武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

110. ハラン Aspidestra erlatior

2013-06-29 | 独言(ひとりごと)

 五寸釘から一寸釘をまばらに幾つか立てたかの様に植木鉢の土からにょきにょきと顔を出しているといったところが今の姿だ。大きいのはほんの少し先端がラッパ型に広がり始めているが、昨年の葉は全くないからまことにみすぼらしい。

 この春、宮崎の家の庭から邪魔になる部分の幾つかを引き抜いて、葉を落とし土を落とし、根とバルブ(根茎)だけをタッパーに入れてポルトガルまで持ってきたのだ。4つのプラスティック鉢に分けて植えつけたが、2ヶ月近く経った今でもそんな五寸釘状態である。各鉢に4本から6本の五寸から一寸の新葉が顔を出している。

文章を書いた時より少しは成長しているが、未だにこの状態。後ろにジャカランダとブーゲンビリアが見えるアトリエの窓辺にて。

 いつも思うことだがハランの新葉の成長は遅い。庭などに植えて放ったらかしにしておいたなら、いつの間にか広く繁茂して逆にその成長に目を見張ったりもするのだが…。

 ハランは葉蘭と書くがラン科ではない。クサスギカズラ科ハラン属の常緑多年草である。エビネ蘭の様に根茎で繋がって一年に一つづつ前へ伸びて行く。栄養が良いと奴(やっこ)に出たり、三つ又に出たりしてどんどん広く成長する。そして養分を取られた根茎は後ろから退化していく。

 学名は Aspidestra erlatior と書く。中国南東地方の原産とのことであるが、南九州でも自生しているし、ヨーロッパでも広く栽培されている。ハランと言うが花も咲く。地面ぎりぎりに、或いは半分土に埋もれるように咲く茶褐色の地味な花だ。ウマノスズクサ科のカンアオイの花に似ている。葉は全く違うのだが…。

ハランの花(2020年7月25日セトゥーバルのベランダにて撮影)

 父はカンアオイの花を「猿のだっちょ」と称した。それを聞いて夫婦で大笑いしたのを覚えている。カンアオイの媒体は森のナメクジかカタツムリで分布速度は極めて遅く、一万年に1キロと言われている。種子は重く飛ばない。受粉したその場に落ちる。風で飛ばされることもないし、鳥が運ぶこともしない。それだけに地域固有種が限られていて植物学者にとっては研究の対象として興味を引くものらしい。ハランの場合も花で考えるとそれと似ているところがあるのかも知れないが、植物学者の研究対象にはなり得ない。種子により分布を広げるというよりも、根茎で伸びて行く速度の方が速いのだろう。85種程が登録されているが大きな変化はないのだと思う。

 葉は立派で艶があり、長持ちもすることから活花のモティーフとしても良く使われる。尤も主役ではなく常に脇役であるが…。

 日本では昔から鮨の下敷きに使ったり、刺身のケンとの間仕切りに使ったり、料理店では欠かせないもので、料理用語ではバランとも言う。最近ではプラスティックの模擬バランが主流で弁当屋のおかずの間仕切りに使われているし、スーパーの刺身にも欠かせないものだ。プラスティックのバランは単なる飾りだが、ハランには殺菌効果もあり、昔は飾りのみならず、実用としての知恵が生かされていた。

 ハランだけではなく、昔はおにぎりを竹の皮で包んだり、押し寿司を熊笹で巻いたりが普通であった。富山の鱒寿司は木の半切り樽に熊笹をぐるりと敷き並べて包んであった。

 今でも柏の葉で包んだ柏餅や桜の葉で包んだ桜餅などは普通に使われている。今年も帰国時はちょうど桜餅の季節で2度ほど美味しい桜餅を食べた。宮崎では餡子餅を山に自生しているサルトリイバラで包んだものなどもあった。それを猿取り茨餅とは言わなかった。それも柏餅と言っていたから単にサルトリイバラを柏葉の代用に使っただけだろう。しかし灰汁餅(あくもち)は必ず竹の皮に包まれていなければならない。奈良には柿の葉寿司なども有名だ。たこ焼きは薄板の舟に乗ったものが一番旨いと僕は思う。あの木の香りが何とも食欲をそそる。酒も青竹で呑むと二級酒でも一級酒に変るなどと父は言っていた。南方のインドネシアではお皿代わりにバナナの葉を使っていたし、チマキなどもバナナの葉に巻かれて蒸されていた。それぞれ葉によって殺菌の成分は違う様だが何れも殺菌効果はある。ハランにはフィトンチッドという殺菌成分があるらしい。

