Albi-Castres-Toulouse-Castelnaudary

 ホテル・エタップのバイキング朝食もそこそこに良かった。普段は無人でもその時間帯だけは従業員がいる。朝食の用意と掃除、シーツの替えなどだけをして昼過ぎに帰ってしまう。
 チェックイン、チェックアウトはお構いない、料金などは全て自動販売機方式だからお金は一切扱わない。
 意外と初老の宿泊客が多いのに驚いた。七面倒なのより合理性を好むのだろう。

 ロートレック美術館は10時からなのでその前にロートレックの生家を探すことにした。
 初めはあいにく見つからなかった。
 カテドラル内部を見学し裏庭とタルン川の風景を見ていた。
 横浜からという同世代か少し僕たちより若いご夫婦と少し話をした。
 僕たちは今からロートレック美術館を観てゴヤ美術館のあるカストルに行く。
 横浜のご夫妻は昨日既にロートレック美術館は観ていて、今からカルカッソンヌに行かれるらしい。
 「列車やバスを乗り継いでの旅だから時間がかかります。」と言われていた。出来るものなら旅は時間をかけるほうが楽しいし値打ちがある。


15.アルビのタルン川風景


16.ロートレック美術館カタログ


17.ロートレック美術館とツーリストインフォメーション


18.ロートレック美術館

 ロートレック美術館にも膨大な作品が展示されていた。
 今までパステルだろうと思っていた作品の殆どが油彩であったのには驚いた。その多くは紙やボードに描かれた油彩だ。それにロートレックと交友関係にあった、ナビ派やポンタヴァン派などの作品も展示されていた。
 ホテルに帰る途中に今度はロートレックの生家だというプレートを見つけた。


19.ロートレックの生家プレート


 朝はたっぷり食べたし、夕食もいつもたっぷりなので、昼くらいは軽くと思って、出発前にスーパーでサンドイッチとサラダを買った。
 サラダを食べるのにプラスティックのフォークが必要だと探していたら、レジの女性が「サラダにフォークが付いていますよ。ぷちっちゃいけどね。」と教えてくれた。
 いかにも日曜だけ働いている学生アルバイトという感じの良い女性。

 カストルに行く途中の景色の良い田舎道のPでサンドイッチとサラダ、ヨーグルトを食べた。

 カストルは田舎町という感じでどこにでも駐車はできた。しかも日曜日だ。
 町の中心方面に向って歩き運河沿いに少し下った所にカテドラル。その裏手に古い司教館を利用したという立派な建物、ゴヤ美術館があった。


20.ゴヤ美術館入り口


21.ゴヤ美術館の庭


 そしてヴェルサイユ風の庭が美しい。いろいろと珍しい花も植栽されていて、イチイの木には真っ赤な実がなっていた。
 ゴヤ美術館で入場料を払おうとすると「きょうは日曜日なので無料です。」


22.ゴヤ美術館展示室

 カストルのゴヤ美術館はフランスにあるにもかかわらず何故かスペイン系の画家の作品が多い。
 ゴヤは勿論のこと、ヴェラスケス、リベラ、スルバラン、ムリーリョ、そしてピカソとクラーヴェの作品も一点ずつ。
 名前の知らない画家の作品もその殆どがスペイン生れの画家であった。


23.ゴヤの自画像

 フランスのファンタン・ラトゥールの作品もあったがムリーリョの「乞食の少年」の模写である。
 そしてゴヤの膨大な数のエッチング。一人のコレクターの蒐集品であったそうだ。


24.ゴヤ美術館カタログ


 カストルはアルビとトゥールーズの中間の閑静な田舎町。サンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道にもあたる。

 ゴヤ美術館を後にトゥールーズまで一走りだ。

 トゥールーズ美術館も見逃せない。
 明日は休館日だから今日中に観なければならない。あまり時間がない。
 大都会なのでなかなか駐車スペースが見つからない。
 美術館の方向にはクルマは曲がれない。反対側に曲がってみたが川沿いもクルマで溢れている。ロータリーをUターンして一つ中の道へ。随分走ってようやく一台分の駐車スペースを見つける。でもかえって美術館に近い場所まで戻れた。

 どんどん人が入っていくので美術館だと思って入った。
 人を惑わせる迷路の様な現代作品ばかりで、おまけに暗い。観たい近代の作品には行きつかない。本当に館内で迷ってしまった。観覧者は迷路に喜んでいる。大騒ぎだ。
 観覧者に「ここは美術館ですか」と尋ねると「違います」という。「ここは美術大学の学生の実験場です」との答えだった。
 地図を良く見てみると一筋違っていた。急いでトゥールーズ美術館に入った。

 ボナールの良い作品がたくさんある。
 黒っぽい作品、例のパステル調の絵。実に美しくてうっとりするほどだ。でもこの美術館で僕が最も良いと思ったのはブラックのフォーヴの絵。「窓からの眺め」だ。


25.ブラックの「窓からの眺め」

以前にもポンピドーでフォーヴのブラックを観たが、それも良かった。


26.トゥールーズ美術館カタログ

 黒いキュビズムのブラックも素晴らしいがフォーヴのブラックは又素晴らしい。どうしてあんな色が出せるのか、そのセンスに感動してしまう。閉館と共に美術館を出る。


27.トゥールーズ美術館カタログ

 今から宿探しだ。
 ありそうな道を歩いてみたが一軒の四星ホテル以外二つ星程度のホテルは一軒もない。くるっと回ってクルマの所に出てしまった。

 美術館も観てしまったし、大都会に用はない。今日も郊外でホテルを探そうと走り出した。

 カルカッソンヌに行く途中、高速沿いにホテルのマークを見つけた。サーヴィスエリア内のホテルだが高速道路から随分と入り込んだところにそのホテルはあった。
 森の中の静かな佇まいでリゾートホテル並みの設備。
 とてもサーヴィスエリア内とは思えない。レストランは別棟。
 レストランは船のドックの前にあり、これらの設備一帯が、高速道路のサーヴィスエリアと、カナル運河のドックが両方利用できる様になっているのだ。
 レストランではクルマで来た人と船で来た人が同じ場所で食事を楽しむ。
 ガチョウの生ハムサラダの前菜とガチョウ肉のステーキ。デザートにはフロマージ・ブラン。
 喉が渇いていたので良く冷えた地元の白ワイン。でもここではロゼにするべきだった。

 ホテルの前の駐車場は殆どがフランスナンバーのクルマだったが、僕たちのクルマ以外にポルトガルナンバーのクルマがもう一台停まっていた。

2009/10/05(月)晴れ/ Castelnaudary - Celet- Cllioure - Barcelona

 カルカッソンヌは素通り、セレに向う。
 セレにはキュビズムのメッカ的な美術館があるという。
 ピカソやブラック、グリス、マチスなどの作品があるとのことで楽しみにしていた美術館だ。
 町の入り口の広い駐車場にクルマを止めて美術館へ向う。
 町にクルマを乗り入れることはできない。
 町の雰囲気は以前訪れた、ブルターニュのポンタヴァンにどこか似ている。全く違う地方で全く違う光の筈なのに、何か漂う空気が似ている。プラタナス並木の大きさだろうか?

 美術館には小学生の団体が見学に来ていて少々騒がしかった。
 第一室に一歩足を踏み入れて金縛りにあってしまった。僕の好きなスーティンだ。一部屋全部がスーティンの風景画だ。全部で23点。どれもこれも素晴らしい。素晴らしすぎる。果たしてどう表現してよいか言葉を失ってしまった。


28.セレ美術館入り口

 これほど多くのスーティンを一度に観たのは恐らく初めての経験だ。
 スーティンの息遣い、鋭い眼光で観る者を金縛りにしてしまう。実際に観た人でないとあの素晴らしさは判らない、画集などでは判らないのだと思う。何れもここセレの風景だ。
 展示は23点だったが、カタログにはセレの風景ばかり50点が載せられている。
 スーティンはこの地に留まってこんな素晴らしい仕事をしていたのだと思うと僕には鳥肌が立ち寒気さえ覚えてしまっていた。
 キュビズムのメッカと同時にスーティンのメッカだ。


29.セレ美術館カタログ

 美術館を出て更に寒気は続いていた。
 天気が良いのでクルマを出る時に薄着のままで出たが、町の木々が大きく日陰ばかりなので、実際少し肌寒い。
 或いは館内で小学生高学年の女の子が僕の目の前でくしゃみをしたが、それがうつったのだろうか?新型インフルでなかれば良いが…


30.スーティンの複製パネルとセレの街並

 セレの町を歩く。
 スーティンがイーゼルを立てた場所に複製画のパネルが飾られている。
 身体が冷えてきたので、急いでクルマに戻って、港町コリウールまで走り、そこで昼食の予定。
 コリウールはかつてマチスやアンドレ・ドランが滞在して絵を描いたところだ。

31.キュビズムのパネルとスーティンのパネル(右)

 スペイン国境に近い地中海の輝く太陽の下で原色を用いて描いた絵は「まるで野獣(フォーヴ)の様だ」と言われたことからフォーヴィズムという言葉が生れた。
 フォーヴィズムはコリウールが発生の地と言われている。
 ここでも画家がイーゼルを立てた場所に複製パネルが飾られている。
 マチスが滞在して窓からの眺めを描いた住宅の前にも2枚の複製画が飾られていた。


32.マチスが滞在した家


33.マチスがこの家で描いた室内風景のパネル

 海に突き出た鐘楼をアンドレ・ドランが黄色と赤を多様した原色で描いている。そのイーゼルを立てた場所に食堂のテラスがあった。そのテラスで少し遅い昼食を取った。
 僕はそれほど暖かいとも思わなかったが、海に入って泳いでいる人が何人もいる。


34.コリウールのビーチ


35.アンドレ・ドランとマチスのパネル

 マチスもこの同じ鐘楼を同じような色彩、同じような構図で描いている。たぶん一緒にイーゼルを並べて描いたのかも知れない。

 マチスとドランがコリウールに滞在して新しい潮流、フォーヴで競い合っていたその同じ年の1905年から翌年にかけて、マチスはアングルの「黄金世代」という絵をモティーフにフォーヴ的実験作品を制作している。
 その絵はマチスにとって生涯のテーマとなった「ダンス」へと繋がっていく。
 その後にも、アングルの「オダリスク」や「M婦人像」。ヴェラスケスの「マリアとマルタの厨房」などマチスは数多くの先人の作品をテーマとして取りあげている。
 コリウールはアングルが生れたモントーバンのすぐ近くだし、ヴェラスケスのスペインとの国境まで僅かと言う地が何らかの影響を与えたのかも知れない。

 このコリウールで一泊、とも考えていたが、実はセトゥーバルでちょっとした用事があって、一週間で戻ることが出来れば好都合なのだ。
 一応の見学予定も全て完了して、後はひたすら帰るのみ。

 今日もどこまで走れるかが勝負だ。でも当初思っていたよりは楽勝気分。再び高速道路に乗り、バルセロナを目指す。
 しかしセレで引いた風邪が少し悪化した模様。早い目にホテルを確保した方が良さそうだ。ちょっと早いと思ったがバルセロナの外環道沿いのパーキングエリアにホテルがあったので泊ることにした。
 今回の旅で泊ったホテルの中では一番高い料金。
 設備はまあまあだったが、高速の騒音が低周波音として神経に響きMUZは良く眠れなかったらしい。僕は風邪薬を飲みぐっすりと寝た。

 

2009/10/06(火)晴れ/ Barcelona-Valencia-Villarrobledo

 ポルトガル、スペイン、フランス三国の中ではスペインのガソリンが一番安い。フランスでは少ししか入れなかったガソリンを満タンにして出発。

 往きはスペインの中央部を走ったので距離的には短い。帰りは地中海沿いに走っているので距離は長い。
 往路で使った道、つまりサラゴーサまで戻って、マドリッド経由で帰るか、バレンシアまで地中海沿いを走ってそれから内陸に入り、高速道のないルートを取るか、走りながら迷っていた。
 濃い緑色のオレンジ畑が続き、同じ緑色のオレンジがたくさん実っているのが高速道からでも良く見えた。

 バレンシアから内陸に入ってシウダード・レアル経由が近道に思うが、シウダード・レアルまでの道路が整備されていなくて迷うかも知れない。
 でもそのルートに挑戦することにしたが、それが正解だった。クルマもトラックも少なくて本当に走りやすかった。でも一般道だからスピードはだせず距離は稼げない。

 今夜はシウダード・レアル泊りかなと思っていたがそれより100キロほども手前で泊ることになった。
 国道沿いのドライヴインで、部屋は広く、床には桃色大理石を敷き詰めて豪華、バスタブも大きく立派だがあまり客はいないらしく割安であった。
 風邪は未だ良くはならず早めに軽く夕食を済ませて早々に寝る。

 

2009/10/07(水)曇りのち洪水のち晴れ/Villarrobledo -Merida-Badajoz-Elvas - Setubal

 天気は下り坂らしく、出かけるときから霧雨が降り始めていた。
 シウダード・レアルからメリダの間も交通量が少なくまっすぐの道で走りやすかった。
 ブドウ畑の紅葉が美しい。雨こそ降らないが前方には真っ黒な空。そしてバダホスを過ぎたところから、大雨。

 バダホスのガソリンスタンドで古くなっていたワイパーを替えて貰う。替えてすぐにワイパーも利かないほどどしゃ降り。
 国境手前のガソリンスタンドでガソリンを満タンにしたが、スタンドを出るところの道が洪水で大きく水を跳ね上げる。国境までどしゃ降り。以前スペインを旅行した帰りにも同じ場所で全く同じことを経験したが、その辺りが雨が多いと言う事は決してない。どちらかと言うと乾燥地帯だから、単なる偶然だろうが不思議だ。

 以前にはクルマの屋根にこびりついたコウノトリの糞がその雨で綺麗に洗い流されて良かったが。今回も高速を走ってフロントに付いた虫の痕が洗い流された。
 エルヴァスを抜ける頃には明るく晴れ始めていた。セトゥーバルの我が家に戻ったのも未だ明るいうちだった。

 ちょうど一週間の今回のクルマでの旅。メーターを見ると3,385キロを走破したことになる。
VIT

(この文は2009年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- (上) -Montauban-

2018-12-08 | 旅日記

 今年のパリ行きは「クルマで行ってみよう」と考えていた。でも地図を見るとパリは遠い。僕の体力で可能なのだろうかと思ってしまう。

 昔、ストックホルムに住んでいた頃はそれこそピレネーであろうが、アルプスであろうが、東欧、トルコ、モロッコまでもクルマで走っていった。スカンジナビア最北端ノード・カップにも。フォルクスワーゲンのマイクロバスを改造して、クルマに寝泊り、どこに行くにもお構いなしだった。僕たちも若かったのだ。

