武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

148. コーヒーと眠れない夜 Noite sem sono com café.

2017-09-30 | 独言(ひとりごと)

毎朝、自宅で飲む深煎り濃めでたっぷりのコーヒー。器はポルトガルに来てすぐにリスボンの珈琲専門店で買った英国ダッチス製(Duchess)のコーヒーカップ。もう既に30年近くも使い続けていることになる。絵柄は野草。

 僕の人生の内で初めてコーヒーを飲んだ日。それ程大げさに騒ぎ立てることもないのだが、それは全く覚えていない。人生の中で初めてビールを飲んだ日も覚えていないし、初めてウイスキーを呑んだ日も覚えていないのと同様に覚えていない。

 コーヒーは、或いは家にインスタントコーヒー、ネスカフェでもあり、それを飲んだのが始まりだったのかも知れない。インスタントのネスカフェも出始めだったと思うが、家庭でインスタントではないコーヒーを飲む家庭は殆どなかった時代であったと思う。

 中学生や高校生では喫茶店には行くことは出来なかった筈だ。高校生で喫茶店にでも入ろうものなら停学処分も覚悟の上だ。

 僕が高校を出て東京に居た頃の喫茶店のコーヒーはその当時、80円程であった。上野の美術館へ行った帰りには秋葉原の中華料理店にいつも寄っていて、秋葉原のラーメンが1杯50円、ワンタンが1杯40円で、40円のワンタンと50円のライス(ワンタンより白飯の方が高かった。)で計90円で腹一杯にし、下宿先まで帰ったのを覚えている。50円のラーメンと80円のコーヒーでは当然ラーメンを選ぶ。

  

ブラジルとアンゴラ。我が家で買ったデルタコーヒー250g入りの空き袋

 高校を出て東京に行く前には道頓堀のジャズ喫茶『ファイブ・スポット』で喫茶バーテンダーのアルバイトをしていた。毎日、忙しくて朝から晩までコーヒーを点てていた。未だ、コーヒーの味も判らないのにお客様に出すコーヒーを点てていたのだ。

 普通の喫茶店で60~80円のコーヒーがファイブ・スポットでは120円もした。その界隈では一番高いコーヒーを点てていたことになる。1回に15杯分ずつ点てる。布フィルターのドリップであった。大きなホウロウ引きポットに布フィルターを輪ゴムで止める。それに15杯分のコーヒー豆の粉を入れる。15杯分の量った水を入れた小さいほうのホウロウ引きのポットのお湯が湧いたら、布フィルターの上から少しずつ注ぎ入れる。注文が来たら小鍋で温め直してコーヒーカップに注ぐ。

 でも自分でゆっくり味わって飲んだ記憶はない。味を見るのは木村社長の役目であった。毎朝、必ず店に現れてバーテンダーの居るカウンター近くに席を取り、コーヒーを注文する。ボーイは伝票を切る。木村社長は無表情にもコーヒーを楽しんでいる様にも見えた。木村社長は120円のお金を払って店を出てゆく。店長の中野主任は顔をこわ張らせながらも120円を受け取り「有難うございました。」と言いながら木村社長を見送る。尤も大音量のジャズ喫茶であるから「有難うございました」も半ばかき消されている。木村社長が姿を見せるのは1日1回、その時だけであった。

 その後、「大学に行きながらでも出来るのなら」と言って、母は南綿屋町にあった小さなおんぼろ喫茶店を買ってくれた。『ピッコロ』という名前だったが、そのまま使った。カウンターに5~6人と4人掛けボックス席が2つの小さな喫茶店であった。ジュークボックスが置いてあったがすぐに取り払いジャズを掛けた。その頃にはどんどんコーヒーを飲んでいたことになる。

   

ベトナム、チモール。各国の美女が民族衣装で登場。

 1970年の大阪万博ではインド館でカレーを食べ、ブラジル館でコーヒーを飲んだ。ブラジル館のコーヒーは薫り高く流石と思ったのを覚えている。

 海外に出る前、少しの間には昼はガソリンスタンドで仕事をし、夜は針中野駅前の『花時計』という喫茶店でバーテンダーのアルバイトをして渡航費用をせっせと貯めた。MUZも阿倍野の『木村屋』という老舗喫茶店でウエイトレスのアルバイトをして2人で渡航費用を貯めた。