 僕が宮崎から持参した根茎のハランは元々は斑入りである。斑入りであるが、うっかりしていると斑は消えてしまう。深緑一色の葉になってしまう。宮崎の庭でも斑入りは一割ほどしか残っていない。庭には残飯などを長年漉き込んでいるから、土は肥沃になっている。窒素分の多い肥沃な土地では勢いの良い緑葉が繫茂して劣勢な斑入り葉などは押しやられてしまう。出来ることなら時々は植え替えをして、斑入りと斑入りでないのを隔離して育てるのが望ましいのだが、なかなか帰国時には手が回らないのが現状である。

 斑はアトハゼである。アトハゼとは出始めは緑の部分も白い部分も薄い。それが1年もするとはっきりと深緑と真っ白に際立ち美しい斑入りハランとなる。

 この斑入りハランは父が大阪の実家で育てていたものを一株譲り受け宮崎で増やしたものだ。実家の隣近所でも斑入りのハランを家の玄関先に植えているところを数軒見かける。父から株分けされた物なのかも知れない。父の育てるハランにはいつも立派な斑が入っていた。せっせと選別を怠らなかったのだと思う。

 父に聞いてみると元々は父の出身地、新居浜の実家の庭に植わっていたものだと言う。何時の頃からそこに植わっていたものなのか父も知らないと言っていた。「わしが物心付いた頃には既にあったがな~」と言っていた。父は昨年100歳で亡くなったが、新居浜では恐らく父の年齢より永くそこに植わっていたのかも知れない。

 その新居浜には僕も子供の頃、法事などで何度か行ったこともあるが、今はお屋敷は取り壊されてない。高層のビルが建っているらしいから、もう既にその場所に斑入りハランはない筈だ。移植されているか或いは捨てられたかだろう。

 宮崎では鉢植えで増やしていた。店に飾っていたのだ。窒素肥料過多では斑が消えてしまうと思い、あまり肥料を施さずに少しづつ増やしていたので、いつも班が入っていた。斑の消えたものなどは株分けの際、庭に移植していたが、その中からも時たま斑が現れたりもしていた。

 ポルトガルに移住する時に、その内の一鉢を義母の宮崎の庭に託していた。そしてその後、宮崎に家を買ったのを機に自分の庭に植えていたものだ。自分の庭と言っても、大半をポルトガルに暮らしているから、宮崎には1年の内2~3ヶ月もいない。水をやる人も居ない。日本は幸い雨が多く、庭に植えると放ったらかしでも良く増えた。但し班はいつの間にか少なくなってしまっている。

 昨年、大工さんに頼んで庭にフェンスを作ってもらった。その際にも邪魔になるところは、大工さんの手でかなり処分された。それから1年が経って又、根茎からたくさんの芽を出していた。それを引っこ抜いて今回持ってきたのだ。

 鉢植えが立派に育ったらマンションの玄関ホールに飾るつもりである。以前にも持ってきて、玄関ホールに飾っていた。玄関ホールは出入りの時にはいつも見るのだが水遣りが疎かになる。たいてい水切れ気味だ。なかなか旨くは育ってくれない。

 これは一度は瀕死の状態になってしまった鉢だが、ようやくここまで回復を遂げ、新葉が10本ほど出ている。新葉にも斑が入っている様だ。

 ポルトガルでもハランは珍しくはない。いつも立ち寄るアライオロスのドライブインの入り口には見事なハランの鉢植えがあり、手入れの良さにその都度感心している。エボラのホテルにもあったし、アゼイタオンのワイン蔵の前にもたくさん並んでいる。イギリスのテレビドラマでもよく見かける。