 今のクルマ、シトロエンを新車で買ってまもなく十年になる。日々の買い物とポルトガル国内旅行が殆どでスペインに入ってもポルトガル国境付近。遠出という遠出ではない。

 今年の車検ではタイヤも四本新しく替えたし、クルマも適度に古くなって絶好のチャンスかも知れない。

 クルマでパリまで行くのだったら、パリからは遠くて行きにくいミディ・トゥールーズあたりを途中見学もできる。スペインからピレネーを越えフランスに入ってすぐのあたりだ。

 その周辺の美術館を検索してみると、モントーバンのアングル美術館で「アングルと現代作家たち」という企画展が行われていて、期間は10月4日(日曜日)までとあった。
 モントーバンのアングル美術館には前々から絶対に行きたいと思っていたのだが、これは又とないチャンス。
 パリにはサロン・ドートンヌの期間中ではなくても前もって作品を預けることもできる。

 半月ほどは迷いに迷った。
 世界中クルマは増えてどこもここも街なかは駐車禁止。それに犯罪に会った話もよく聞く。バスクのテロに巻き込まれる危険も無きにしも非ず。スペインは広い。スペインは広いし、フランスも大きい。パリはフランスの北の端っこだ。途中の宿代、ガソリン代、食事代、おおまかに見積もっても飛行機で行くほうが遥かに安上がりだ。

 同時にイージージェットのパリ行きを検索してみると、これがまた安い。往復二人で188ユーロ。早いし、自分で運転することはない。
 モントーバンは諦めざるを得ない。
 サロン・ドートンヌの時期(11月中旬)に合せてイージージェットの航空券をネットで買ってしまった。

 でも先月のサイト更新を済ませて一気に気持ちが動いたのだ。やはりモントーバンは諦めきれない。パリと切り離して考えることも可能だ。


2009/10/01(木)晴れたり曇ったり/ Setubal - Elvas - Badajos - Madrid - Triueque

 走ってみることにした。今日の出発を逃せばそのチャンスは二度とない。幸い週間予報でトゥールーズあたりの天気はおおむね晴れ。セトゥーバルを朝8時に出発。きょうはどこまで走れるかが勝負だ。エルヴァスから無料の高速に乗り国境の手前で初めて休憩。コーヒーを飲む。ポルトガルとしばしの別れ。国境を通過。

 バダホスを過ぎたドライヴインの駐車場で朝出かけに作ってきたおにぎりで昼食。ドライヴインで食後のコーヒー。
 メリダ、トルヒーヨと町には入らずに外環高速で通過。そこまでは以前にもこのクルマで来た地域だ。やがてトレドの標識。そしてもうすぐマドリッド。

 マドリッドには五重の外環道がありM5に入れば簡単に目的のサラゴーサ方面に入ることが出来る筈。
 ところがM5を逃してしまった。M4は見つからず、M3もうっかり逃してしまう。道と標識は複雑でとにかくクルマが多い。そして最悪のマドリッドの街なかへ。右も左も判らない。でも少し迷っただけで<トゥート・ディレクション>(全ての行き先)の標識を見つけてM3へ。
 少し時間のロスはあったが巧くサラゴーサ方面行きの高速に再び乗ることが出来た。お陰で大都市を走る自信が少し付いた。

 グアダラハラあたりを過ぎたころから今日の宿探し。目的地フランスまでは高速から離れずに高速沿いのホテルに泊るつもり。ホテルの看板を辿ってそこまで行くが「今はやっていない。」というのが三軒。四軒目でようやくホテルにありつく。120キロ以上のスピードを出しきょう一日で750キロを走った計算になる。

 未だ明るかったので村まで歩く。古い石造りのアーケードの広場があり趣のある村。ベンシャーンの絵にある様なコンクリート壁の運動場で少年たちがサッカーに興じていた。それを写真に撮ろうとすると同時に、その中でも年少の少年がけんかを始めた。写真を撮っているのを見て、年長組少年にからかわれて、恥かしそうに照れたのが可笑しかった。


01.トリウエクのマヨール広場


02.少年たちがサッカーに興じていた


 宿は44ユーロというのを40ユーロに値切ったところ「42ユーロならいい」と言うことになった。
 夕食はワイン一本。前菜、主菜、デザートまで付いて一人10ユーロ。安いけれどそれなりの内容。でも地元ワインは旨かった。旨かったけれど一本は呑みきれずに三分の一は残した。

2009/10/02(金)晴れ/ Triueque - Serra Pirenees – Pau


 朝はトラック野郎たちで店は満杯だった。
 部屋は取らずに前の駐車場のトラックの中で一夜を明かした様だ。カウンターに寄りかかって早々から強い酒を引っ掛けている運転手もいる。

 朝食を頼むとカフェ・コン・レーチェと焼いてバターを塗ったクロワッサンを手際よく作ってくれた。それに手作りジャムも添えられていた。
 カウンターの中ではおかみさんが一人で大忙し。常連客が僕たちの席まで朝食を運んでくれた。

 昨日は予定より距離が稼げたので今日中にピレネーを越えることができそうだ。
 サラゴーサは巧くすり抜け、やがて高速道も終り一般国道へ。対面交通になるが道は良い。前方にピレネーの山々が立ちはだかる。


03.前方にピレネーの山々が立ちはだかる


04.ピレネーの山はすぐそこまで


 1972年、ポンコツVWマイクロバスでアンドラをまたいでピレネー越えをしたのを思い出す。ピレネーを越えたスペイン側の登り坂でトラックを追い越そうと、対向車線に入って加速したところ、前のトラックが更に前のトラックの追い越しにかかった。トラックは尻を振って僕のクルマのバックミラーを壊した。バックミラーだけで済んで良かったものの一歩間違えば僕たちは谷底だった。

 きょうはトラックが少ない。このルートはあまりトラックは走らないのかもしれない。
 立ちはだかるあの高い山を越えるのかと覚悟を決めていたが、七キロもある立派なトンネルが出来ていて難なくピレネーを越えることができた。

 紅葉を期待していたが、そのあたりは針葉樹ばかりであまり紅葉はなかった。時々、蔦が紅く色づいている程度だった。
 フランスへの国境を越えると風景は一変していた。緑が豊富なのだ。
 スペインの荒涼とした茶褐色の世界に対して本当にフランスは緑豊かだ。
 フランス側からピレネーを越えると確かに「そこはもうアフリカ」という言葉がうなずける。

 それと同時にフランスに入れば道は狭くなる。
 道のど真ん中で国境警察に停止を命じられる。パスポートの検査だ。
 事務所に持って行って検査をしたのだろう。スタンプを押してくれたのかなと思ったが、新たなスタンプはなかった。
 たまにしか走らないクルマを止めて、暇で暇でしょうがない。といった感じの警官たち。
 「バカンスですか?ビジネスですか?バカンス。いいな~。楽しんで下さいね。」などと言ってくれる。その間、後ろからは一台のクルマも来ない。

 山道なのであまり距離は稼げない。
 ポウの町でホテルの看板を見つけたので聞いてみると「今はやっていない」とのこと。
 もう少し走った町外れの国道沿いに広い駐車場のある平屋のホテルを見つける。立派なレストランも併設されていて、夕食はお勧め定食にした。街からも常連客が食事に来ていた。
 ダイニングの大型モニターに厨房の様子が映し出されていたが、その夜のお客は僕たちを含めて三組五人だけで暇そうであった。


05.鴨の生ハムサラダ


06.子羊のステーキ


07.木の実のクレープ


08.オーヴェルニュ・フロマージと杏ジャム

 

2009/10/03(土)晴れ/Pau - Montauban - Albi

 朝食を済ませひたすら田舎道をモントーバンへ。
 モントーバンの街なかに入り、判らないまま徐行していたが、巧くアングル美術館の真後ろの駐車場にクルマを入れることができた。しかも土曜日なので駐車料金は無料。
 早速ホテルを探すがなかなか見つからない。仕方がないので先にアングル美術館を観ることにする。


09.アングル美術館入り口


10.アングル美術館カタログ


 ここモントーバンのアングル美術館にも、もともとアングルの代表作が数点はある。
 企画はアングルの作品をヒントに或いはモティーフにしてピカソ、ピカビア、マチス、グリス、ラウル・デュフィ、マルセル・デュシャン、ダリ、キリコ、アンドレ・マッソン、ミロ、アンドレ・ロート、フランシス・ベーコン、デイヴィッド・ホックニー、ラウシェンバーグ、などの作家が作品を作っていてそれらがオリジナルのアングルと一緒に並べられている。贅沢な企画だ。


11.モントーバンの「オダリスク」と現代作家の作品


12.アングルの「泉」とその部屋


 アングルの「泉」の部屋には色んな画家の「泉」が。
 「泉」はこの企画の為にパリのオルセーからモントーバンまで運ばれてきていた。
 その他にルーブルの「オダリスク」とは違うモントーバンの「オダリスク」がある。
 勿論モントーバンでしか観る事が出来ないアングルは全て展示されていて満足であったが、何か、もう一つ、すっきりしない企画でもあった。
 アングル自身がこの企画を見たらどう思うだろうか?などと思った。やはりアングルはアングルだけで観たほうが良いような気もする。



13.アングルの作品と奥のマルシャル・レイスの1964年の作品

 午前中に入場した時は空いていた会場も出る時には入場券売り場から表の門まで長い行列が出来ていた。


14.アングル美術館切符売り場は長い行列

 たまたまか?僕たちが観ていた時は空いていて良かった。
 スペインを走りに走ったので予定より一日早い最終日前日に観ることができたわけだ。明日、日曜の最終日にはもっと長い行列が出来るのかも知れない。


 ホテルを探したが手ごろなのが見つからないし、アングル美術館も観てしまったので、少し走って駐車場の心配のいらない昨夜の様な郊外のホテルで泊るのも悪くない。
 ゆっくり走ったが、あいにく次の目的地アルビまでの途中にホテルは見当たらなかった。

 アルビにはホテル・イビスがあるのでそこでも良いと思っていた。
 ホテル・イビスの前の道路にちょうど一台分の駐車スペースがあった。
 ホテル・イビスはあいにく満室だが、ホテル・エタップなら空いているとのこと。イビスとエタップは同列のホテルだが、イビスはちゃんとフロントがあって従業員も居るのに対して、エタップは自動販売機の無人ホテル。そして少し安い。
 フランスにはあちこちにあり、以前から存在は知っていたが無人では不安だし、どのようにして泊るのか判らない。
 でもここでは二軒が併設されているから、イビスの従業員が手続きを全てやってくれた。

 初めて利用したがなかなか機能的で使いやすい。部屋はロフト風の作りになっていて、子供のいる家族連れなら特に便利だろう。路上駐車は土曜日なので明後日朝まで無料。

 街では「EKIDEN」が行われていた。
 ゆっくりカフェに座ってビール。アルビではやたらピッザレストランが目に付いたので、今夜はピッザ。


077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記-(下) -Montauban-へつづく。

 

(この文は2009年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

武本比登志のエッセイもくじへ

 

 

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068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(下) -Hommage Georges Rouault-

2018-11-29 | 旅日記

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(上)

2008/10/15(水)晴れ一時小雨/Reims

 美術館が開く前にサンレミ・バジリカ聖堂まで歩いた。
 昨日の藤田のチャペルより少し距離があると思ったがゆっくりと歩いた。お陰で普段の運動不足がたたって、二人とも足の裏に豆を作ってしまった。
 藤田嗣治はこの聖堂から不思議なインスピレーションを受け、カトリックに改宗、ここで洗礼を受けたそうだ。

22.

 サンレミ・バジリカ聖堂に着くころ少し雨が降り始めた。
 藤田が感じた不思議なインスピレーションとは、僕には窺い知る余地もないが、聖堂内に差し込む光が柔らかくステンドグラスにも厳かな渋さがあった。

 

23.

 隣の博物館の開場は午後2時からなので、バスで一旦町の中心まで戻り、先に美術館に入った。
 コローが随分ある。しかもオルセーやルーブルに匹敵する程の良い作品が多い。2階の古い順から観ていると12時に一旦閉館を告げられて追い出されてしまった。「1階を観るのにまた2時から来なさい。」と切符売りのマダムに言われた。

24.

 昼食の間に明日のパリに戻るTGVの切符を買う。
 昼食を済ませて2時過ぎに再び美術館に行ったが1階は少しだけだった。でもブーダン、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ゴーギャン、ドニ、ヴイヤールそれにヴィエラ・ダ・シルバなどひと通り揃っていた。忘れてならないのは藤田嗣治も1点展示されていたことだ。残念ながらルオーはなかった。

 また、サンレミ・バジリカ聖堂隣の博物館に行く。
 ランスの町を行ったり来たりだ。もう歩けないので市バスで行くことにした。市内均一、1ユーロなので使いやすい。

 美術館近くのバス停でサンレミ行きのバスを待っていた。
 しょっちゅう来るはずなのにその時に限ってなかなか来なかった。朝に歩いた時には何台ものサンレミ行きのバスに追い越されたのでしょっちゅうの筈だ。
 ガラスに囲まれたバス停で待っていたがそこに背の高い黒人の男性が来てタバコを吸い始めた。
 僕たちはタバコの煙を避けるためバス停から出た。
 そのすぐ後ろの店の入り口で二人の若い男が立ち話をしていた。
 そこに初老の警官と若い女性警官2人の3人連れの警官が通りかかった。
 立ち話している2人の内の1人に警官が話しかけたと思ったら、すぐにするりと手錠をかけた。あっと言う間の出来事だった。男は手錠がかかったまま振りほどいて逃げようとした。ものすごい勢いだった。初老の警官と女性警官たちは必死で押さえ込んだが、男もかなりの力で抵抗している。女性警官の1人が押さえながら無線で連絡を取っている。ほんの1~2分だったと思う。サイレンを鳴らしパトカーや覆面パトなど5~6台が集結していた。初老の警官に代わって若い強そうな警官が男の両手に後ろ手に手錠をかけ、首根っこを押さえつけパトカーに押し込んだ。そしてサイレンを鳴らし行ってしまった。
 市バスを待っているちょっとした間の出来事だが、こんな迫真の現場を間近で見たのは恐らく初めてのことだ。指名手配の男だったのか。あの男はいったい何をやらかしたのだろうか。

 

25.

