香は禅心(ぜんしん)よりして火を用ゐることなし花は合掌に開(ひら)けて春に因(よ)らず 菅原道真
写真 千田完治
へぇー、と自分自身で驚いてみる。冒頭にかかげた詩句は有名だけど、まだご紹介していなかったか(有名だから紹介しなかったのかも)。
詩の背景と現代語訳は、大岡信著『第四折々のうた』から引用します。「折々のうた」は昭和54(1979)年から平成19(2007)年まで、朝日新聞朝刊第一面に大岡信(1931~2017)が連載したコラムです。全文を紹介します。
〈『和漢朗詠集』巻上「仏名」。『菅家文草』中の仏教法会を詠じた長詩「繊悔会作、三百八言」からの一節。言い廻しが漢詩独特だが、大意はおよそ次のようになるだろう。「香は火を用いてたくものである前に、何よりもまず禅定の心のうちに薫るのだ。花も春の到来によってはじめて開くのではない。何よりもまず合掌した手に花は咲くのだ」と。意味もさることながら、表現法そのものに妙味がある。〉
新聞掲載時は一行が20字で9行。全部で180字に収めるという名人芸です。もう、ちょっとかみ砕いた現代語訳を引きます。川口久雄訳註『和漢朗詠集』(講談社学術文庫)から。
〈禅定の心がしっかりしてさえいれば、別に火をもってきて香を焚かなければならないということはありません。しっかり合掌することができてさえいれば、それが仏にまつる花なのであって別に春をまつことはありません。〉
くだいてくだいてわかりやすくドロドロになった現代語訳です。ただ、大岡訳も講談社学術文庫訳も「禅心」を「禅定」と訳しているのですね。禅定のほうが、かえって難しくなっているのではないかなぁー。
「定」の字を白川静『常用字解』(平凡社)は「安定」と教えてくれます。「禅」の字をみて、現代人は「禅宗」の「禅」、あるいは「坐禅」の「禅」を連想してくれるけれど、もともは「ゆずる」っていう意味なんだそうだ。「禅譲」と言うじゃないですか。けんかしないで、譲りあうような。安定した状態ならば、香を火で焚かなくても、香(かぐわ)しい花のような人間になれる、と天神様はおっしゃっている。でもねー、そんな人を見たことある? いないよね。実現不可能なことをなぜ、詩にするのか。
こう、思うのです。香しくて花のような人物というのは、北極星のような存在なのではないか。星は手に取ることはできない。でも、いつも同じ場所にいるから、行くべき場所を示してくれる。願いは大きいほどよい。