 1971年からストックホルムに4年余りを過ごしたが、その時はコーヒーをよく飲んだ。スウェーデンはアメリカン風で軽く、ブラックで飲む人が多かった様な気がする。それで僕もブラックで飲み始めたのだと思うが、未だにコーヒーには砂糖は入れない。スウェーデンの多くはドリップマシーンであった。一度に何杯分が出来るのかは知らないが、大きなざる型紙フィルターにコーヒーの粉を入れ、スウィッチを入れるだけである。アメリカ映画のファミリーレストランなどと同じだが、それでも淹れたては美味しい。そのまま保温することになるから時間が経てばエグミが出て飲まれたものではなくなるが、淹れたては美味しい。

 ストックホルムではコックをしていた。朝の仕込みが終わり、お昼前のひと時はコック全員が集まってテーブルを囲みコーヒーを飲む。シェフはギリシャ人のコンスタンティン、副シェフはオーストリア人、その他に亡命ポーランド人やポルトガル人のルイス、そして日本人の僕。コックにスウェーデン人は居なかったが会話は当然スウェーデン語であった。

 スウェーデン語教室の帰りにも必ず生徒仲間とコーヒーを飲んだ。自宅でもコーヒーは飲んだ。珈琲豆専門店にでも行けばいろいろと銘柄なども売られていたのだろうが、普通のスーパーで買っていたのだがまあまあいけた。

 ヨーロッパ中をフォルクスワーゲン・マイクロバスの中で寝られるように自分で改造して旅をした。北から南に下るにつれて、コーヒーも替ってくる。スカンジナビアではドリップが主流だが南に下れば殆どがエスプレッソになる。ポーランドのコーヒーも変わっていた。KAWA(名前は忘れた)と言ったかと思うが、ガラスコップにコーヒーの粉を直接入れる。それに熱湯を注ぎ入れる。粉が底に沈んだら上澄みを飲む。簡単なので日本でもやってみたが、日本の粉では沈まない。挽きかたがちょっと違うのかも知れない。

 ニューヨークでもコックをやっていた。ランチは3時で終わり、後片付けを済ませ、ディナーの仕込みが始まる5時までは少しの時間が出来る。オーナーのタキさんは皆を近くのコーヒーショップに誘うことも良くあった。映画に出てくるようなカウンターの店で、やはり味はアメリカンでマグカップにたっぷりであった。スタバなどは未だなかった時代だと思う。

  

ポルトガルはヴィアナ・デ・カステロの民族衣装の美女。家庭用デスカフェイナードの空き袋。

 ニューヨークからリオデジャネイロに飛んだ。ブラジルは今のポルトガルと同じデミタスカップである。南米でもコーヒーはよく飲んだ。食事の後、コーヒータイム、1日に何杯も飲んだ。ただみたいに安かった。ブラジルからパラグアイ、アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルー、エクアドル、コロンビア、そしてホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、メキシコの12か国を10か月もかけて旅をした。

 アルゼンチンでは少しの間、イギリス人青年と一緒になって旅を共にした。アルゼンチンにはイギリス人のコミューンがあって、そんなところではコーヒーではなくティー(紅茶)を供す。他のヨーロッパの国々とは異なり、イギリスはティー文化なのだと思った。かつての植民地によって、趣向品の文化も異なってくるのだ。イギリス人旅行者はアルゼンチン在住イギリス人家庭でイギリス文化を味わい故国を懐かしむのだ。その彼は更に、アルゼンチン沖にありながらイギリス領のフォークランド島に行くと言っていたのでそこで別れた。我々はジブラルタル海峡を越え最南端まで行った。

 コロンビアの奥地の遺跡のある村に行った。コーヒー畑が広がっていた。そんなところに粗末な小屋があり、その入り口あたりには莚(むしろ)を敷き、コーヒーの豆が広げられ天火干しされていた。そして小屋にはコーヒーの張り紙がしてある。「ここでコーヒーを飲ませるのだ。」と思い、小屋(店)に入ってみた。そしてコーヒーを注文した。暫くして出てきたのが、お湯と黄色いネスカフェの大きな缶でテーブルの真ん中にでんと置かれた。

 最近はコーヒーの産地をあまり言わないのかも知れないが、コロンビア、ブラジル、グアテマラ、キリマンジャロ、モカ、マンデリン、ハワイ・コナ、ブルーマウンテン、などと言ってかつては味わったものだ。