 夕食はホテルの隣のブラッセリーでシードルを飲みシュクルートを食べた。どちらもフランスの物に違いないが、他の地方の物だ。ここではシャンペンを飲むべきだったのかもしれない。ランスはシャンペンの中心都市なのだから…。

2008/10/16(木)晴れ/Reims-Paris

 ホテルを出て、駅はすぐ近くだ。駅前に公園がある。花壇の植え込みも美しいが黄葉が素晴らしい。
 今回はトロワを諦めてランスに2泊して良かった。シャンペンは飲みそびれたが、充分に堪能できた。

 TGVはまたランス発でパリ東駅までノンストップだ。
 僕たちの席は4人掛けだが、他に誰も来ない。
 通路を挟んだ隣の席にリュックを担いだ若者が来た。リュックの側面に何と日の丸を縫い付けている。反対側にフランス国旗。それを見て僕たち二人が顔を見合わせた。
 若者は日の丸を指して「これですか。あなたたちは日本人ですか。」とたどたどしい日本語で言った。「私は4ヶ月前から日本語を習い始めました。ランスの日本語教室だけでは事足りなくて、週に2度ソルボンヌの日本語教室に通っていて今から行くところです。」ということだった。
 TGVが走り出すと早速ノートを開いて勉強を始めた。「何か判らないところがあれば聞いて下さい」というと、早速聞いてきた。授業で「隣のトトロ」を観たそうで、それに関しての質問が並んでいた。漢字はまだ難しいらしいが、ひらがなならすらすらと書けるし、読める。たった4ヶ月でたいしたものだ。
 「もっと勉強をして来年には日本に行きたいです」とのこと。
 最近の若者は「MANGA」に興味があって、日本語を習う人が多いと聞いたが、この若者はそうではなくて、日本の古い室町、桃山の歴史に興味があると行っていた。
にこにことして感じよくとても好青年で、たどたどしい日本語であったが、話している内にあっと言う間にパリ東駅に到着してしまった。

 フランスのランスで影と光、ステンドグラスではないが、陰と陽、昨日の手錠をかけられた男とこの好青年、正反対の若者に出会った。

 パリのホテルに入り、ムッシュ・Mに電話をしてみた。
 実はいつもなら作品を預ける時に入選者バッジと何枚かの招待券を受け取るのだが、「今回はまだ来ていない」と言うことだった。
 「搬入の時に貰ってきました。カタログも一緒です。」とのことだったので、ムッシュ・Mの自宅まで貰いに行った。
 いつもはメトロで行くのだが、今回は調べて85番の市バスに乗った。南のリュクサンブールから北のジュール・ジョフリンまで、普段あまり行くことのないところをたっぷりパリ観光ができる。
 カタログなどを受け取り、ついでにジュール・ジョフリンのブラッセリーで昼食。ホテルに戻るのに同じ85番のバスに乗ったが、一方通行だから走る道が違う。カルネ1枚ずつで立派なパリ市内観光だ。

 サロン・ドートンヌに行く前にカルチェ・ラタンのサン・セヴラン教会のステンドグラスを観る。
 今回はサン・シャペルのステンドグラスを観る予定をしていたのだが、バスでその前を通るたびにいつも長い行列で、今回はそこまでして観なくてもと思ったのでやめた。今までもサン・シャペルは何度も観ている。
 足が痛かったがセーヌを渡ってノートルダムへ。
 今回の旅ではルオーに関連して「ステンドグラスをたくさん観る」というテーマを持っているので、ノートルダムもその一つなのだ。いつもなら前を通ってもあまり入らない。ノートルダムに入るのは本当に久しぶりのことだ。
 入ると中では丁度ミサが行われていた。
 やがてパイプオルガンと共に賛美歌の美しい歌声が大勢の観光客の喧騒を抑えて教会内を支配する。
 ちょっとしたコンサートだ。いや、ちょっとではなく大したコンサートだ。

26.ノートルダムのミサ。

 クリュニーに戻りそこからサロン・ドートンヌ会場のあるポルト・オウテイルまではメトロで1本だ。

 クリュニーのメトロの入り口のところに総菜屋形式のすし屋がある。中国人が経営している店だ。パリですしなどもっての外。と決めていたが、ちょうど小用にトイレを探していた。

 パリでは案外とトイレに困る。
 昔、僕たちが初めてパリに行った60年代、70年代には「エスカルゴ」と称したアール・ヌーボー調の小便場が町角にあった。
 その頃には残念ながら、僕は使ったことがなかったが、何とこれも佐伯祐三は絵にしている。それがいつの頃からか不衛生という理由からだろう、なくなってしまった。今はコイン形式のモダンな建物が出来ているが、何だか閉じこめられてしまいそうで使いづらい。同じものがポルトガルの町角にも出現しているが、使ったことはない。

 パリではカフェに入ればたいてい地下にコイン形式のトイレがあり、それを使えるが、トイレだけでは済まない、夜にコーヒーを飲むと眠れなくなる。
 この際と思って小さいすし1パックずつを買って食べることにし、トイレを使った。
 僕たちがワサビを醤油にたっぷり溶かし込んでいるのを、隣の席にいたフランス人のマダムたちが見て真似をしていた。やがて鼻にツンと来たらしく、少し慌てふためいていた。

 サロン・ドートンヌの入り口は入場券を買う人々で長い行列が出来ていた。僕たちは出品者バッジがあるので横の入り口から入れる。
 ひと通り観て、自分の作品も確認して、疲れていたので早々に退散した。

 

27.

2008/10/17(金)晴れ/ Paris

 今回の旅はジョルジュ・ルオーをテーマとしたので地方都市は本来いらない。ルオーはパリで生れてパリで亡くなっている。

 検索で調べてみるとルオーが手がけたステンドグラスのある教会がある。
 でもそれはスイス国境に程近い、標高1,000メートルもありそうな、地図にも出ていない Plateau d'Assy という人里はなれた村。Eglise Notre-Dame-de-Toute-Graceと いう教会。現代建築家の手になる教会だ。ルオーのステンドグラスの他、マティス、ボナール、レジェなども参加している。これは是非行ってみなくてはと思ったが、何しろ遠い。アヌシー(Annecy)あたりまでTGVで行ってそこからレンタカーをしなければならない。2日の空き時間では無理。
 それにこの10月という時期、開いているかどうかもわからない。いずれ次の機会ということにしなければ仕方がない。
 それでルオーには関係がないが、近場のランス、トロワという場所にしたのだ。少しずつでも地方都市の美術館を観てみたいという思いからだ。

 今日は1日パリ。
 パリの地図でベルヴィル地区あたりを丹念に調べていると何とジョルジュ・ルオーという名前の通りがあるのを見つけた。
 そこを目指して朝から再度ベルヴィル地区に入ることにした。
 先日は道を間違えて見る事が出来なかった、エディット・ピアフ博物館を見るのも目的だ。見るといっても前を見るだけで中には入らない。前もって予約が必要なのだ。僕には博物館は観なくてもその場所を確認するだけで満足だ。
 エディット・ピアフはルオーと同じベルヴィル地区の生まれ。ルオーが生れたのは1871年5月21日。ピアフは1915年12月19日。
 ピアフはルオーより44年後に生れたことになる。ルオーが1958年2月13日、87歳まで長生きしている。一方、ピアフは1963年10月11日、48歳の生涯だ。
 ピアフが「ばら色の人生」や「谷間に三つの鐘が鳴る」を唄ったのが1945年、30歳。ルオー74歳の時。「愛の賛歌」は1949年、ピアフ34歳、ルオー78歳。
「パリの空の下」に至っては1954年、ピアフ39歳、ルオーが亡くなる4年前の84歳。
 ルオーは晩年、恐らくピアフの歌声を耳にしている筈だ。

 

28.ピアフの家のプレート

 僕が絵を描き始めるよりも前、佐伯祐三よりも先に初めに好きになったのがルオーだった。
 シャンソンで最も好きな歌手はエディット・ピアフでそれは今も変わることはない。
 その両者がパリの同じベルヴィル地区で生まれ育ったということは、今回初めて知った。出来ることなら、何だか少しこのベルヴィル地区に住んでみたい気分である。

29.ルオー通りの道路標示

 

30.ベルヴィル地区教会のステンドグラス。

 パリ市内でもう一つルオーゆかりの場所は何といっても「ギュスタヴ・モロー美術館」だ。
 ルオーはマティスなどと並んでギュタヴ・モロー教室の生徒でギュスタヴ・モローが亡くなった後、そのギュスタヴ・モロー美術館の初代館長を勤めていた。しかもその美術館に住み込みでだ。
 だから今回はギュスタヴ・モローその人よりもルオーの足跡を感じてみたくてギュスタヴ・モロー美術館に入った。

  

31.32.ギュスタヴ・モロー美術館内部。

 以前に訪れた時よりも作品が増えている様な気がする。ビューローに収まっている絵も丹念に1枚、1枚取り出して観てみた。
 ギュスタヴ・モローはルーブルやオルセーにある代表作よりもむしろ習作的なそんな小品に僕は魅力を感じている。

 

33.ギュスタヴ・モローの作品。

 まさしくルオーが影響を受けたそのものがそこに確かに存在する。
 ルオーは勿論素晴らしいが、それに影響を与えたギュスタヴ・モローの偉大さを
今更ながら改めて感じることが出来、感動さえ覚えた今回の鑑賞であった。

 

34.ギュスタヴ・モロー美術館のトイレ。

 もう1件、行きたい美術館がある。
 長いあいだ改修工事が行われていたパリ市立近代美術館。
 以前はモディリアニやスーティン、ユトリロ、藤田嗣治などの時代、エコール・ド・パリの作品が多く集められていた。
 その間、何度か訪れたがいつまでたっても工事中でスカをくらっていた。数年前には完成している筈である。
 メトロで向ったが、乗り換えるはずがサン・ラザール駅で外に出てしまった。またまた、近代美術館はスカをくらいそうである。
 気を取り直してバスの路線図を開いてみた。少し歩けば1本で行ける。

 入り口は以前とは違うところになっていたが、無事に着いた。
 そして無事開館していた。何と本日が初日とのことで「デュフィ展」が催されていた。
 グラン・パレのピカソ展は入るのに長い行列だと聞いたが、このデュフィ展は初日にも拘らず宣伝が行き届いてないためか割りと空いていた。

 

35.パリ市立美術館入口。

 パリでは今、同時にピカソ展、ヴァン・ダイク展、それにデュフィ、ルオーなど目白押しだ。
 パリ市立美術館の外観は以前と同じだが、素晴らしい美術館に生まれ変わっている。
 デュフィ展を観ている途中で「今日は6時閉館ですので、急いで観て下さい。」と追い出された。21時までとばかり思ってゆっくり観ていたのだ。結局、観たかった常設展を観ることが出来なかった。昨日なら21時までだったのだそうだ。
 聞いてみると「常設展はいつでも無料ですから、明日にも観に来てください」とのことであった。

 

36.パリ市立美術館展示場。

 パリ市立近代美術館のあるイエナ[IENA]からホテルのあるルクサンブールまでは82番のバス1本で行ける。
 エッフェル塔の真下を通り、アンヴァリッド、エコール・ミリタリーそしてモンパルナス・タワー、ルクサンブール公園の外側をくるりと半周しホテル近くまで、これもパリ観光の市バスだ。

2008/10/18(土)晴れ/Paris - Lisboa - Setubal

 朝食のあとホテルのチェックアウトを済ませ、荷物を預かってもらい、再び82番のバスで昨日のパリ市立近代美術館へ。
 空港へ行かなければならない時間を逆算してぎりぎりまで常設展を観る。
 規模は少し小さいけれどオルセーに匹敵する素晴らしい美術館に生まれ変わっている。しかも入場無料だ。
 ユトリロ、スザンヌ・ヴァラドン、藤田嗣治、モディリアニ、スーティン、ヴァン・ドンゲン、マルケ、ヴラマンク、ブラック、ピカソ、レジェ、ヴイヤール、ドニなどやはり僕の好きな時代の作品が揃えられている。それにビュッフェの古い良い作品が5点、フォートリエも良かった。ここにもヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品があった。
 そして圧巻はデュフィの高さ10メートル長さ62メートル40センチの超巨大な壁画があることだ。これを観るだけでも無料では勿体ない。おまけにマティスの壁画もある。

37.デュフィの壁画。

昨日の切符を見せて「昨日デュフィ展が全部観られなかったのですが、駄目ですか?」と言ってみた。すんなりOKだったので、残りの4分の1も観る事ができた。

 

38.フォートリエなどの展示スペース。

 パリ市立近代美術館の前の通りに朝市が出ていたので、帰りはバス停まで朝市の中を通って行った。
 ホテルに戻り荷物を受け取りルクサンブールからRERでド・ゴール空港へ。

 イージージェットは席が決まっていない自由席なので、最初は不安だったが慣れれば案外良い。
 リスボン行きのイージージェットに乗る乗客がたくさん押し寄せている待合室にアナウンスが流れた。
 「到着遅れの為、リスボン行きは1時間遅れます。」

VIT

 

(この文は2008年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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068. ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(上) -Hommage Georges Rouault-

2018-11-29 | 旅日記

 今回の旅のテーマには誰を取り上げようかと早くから探っていた。
 佐伯祐三から始まって、ゴッホ。 ゴーギャンとポンタヴァン派。 エミル・ガレとアール・ヌーボーもやった。 ブーダンと印象派。 そしてミレー。 テオドール・ルソーのバルビゾン派。どんどん古くなる傾向にあるのでここらで少しねじを巻き戻して新しいのを…。

 先ずパリの美術館で何か特別展をやっていないかをネットで検索していたら、ジョルジュ・ルオーという願ってもない人物が現れた。没後50年だそうである。しかもポンピドーセンター。
 検索した8月には既に開催されていて、最終日が10月13日。
 サロン・ドートンヌの搬入日が10月14日。グッド・タイミング。13日の最終日に、もし長蛇の列で観ることが出来ない事態を想定して1日早い12日の飛行機の切符をネットで買った。

 でも更に調べていく内にそのルオー展はたったの20点でポンピドーの1室だけの展示とのこと。それならいつもの常設展と何ら変らないのではないだろうか。

 

2008/10/12(日)曇りのち霧雨/Setubal - Lisboa – Paris


 セトゥーバルからのバスは日曜日だから少ない。いつもより一つあとの1時間遅い6時発のローカルバスで出かけたので5時起きだ。4時では夜中と言う感じだが、5時ならもう既に朝なので気分的に随分楽だ。
 昨年と同じ「イージージェット」。安いし慣れればこれが快適だ。前もってネットで搭乗手続きもできる。イージージェットのスタッフはエア・フランスに比べればひょうきんで軽い乗りだが感じが良い。

 今回もド・ゴール空港までムッシュ・Mが出迎えてくれた。
 100号を預け、そしてそのままクルマでホテルまで送ってくれたので楽に随分早く着いた。

 早速、ポンピドーセンターへ。閉館は21時なのでゆっくり時間がある。
 カルチェ・ラタンを通り抜け、セーヌを渡り、ノートルダムとサン・シャペル、花市場の前を通ってぶらぶら歩いて出かけた。