 別に珍しくもないが、宮崎でゴミとして出すには忍びない。それで遥々と生きている根茎だけを連れてきたという訳である。

 階下のマダレナおばさんは緑のハランはポルトガルにもあるが、斑入りは初めて見たと言っていた。

 今回持ってきた根茎からは斑は出ないかもしれないが、大きく育って、海水浴の弁当におむすびかサンドウィッチでも包んで持っていければ楽しいのではないだろか。VIT

 

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109. サンタクルス・スケッチ紀行

2013-06-01 | 独言(ひとりごと)

 檀一雄が一年四ヶ月を暮らし、しばらく中断していた『火宅の人』を書き続けたというサンタクルスへ行くことになった。

 サンタクルスへ行く前はこの時期のポルトガルには珍しく、少し寒波が来て天気も悪かったものだから、週間天気予報とにらめっこで出発のタイミングを計っていた。お陰で出発前に『火宅の人/上・下巻』 『リツ子・その死』 『美味放浪記』 沢木耕太郎の 『檀』 それにサンタクルスの檀一雄文学碑建設の際の冊子『サンタクルスの落日/檀一雄のポルトガル滞在記』 など全部をゆっくり読むことが出来た。

 そして五月二十一日に出発。二泊三日の旅としホテルもインターネットで予約をしておいた。僕の住むセトゥーバルからリスボンの縁を通りぬけて、高速道路を使えば恐らく二時間くらいで着いてしまうところだが、今回は途中、野の花を探索するつもりで、できるだけ田舎道を選び全く別のルートでのんびりとクルマを走らせた。シャゼンムラサキなど様々な野の花は今が盛りと綺麗に咲いていたが、アレンテージョ地方とは違いエストレマドーラ(首都圏)はクルマも多く、道も曲がりくねって狭くなかなか大変な行程であった。

 

檀一雄の歌碑とサンタクルスのビーチ

 

 一泊目がサンタクルスのホテル・サンタクルス。サンタクルスには年間を通して開いているホテルはここ一軒しかない。

 サンタクルスはリスボンからなら一時間あまり、夏の海水浴客で賑わうリゾート地だが、シーズンオフには全く人通りはなく、波の音と海鳥の鳴き声だけが侘びしく響く寒村となる。

 

サンタクルスの町角

 そう言えば以前にゴーギャンの足跡を訪ねる旅をしたことがある。フランスのブルターニュ地方である。『黄色いキリスト像』のあるポンタヴァン(ポンタヴァン派の名の起こりの村、近代美術史上重要な美術革命)のその先のル・プルデュという海辺の村を訪れた。ゴーギャンが家の天井から壁からドアまでに絵を描いたマリー・アンリの下宿屋がある海水浴場だ。僕が以前に見た画集のなかにはル・プルデュの岸壁の上に建つ聖十字架(サンタクルス)が描かれていた。その場所を見たいと思っていたのだが、観光案内所ではその存在が判らなかった。その後なくなってしまったのかも知れない。偶然だがこのル・プルデュとサンタクルスは夏の海水浴場でシーズンオフには全くの寒村と化すなど良く似ている。(以前に書いたポンタヴァン旅日記参照)

 ゴッホは炎の人だが、『火宅の人』 を読みながら、僕はゴーギャンのことを時々オーバーラップして考えていた。家庭を顧みず芸術と酒と女にうつつをぬかした奔放な人生。後世に芸術は残るのかも知れないが、人間としてあまりにも身勝手で周囲に対する犠牲が大きすぎるのではないのだろうかなどと考えながら読んだ。

 

サンタクルスの町角

 そのホテル・サンタクルスにチェックインを済ませ、ホテル近くのレストランで遅い昼食。ワインは同じダンという名前から檀一雄が愛したというダン地方のワインにしようかなとも思ったが、ダンはいつも呑んでいることだし、レストランお勧め、この地方のトーレス・ヴェドラスのワインにした。少し甘口だが、その日の定食には良く相った。

 僕はサンタクルスには今までも四回ほどは訪れているが、今回は久しぶりだ。そして泊るのは初めてだ。

 勿論、檀一雄が住んだ家の場所も知っているし、歌碑の場所も知っている。(実は歌碑建設の発起人の辻司先生(画家で元大阪芸大教授)はよく知っている人で、建設前にはその設計図も見せてもらったこともある)小さな村だし道の数もそれほどは多くない。このレストランから歩いて恐らく二~三分もかからない距離だ。檀一雄先生通り六番地に檀一雄が住んだ家がある。