 そして焙煎、ブレンドの仕方などでその違いを楽しんだ。大阪、南に福島珈琲店だったか名前は忘れたが老舗喫茶店があった。美味しいと評判であった。その頃はどちらかと言うと、深煎りの苦みの強い物よりも、浅煎りで薫り高いコーヒーが好まれ始めていたのだと思うが、福島珈琲店のコーヒーは苦みの強い深煎りであった。僕も深煎りコーヒーが好みで福島珈琲店のコーヒーは旨いと思った。ジャズ喫茶『バンビ』のコーヒーも深煎りで旨かった。

   

ケニヤとパプアニューギニア。シーカル・コーヒーの空き袋。

 宮崎では店をしていた。最初は『レストハウス・山あい』という名前のドライブインであったが建物もリフォームし『山あい珈琲園』という名前に変えメニューをカレー専門にし、ジャズをかけた。珈琲園という名前にしたが、珈琲の木を栽培していたわけではない。店内に背丈ほどの2本の鉢植えのコーヒーの木があったことはあったが、実が生るまでには行かなかった。そして紙フィルターのドリップからその頃流行り始めていたサイフォン方式に変えた。

 今、日本に一時帰国した折には、宮崎では自分で紙フィルターのドリップを点てている。大阪では実家の近くで幼馴染が喫茶店『英登(エイト)06-6713-0951』というのを経営していて、そこの御主人、マスターの淹れるコーヒーはサイフォンで薫り高く品格を感じさせる旨さがあり、もっぱらそのコーヒーを楽しんでいる。楽しんでいると言っても毎朝8時過ぎにモーニングサービスを食べに行くだけである。『英登』は毎朝6時からの営業だそうだがいつも常連客で賑わっている。コーヒーだけではなくパンも旨い。サンドイッチとサラダ、ゆで卵が付いてモーニングセットが350円と安い。実家では新聞を取っていないから喫茶『英登』で新聞を読むことになる。

喫茶「英登(エイト)」のモーニングセット

 世界中でコーヒーの消費量は増えているのだと思う。日本でも普通に家庭で淹れる様になったし、喫茶店の他にスタバの様な店も多くでき、マクドナルドやファミレスなどでも多く飲まれている。そしてコンビニでも手軽に淹れたてが安くで味わえる。むしろ昔ながらの喫茶店の経営は苦しそうだ。コーヒーだけではやっていけないからモーニングやランチをやらざるを得ないのだろう。コーヒーだけで勝負していた、マサゴ画廊の向かいの老舗喫茶店は昨年、閉店してしまった。

 ポルトガルのコーヒーは超深煎りである。デミタスカップに半分程、どろりとしたコーヒーが入ってくる。「シェイオ」(いっぱい)と言ってデミタスカップの上まで注いでもらう。それでもまだどろりとしていて日本のものより遥かに濃い。それをブラックで飲む。ポルトガル人ではブラックで飲む人は殆ど居ない。

 

ヴェラ・クルスとブレンド・コーヒー。何れも粗挽きのドリップ・サイフォン用。

 スーパーで買うパック入りのコーヒーも深煎りで挽きも細かい。勿論、細挽きのエスプレッソ用と粗挽きのドリップ・サイフォン用が売られているが、ドリップ・サイフォン用でも日本の挽きかたよりも細かい。それを我が家では紙フィルターでドリップにしている。お湯が落ちるのに時間がかかる。

 毎朝10時はコーヒータイムである。深煎りのコーヒーをたっぷりと飲む。でも1日に何杯もは飲まない。その時の1杯だけである。午後からコーヒーを飲むと眠られなくなる。

 いつの頃からかコーヒーを飲むと寝られなくなっている。最初は夜に飲むと駄目で、それから夕方、午後には駄目、と徐々に時間が早くなってきている。今は午前中なら大丈夫。というところである。それは紅茶でも緑茶でも同じだ。情けないことであるがしょうがない。コーヒー好きには残念なことには違いない。

 父も母も夜にでもコーヒーを飲んでいた。そして「平気だ。関係なく眠れるよ。」とも言っていた。だから遺伝ではないのだろう。父は浴びるほどの酒飲みで、母は全く駄目であった。酒に弱いDNAは母から受け継いでいる。でもカフェインとDNAとは関係なさそうだ。