 1部屋だけの展示だと判っていたけれど、窓口では念のため「ルオー展のチケットを下さい」と言ってみた。
 切符売り場の青年は困った様子で「ルオー展は1部屋だけなので、普段の常設展の切符と同じなのですよ。それでも良いですか。」と言ったあと「ルオーの特別展はマドレーヌのピナコテカで催ってますけど…」と言ってピナコテカの住所、開館時間などをメモしてくれた。
 その特別展はここに来て初めて知ったこと。これはツイている。
 それを早速、明日のスケジュールに組み込まないといけない。

 ポンピドーでは1部屋だけの筈が、離れた部屋2部屋に分かれていて、20点どころか、3段掛け4段掛けでグワッシュなどを含め100点は展示されている。
 全てがポンピドーセンターの所蔵品だが、今までに観ていない作品が殆どで、期待をはるかに超えた随分見応えのある展示である。
 これに関するカタログは作られていないのが残念。全ての作品をデジカメに収めた。

 

01.ポンピドーセンター『ルオー展』入口。

 

02.ルオー展

 

03.3段.4段掛けのルオー作品。

 その他の常設展もゆっくりと2廻りほどは観ることが出来た。やはり前回訪れた時とは大幅に作品が入れ替わっている。

 昼食を摂っていなかったのに気が付きポンピドーセンター内の屋上テラスのレストランで軽く食事をしたがこれが大して旨くもなくばか高くて、しかも食べ終わる頃には小雨が降り始めた。
 隣の席で飲み物だけ飲んでいたジャン・ギャバン風の男がにやりとして覗き込み「旨えか~?」などと言う。まるで旨くないことを知っていたようにだ。

 

2008/10/13(月)曇り時々晴れ/Paris


 ピナコテカは10時半からなのでその前に東駅に行き、ランス行きTGVの切符購入と、ルオーの生れた界隈を見てみたかったので、早くに朝食を済ませホテルを出た。ルオーが生れたのはベルヴィル地区のヴィレット街。

 メトロから地上に上がりベルヴィル地区に1歩足を踏み入れて驚いてしまった。至るところに漢字が溢れ、歩いている半数が中国人なのだ。そんな中にアラブのカバブ屋があったりする。
 ルオーが生れた時代も職人たちが暮らす下町だったらしいが、今も猥雑な下町そのものだ。
 ベルヴィルの坂道を上りヴィレット街に入り端から端まで歩いてみたが、ルオーに関するプレートも何も見つけることが出来なかった。

 その地域の教会にも入ってみた。
 もしかするとこのステンドグラスを少年ルオーが観ていたか、或いは職人として手がけたものなのかも知れない。

 

04.ベルヴィル地区

 

05.ベルヴィル地区

 

06.マドレーヌの『ルオー展』入口。

 マドレーヌのピナコテカは狭い会場だったが、作品は100点ほどもあっただろうか。最初期から晩年まで時代順に並べられた油彩が中心で、アメリカや日本など世界中から集められていて、見応えのある展示であった。モティーフごとに説明が記され、その説明をベンチに座ってゆっくりと読むことが出来る。
 1点1点がまるで樫の木やモザイク石材で作られた工芸品のごとく重厚で、深い色調の中にちりばめられた宝石の様な鮮やかな光は全く神々しいとしか例えようがない。
 額縁も様々だったが、何れもルオーモデルそのもので、見応えがあった。この展覧会は予定外だったので随分と得をした気分だ。

 メトロで一旦ホテルに戻り、歩いてIKUOさんの店に行ってみた。
 ノートルダムとポンヌフの中間でセーヌからサン・ジェルマン方向の横道に入り1分も歩かない好条件のところにあった。
 ルーブルにも程近いところなので今までにもすぐ近くのセーヌ沿いはしょっちゅう歩いていたのだが、いつも住所を持っていなかったのでこの横道に入ることはなく気が付かなかったのだ。
 「IKUOさんは今帰ったところ。」といってKEIKOさんという方が対応してくれた。

07.『IKUO-PARIS』

 帰りは少し遠回りしてサンジェルマン・デ・プレ教会に寄ってみた。ルオーが亡くなった時、この教会で国葬が執り行われたとのことだ。教会の前にザッキンの彫刻。庭にはピカソ作アポリネールの頭像がある。

 

08.サン・ジェルマン教会。

 サンジェルマン・デ・プレの向かいにワイン専門店があったので、IKUOさんのところに持っていくワインを調達した。
 出来たらセトゥーバルからワインを持って行ければ良いのだが、最近は空港のセキュリティーの面で難しい。
 今夜はお招ばれだ。IKUOさんがメイエ村からその為にわざわざ出てきてパリの自宅に招待してくれていた。
 ホテルに戻りシャワーを浴び、暗くなりかけてからホテルを出た。ソルボンヌあたりでは観光客や学生たち大勢の人びとが、10月としては暖かすぎる夕暮れ時を楽しんでいた。

 

09.メトロ通路の広告。

 IKUOさんの自宅はカルチェ・ラタンの少し東側、ホテルからも歩いて10分ほどのところだ。
 その手前にバルザックの「ゴリオ爺さん」の舞台、その下宿屋があったサン・ジェネヴィエヴ通りがある。昨年読んだばかりなので是非この通りも見てみたかったのだが残念ながらその面影は今は感じられない。

 IKUOさんの家にはIKUOさん以外にパリ在住の日本人の方々が既に5人集まっておられた。間接的に存じ上げているご夫婦と若い芸術家たち。IKUOさんの気の効いたご配慮だ。
 IKUOさんの家は中庭に面した1階にあり、時折、猫が窓ガラスをノックしていた。
 広い居間は木骨の高い天井で、「ゴリオ爺さん」の下宿屋はこんな雰囲気だったのかな~などと思った。
 心のこもった美味しい手料理と尽きることのない会話。瞬く間に12時近くになってしまっていた。

 

 2008/10/14(火)晴れ時々曇り/Paris-Reims


 ホテルでゆっくりと朝食を済ませムフタール通りの朝市を見ながら、そこからバスに乗り東駅に向った。
 メトロで東駅に行くには乗り換えなければならないがバスなら1本だ。途中パリ見学もできる。
 東駅の売店で、車内で食べようとPAULのサンドイッチを買ったが朝が遅かったのでそのままランスまで持参することになった。
 TGVはランス行きで途中停車もなく45分で着いてしまう。

 ホテルは予約をしていない。目指すホテルは満室。その隣も満室。地方都市でいままでこんなことはなかったが、最近は皆、ネットで予約をするのだろう。その向かいの「北ホテル」に空室があった。
 ホテルの部屋から隣に「アーネスト・へミングウェイ」という赤いネオンが見える、顔写真までが看板になっている。バーの様だ。何かゆかりがあるのだろうか。

10.アーネスト・ヘミングウエイの文字。

 今日は火曜日なのでランス美術館は休館日。
 ツーリスト・インフォメーションで明日のトロワ行きのバスの時刻表をようやく貰う。ようやくと言うのは、そのインフォメーションの女性はそのバスのことを知らないのだ。「列車の駅に行って聞いてみたら」などと言う。ランス、トロワ間に線路がないのは僕でも知っているのだが…。
 インフォメーションのもう一人の女性が「バスがあるわよ」と同僚に教えて、ようやく時刻表を探し出してくれた。

 

11.

 

12.

 

13.ランスのカテドラル。

 カテドラル前のベンチに座って、列車内で食べなかったPAULのサンドイッチを食べる。他の店のものより少し高めだが、どっしりとしたパンにたっぷりの中身。若い人が行列する筈で、美味しく腹持ちも良さそうだ。

 

14.15.カテドラルのステンドグラス。

 食べ終わってカテドラル内へ。ステンドグラスがシャルトルのカテドラルに匹敵するほど素晴らしい。
 そして1番奥にはシャガールのステンドグラスがある。

 これがまた素晴らしい。天気も良いのでシャガールブルーの合間にある赤や緑がことのほか輝いている。まるでルビーとエメラルドをちりばめたごとくだ。

 

16.シャガールのステンドグラス。

 シャガールはパリのオペラ座の天井画やここのステンドグラスなど公共の大きな仕事を数多く残しているのに改めて感銘を受ける。
 一角に風変わりな、まるでヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品の様なステンドグラスがある。
 MUZは「絶対ヴィエイラ・ダ・シルヴァの仕事やで!」という。
 僕はまさか偶然だろうと思ったが、あとで買い求めた美術館のカタログに「ヴィエイラ・ダ・シルヴァ」の仕事と記されていて、その下絵が掲載されている。
 シャガールに限らず多くの外国からの芸術家がフランスの公共施設に作品を残している。

 

17. ヴィエイラ・ダ・シルヴァのステンドグラス。

 カテドラルの隣のトー宮殿博物館は開いていたので観ることにした。中世からの発明展が催されていて、小学生などの課外授業とかちあってしまった。ダ・ヴィンチなどの設計図を元に模型が作られて展示されている。子供たちが床に座り込んで説明を聞いている。展示物で常設のタペストリーなどが隠れて観にくかったのが残念であった。

 

18.

 「藤田嗣治のチャペル」は午後2時から開場。
 このランスの町も、藤田のチャペルも1972年に一度訪れている。実に36年ぶりだ。
 きょうあとの予定は藤田のチャペルを観るだけなのでのんびりと歩いて行った。街路樹や壁の蔦の紅葉が美しい。

 

19.

 以前にはなかった建物が隣に出来ていたが、1972年に訪れた時と全く同じ佇まいで懐かしく感じた。

 藤田嗣治は1966年、80歳の時、このノートルダム・ド・ラペ礼拝堂を完成させた。

 

20.

 その壁、そして天井いっぱいに描かれたフレスコ画をじっくり観ていると藤田の息使いまでが聞こえてくる。
 その前年、マティスはコート・ダジュールのヴァンスにロザリオ礼拝堂を完成させている。おそらくマティスにしろ、藤田にしろ持てる力の限りを出し切った、まさに総決算の仕事だ。
 77歳でリュウマチに苦しんでいたマティスが、80歳の藤田が、そのどこに、この様なエネルギーが隠されていたのだろうかと改めて感動を覚えずにはいられなかった。

 

21.藤田のチャペルから帰り、住宅の窓から猫が挨拶。

 今回の旅では中華は食べない。牡蠣もノロウイルスが怖いので食べない。もちろん牛肉も食べない。と言うことにしていたので食事が限られる。
 ホテルの向かいのピザ屋にたくさんのお客が吸い込まれていくので今夜はピザにした。フランス料理に比べると安上がりで手軽、たまにはピザも良い。

 夜、トロワ行きのバスの時刻表を検討してみたが、本数が少ない。朝と夕方に幾つかあるが、昼間は11時15分発の1本だけ。その後は17時40分発でトロワ到着が20時。それでは遅すぎる。11時15分に乗るには美術館の開館が10時だからぎりぎり45分しか観ることが出来ない。
 美術館からバス停まで歩いて確かめてみたが、わざわざ来たランスの美術館を45分の駆け足では勿体ない。
 せめてあと1時間遅いバスがあれば良かったのだが…。
 トロワの美術館も観たかったし、トロワのサン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂の珍しいという黄色いステンドグラスも観てみたかったが、今回はトロワは諦めざるを得ない。北ホテルを1泊延長することにした。

VIT

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記-(下) -Hommage Georges Rouault-へつづく。

 

(この文は2008年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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060. フランスの田舎・メイエ村にて-Meillers-

2018-11-21 | 旅日記

 「そろそろフランス旅行の計画をたてようかな。」と思いはじめていた頃に<パリのIKUOさん>からメールを頂いた。
 「毎年出品のためにパリに来ているのでしょう?一度パリで逢いませんか。」さらに「良かったらメイエ村まで来ませんか。」と言った内容。早速お言葉に甘えてメイエ村を中心にして旅の計画をたてることにした。

1.
 IKUOさんの名前は僕が高校生の頃から友達を通して耳にしていた。彼も僕も海外に出る以前の話だ。
 そして1972年に一度パリでちらっとお会いしている筈。
 1975年頃だったか、そのIKUOさんのことを高校生の頃から話していた友人が仕事でパリに来て僕の大学の先輩から僕の居場所を聞いたとのことで、突然、パリから僕の住んでいたストックホルムを訪ねてくれた。
 なぜその両者が知り合いなのか不思議だったが、接点はIKUOさんだった。
 それから実に30年以上の年月が経過している。

 最近になりインターネットのお陰でIKUOさんと直接連絡がつくようになった。
 今年と2年前の大阪髙島屋での僕の個展会場には彼が訪ねてくれた。
 IKUOさんはパリが本拠地だが、銀座にもお店があり、かなりの頻度で帰国されている。

2.
 彼は最初からパリにどっかと根を下ろし、かなり早く若い時期から「IKUO・PARIS」のブランドでジュエリー・デザイナーとして成功されている。
 その彼はフランスの田舎、メイエ村に17年前に広い農場を買い取られ、少しずつ改築してフランスでの田舎生活も楽しんでおられる。
 田舎でも仕事をし、その田舎暮らしからさらにジュエリーデザインのインスピレーションが広がるのだそうだ。

 その人柄、仕事ぶり、人生観に共鳴する人たちも多く、たくさんの友人たちがメイエ村を訪れる。

3.
 僕もホームページを通じてメイエ村のことは少しは見ていたけれど、今回、初めてお邪魔させて頂くことにした。

 ポルトガルからパリに着いてサロン・ドートンヌ用の絵をムッシュ・Mに預けて、それからメイエ村に行っても夜が遅くなってしまうので、先ずその日は1時間か2時間以内で行けるところまで行くことにした。
 2時間ならリヨンがそれにあたる。
 メイエ村よりは距離的には遠いがTGVならド・ゴール空港駅から直接乗ることができる。

4.
 リヨンからはメイエ村の最寄駅、ムーランにも列車が通じているし、今回の旅はそのコースに決めた。
 それに僕がフランスに行くことの大きな楽しみは美術館鑑賞である。パリではない、地方美術館にはそこにしかない絵が埋もれている。そういったものを少しずつでも観たい。
 リヨンは大都市だ、せっかくだからリヨンで3泊をすることにした。
 そのリヨンと「リヨン美術館」についてはいずれ別の機会に書きたいと思っている。

 3日後、リヨンから列車で3時間たらずでムーランに着いた。IKUOさんとロベールさんが駅まで出迎えてくれた。

5.
 例年ならこの時期、フランスの気温はポルトガルより10度低い。
 でも今年のポルトガルがいつもより暖かかったせいか、15度もの温度差だ。
 安かったこともあり、思わずリヨンの露店市で毛糸の帽子と手袋を買ってしまった。

 毛糸の帽子を目深に被り、手袋をはめて、深い霧のメイエ村を散策した。
 紅葉が実に美しい。
 佐伯祐三が描いた様な大屋根の農家が黄葉の中に点在している。
 僕は今のところポルトガル以外は描かないことに決めているが、メイエ村周辺には絵になるところが至るところにある。

6.
 ブナの深い森、サップグリン、クロムイエロ、イエロオーカ、ヴァミリオン、ライトレッド、クリムソンレーキと様々な色がしかもそれぞれの色の明度を一段深くした様な渋い色の重なり、樹木の響きあい、枯れ落ちた小枝や腐葉土を踏みしめる感触。
 オゾンをいっぱいに吸いながらの森林浴、セップ狩り。
 羊がこちらを見ているのに目が合う。遠くでシャロレーという真白い牛が豊かで鮮やかな緑の草を食む。
 樹々や大屋根が漆黒のシルエットをつくり、地平線に太陽が落ちてゆく。
 僕の好きなテオドール・ルソーやドービニーそれにコローやミレーの絵の世界に迷い込んだ様だ。
 さらにはユージーヌ・ブーダンやモネ。
 ポルトガルでは味わえない色合い、大気、質感、匂い、音が共鳴し、バルビゾン派そしてそれに続く印象派を感じさせずにはいられない。

7.
 この様な大気の中だからこそ近代絵画が生れたのかも知れない。などと思ってしまう。
 イタリア・ルネサンスの衰退がなければ、フォンテーヌ・ブローにもし流れが移っていなければ、歴史に<もし>はないけれど、美術の流れは今とは違うものになっていた筈だ。

 美術史に関する本を読み漁り、観たくなればいつでも美術館に足を運ぶ、そしてたまには絵を描く。
 こんな中で近代美術史を研究できれば楽しいだろうな、などとも夢想する。

 メイエ村のIKUOさん宅では、樫の木の大きな梁を見ながら、暖炉のマキのはぜる音を聞きながら会話を楽しみ、庭で出来たという胡桃をあてにアペリティフ。
 可愛いリスの訪問も受け、夢心地の3日間を楽しませて頂きました。

VIT

8.

