久しぶりにポルト・デ・モスが描きたくなって出掛けた。セトゥーバルの北約200キロ、それ程観光地と言うほどでもないのだが、観光資源は豊富にある。そして訪れるたびに違う表情を見せてくれる。
「ヨーロッパは古い町並みが残っていていつまでも変わらない」などと良く言われるが、実は残すものと、新たなもの、そして修復するものをきっちりと分けた都市計画があるのだろうと思う。
セトゥーバルも僕たちが最初に来た時とは随分と変わってしまった。かつては荒地だったところに15階建て程のビル群が建ち並び、それも既に古びて昔からその場所に存在していたかの様な表情を見せている。古いオイルサージンの工場跡が博物館に利用されているし、かつてはコルク樫の林だった町外れには大型ショッピングモールや高速道が整備されている。
それとは対照的にローマ時代の道が残されていたり、いつの時代のものなのか、廃墟が多く存在する。
ポルトガルには、古代ローマ時代、ムーアの時代、レコンキスタの時代そして大航海時代の遺産としての城跡が至る所に存在し、その殆どが廃墟となっている。
ポルト・デ・モスの城はポルトガルの城には珍しくサップグリーンのとんがり屋根があり、特徴的な美しい城だ。
ポルト・デ・モスの城も最初に行った1991年には、サップグリーンの屋根を支える城壁の中はガランポンの草地だけで何もなかった。次に行った時にはその中が博物館にリメイクされていて驚いた。
フランスでもドイツでも地方都市は美しい。コロンバージュ(木骨煉瓦作り)の家並などを歩くと、グリムやアンデルセンの世界に入り込んだかのような楽しさを感じる。でも考えてみると、そんなコロンバージュの家並も、第2次世界大戦で一旦は瓦礫の町と化していた筈である。それが元の姿にリフォームされ美しさが取り戻されている。
メキシコのパックツアーに参加して帰って来たばかりの人から話を聞いたことがある。「現地ガイドの話では、『皆、偽物ばかりですよ。』と言っていてがっかりしましたよ。」と言うものであった。マヤのピラミッドも偽物だと言うのだ。
確かに当時のままの姿ではないのかも知れない。遺跡を修復して今の形、言い換えれば元の形に戻しているのだと思う。メキシコ人現地ガイドはあまり日本語の使い方を知らなかったのではないのだろうか?確かに『偽物』などと教えられればがっかりもするだろう。
ポルト・デ・モスの城も1960年頃までは殆どが瓦礫で、その頃には特徴的なサップグリーンのとんがり屋根はなかった。1960年代から少しずつ修復工事が行われて今の美しい形になっている。中世の昔のままとは言わないまでも、ある程度は資料や記録に基づいて再建されているのであろう。
僕が最初に訪れた1991年頃とその10年後に訪れた時には更に修復工事が行われたことになる。
僕も絵を描いていて、時にはスランプに陥ることがある。でもスランプを感じたら直ちに原点に立ち戻ることを心がけている。僕は当初、『丘の上に聳える古城とそれを取り巻く赤瓦と白壁の町並』の様な風景を描きたいと思っていた。それはスペインでもイタリアでも南フランスでも実は良かったのかも知れない。でもたまたまポルトガルを選んだ。それが良かった。
僕のポルトガルでの原点はオビドスにある。未だポルトガルに住み始める3年前の1987年、ヨーロッパのそんな風景を油彩にしたくて、油彩道具とキャンバスを抱えて1か月間のスケッチ旅行でポルトガルにやって来た。冬のポルトガルは雨ばかりであった。MUZがリスボンの安宿で風邪をこじらせてオビドスにやってきた。風邪は更に悪化し、オビドスの医者の診察を受けた。それから5日間は移動禁止を言い渡され、民宿に留まることになった。ようやく雨も上がり、僕は毎日、せっせと出掛けてはイーゼルを立てた。ポルトガルの風景画が数点出来上がった。
そんな絵をもっと描きたくてポルトガルに住むことにした。
今、オビドスを訪れると観光客の多さに驚かされる。銀座か心斎橋並みの人通りでイーゼルを立てるどころではない。
住み始めて早い時期に訪れたポルト・デ・モスも気に入り、たくさんの油彩になった。ポルト・デ・モスもオビドスに次ぐポルトガルの原点と言っても良いのかも知れない。