 外食の時、食後にはカフェインレスコーヒーを飲む。ポルトガル語では「デスカフェイナード」と言って注文する。味は普通のコーヒーと全く変わらない。これなら眠ることが出来る。ポルトガルだけに限らず欧米諸国ではレストランでもカフェでも露店市の食堂でもどこにでもデスカフェイナードは置いてある。大きなレストランなどでは2台の豆挽き器が設置してあって注文によって使い分ける。2台がないところでは袋入りのデスカフェイナードの袋をちぎってエスプレッソの機械に入れ、他の普通のコーヒーと間違わない様にカップソーサーの上にその袋を乗せて、そのまま客に出すところもある。

  

カフェやレストランで使う1人前ずつ入ったデスカフェイナードの袋とそれを敷いたカフェ

 日本でもスタバなどはデカフェといってカフェインレスコーヒーを置いてあるらしいが、普通の喫茶店ではなかなか普及はしていない。コーヒー好きとしては午後からもコーヒーを飲みたい。もっと普及すれば良いのにと思う。

 よく「私はコーヒーを飲んでも夜は普通に眠れます。」とか「寝る前にもコーヒーを飲むけれど、私には関係ないわ。」とか言う人が居る。そんな人を羨ましいと思う。

 でも更に良く聞いてみると。「眠れない時は睡眠薬を飲みます。」などとも言う。結局自分では気が付かなくてもカフェインが効いているのだと思う。睡眠薬に頼るくらいならコーヒーを飲まない方がよっぽど良いに決まっている。

 知人のお宅や事務所、画廊などにお邪魔をしてコーヒーを出して頂くことがある。点てる前に聞いて頂ければ「眠れなくなりますから。」とお断りも出来るが、何も聞かれないで突然お出し頂くこともある。そんな時は折角淹れて頂いたコーヒーを飲まないわけにはいかない。心の中で「今夜は眠れなくても本でも読んで過ごすかな。」などと思いながら、美味しく頂く。嫌いなコーヒーではないから美味しく頂くわけである。夜寝る時には覚悟の上だから読みたい本と照明器具、ベッドスタンドなどを確かめてべッドに入る。そんな時に限って5ページも進まないうちに眠ってしまっていたりする。VIT

 

殆ど飲んでしまったエスプレッソ

 

コーヒーノキはアカネ科、Rubiaceae、コーヒーノキ(コフィア)属、Coffea、アフリカ原産、常緑多年草。

学名:Coffea、和名:コーヒーノキ、葡名:Cafeeiro、

アフリカ西部~中部からマダガスカル島と周辺諸島にかけて多数の野生種が自生。野生種の殆どが絶滅危惧種に指定されている。

コーヒーノキ属には4亜種66種以上があるとされている。

エチオピア原産のアラビカ種はブラジルやコロンビアで品種改良が進み、200以上の品種があり、多くが中南米で栽培されていて世界消費量の7~8割を占める。

コンゴ原産のロブスタ種は主に東南アジアで栽培され世界消費量の2~3割である。(Wikipediaより)

 

上記ブログを読んだ大阪に住む妹が早速下記のメールをくれました。

<初めて我が家で珈琲を飲んだのは私が幼稚園児か小学校低学年の頃かに、清太郎おじさんか外国航路の船医をしていてお土産に生のコーヒー豆を持って来てくれ、おかんがそれを鍋で煎りすりこぎで擂り、入れてくれたのが最初だったのでは無いかと思うのですが・・・。まあ小さい頃のことであやふやではありますが・・・。>(メールの一部抜粋)

そう言えばそういうことがあったと、このメールを読んで、思い出しました。妹が幼稚園児だとすれば、昭和30年頃のことと思われます。母がフライパンか何かで生のコーヒー豆を煎り、すり鉢と擂り粉木で挽いていたのをはっきりと思い出しました。それが最初だったかどうかは判りませんが、そういうことはありました。コーヒー豆をすり鉢で擦ると言うのも、果たして出来たのかな。と思いますが、それより方法はなかったのでしょう。その後、我が家にはコーヒーミルも買って置いてありました。コーヒーミルは僕たちもパリのバンブの蚤の市で赤い可愛いのを買って、ヨーロッパの旅行中はそれをずっと使っていました。今は宮崎に置いてあり時々は使っています。

 

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147. 画材店の会員登録。Registro de membros da loja de material de pintura

2017-09-01 | 独言(ひとりごと)