 

9.サロン・ドートンヌのベルニサージュでピアノコンサート。後ろは僕の作品。

 

(この文は2007年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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055. グアダルーペへの旅 -Guadalupe/Trujillo-

2018-11-17 | 旅日記

 今年の日本での個展は例年より遅い時期だ。
 帰国まで少し隙間ができたので旅をすることにした。
 ロンドンかマドリッドなど、どこか美術館にでも行ってみたいところだが、どこもここもテロが頻発しているし、治安も悪化していて、なかなか腰が上らない。

 ポルトガルの国境からも近い、スペインのグアダルーペにエル・グレコがあるというのでそれを観に行く事にした。ゴヤとスルバランそれにミケランジェロもあるらしい。グアダルーペならクルマで簡単に行ける。ポルトガルは良い季節、往き帰りで野草の花盛りも楽しめるだろう。

 ということで、3泊分の着替えを詰めて、我が家を朝9時に出発した。
 アライオロスのあたりでアンタ(古墳)の標識を見つけたので休憩代わりに寄っていくことにしたが、あいにく見つからなかった。でも田舎道の牧場脇には珍しい野草がいろいろ咲いていて、一つ一つ見ているとなかなか前へ進まない。
 ボルバでアレンテージョの煮込み料理のセルフサービスで簡単に昼食。
 花を見ている時間が長かったので、予定より1時間遅れで国境を通過。国境といっても [ESPAÑA] という看板が一つあるだけで何もないが…。

 スペインに入って早速ガソリンを満タンに…。ガソリンに関してはスペインはポルトガルよりかなり安い。
 バダホスでうっかり道を間違えて街中に入ってしまう。
 丁度シエスタ(昼寝)前のラッシュ時で、本来は外環の高速道路を通れば、もっと早くバダホスを抜けることができた筈だ。スペインのこのあたりの高速道路は無料だから出入りが自由で助かる。

 メリダも過ぎて、きょうの目的地トルヒーリョに到着したのが、まだ15時にはなっていなかった。ポルトガル時間なら14時。1時間の時差がある。
 宿を決めツーリスモで地図を貰う。

 
 部屋はマヨール広場に面していて、この街の象徴である、紋章のある建物が真正面にある。

1.部屋から見るマヨール広場

 屋根にはコウノトリが巣を架けている。ピサロの騎馬像も左手に見える。

2.フランシスコ・ピサロの騎馬像

 フランシスコ・ピサロ (1471/78-1541.6.26) は南米・ペルーを征服したスペインの英雄だ。
 宿の背後には重厚なムーアの城が聳えている。そのムーア人をレコンキスタ(国土奪還戦争)で追い払った勢いを駆って南米大陸に財宝を求めたのがフランシスコ・ピサロだ。その財宝によりトルヒーリョのマヨール広場には豪勢な邸宅が作られた。

3.モーロ城から望むマヨール広場

 僕たちが泊ったのも15世紀に建てられたラ・カデーナ邸という貴族の邸宅で遺産建造物に指定されている。内部は使い易く現代風にリメイクされていて、部屋は小さく区切られているのだろうと思うが、天井は高い。

 ピサロはスペインに富をもたらした英雄でも、南米のインカ文明を破壊し、キリスト教に改宗させた人物なので、僕の個人的な感情としては、同じモンゴロイドとしてあまり面白くはないし、それ程見たくはないのだが、一応、向学のため 『ピサロ博物館』 を観ることにした。ピサロの父、ゴンサーロ・ピサロの館だった建物で、その頃の生活の様子と2階には南米に趣く変遷と殺害されるまでが時代順に展示されている。

 当時のインカ帝国には既に高度な文明が営まれていた。
 彼らの言い伝えには不幸にも「天上から白い神が現れる」というものがあったのだ。白人であるスペインからの侵略者を神だと讃えたのだ。インカ帝国の人々にとってキリスト教への改宗はいとも簡単に行なわれたのは言うまでもない。フランシスコ・ピサロには運も味方したのだろう。南米大陸には豊富な金鉱脈と銀鉱山そして宝石の原石が眠っていた。その金、銀、宝石は本国のスペインへ、そしてフランスへヨーロッパ各国へと流れて行った。16~18世紀のヨーロッパの華麗な宮廷文化は南米の財宝によって花開いたのだ。
 モーロの城壁の上には何とも可愛いピンクの花がびっしりと咲いている。

4.城壁の上に咲く可憐な野草

 スペイン人の団体観光客が多い。殆どが女性だ。おばさんばかり、何をこの城壁の上、大声でお喋りをすることがあるのだろうか?ことのほか騒々しい。

5.野生のラベンダー(Rosmaninho)が花盛り

 マヨール広場でビールを飲む。セトゥーバルのボカージュ広場で飲む2倍程の値段だ。昼に食べたポルトガルの煮込み料理が案外腹持ちが良くお腹が空かないので、ホテルのバーでワインと3種類(ムール貝のサラダ、芋サラダ、アンチョビの酢漬け)のタパス(つまみ)だけで夕食にする。バーに続々と人が集まってきて、まるで集会所の様な騒ぎだ。ワインも1本空けたし、部屋に退散しようとしたら、その階段のところでプロのカメラマンが撮影をしていた。作家だろうか?そんな雰囲気の人が難しい顔をしてポーズをとらされていた。

 由緒のある建物を改装した宿で経済的な価格にも拘わらず、その夜の宿泊客は僕たち2人だけであった。部屋の窓の上にはラス・カデナス家のものだろう。石の紋章が施されている。



6.部屋の窓の上の紋章

 次の日は朝1番にサンタ・マリア・マヨール教会の祭壇画を見る。

7.サンタ・マリア・マヨール教会の祭壇画

 10時の筈の開場を待ったが、ようやく開いたのは10時15分。スペイン時間なのかも知れない。切符売りの女性が「この券で鐘楼まで登れます。」と言うのでついつい登ってしまったが、鳩の糞がいっぱいで、鳥インフルの心配をした程だ。お蔭で普段運動不足の足がガクガクになった。

8.サンタ・マリア・マヨール教会鐘楼から望むムーア城

 マヨール広場に面したサン・マルタン教会にも入った。トルヒーリョはどこもかしこも少しづつだが、入場料がいる。
 昨日はアマゾン川を探検したホアン・ピサロ・デ・オレリャナの屋敷を見学しようと出かけた。
 入口のところで2人の子供が手芸小物を売っている。初めはジプシーの子供かなと思っていた。その子供たちが「そこのベルを押せば中に入れますよ」と言うのでベルを押した。中から老修道女が出てきて「どうぞ中に入ってご覧下さい」と言う。ここでは入場料はいらない。でも見るものはパティオ(中庭)だけで他には何もない。
 今、この場所は学校として使われていて、2階では授業が行なわれている。老修道女はトルヒーリョのガイドブックを持ってきて「7ユーロですが、できたら買って下さい」と言う。別に欲しくはなかったが、入場料代わりに何となく買わされてしまった格好だ。入口の子供が売っている小物はアフリカの子供たち支援の手作り小物だ。ジプシーではなく敬虔なカトリック教徒の子供たちだったのだ。

9.サンタ・マリア・マヨール教会のステンドグラス

 狭い路地に駐車していた僕たちのクルマにコウノトリだろうか?大きな糞がべっとりとついている。
 いよいよ今日は山道を抜けてグアダルーペへ向かう。と覚悟していたら、案外真っ直ぐで立派な道であった。途中、野生のラベンダーが見事に群生していた。
 グアダルーペの少し手前の村でサンドイッチとノンアルコールビールで遅い昼食。そのサンドイッチがボリューム満点。

 グアダルーペでは修道院の中にあるグレコ、ゴヤ、スルバランそしてミケランジェロを観るのだ。
 その修道院の宿坊をホテルにしたという宿に泊まった。
 着いたのが2時半。3時半からガイドつきの見学が始まる。
 少し町を散策して、部屋に戻り休憩してから見学に臨んだ。

10.修道院宿坊入口の看板

11.修道院回廊中庭のムハデル・ゴシック様式の聖堂

12.修道院の宿坊


 部屋は広く昨夜よりも更に天井が高く豪華であったが、何となくアンバランスなところが可笑しい。壁に架かった額縁はどれも印刷物だが、それもアンバランスだ。でも1枚は何とシスレーの油彩複製画で、昨年訪れた、モレ・シュル・ロアンの風景だ。

 

13.額にはシスレーのモレ・シュル・ロアン

 

14.宿泊した修道院の部屋入口

 

15.修道院宿坊の部屋。グアダルーペのマリア像がベッドの上に


 3時半に入口に行くと大勢の見学者でごった返していた。

 入場券を買ってからも長いこと待たされた。やがてガイドが現れて入場したのが4時。
 羊皮紙に描かれた聖歌の楽譜。豪華絢爛な聖職者が纏う真珠や宝石をちりばめたマント。部屋部屋の天井には絵や模様が施され、壁や床も色とりどりの大理石で敷かれている。

 グレコは思っていたよりも意外と小さくて20号くらいだったろうか?一見してすぐにわかるいかにもグレコらしいキリスト図と、20号Mくらいの縦絵の聖人図が2点、これは珍しい絵で写真を撮りたかったが撮影禁止。せめて帰りに絵葉書でもと思ったのだがあいにく売り切れ。
 ゴヤは例の黒シリーズの6号くらいの小さな習作が1点だけ。ミケランジェロの作とされるキリスト磔刑の像も小さなものであったが、さすがミケランジェロならではの躍動感溢れた彫刻であった。スルバランは大作のシリーズで見事なものであったが、ガイド付きなのであまりゆっくりは観る事ができない。それに修道院内の教会の仰ぎ見るところに架けられていて少し光って観づらい。元々この宗教画はこの場所に設置されるために描かれたものであろうから、美術館で目の高さで観るよりもこれが本来の観かたなのかも知れない。

16.グアダルーペの下町には植木鉢がいっぱい

17.グアダルーペ修道院正面

18.サンタ・マリア・デ・グアダルーペ広場


 最後に背広姿のガイドは僧服の神父さんに交代して、お説教の様なものが始まった。そして神父の言葉に続いて皆でなにやら唱えるのだ。それも「待ってました!」と言わんばかりに…。
 このガイド付き見学に参加している5~60人のうち、我々も含めてドイツやイギリスなど、外国からの観光客も少しは居るが、大半はスペインの巡礼者だったのだ。観光と巡礼を兼ねてスペイン各地から訪れているのであろう。神父は厳かに扉を開けた。そしてスポットライトのスイッチを入れた。そこにはグアダルーペの聖母像が祀られていた。

 巡礼者は順番に聖母像のマントに付いた銀盆の様なものに接吻をするのだ。我々はその儀式は遠慮した。

19.宿坊中庭の壁にグアダルーペ聖母像を模したセラミック

 グアダルーペの聖母像は1300年の頃、一人の羊飼いがグアダルーペの川のほとりで木彫りの聖母像を見つけた。1340年、この聖母像に加護を祈願した直後にモーロ人を破ることができたアフォンソ11世はここに壮大な修道院を築いた。その後、この修道院は聖母マリア崇拝の中心地となり、コロンブスが新大陸からインディオたちをここに連れてきて、最初のキリスト教徒に改宗させたという。

20.修道院レストラン内部

 夕食は開店の9時まで待って修道院ホテルのレストランで定食を食べた。前菜、パン、ワイン、スープ、主菜、デザートとたっぷりだ。毎夜の9時からこんな夕食を取っていたら僕ならすぐに病気になってしまう。

21.Sopa Castellana(ニンニク、卵、パンのスープ)

22.Codorinices Estofada(ウズラの煮込み)

23.Conejo al Romero(ウサギの煮込み)

 修道院レストランの定食(この他にワイン1本とパン前菜(生チーズ)も付く)

24.Helado(アイスクリーム)

25.Flan(プリン)

 帰りもポルトガルの国境の手前でガソリンを満タンにする。
 国境を越える時、猛烈な雨がクルマに叩きつけた。
 ポルトガルでクルマを買って7年になるが、こんな激しい雨は初めてである。ワイパーが外れそうになって、2度、路肩にクルマを停車させた。この猛烈な雨のお蔭でフロントガラスに付いた虫の痕や屋根のコウノトリの糞が綺麗に落ち、まるで洗車機を通した様なピカピカのクルマになって帰ることができた。
 ポルトガルはスペインに比べるとガソリンもかなり高いし、高速道路も有料になる。高速から下りて、一般の田舎道に入った。やはりポルトガルに入ったというだけでなぜかほっとする。5分も走ると、道路は全く濡れていない。
 あの時の国境地点での集中豪雨。あれはいったい何だったのだろう?
 なくなってしまった国境地点を再確認させる雨の様でもあった。
VIT

 

 

(この文は2007年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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050. イル・ド・フランス・旅日記 (下) -Il de France-

2018-11-13 | 旅日記

イル・ド・フランス旅日記(上) 