 試しにレストランのウエイトレスに「ルア・プロフェッソール・カズオ・ダン(檀一雄先生通り)はどこにありますか?」と尋ねてみた。だがその若いウエイトレスは檀一雄先生通りを全く知らなかった。その道の両側に二十軒もあるだろうか?単なる住宅街で日本人以外は行くことはないだろうし、親戚か友達でも住んでいない限り知らなくても当然なのかもしれない。

 「そうか、知らないか~」と思いながら、ホテルに戻ってフロントの同じ年頃の女性に同じ質問を投げかけてみた。ホテルの女性は当然のことながら即答であった。ホテルでくれたサンタクルスの地図にも「ルア・プロフェッソール・カズオ・ダン」は載っていた。日本人の宿泊客も多いのかも知れない。

檀一雄が『ポルトガル滞在記』の中で書いている、ポルト・デ・ヴァッカス(牛の津)とカーボ・アズール(青の岬)も聞いてみたが、それはフロントの女性も知らなかった。地元の人でも知らない、或いは漁師仲間だけの呼び名なのかも知れない。

 町の中心はかなり綺麗に整備されているとは言え、ひっそりと静まり返りレストランやカフェ、普通の商店なども少なく、リゾートシーズンを前にリメイク中なのか閉まっている店が目立った。そんな中で色褪せた赤い提灯の中華雑貨の店が侘びしくもドアを開け広げていた。こんな寒村にも中国人は入り込んでいるのだと改めて驚いた。

 

檀一雄が暮らしたサンタクルスの家

 

 檀一雄が住んだ家は以前と変わらずそのままの姿であった。でも誰も住んでいる気配はなく、誰かの別荘として使われてでもいるのであろうか?外から見るだけで内部は窺い知ることはできない。家の造りはその時代の特徴なのか、この地方に多くある形式で夏のリゾートの別荘造りなのだろう。僕の住むセトゥーバルあたりには見当たらない様式だ。普通ならスケッチをする対象ではないが、一応、檀一雄が暮らした家ということで鉛筆スケッチをした。その他にも町角風景など幾つかスケッチをしたが、久しぶりの鉛筆だったからなかなかいい線にはならなかった。今までも四回、サンタクルスを訪れているが一枚の油彩にもなっていない。

 

 只、以前と違っているのは町の入り口にアルミ色の大きな釣り針のモニュメントのロータリーが出来ていたこと。そこが町の入り口になり、以前は檀一雄の家は少し町の外れにあったのだが、今ではもう少し外側にも新しい町は広がっていた。

 ビーチを歩いてみたが昨日までの寒波の影響が未だ残っているのか、天気は快晴なのに風は強風でことのほか冷たかった。さすがに泳いでいる人は居なかったが、既に泳ぎ終わったのか水着で日光浴をしている十人程がいた。或いはサーフィンの後かも知れない。外国からのリゾート客なのだろう。それと釣をしている人も何人かいた。これは地元の人だろう。

 

サンタクルスの町角

 サンタクルスの南端、これが檀一雄の言うカーボ・アズール(青の岬)なのだろうと思われる断崖にはへばりつく様に松葉牡丹に似た多肉植物のカルポブロトゥス・エドゥリスの白と矢車草の一種だろうセンタウレア・プラタのショッキングピンクが混生し、野生のスターティスが鮮やかな紫の花を強風に耐えながらも多くの花をつけていた。

 その岬のカフェに座ってビールとトレモッソで休憩。風が冷たいとは言え西からの太陽は海原に反射し容赦なく顔面に照りつけ、いっぺんに陽焼けしてしまった。テラス席で五人連れのセニョーラたちがコーヒーとお菓子でお喋りに夢中でその場所だけが賑やかだったのだが、その人たちが解散してからはこのカフェもひっそり静まり返ってしまった。トレモッソは気前良く皿に山盛りでそれを当てにビールを飲むと夕食はとても入りそうにない。昼食は遅かったし。