 画材店の会員登録をした。3~4年前からこのカセム町にある画材店でのみ買うようになっていた。画材の量販店といった趣の店で、広くて品数は多いし、自分で選ぶことが出来るし、他店よりはかなり安い。

 ずっと以前に画廊のペドロがクルマで乗せて行ってくれたことがあったが、1度行ったきりで、暫くは行かなかった。ペドロの運転は恐ろしいのを通り越している。いつ死んでもおかしくはない運転であった。高速道路でも両手を離して携帯を掛けようとするし、話に夢中で高速の出口をしょっちゅう通り過ごしてしまう。でもペドロは未だ元気に生きている。

 それにカセム町はあまりにも遠いし、道が複雑で自分だけでは到底行けそうになかったからだ。それでそのままリスボンの画材店で買っていたのだが、3~4年前からこのカセム町の画材店でのみ買うようになった。

 元々画材は1年に1度、まとめ買いをしていた。だからカセム町に行くのも1年に1度。行く時は1年ぶりということになるから、毎回、行く前には「道が判るかな」と不安な気持ちになるのは否めない。

 カセムという町とマサマという町の中間にあるのだが、ペドロやリスボンの画廊のザンベジは「マサマの画材店」と言っていたから、てっきりマサマ町にあるものと思い込んでいた。だから最初の何回かはマサマの高速出口で降りて、道を尋ねながら、何とかたどり着いていた。がもう一度行ってみろ。と言われても自分の記憶だけでは行くことが出来ないほど複雑であった。でも正確にはカセム町の工場団地内にあるし、マサマ出口から行くよりもカセムの高速出口から行った方が判りやすいのを発見した。

 リスボンからシントラ行きの無料の高速道路に乗り、ベンフィカのサッカー場を左手に見、マサマ町出口を通り過ぎカセム町の出口で降りる。鉄道の高架を潜り抜け10階建て程のビルが建ち並ぶ住宅街を、記憶を辿りながら、道なりに走らせる。僕はどちらかと言うと方向音痴ではないし、道は覚える方であると思っている。それで他人に道を尋ねなくても、何となく迷わずに工場団地に入り込むことが出来る様になった。

 入り込むというより工場団地の入口付近にその画材店がある。工場団地のどこにでもある様な特徴のない建物だがすぐに判る。そして昨年もこの時期に行った。

 ポルトガルでは8月下旬と1月の正月明け頃に一斉にバーゲン時期を迎える。ブティックや普通の商店なども「SALD(バーゲン)」などと張り紙をしている。スーパーでも同じだ。

 そしてポルトガルは9月が新学期なので、その前の8月下旬は学用品のバーゲンセール時期でもある。スーパーの特設場には文房具が並ぶ。

 カセム町の画材店にも文房具もある。わざわざ子供を連れて工場団地内の画材店に文房具を買いに訪れる人も居ない様に思うが、昨年はそのスーパーの真似事をして文房具のサルドをやっていた。勿論、画材もそれなりに安くなっていた。

 でもその方式に問題がある。バーゲンといってもその時に割り引くのではなく、レシートに割引分のクーポンを印字し、そのクーポンにより次回に買った買い物の中から差し引くという複雑な方式だ。これは大手のスーパーがこの方式をやっていて、それで顧客を増やしている。まあ、近くのスーパーなら、しょっちゅう行くわけだからその方式でも構わないのだけれど、たまにしか買い物をしない画材店でこの方式を導入しても全くなじまないと思う。

 それでも昨年は買った画材が多かったこともあり、その割引分を捨てるわけには行かず、1週間後に再び訪れ、その分で余分に油彩チューブの何本かを買った。2回目の出費はゼロである。カセム町までは結構なガソリン代と時間労力がかかるが、その割引分を捨てるわけにはゆかなかった。

 今年もたまたま昨年同様この時期に行くことになった。

 画材店に行くついでにその周辺の鉄道駅を取材することにした。カセムの先にはシントラがある。そのあたりにはリスボンとシントラを結ぶ鉄道が走っていて、リスボンのベッドタウンとなっているので駅も多いし、列車の本数も多い。

 それにシントラというところは、かつて詩人バイロンが『地上の楽園エデンの園』と讃えた自然豊かで世界遺産のお城なども幾つかある1級の観光地である。そこからユーラシア大陸最西端のロカ岬へ行く拠点ともなっている。