2006/11/09(木)晴れ/Fontainebleau - Paris - Pontoise – Paris

 フォンテーヌブローに3泊もしていながら、宮殿内部を観ないのもなんなので朝1番、開館を待って観ることにした。オフシーズンのせいか開館と同時に入場したのは4人だけ。その内3人は僕たちを含めて日本人だ。駆け足で観た。やたら係員ばかりだ。

 配置につかないでコーヒーの自動販売機の部屋に寄り集まってコーヒーを飲みながらだべっている。ここでもお役人が遊んでいる。

 

 パリのいつものホテルは今回は予約が遅かったのか、2週間も前に既に満室。

 インターネットで見つけた初めてのホテルに予約を取っておいた。同じルクサンブール地区で、佐伯祐三が定宿にしていた3星ホテル「グラン・ゾンム」の丁度裏手くらいの位置だ。

 荷物だけ預けてポントワーズに行くつもりが、部屋に通してくれた。部屋の窓から教会のドーム屋根が見える。一瞬パンテオンかなと思ったが方角が違う。パリにはドーム屋根の建物が意外と多い。

 荷物を降ろしてポントワーズに向かう。

 以前ならサン・ラザール駅からしか行けなかったが、その後、北駅からも行ける様になったし、今ではRERでも行くことができるから便利になった。でも時間はたっぷり1時間かかった。

 目ざすはピサロ美術館だがあてずっぽうに歩く。途中地元の婦人に道を尋ねたがわからなかった。カフェに入って親爺に尋ねたら教えてくれたが、別の美術館だった。その美術館の受付で「ピサロ美術館」への道を教えてもらう。

 地図を描いてくれた上にわざわざ外まで出て「あの駐車場を横切ってどうのこうの……」と親切だ。ヒステリックで神経質なフランス人もパリから一歩離れると暖かくて親切な国民なのだ。

 駅に着く時に電車の窓から仰ぎ見て丘の上の一番めだつ建物が目ざす「ピサロ美術館」であった。

24.ピサロ美術館

 2階が展示場でピサロの他、ドービニーの古い珍しい絵なども飾られていた。

25.ピサロ美術館展示室

 カタログが30ユーロと高かったし、フランス語とドイツ語対訳のものしかなかったが珍しい作品が多く載っていたので思い切って買う。

 係りの人も高いと思っているのか、ウインクと共にピサロの絵葉書を1枚おまけしてくれた。



26.ポントワーズのセーヌ川風景

 さきほど道を教えてくれた美術館に戻り入場する。

 世界中から集められた1950年代から1970年代の抽象画で、定規で引いた直線やコンパスの円を使った目の錯覚を楽しむ様な、何というジャンルか知らないが、そればかりを集めた展覧会であった。モンドリアンの流れと言えるのだろうか、その時代日本ではオノサトトシノブがそのスタイルをやっていた。

 古い重厚な城館の美術館でモダンさと重厚さがマッチして良い展覧会であった。

 

 帰りもRERに乗り、アンヴァリッドで降り、アレクサンドル3世橋を歩きグラン・パレに入る。

27.アレクサンドル3世橋の欄干とグラン・パレの夜景

 久しぶり、約10年ぶりくらいか、ル・サロンがグラン・パレでの開催になる。永い修復工事であった。


28.ル・サロン2006の僕の作品「ボカージュ広場」100号。

 

2006/11/10(金)晴れ/Paris - Mantes la Jolie

 荷物を半分ホテルに預かってもらって、一晩だけの荷物を持ってマント・ラ・ジョリに向かう。佐伯祐三が描いたノートル・ダムを見るのだ。

 先ずはサン・ラザール駅。ルクサンブールのホテルの前からサン・ラザール駅行きのバスがあるのでそれに乗る。乗換えがないのでパリもバスを使いこなすと便利だ。でも時間はかかる。

 昨年はルーアンに行くのに最初の停車駅がマント・ラ・ジョリであったから30分程であったのに、きょうは各駅停車なので1時間もかかった。

 

 列車の中からノートル・ダムが見えたので降りてからそちらの方角に歩き出す。今回の旅ではいつもにも増して良く歩く。普段の運動不足解消に歩くのは良い事だが、先日から足の裏にマメができて少々痛い。

 駅前にも1軒ホテルがあったが、街の中心のほうが良い。それに営業しているかどうかも怪しい佇まいだ。

 案の定、街の中心にもホテルがあった。値段表をみるとパリの半額だ。あまり安すぎるので他も見てみるほうが良さそうだと思い、ノートル・ダムまで歩く。



29.佐伯祐三が描いたマント・ラ・ジョリのノートル・ダム

 ノートル・ダムは思ったより立派で壮大だ。仰ぎ見るような角度になり、佐伯祐三がどこから描いたのか検討がつかない。80年前にはノートル・ダムの前の建物はなかったのであろうか。今ではあの絵の様には描く事が出来ないように思われる。

30.ノートル・ダムのバラ窓のステンドグラス

 ノートル・ダムの近くにピザ屋の上がホテルになっている看板を見つけたので聞いてみたがホテルはやっていないという。

 もう少し街の中心で下がバーになっていて、上がホテルで外観は割合立派な建物なので聞いてみると、女将は「ハイ、シャワートイレテレビ付き、ハイこれが部屋の鍵、これが外の鍵、ハイ40ユーロ、ハイこれが領収書、階段を上って16号室ハイハイハイ」てな感じで40ユーロを前金でふんだくられる。

 店がちょうど男たちで込み合っていて、バーが忙しいのだ。でもホテル代はパリに比べると半額だ。部屋に上がってみると確かにシャワーもトイレも付いているが、トイレにドアがなく、カーテンで仕切ってあるだけだ。でももう料金も払ってしまったし、今夜は辛抱するしかない。まあ部屋は清潔だし、広いし、センスもそれほど悪くはないし、広場に面して眺めもまあまあ、暖房も効いている。



31.マント・ラ・ジョリで泊ったホテル

 セーヌ川まで歩きノートル・ダムを横から後ろから見る。ノートル・ダムの隣、セーヌ河畔のところに明るいガラス張りのテラスのある一見しゃれたレストランがある。入口のところに黒板にチョークのなぐり書きで本日のメニュが張られている。今までもパリでより、むしろ田舎町で洒落たフランス料理を楽しめることが多かった。ここでは時間もたっぷりあるし、期待して入ったのだが、入ってみると、一見に反してぐっと大衆的なブラッセリであった。

 前菜はゆで卵のツナ和え、メインは豚のノルマンディ・ソース煮こみ、芋も3種類からチョイス。盛り付けはフランス料理というより、むしろポルトガル的で大雑把でダイナミックだ。

32.豚のノルマンディ・ソース煮こみとポンフリ

 デザートは栗の季節だから「モンブラン」。これが変。これでもモンブラン?という感じ。でもヴァン・メゾン(ハウスワイン)も含めて味はなかなかのものだった。

33.セーヌの流れとマント・ラ・ジョリのノートル・ダム。

 ノートル・ダムの内部では大掛りな舞台が設置され、PAの準備で男たちが忙しそうにしていた。丁度今夜9時からブルースのコンサートがあるというのだ。黒人の女性シンガーで<Lea Gilmore>という。
 ノートル・ダムでのブルースコンサートなどめったにお目にかかれないことなので絶対に見てみたかったが、前売り券を買おうとインフォメーションを探したが見あたらず、もちろん、開演時間に直接入場券を買って入ることもできたが、それに少し疲れているし、夜9時からは無理かなと思い諦める。
 最近は早寝早起きで夜がめっぽう駄目になっている。

 隣の美術館を観る。
 1階は発掘品などの展示、2階では <Sabine Weiss> という写真家の展覧会。
 ストラビンスキィやレナード・バーンスタインなど一流の音楽家の写真をたくさん撮っていて、カタログやレコードジャケットにも使われている有名な写真家なのだろう。
 その中にアマリア・ロドリゲスも混ざっていた。
 一流の音楽家とは対照的に無名のストリートミュージシャンを捉えた面白い写真も多く撮っていて、この展覧会はそれらが主体をなしていた。
 3階では <Maximilien Luce> という、ナビ派からフォーヴィズムのスタイルで、20世紀初頭の地元出身画家の展覧会。


2006/11/11(土)雨のち曇り時々晴れ/Mantes la Jorie – Paris

 夜中、ホテルの前の広場で物音がして早くから目が醒める。
 駐車場にクルマが1台もなくなっている、と思っていたら、案の定、朝市が出る。 でも雨模様。市の準備をするのに雨に濡れて大変そう。出かける頃には雨もあがる。

34.マント・ラ・ジョリ駅。

35.MANTES LA JOLIE は工事中?

 帰りの列車はノルマンディから来たのだろう。各駅停車ではなくて30分でサン・ラザール駅に到着。

36.モネも描いたサン・ラザール駅構内

 ホテルに荷物を降ろし、オルセー美術館まで歩く。

 これはメトロかバスに乗るべきであった。どうやら足の裏のマメが潰れてしまっているようだ。
 本来はスニーカーで旅をするつもりだったのだが、直前になって、出発当日からヨーロッパの空港のセキュリティー検査が厳しくなるとのニュースがあったので、スニーカーは止めて革靴にしたのだ。以前にも検査の時にスニーカーの人だけは脱がされていたのを見ていたからだ。スニーカーならマメは出来ていなかった筈だ。

 機内誌の情報ではオルセーの特別展でセザンヌを催っているとあって楽しみにしていたのだが、着いてみるとセザンヌ展の文字などどこにもなく「モーリス・ドニ展」を催っていた。
 これも甲乙つけがたく観たかった貴重な展覧会だ。
 元々、オルセーに所蔵している作品に加えて、エルミタージュやプーシキン、ウェラー・ミューラー美術館、さらにはフランスやアメリカから個人所蔵の作品などたくさん集められている。
 ドニもこうして全体を観るとモティーフにこだわりがあり、色も凝っていてなかなか良い。すっかり見直してしまったし、好きになってしまった。

 今回の旅ではバルビゾン派、印象派、さらには黒田清輝、佐伯祐三などを中心に歩いたが、ドニを観て一昨年のサン・ジェルマン・アン・レーのプリウレ美術館と、それ以前のポンタヴァン派、ナビ派、アールヌーボーの旅にプレイバックして興味が倍増した思いがある。

 もちろん常設展ではピサロ、シスレーさらにはミレー、ドービニー、コロー、ディアズ、テオドール・ルソーなどを観ないわけにはいかない。でもやはりオルセーの展示は来るたびに違う。
 いつも入れ替えがあり、今回ではバルビゾン派の作品が少なかったように思う。
 ミレーの「グレヴィルの教会」がない。
 いつもあるところにアンリ・ルソーもないし、セザンヌの「トランプをする人々」もない。
 だいいちオルセーの代表作品アングルの「泉」もなかった。
 もしかしたらエルミタージュあたりと「モーリス・ドニ」の交換で貸し出されている作品が多いのかもしれない。
 お蔭で僕としては、普段は倉庫に仕舞われている、珍しい作品を観る事ができる。今回はゴーガンとポンタヴァン派の絵が多かった。

37.ゴッホの「オーベールの教会」を携帯で撮影する人。

38.オルセーのモネの部屋は観覧者でいっぱい。そのベンチで寝る少女。

 クールベの「女陰」の絵が展示されていて驚いた。まさに写実派の極致で、観覧者はまともに観ることができないで目を背けている。この絵の存在は以前から画集で観て、知ってはいたが、実物を観るのは初めてだ。個人コレクションの筈であったから、この程、オルセーの所蔵に加わったのかも知れない。クールベはやはり変わった人物だ。
 以前にファーブル美術館で観た「ボンジュール、ムッシュ、クールベ」のタイトルにしろ、このオルセーにある巨大すぎる「オルナンの埋葬」や「画家のアトリエ」を目の当たりにして、クールベを理解するに一筋縄ではいかない様な気がする。

39.オルセーのクールベ「画家のアトリエ」


2006/11/12(日)晴れ/Paris - Lisboa – Setubal

 ポルトガルに戻る日だが、飛行機は夜の8時発なのでまる1日有効に使える。
 ルクサンブール宮殿美術館で「テイッチアーノ展」を催っていたが、それはあきらめて予定通りルーブルに行く事にする。

40.ルクサンブール宮殿美術館の「ティッチアーノ展」入口。

 ホテルをチェック・アウトした後、荷物を預かってもらい、ホテルから歩いて5分、ムフタール通りの朝市を見学。
 セップが49ユーロする。
 そう言えばフォンテーヌブローのマルシェではゴボウが売られていたので驚いたし、買って帰りたかったが、考えてみるとフラマン派の絵でゴボウらしき物が描かれているのを観たことがあるので、ヨーロッパにもあることはあるのだろう。

41.ムフタール通りの朝市。

 ムフタール通り近くのメトロ<Censier-Daubenton>から乗ればルーブルに乗換えなしで行ける。
 ルーブルでも常設展とは別料金で「レンブラントのデッサン展」を催っていたので、そのチケットも一緒に買い、先ずは「レンブラント」から観ることにする。
 日曜日のせいか見学者が多い。
 油彩とは違い、デッサンはむしろ東洋的な墨絵の雰囲気も感じる。
 特に風景画は水墨画の趣だ。
 僕も鉛筆だけではなく、墨でスケッチをしてみたいと思って、数年前、墨と硯を日本から持ってきているのだが、まだ一度も使っていない。

 それに「ウイリアム・ホガース(1667-1764)」の展覧会がドッキングされている。
 少々エロティックな部分があったり、風刺的なモティーフが描かれているのであろう。観覧者たちはフランス語で書かれたその解説を熱心に読んでいた。

 常設展では先日訪れたバルビゾン派とフォンテーヌブロー派それにシャルダンなどのフランス絵画を中心に観る。

42.16世紀後期。

43.フォンテーヌブロー派。

44.ルーブル美術館展示作品。

 ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」はまだルーブルに戻ってきていなかった。ストラスブールから更に別の都市を巡回しているのかも知れない。
 それにジェリコーの「メデュース号の筏」も今回はなかった。どこかに貸し出されているのであろうか?
 とにかくルーブルにしろオルセーにしろ展示品はいつも目まぐるしく入れ替わっている。
 きょうはゆっくり1日かけてルーブルを堪能することが出来た。

 ホテルに荷物を取りに戻り、RERでド・ゴール空港へ。
 今回の旅はパリ周辺だけなのでゆっくりだろう。と思っていたが、結構慌しくやはり強行軍になってしまった。
 当初、懸念されていた、パリ郊外の暴動もなかったし、かなり寒かったとは言え、傘を一度も開く事もなかった。
 お蔭で充実して良い絵をたくさん観ることが出来た収穫の多い旅であった。