 トレモッソは黄色く一見すると大ぶりのトウモロコシの様な感じだが、ルピナスの実だ。ポルトガルでは食前のつまみにはオリーブを食べることが多いのだが、それ以外でビールを飲むときはトレモッソをよく当てにする。丁度日本の枝豆の如くで、味も良く似ている。ルピナスもマメ科植物だから。

 すっかり陽焼けしてしまったし、少し疲れたのでホテルに帰って一風呂浴びて少し横になった。

檀一雄の歌碑 

 檀一雄の歌碑は町の中心の海側に突き出た断崖の広場に大西洋へと向って建っている。日没とその歌碑が重なる瞬間を見てみたいと思い立ちホテルを出た。ホテルからゆっくり歩いてもほんの二~三分もかからない。五月下旬は陽が長く日没は八時半頃になる。

 歌碑の周辺は勿論のこと、町なかを歩いている人は全くいない。人には会わなかったが昼間から何度もすれ違った犬が忙しそうにうろついていた。歌碑に一番近いバル(バー)のロック音楽だけが波の音に欠き消されながらも、うるさく金属音を響かせている。お客は一人も居ない。お店の人も居るのであろうか?人影がない。

 ようやく日没だ。歌碑と日没が重なり合って実に見事だ。海の上には少しばかりの薄い雲が浮かび日没に多少の変化を与えている。真正面から荒波の水面を照らし、歌碑に見え隠れし、そして黄金色の太陽がぶるぶると震えながら大西洋へと沈んで行く。

 檀一雄は『落日の火心はブルブルとたぎりふるえて、波の間に落ちてゆく。』と書いているが、本当にぶるぶるとたぎり震えて落ちて行く様を確認することができ感動を覚えた。

 歌碑には『落日を 拾ひに行かむ 海の果 A praia de Sta Cruz  檀一雄』と檀一雄の書体で記されている。歌碑そのものも幾分赤っぽい石でまるで落日の様にまあるくどっしりとした形をしている。

 日本語とポルトガル語で説明が彫られているが、日本人以外で読む人も立ち止まる人も居ないのかも知れない。檀ふみのお父上として名前を知っているだけの人が多いのかも知れないが、ポルトガルを訪れる日本人のいくらかはこの地に立つのだろう。そして『火宅の人』を読んでみたいという衝動に駆られることだろう。

檀一雄の歌碑と重なる日没 

 『火宅の人』の上巻はすごい文章力でぐいぐいと引き込まれ、これは早く読み終えてサンタクルスに行かなければなどと思っていた。しかし下巻に入った頃には「いや待てよ。文学のためとは言え、自分自身は良いとしても、これ程家族や周りの人たちのことを赤裸々に文章にし、おとしめても良いものだろうか。檀一雄はあまりにも奔放で身勝手ではないのか。」と檀一雄自身に腹が立ってきてサンタクルスに行くのも嫌になってきたものだった。読むのも少々うんざりしはじめた。でも又、更に読み進むに従ってやはり「凄い」の一言だ。そして人間の生き方そのものを考えさせられる本でもあると思う。壮絶さはエミル・ゾラの登場人物に匹敵するかも知れない。

 

 そして沢木耕太郎が、檀一雄の奥様ヨソ子さんに一年もの間に亘ってインタビューをして書き下ろしたという『檀』も凄かった。ヨソ子さんの口調で書かれているからまるでヨソ子さん自身が書いた本の如く錯覚を起こすくらいだが『火宅の人』と併せて読むべき本だろうけれど、単独の文学としても凄いと思う。そして最後の文章を辿る時、僕は救われた気持ちになった。

 

― 檀を思い出すとき、まず脳裏に浮かんでくるのは、何かがあるとパッと立ち上がる瞬間の檀の姿だ。そのかすかな激しさをはらんだ挙措が、まさにダン、檀だったのだ。

初夏、陽光がさんさんと降り注いでいるのに、なぜかサアッと涼しさが走ることがある。そんなとき、ふっと身体にポルトガルがよぎる。

あなたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれど。

だが、それも、答えは必要としない。―

 