 そのシントラ駅と画材店のあるカセム駅、それにその手前のケルース宮殿のあるケルース駅を取材することにした。何れも何度も行っているところだが駅の取材は初めてである。駅を取材した後、最後にカセム町の画材店で画材の仕入れをするつもりで朝早く家を出た。

 お陰で駅は3つではなく7つも取材することが出来た。クルマで走っている途中『鉄道駅こちら』の標識が目に付くのだ。

 しかしそれで非常に疲れた。アレンテージョなどの田舎道なら何時間走ってもあまり疲れないのだが、都会は疲れる。

 最初に終着駅のシントラ駅を取材し、高速道でケルースに戻り、そこで昼食と駅取材、そして街中の道を見覚えのあるマサマ町からカセム町に入った。その間、鉄道駅7つである。

 朝、家を出てリスボンを抜ける頃は通勤ラッシュが未だ続いていた。そしてシントラからケルースに戻る高速道の反対車線では大変な渋滞が起こっていた。事故でもあったのだろう。この路線は片側3~5車線の大きな高速道だがそれ以上に交通量は多く、交通事故多発路線である。

 画材店に到着した時にはかなり疲れていた。画材店入口には昨年の様な『SALD』の横断幕はなかった。店に入るとすぐに若い女性店員が応対してくれた。昨年には居なかった人だ。感じが良く親切な上に愛嬌もある。どの様な店でも店員の愛嬌が良いと気持ちよく買い物ができる。そして一気に疲れは吹き飛んでしまった。

 品物を選んでから「今年はサルドはないのですか?」と言ってみた。遠くの方で店長の男がこちらをちらちらと見ている。たぶん僕のことを、見覚えがあるな。などと思っているのだろう。僕ははっきりと覚えている。女店員は「サルドはないですが、今、会員登録すれば今回の買い物から10パーセントの割引になります。次回からも納税番号を言って頂ければいつでも10パーセントの割引です。」と言ったので会員登録をすることにした。

 登録は無料で、日本の家電量販店などでもある方式と同じだが、別にクレジットカードなどは作らなくても良い。

 店内にあるパソコンを操作しての会員登録である。それは全て女店員が操作してくれた。僕は名刺を出した。それには名前、住所、電話番号、eメールアドレスなどが載せてあるから全てそれを見ながらやってくれた。納税番号は別の納税カードを出した。ポルトガルではこの番号が必要な場合が多い。日本の住基カードの様なものなのだろう。

 そして国籍を選ぶ欄が出てきた。「国籍はJAPÃO ですよね?」と聞くので「はいJAPÃO です。」と答えた。ずらりと並んだ国名から選ぶのだけれど、何度探してもJAPÃO が出てこない。女店員も首を傾げる。3~40は国名が並んでいるが、JAPÃOもJAPANもNIPPONもZIPANGUも出てこない。ヨーロッパの国々を中心にアメリカ、ブラジル、アンゴラ、モザンビークなどもあるのにJAPÃOがない。まさか日本人が会員登録をするのまでは想定にはなかったに違いない。そしてこの欄では選ぶだけで書き込むことはできない。

 でもそんな国籍などはどうでも良いのだろう。女店員は仕方なく「ポルトガル国籍でも良いですか?」と言いながらポルトガルを選んだ。僕は画材店の登録ではポルトガル人になってしまった。

 店長が大きな荷物を抱えて近くを通ろうとした時、女店員は店長に向かって「JAPÃO がないわよ~」と言った。店長は荷物を落としそうになりながら苦笑いを噛み殺し、足早に通り過ぎた。昨年、割引分のクーポンだけで、出費なしで買い物をした時に対応してくれたのはこの店長であった。店長もようやく僕の顔を思い出したのかもしれない。

 とにかくあの大手スーパーの割引方式は1年だけで終わって良かったなと思う。誰が考えてもおかしな、画材店にはなじまない方式だ。お陰で今回は続けざまに2度も行かなくて済んだ。

 リスボンの画材店に比べると同じ品物でもかなり安いのにも拘わらず、更に10パーセントも安く仕入れることが出来た今回の画材である。早速一巻き買ったキャンバスから大小数枚分を切って木枠に張ってみた。100パーセント麻のなかなか手触りが良い真っ白いキャンバス。さてイメージは出来上がりつつあるのだが、これで良い絵が描けるだろうか。 VIT

 

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