 45.今回の旅で買った絵葉書とカタログ、左上は絵葉書類、上中「ピサロ美術館」「レンブラント・デッサン展」「ル・サロン・カタログ」「モーリス・ドニ展」右下「ウイリアム・ホガース展」

VIT

 

(この文は2006年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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050. イル・ド・フランス・旅日記 (上) -Il de France-

2018-11-13 | 旅日記

 今回は昨年の旅の続きミレー。それとバルビゾン派。パリ周辺、イル・ド・フランスを歩いてみようと計画をたてた。
 計画をたてるとどうもあれもこれもと欲張ってしまう。
 結局、ミレー、テオドール・ルソーそれに印象派のシスレー、ピサロ、モネ。黒田清輝、佐伯祐三などに関わりのある土地を歩いてみることになった。それにフォンテーヌブロー派も加わるのだろう。


2006/11/06(月)あさ霧雨、曇りのち晴れ/Setubal - Lisboa - Paris – Fontainebleau

 今回はムッシュ・Mの自宅まで行かなくてもド・ゴール空港まで出迎えてくれることになったので楽ちんだ。
 でも飛行機が1時間も遅れたので心配したが、ムッシュ・Mは到着口で気の毒に長い時間待っていてくれた。
 しかもちょうど息子さんがリオンから3時にパリに帰って来られるので出迎えるとのことで、少々早いけれどその足で、僕にとっては好都合にパリ・リオン駅までクルマで送って下さった。

 お蔭で飛行機が遅れた割には予定の列車でフォンテーヌブローに着いた。でも何をする暇もない。
 それに寒波がやって来ているのか、ことのほか寒い。
 明日、明後日のレンタカーの予約に行ったが2軒のレンタカー屋も明日は予約でいっぱいとのことで、明後日、1日だけの予約になった。

 暖かいムールとポンフリそれにビールで早い時間に軽く夕食。デザートにチーズ盛り合わせとワインを追加。イル・ド・フランスの南、ボージョレ地方の白。口当たりが良い。

01.ムールのワイン蒸しとフリット

 今朝は4時起床だったので、早くホテルで休みたい。

 ホテルはインターネットで予約をしておいた。やはりパリよりは安い。そして広い。まるでポルトガル人のように太った娘が愛想良く、くるくるとよく働く。
 部屋の目の前は趣きのある郵便局の建物で、そのすぐ後ろからフォンテーヌブロー宮殿庭園の入口があった。
 予約は1晩だけだったが、まあ悪くはないし、レンタカーの予定が狂ったので、幸い空いているとのことだったし、3日ともこのホテルに泊ることにした。

02.フォンテーヌブローで泊ったホテル

2006/11/07(火)朝霧曇り時々晴れ/Fontainebleau - Moret sur Loin – Fontainebleau

 朝食は満席。ホテルの部屋も満室なのかも知れない。部屋が取れて運が良かった。

 朝早くからフォンテーヌブロー宮殿の庭を散策、霧に包まれて美しい。白鳥などの水鳥が寄ってきたがやる餌がない。身体が芯から冷え切る。1日空いたのでフォンテーヌブロー宮殿を見学しようと思ったが、きょう火曜日は休館日。



03.朝霧のフォンテーヌブロー宮殿

 朝市がでていたので、ひととおり見て回った。魚屋にしろ八百屋にしろ、フランスの市はどこも、飾りつけに手をかけていて見ていて楽しい。やはりセンスの良さを感じる。

 レンタカーで行くつもりだったシスレーゆかりの地、モレ・シュル・ロアンだけは列車で行くことにする。時間がゆっくりなのでフォンテーヌブロー・アヴォン駅まで歩いたがこれが後々までたたった。

04.フォンテーヌブロー・アヴォン駅と市内行きバス

 2駅でモレ・シュル・ロアンの最寄り駅 <Moret Veneux les Sablons> 駅に着いて、通りかかった人にモレ・シュル・ロアンの町を尋ねると、歩いて20分程とのことだったので歩いた。もっともバスもタクシーも何もないので歩くしかないが…。

 教えられたとおりに線路沿いに歩いてインター・マルシェのところで右に曲がった。曲ったところにモネ、シスレー、ルノワールの肖像画が描かれたホテル・レストランがあった。

05.シスレーの肖像画があるレストラン

06.モレ・シュル・ロアンの町門

 町の入口、町門の手前にインフォメーション。でもあいにく昼休みで閉まっていた。町門を入ってすぐに町役場や郵便局などがある中心広場。さらに1本道のその先に出口の町門があり、そこにロアン川が流れている。

 水量が多い。石橋の両方に水車小屋、それに洗濯場もある。ロアン川に影を落す様々な色あいの木々、水鳥、カテドラル、町門。静かな町だ。静かだと思っていたら、なるほど昼休みでどこも閉まっている。でも小さな美しい町だ。曇っていたのでシスレーよりもドービニーのイメージの風景だ。これが晴れていれば、いかにもシスレーの絵そのままだろう。

07.モレ・シュル・ロアン

 昼食にレストランに入ったが町の人たちでいっぱいでなかなか順番が来そうにないので別の店、人の良さそうな親爺が暇そうにしていたカバブ屋に入る。

 フランスでカバブ屋に入ったのは久しぶりだ。安くてお腹が一杯になる。それに案外と旨い。たまにはカバブも悪くはない。



08.モレ・シュル・ロアンの中心広場

 帰りインフォメーションが開いていたので、駅までバスがないのか尋ねたがやはりないという。そこでシスレーの絵葉書を買う。オルセー所蔵のシスレーの代表作の一つだがここ<モレ・シュル・ロアン>がモティーフだとのことだ。

 

 夕食はフォンテーヌブローで温かいシュークルートを食べる。なぜか今回の旅では「生牡蠣と中華は食べない」とMUZが宣言している。


2006/11/08(水)晴れ時々曇り/Fontainebleau-Barbizon-Milly la Foret-Grez sur Loin-Fontainebleau

 ホテルで朝食後、9時にレンタカー屋へ。

 バルビゾンにはほんの20分程で到着。

 町の入口のところに「晩鐘」の看板がある。そこであの名作が生まれたのだろう。

 

 1972年、パリに住んでいた時に日本人留学生の仲間たちを誘って、僕のフォルクスワーゲンマイクロバスで1度は来たことがある。

 あの時一緒に来たSさんはその後、画家と結婚されてYさんとなり今はドイツに住んでおられる。

 学生運動で休校状態だったので、その暇にフランス語の勉強に来ていると言っていた、剣道の達人で東大生だった彼は今、どうしているのだろうか?

 人の顔は懐かしく思い出されるが、バルビゾンの町にその当時の面影は全く覚えていない。初めて来たのと同じだ。

 

 早く着きすぎたので、ガンヌの旅籠もテオドール・ルソーのアトリエもまだ閉まっている。インフォメーションもまだだ。

 天気もよく朝日を浴びた蔦の紅葉などを楽しみながら、ぶらぶら歩いているとミレーのアトリエの前にでる。

09.ミレーのアトリエ

 ここだけは9時半開館なので観ることができた。

 壁にはミレーのデッサンや印刷物、バルビゾン派の画家の作品、ルソーの作品も所狭しとかけられている。

 観終わって外に出ると受付の女性とミレーにそっくりなおじさんが話していて驚いた。

 ミレーの孫かひ孫かそれとも<そっくりさんチャンピオン>だろうか?

 カフェに入ってコーヒーを飲む。フランスのコーヒーの値段はポルトガルのちょうど倍だ。欧州通貨がユーロに統一されて価格が一目瞭然だ。

 テオドール・ルソーのアトリエの前で開館時間を待つ。

10.テオドール・ルソーのアトリエ

 時間になってもなかなか開かないなあ、と思っていてドアを押したら既に開いていた。

 やはりテオドール・ルソーの絵とバルビゾン派の画家の絵。それにパレットが4~5枚展示してある。パレットには絵が描かれている。ユトリロ美術館にも同じようなものがあったのを思い出した。パレットにこびり付いた絵具に絵が現れるのだ。彫刻家が石の中に眠っている姿を見つけ出すのに似ている。

 

 ガンヌの旅籠も美術館になっている。

11.蔦の紅葉が美しいガンヌの旅籠

 ドアや家具などに当時の画家たちが絵を描いていて、それが残されている。

12.家具にも絵が描かれている。

13.寝室。

 インフォメーションでミレーとテオドール・ルソーの彫像の場所を聞く。町はずれの森の中とのことだったので、クルマに戻りクルマで行く。森にはすぐに着いたが森の何処にあるのかがわからない。標識もなにもない。それらしき岩のかたまったところにあてずっぽうに行くとそこにあった。あちこちにきのこが生えていた。

14.バルビゾンの森の入口。

15.森の中のテオドール・ルソーとミレーの銅像。

 グレ・シュル・ロアンに行く途中、少し回り道をするだけで、ジャン・コクトーが建てたチャペルのある、ミイ・ラ・フォレという町がある。そのチャペルにジャン・コクトーが眠っているというので寄っていくことにする。

16.ジャン・コクトーのチャペル。

 クルマを停めて歩き出すとすぐに通りがかりのマダムが声をかけてくれてチャペルへの道を教えてくれる。町外れにあり、着くとちょうど昼休みだ。

 

 町に戻り、町も見学し昼食もそこで済ます。午後からの開館時間になって再び行ったが開かない。よく見ると開館時間が表示された下に但し書きがあって、フランス語なので判らないがとにかく臨時休館らしい。

17.開館時間の表示。

 僕たちが諦めて帰りかけた時、アノラック姿でハイキングか山歩きといったいでたちの初老の男女10数人とすれ違った。

 入口で立ち止まってその看板を見、わいわい喋りながら通り過ぎて行った。開いていれば寄っていくつもりだったのだろうか?目的地はここではなさそうだ。このあたりにハイキングコースでもあるのだろう。

 

 黒田清輝が住んだグレ・シュル・ロアンを目ざす。

 どこを走ってもミレーやコロー、テオドール・ルソー、ドービニーの絵の中の風景のようだ。紅葉はそれ程でもなく、むしろ森は褐色と深緑、水辺も群青色で黒々としている。

 

 グレ・シュル・ロアンに着いた。クルマを停めて教会の方に歩く。その隣に村役場があったが閉まっている。午後は何と4時からだ。ポルトガル以上に仕事をしない?お役所がある。

 村役場のところに町の地図があったので「黒田清輝通り」を探したが見あたらない。

 人通りがない。可愛らしい女の子が僕たちに「ボンジュール」と挨拶をしながら走り去った。

 その次の通りの標識に [ Rue KURODA Seiki ] の文字を見つける。

18.黒田清輝通り。

 小さな通りでその中ほどに黒田清輝が住んだお屋敷があって、フランス語と日本語でそう書かれた標識がある。

19.フランス語と日本語で書かれた標識。

 今は誰かフランスの人が住んでおられるのだろう。

20.黒田清輝が住んだ屋敷

 ロアン川まで行ってみる。趣のある石橋、それにローマ時代の廃墟の様な塔が聳えている。川向こうにサッカー場があるらしく、練習をしているのか、甲高い少年たちの声だけが賑やかに聞こえる。橋の上で風景を見ていると、女の子が2人自転車で通りかかり、やはり「ボンジュール」と言って走って行く。

 河川敷に大きな柳の木が数本。その間にベンチがひとつ、若いカップルがキスをしている。浅井忠が「グレ・シュル・ロアンの柳」を描いている。

 スウェーデン人画家・カール・ラーソン(1853-1919)<Rue Carl Larsson>通りの標識も見つけた。その時代北欧からの画家も多く住み制作に励んだ村なのだ。

 この村でカフェにでも入ってゆっくりしたいと思っていたが、どこも開いていなかった。

21.ロアン川に影を落すグレの柳

 グレ・シュル・ロアンからフォンテーヌブローはすぐの距離であった。途中、ガソリンスタンドの1軒もない。レンタカーは明朝の9時までだが、今日夕方までに返すことにした。レンタカー屋の近くまで戻っていながら、ガソリンを入れるためにフォンテーヌブロー・アヴォン駅まで引き返した。

 

 夕映えで赤く染まったフォンテーヌブロー宮殿の庭を散歩。

22.夕映えのフォンテーヌブロー宮殿。

23.マロニエ並木と白鳥の湖。

 

050.イル・ド・フランス・旅日記(下) -Il de France- へつづく。

 

(この文は2006年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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040. ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(下) -ノルマンディー旅日記-

2018-11-04 | 旅日記

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(上)へ

2005/10/23(日)晴れ時々曇り/Caen-Bayeux-Cherbourg

 朝は朝食前から露天市を見て回った。なるほど、昨日のオンフルールの朝市よりも遥かに大規模であった。ポルトガルの露天市に似て衣類や靴などもたくさん出ている。違うのは海産物や生鮮野菜などの店も多く、見事に飾り付けられていることだ。以前と違って、今は統一通貨ユーロなので、高いのか、安いのかが一目瞭然よく判る。

34.カーンの露天市と泊ったホテル

 昨日、オンフルールで買ったパエリア屋さんも店を出していた。オンフルールでは大鍋が2つだったのが、ここでは4つも作っていた。マダムも僕たちに気付いたらしく、驚いて笑顔を見せていた。

 カーンの駅までは20分程を歩いた。途中金ぴかのジャンヌ・ダルクの銅像があった。

 

35.ジャンヌ・ダルク像


 バイユーでは王妃マチルダのタピストリー [Tapisserie de la Reine Mathilde] を見る。
 幅50センチで、長さは70メートルもあるタピストリーだ。
 1077年に作られた織物(刺繍)で、ノルマンディー公ウイリアム征服王のイングランド征服を描いた、いわば戦国絵巻物だ。日本語の解説もあって歩くに従って物語りは進んでついつい引き込まれて行く。色彩も良く絵も表現も面白い。


王妃マチルダのタピストリー(これは約1/9の最終部分)

36.