 沢木耕太郎ももっと読んでみたいとも思った。

 ヨソ子さんは檀一雄のサンタクルス滞在中に健康を気づかって二ヶ月半を過された。そして、亡くなってから、多分、文学碑建立記念式典の時に招待されたのだろうと思うけれど、二度、サンタクルスを訪れている筈だ。

サンタクルスの町角 

 『リツ子・その死』これは火宅の人より若い檀一雄の人となりが表れている。そして一連の文学として繋がっている。

 今までは『美味放浪記』と『サンタクルスの落日』しか読んだことがなかったけれど、『火宅の人』とその関連の作品を読んで、もっともっと檀一雄を読んでみたいと今は思っている。流行作家時代の大衆小説も含めて。

 

 『火宅の人』にはいろんな登場人物がある。家族を初めとして愛人の恵子。その他の愛人の数人。恵子は入江杏子という新劇の舞台女優のことだが、その人もそれに関連して『檀一雄の光と影』という本を書いている。檀ふみも『父の縁側、私の書斎』という本を出しているそうだ。又、檀一雄の母、高岩とみは1978年に『火宅の母の記』という本を出している。リツ子との間の長男、太郎は『婦人公論』の中で『『火宅』の父檀一雄を見つめて』という文章で父との日々を回想している。何れも『火宅の人』の登場人物だ。

 その他に三島由紀夫と檀一雄に深く拘っていた新潮社編集者の小島千加子さんと言う人だが、『三島由紀夫と檀一雄』という本を出している。その中に『檀一雄不屈の十日間--『火宅の人』完成日誌』という章があり、それも興味深い。

 

 

 僕はお酒は好きなのだが弱くてあまり呑めないのがいつも残念に思っていることだ。

 ましてポルトガルなどとアルコールの安くて旨い国に住んでいるのにも拘らず、呑めないのが悔しいのだ。

 ポルトガルには普通のワインの他にビニョ・ヴェルデ(発泡性ワイン)ポルトワイン、マデイラワイン、モシュカテル、アグアペー(二番絞り)それにアグアデンテ(ワインの絞り粕焼酎)など実に豊富なバリエーションがありどれも特徴があり旨い。勿論、ビールも様々な銘柄があり、何れも少し甘口気味なのかも知れないが、コクがあり喉ごし良く旨い。

 でも檀一雄ほども呑みたいとは思わない。

 

 僕の父も若い頃は浴びるほど呑んでいた。昨年、百歳で亡くなったが、檀一雄より一歳年上だ。父が明治四十四年生まれ。檀一雄は明治四十五年生まれと言うことで、今年が生誕百年ということになるのであろうか。

 僕は残念ながら父の体質は受け継いではいないようで、ビールをコップに一杯で顔に出てしまう。

 今年はささやかながら父の遺作展を催した。本当にやって良かったと思っている。それが終わって次の週が『NACKシニア七人展』だった。父の遺作展で僕の心は少しは達成感で気が抜けていたのかも知れない。そんな時に吉田定一さんから『檀一雄のサンタクルス』の話があった。その時は本当に気持ちがどこかに行っていたのは確かな様だ。生返事をして、うわのそらで聞いていたのだ。

 吉田定一さんは僕の絵画グループNACKシニア7人のメンバーで絵も描かれるが詩人で児童文学者でもある。そして季刊文芸雑誌『伽羅Kyara』を主宰されてもいて、これはそれの為の原稿だ。吉田定一さんから下記の様なメールも届いた。

 --檀一雄さんとの繋がりは、小生の文学の恩師、北原白秋の弟子で、童謡 詩人であり童話作家である与田準一先生を通してです。

 与田準一先生は、リツ子さんを亡くされた檀さんに、戦中、与田先生と同じ町・福岡の瀬高に疎開していた檀さんに、今の奥さんを紹介した人です。そんな関係で檀さんとお会いしました。二人はすでに故人となられましたが、恩師との不思議な縁に導かれて文学に嵌った感を深くしております。--

 でも後からそれなら『火宅の人』くらいは読んでおけば良かったと思ったのだが、思いついたのがポルトガルに戻ってきた後だから、あとのまつりと思っていた。それを通信に書いたところ、友人がすぐさま送ってくれたので、「いや、これは読まなければなるまい。書かなければなるまい。」と読み始めたのだ。