町のどこからでも見ることが出来る、サップグリーンのとんがり屋根のポルト・デ・モスの城。そしてそれを取り巻く赤瓦と白壁の家並は制作意欲をそそる。どこから見ても絵になる風景がある。決して巧くは描けないのだけれど、元気だけは取り戻せるモチーフである様な気がする。まさに当初、僕が考えていた原点の風景がここにある。
『ポルト・デ・モスの城』20景。
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ポルト・デ・モスの『モス』とは風車に使う石臼のことだと知った。以下、『ポルトガル観光局』の記述を貼り付けます。
『ポルト・デ・モス(Porto de Mós)という村の名は、ローマ人による支配の時代に起源があると考えられています。その頃船で航行が可能であったレナ川(Rio Lena)に面して、この地には港がありました。この港では、地方一帯の石切り場から切りだされた石臼(Mós)が船に積み込まれたり、降ろされたりしていたのです。
このポルト・デ・モスの地域には、数千年の昔から人が居住していました。その事実は、市立博物館(Museu Municipal)を見学すれば、大変よくわかります。ここにはさまざまな恐竜の化石や骨格と並んで、各時代の人類の暮らしの跡が収められています。例えば、研磨された石英の道具(石器時代・新石器時代)や、古代ローマ時代のコインや鉄製の槍などです。
付近で最も高い地点に立つ城は、13世紀にサンショ1世(D. Sancho I)の命で再建されたものです。さらにその2世紀後には要塞を構えた宮殿に改築されました。その美しく、また大変珍しい姿は、今日でも目にすることができます。
周辺には、アイレ・イ・カンデエイロス山脈自然公園(Parque Natural da Serra de Aire e Candeeiros)が広がっています。石灰石の斜面にはいくつもの穴が口を開け、美しい地下の洞窟が奥へとのびています。こうした洞窟には、中に入って探険できるものもあります。例えば、サント・アントニオ(Santo António)やアルヴァドス(Alvados)、ミラ・ダイレ(Mira d`Aire)の洞窟などがそれです。地上では、昔ながらの村々と石切り場の間にあるペドレイラ・ダ・ガリーニャ(Pedreira do Galinha)で、近年発見された恐竜の歩行の跡が見られます。また、古代ローマ時代の遺跡も残されています。その好例は、アルケイダォン・ダ・セーラ(Alqueidão da Serra)にある敷石の道です。 』(以上、『ポルトガル観光局』の記述より)
ポルト・デ・モスからの帰り、その近くにある『オウレン』にも寄ってみた。オウレンも特徴的な城がある町である。
オウレンの城へ上る道すがらではいろいろな野草が咲いていた。MUZが矢車草の一種の写真を撮っているとスコットランド人なのだろう、2人の若者観光客が、僕たちを追い抜き「この花はスコットランドの国花だよ」などと話しかけながら城へと登っていった。僕たちが城壁にたどり着く前に早くもその若者たちは下りて来て別れの挨拶を交わした。
古い城壁の上では数人の男たちにより修復工事が行われていて、コツコツとハンマーの音が辺りに響き渡っていた。そして城壁の反対側ではやはり数人の女性たちが声高に世間話をしながら発掘調査をしていた。その横では野草のオレガノが群生し、地味な花を咲かせて良い香りを放っていた。
城と町並が一緒になった風景を探そうと少し外れたところまで走った。古い農家の後方に城が聳えている場所を見つけてスケッチをしていると、その農家から小父さんが出て来て、最初は不審に思ったのか、話しかけて来て、クルマのナンバーを見たのだろう。「ポルトガルに住んでいるのか」「日本人だ」と言うと「この辺りも空き家が沢山あって、安いよ」とかと言って、最後には人懐こく握手を求めてきた。別のところでもスケッチを始めると、日向ぼっこをしていた小母さんが「うちの庭からならお城がもっと良く見えるよ」などと声をかけて来て、庭に招き入れてくれた。
次にオウレンに行った時にはその城にはどのような修復がなされているのであろうか?楽しみである。
そしてポルト・デ・モスと併せてたびたびは訪れたい町になった。武本比登志
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