 バイユー駅でサンドウィッチを買って乗ろうと思っていたのに、店は閉まっている。
 バイユー駅からシェルブール行き列車に乗ったのは僕たち2人だけであった。
 シェルブールに着いて駅を出た所に地図があったが、判りにくい地図で方角も判らない。
 しかたがないのでタクシーに乗った。中心地の適当なホテルに止めてくれるように頼んだ。安そうなホテルの前で止まった。先にも幾つかホテルの看板が見える。
 どれも2つ星だがその中で一番良さそうなホテルを聞いてみることにした。2部屋が空いていて、何れも港に面した角部屋である。安いほうは屋根裏部屋で窓が斜めに向いていた。窓の大きい高いほうに決めたがパリなどに比べると随分と安い。

 ホテルのフロントで美術館の場所を聞いたら、「どの美術館ですか?」背が高くてフランス人と言うより北欧人の様な宿の主人であった。英語を話すが少し北欧訛りの様に聞こえる。そして律儀な性格らしく的確に教えてくれる。

 トマ・アンリ美術館 [Musee Thomas Henry Cherbourg] の一階はガランとして廃屋の様であった。

 

37.シェルブール「トマ・アンリ美術館」入口

 そこに居た人に「美術館の入口は上ですか?」と尋ねたら「うん」と頷いた。どうやらアルコール依存症の人の様である。


 ここでも入場無料であった。
 ただし半分は工事中で観ることが出来ないのだそうだ。
 ミレーの勉強時代の肖像画がたくさんあった。その全てをデジカメに収めた。若い少女の肖像画はミレーの最初の奥さんと書いてある。名前は「Paurine ONO」という人だ。

 

38.ミレーの最初の奥さんONO像

 その人の兄の「Amando ONO」という人の肖像画もある。
 美術館の受付の人に「<ONO>と言うのはノルマンディーの名前ですか?」と聞いてみたら「いや、その名前はノルマンディーにはありません」という。
 「ONOは日本人の名前にはあるのですよ」と言ってみた。
 どことなくこの肖像画には、ほんの少し東洋人的な面影も感じられるが気のせいだろうか?。

 『1838年から1840年にかけては、毎年グリュシーへ幾週かを過ごしに行っては、近親の者の肖像画を描いた。けれどもシェルブールの市当局が不規則に払っていた三百フランの不快な年金をついに失うことになった。その原因は、死んだばかりの市長の肖像画をあまりにも写実的に描いたので、それが敬意を失するとされたからであった。ところが一方では、この事件のために起こった騒ぎと、1840年のサロンに彼の最初の出品たる肖像画が出て、それが成功したためとで、郷里の若い人びとの同情がいっせいに彼に集まった。ある若い娘が彼に恋して、二人は1841年11月に結婚した。この幸福はミレーにとって新しい悲しみのもとともなった。妻は身体が弱かった。いっしょに過ごした数年のあいだ、絶えず病気になっていた。二人の生活は苦しかった。1842年には彼の画がサロンに落選した。毎日のこと生活のためにもがかねばならなかった。可哀そうな妻は弱くてそれに抗しきれなかった。そして1844年の4月、長患いのあげくに死んだ。ミレーはふたたび孤独になった。』

ロマン・ロラン著「ミレー」より

 

39.ミレー自画像

 そんな話をしていると、知らないまに先ほどのアルコール依存症のおじさんが受付に入っている。
 受付の女性はそのおじさんにもその話題を振り向けて、丁寧に対応しているところをみると、この人はこの美術館の館長さんなのかも知れない。
 失礼なことを思ってしまった。人は外見で判断してはいけない。

 美術館カタログを買いたいと思ってその旨申し込むと、「本当にそのカタログで良いのですか?もう一度よく見て下さい。」と念を押される。
 確かに本物を前にして印刷だから色は悪い。でもはるばる来た記念だし、めったに買えるものでもない。「はい、お願いします。」と言うと、横にいた館長さんが以前の企画展のポスター3種類をくるくると巻いておまけをしてくれた。つくづく外見で人を判断してはいけない。

 考えてみると今日は昼食を取っていない。
 ホテルの側のブラッセリ-で、若いカップルがムウルを食べているのが見えたのでその店に入った。
 ポルトガルではこの様な時間には食事は出来ないが、フランスは便利である。

 ムール貝の一つずつに小さな蟹が入っていた。ポンフリもたっぷり付いていてお腹は満腹になる。

2005/10/24(月)曇り時々雨/Cherbourg-Greville-Gruchy-Beaumont-cherbourg

 きょうは朝からレンタカーをして、いよいよミレーの生れ故郷を訪れる日だ。
 実は昨日、ホテルに置いてあった観光パンフレットを見て心躍らせているのだ。
 僕はミレーの生れ故郷がどのような雰囲気のところか?と、ミレーの描いたグレヴィルの教会だけを見ることが出来れば、それで良いと思っていた。
 ところがその観光パンフレットには<ミレーの生家>が載っているではないか。
 とにかくその家が残されていて、そこまでは行く事が出来る筈だ。
 しかもシェルブールからそれ程遠くはない。

 レンタカー屋は2軒あった。両方の値段を聞いて安いほうで借りた。クルマはマツダ・デミオのディーゼル車だ。

 標識通りに行けば難なくグレヴィルに着いた。
 雨がまた少し降り出していた。
 道端に駐車スペースがあったのでクルマを停めて、傘を持って歩いてみることにした。
 角を曲ったところすぐにグレヴィルの教会があった。何と小さい村だ。その前の広場にはミレーの銅像も建てられていた。
 そのロータリー広場に「グリュシー」への標識も目に付いた。

 

40.ミレーの銅像とグレヴィルの教会

 

41.「グレヴィルの教会」ミレー/オルセー美術館


 グレヴィルからグリュシーへは歩いても行くことができるほどの近さであった。公園の様な駐車場があった。
その中心に、やはりミレーの銅像があった。

 クルマを駐車して歩いて行くとすぐにミレーの生家と書いたプレートが付いた建物があったが、扉は閉ざされていた。見ることが出来るのか?いつなら見ることが出来るのか?全く表示されていない。

 村を抜けて、断崖の海岸まで行ってみた。
 雨に濡れて滑りそうで危ない。
 ミレーが子供の時に5,6隻もの船が一度に難破して、死体の山が出来たという海岸だ。今でも海路の難所とのことであるが、沖合いに船が見える。
ミレーの生家はあきらめて戻ることにした。

 戻る前にそのグリュシーの役場のあるボーモンに行ってみる事にした。そこでお昼を食べるのも悪くはないと思ったのだ。
 ボーモンに着くと市役所とその横にツーリスト・インフォメーションが目に付いた。何か情報があるかも知れない。

 

42.ボーモンの村役場

 「今、グリュシーに行ってきたところですが、ミレーの家は閉まっていた。」と言うと、「はい、あそこは午後からだけ開きます。」と言った。よくぞこのインフォメーションを訪れたものだ。午後から引き返すと観る事が出来るわけだ。


 ついでにお昼を食べるレストランを聞いたら、すぐ側に郷土料理の店があった。ここでも牡蠣の付いた定食を頼んだ。

 

43.鴨のオレンジ煮込み

 

44.白身魚のシードル煮込み

 ノルマンディーでは牡蠣だけよりも前菜に牡蠣付きの定食をやっている店が多い。
 食事が終わって早速グリュシーに引き返した。

 ミレーの生家 [Maison Natale de J.F.Miller] の筋向いの建物に受付の看板が出ていた。入場料を払うと先ずその建物の奥で10分程のミレーのビデオを見せてくれる。見終わったら受付のマダムに連れられてミレーの生家に行き鍵を開けてくれた。あとは自由に見れば良い。とのことであった。

 

45.ミレーの生家

 ミレーが描いたバターを作る道具なども展示されていて、なかなか良い雰囲気がある。石造り2階建ての大きな建物でとても貧農ではなかった様だ。

 

46.1階食堂

 厳粛な素朴さの中に重厚さと品格を併せ持ち、いかにも少年ミレーが育つに相応しい環境であったように感じた。
 でも今回の旅でも、まさかミレーの生家を見ることが出来るとは思ってもみなかった。ここまで来て初めて判った事なのだ。

47.2階作業場

47.寝室

48.ミレーの絵の具箱

49.藁の敷かれた木靴

50.玄関

51.ミレーに大きな影響を与えた祖母の写真

52.生家向い、ミレーが描いた牛乳集荷台

 

 明日はパリに戻る日だ。
 シェルブールからパリまでの時刻表は来る時に貰って来ていたが、複雑で明日はどれがあって、どれがないのかがはっきりしない。
 ホテルのムッシューに聞いてみることにした。
 ル・アーブルでは失敗したから今回は慎重にしたいものだ。
 「これに乗りたいのだけど明日はありますか?」と尋ねてみた。
 注意書きを読んで「これは明日は大丈夫」と太鼓判を押してくれた。ここのご主人はいかにも北欧人的で慎重で律儀で的確な人の様だから全面的に信用した。それにしても、パリ行きの本数は意外と少ない。

 夕食前のひと時、シェルブールの街を散歩した。
 また少し雨が降り始めた。
 僕の折りたたみ傘が少し具合が悪くなっている。
 この傘は以前マルセイユの<モノプリ>で買った物で、軽くて色も気に入っていたので旅行にはいつも持参していた。日本に帰る時も何度も一緒だった。
 そう言えばMUZが今持っている緑色の折りたたみ傘もオルレアンで買ったものだ。
 考えてみると良くフランスで傘を買う。そんな雨の時期にフランスを旅するのだからだろう。

 衣料品スーパーに入って雨傘を見てみる事にした。

 マルセイユの物ほど気に入った物は見あたらなかったが、軽くて安いのを1本買うことにした。

 まさに<シェルブールの雨傘>である。
 自慢したくなる様な雨傘ではないが、これから又いろんなところに一緒に旅することになるのかも知れない。

2005/10/25(水)曇り時々晴れ一時小雨/Cherbourg-Paris

 朝に、昨日に見ていたメルカドに行ってみることにした。行ってみると、もうやっていない。どこかに移転したのだろう。劇場前の広場に出ていた露天市を見て歩いた。

 

53.劇場前広場の朝市

 美味しそうなノルマンディーチーズがたくさん出ていて買って帰りたかったが、今回は美術館のカタログをたくさん買ってリュックが随分と重くなっているので諦めた。
 ホテルに戻る事にした。

 

54.シェルブールで泊ったホテル

 同じ道を歩くよりも別の道をと思って、中が駐車場になっているところを抜けて行こうとした。入ろうとしたらベルが鳴った。セキュリティーがしてあるのだろうか?やはりこの道は駄目か?と思って元の道に戻って歩いたがまだベルが鳴っている。
 「ああ、側を歩いている人の携帯か?」と思ったが、違う。MUZの携帯が鳴っているのだ。

 携帯は数年前に日本で買ってきた物だ。海外でしか使えない物で、おまけにメールはローマ字でしか打てない。あまり使ったことはないが、昨年クルマが故障した時には役に立った。

 そんな万が一の時のために買ったものだからそれで良いのだが…。

 この携帯に掛ってきたのは、もしかしたらこれが初めてである。

 それは大阪・高槻の妹からであった。父が入院して手術をするというものであった。
詳しくは妹も判らない。妹は学校の教師をしているが、今はまだ学校で今から病院に向かう。着いて詳しいことが判ったら又電話する。とのことであった。
 妹のところから病院までは恐らく1時間はかかるのだろう。
 父には兄が付き添っている。その兄から妹へ連絡が入って、妹から僕に連絡をしてくれたのだ。
 とにかく僕にはパリ行きの列車が発車しないことには動きが取れない。次の電話を待つしかないのだ。
 急遽日本に帰ることも視野に入れておかなければならない。

 

55.シェルブール駅

 シェルブールの駅に早い目に行った。
 その携帯を使って日本行きの航空券のことなどを調べてみた。
 明日の「全日空」なら少しだけ空席がある。とのことであったのでそれを押えておいてもらうことにした。

 シェルブールからパリに向かう列車の中に、今度は兄から電話がかかった。

 手術は順調に成功した。とのことであったが、この際日本に帰ることにした。
 なにしろ父は94歳と高齢だし、高齢の手術だから術後も心配である。
 ポルトガルから日本に戻るよりもパリからならそれだけ近い。

 パリのオペラ近くのエージェンシーで航空券を買って、サンミッシェルのホテルにリュックを降ろした。ポルトガルに戻る航空券は捨てることになった。
 そして予定通り自分が出品しているル・サロン [Le Salon] のヴェルニサージュ(開会)に出かけた。

 

56.僕の作品とベルニサージュで混みあうル・サロン2005の会場

 

2005/10/26(水)曇り時々晴れ/Paris-Sannois-Paris-日本

 日本行きの飛行機は夜8時発だから今日は一日ゆっくりとある。
 出来たら行くつもりであったユトリロ美術館に行くことにした。
 パリからRERでサンノアという郊外にある。
 サンノアの次の終点駅がアルジャントウイというところで、印象派のモネ、ピサロ、シスレーなどいろんな画家が絵にしている場所だ。

 サンノアの駅から中心の方に歩いて、そのうち「ユトリロ美術館」の道路標識でも見つかるだろう。と思って歩き出した。
 ユトリロ美術館の標識は一向になかった。
 お巡りさんが居たので尋ねると、道路を挟んで目の前だという。尋ねたあとにそこにユトリロ美術館の標識があるのに気付いた。

 

57.ユトリロ美術館

 古いサンノア村役場がユトリロ美術館 [Musee Utrillo] であった。
 1階には15~6点の各時代の油彩画の展示があった。

 地階に下りるとユトリロのアトリエが再現されていて、使い古しの絵具の盛り上がったパレットに描いた絵が3~4枚もあり、それが面白かった。
 別の部屋にはユトリロの母、スザンヌ・バラドンの力強いデッサンや油彩画も観ることができた。一度スザンヌ・バラドンの作品をまとめて観てみたいものだ。

 ユトリロ美術館の隣にはモダンなガラス張りの市庁舎があった。かねてより来たい来たいと思っていたが、来てみると簡単に来る事が出来た。以前に一度、途中まで来た事があるが、路線工事中で断念したことがある。その時は切符を払い戻した。

 

58.この旅で買い求めた美術館カタログ/上左より/ル・サロン、マルロー美術館、ルーアン美術館、バイユーのタピストリー、ブーダン美術館、トマ・アンリ美術館、マルロー美術館、カーン美術館

 時間が余ったのでパリに戻りオルセーに行く事にした。
 サンノアからRER(C)ライン一本で行ける。
 サンノアの駅前でサンドウィッチを買ってRERに乗った。
 アラブ人がやっているサンドウィッチ屋でカバブが主なメニューだが普通のものを注文した。

 ポンフリもたっぷり入ってボリューム満点だ。
 電車は空いていた。隣のボックス席に座っている若い娘のところに乞食がやって来て小銭をせがんだ。娘は強く首を横に振った。
 サンドウィッチを食べている僕たちのところには遠慮したのか?来ないで行ってしまった。

 オルセー美術館 [Musee d'Orsay] では入場するのに行列していた。
 こんなのは初めてである。
 先ずは一昨日見てきたミレーの「グレヴィルの教会」だ。
 その一点をだけ観るだけで満足であったが、急ぎ足でひととおり観て廻った。

 そしてホテルにリュックを取りに戻ってリュクサンブール駅からド・ゴール空港へ向かった。ド・ゴール行きのRER(B)ラインはラッシュであった。
 それに成田までの全日空も満席であった。眠ることは出来ずに映画を4本も観てしまった。
VIT

 

 

(この文は2005年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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コメント
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