 でもお陰さまで檀一雄をまとめて読むことができたし、サンタクルスにも久しぶりに行き、泊ることにして本当に良かったと思っている。

 檀一雄はこの地で『火宅の人』の最終章の前章の『骨』と前前章の『きぬぎぬ』を脱稿し、『新潮』編集部に送っている。その後、死の直前に病院での口述筆記により最終章『キリギリス』を書き上げるまでの4年間、『火宅の人』の執筆は中絶している。

 サンタクルスで脱稿した『きぬぎぬ』は第二の愛人徳子、そして第一の愛人恵子との別れの章である。その中にまるでサンタクルスの情景をスケッチした様な箇所がある。

 --どんよりとした鉛色の波は、揺れているのか、輝いているのか、いやもう波の面を眺めているだけでもなく、私はただものうく頬杖をつき、その落日の光輝が鉛の海を縦横に揺さぶり、染め上げていく有様に見とれているわけである。--

 --なぎ払われ、とりこわされたような周囲の家々の辺りから容赦なく差し込んでくる西日差も漸く斜めに傾き終って、私と恵子のいる家の庭先は暮れかかった気配である。昔のままに高く低く囲われた黒板塀だけが無残な傾斜を見せながら伸びていて、その黒板塀の裾の辺り、リリリリリンとこおろぎの一声を聞いたような気がした。--

 『骨』は日本脳炎を患い不随になって九年間寝たきりであった次郎の死である。

 --チチさん  酒呑んで  酔っぱらって  転んだ

  ジロさん  それ見て  たまげて  転んだ

  転んだ……  転んだ……

  転んだ……  転んだ…… --

 

 二泊目はその近くの温泉地・ヴィメイロに予約を入れていた。地図でみるとサンタクルスからほんの近くなのだが、道がややこしく案の定<微迷路>に入り込んでしまい、フランス系のスーパー、インターマルシェの駐車場で買い物のおばさんに尋ねたところ親切にしかも的確に教えていただいた。どうやらトーレス・ヴェドラス近くまで戻って来ていた様で随分と違う方向へと行ってしまっていた。

 それからはすぐに道路標識も目に付き、ようやくヴィメイロにたどり着いたが、予約したホテルには埃が被り、蜘蛛の巣が張り、吹き溜まりには落ち葉が積み重なっていた。全く営業をやっていない。名前も場所も間違いがないのだ。近くのパステラリア(お菓子とコーヒーの店)に入って聞いてみると、「このホテルは夏の間しか開かない。数キロ程走ったところの海岸縁に大きなホテルがあって経営者は同じだから、そこで聞いてみれば」とのことであった。

 その別のホテルのフロントには僕の名前があった。

 これもインターネットの弊害と言えるのだろうか?お客をできるだけ間口広く予約させて一箇所に集めてしまうというやりかたなのだろう。でも予約したホテルの入り口に張り紙くらいしておいても良さそうなものだと思った。

 ホテルは大西洋に面した崖の上に建つ高層で、広大な敷地にはゴルフ場や乗馬で野山を駆け回れる気持ちの良い環境にあった。もちろんビーチに面しているし、風呂の水も温泉質だ。ホテル専用道路の脇にもアナガリス・モネリ(瑠璃ハコベ)などの野の花が一面咲き乱れて、最初にたどり着いた山の中の薄暗い温泉宿よりは良かったかなと気分を良くした。部屋は見晴しのよい九階にあり、三つ星なのに予約した二つ星ホテルの値段のままだ。

 海水浴場のところで昼食を取ったが豪華でその割に安くて満足の内容だった。随分大回りしてこの場所まで辿り着いたが、ホテルはサンタクルスから海伝いに来るとほんの僅かな場所にあり、この日の行程はいったい何だったのかとがっかりもした。

 

 帰りは海岸線を走り、再びサンタクルスの釣り針モニュメントのロータリーを回り、檀一雄が滞在中はよく行ったという、エリセイラでブッジオ(巻貝)の昼食をとり、マフラの修道院の前を通り、リスボンの縁をかすめてヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡って無事帰宅した。VIT

 

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