松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

香は禅心よりして火を用ゐることなし花は合掌に開けて春に因らず  菅原道真

2025-03-01 | インポート

香は禅心(ぜんしん)よりして火を用ゐることなし花は合掌に開(ひら)けて春に因(よ)らず     菅原道真

 写真 千田完治

 へぇー、と自分自身で驚いてみる。冒頭にかかげた詩句は有名だけど、まだご紹介していなかったか(有名だから紹介しなかったのかも)。
 詩の背景と現代語訳は、大岡信著『第四折々のうた』から引用します。「折々のうた」は昭和54(1979)年から平成19(2007)年まで、朝日新聞朝刊第一面に大岡信(1931~2017)が連載したコラムです。全文を紹介します。

〈『和漢朗詠集』巻上「仏名」。『菅家文草』中の仏教法会を詠じた長詩「繊悔会作、三百八言」からの一節。言い廻しが漢詩独特だが、大意はおよそ次のようになるだろう。「香は火を用いてたくものである前に、何よりもまず禅定の心のうちに薫るのだ。花も春の到来によってはじめて開くのではない。何よりもまず合掌した手に花は咲くのだ」と。意味もさることながら、表現法そのものに妙味がある。〉

 新聞掲載時は一行が20字で9行。全部で180字に収めるという名人芸です。もう、ちょっとかみ砕いた現代語訳を引きます。川口久雄訳註『和漢朗詠集』(講談社学術文庫)から。

〈禅定の心がしっかりしてさえいれば、別に火をもってきて香を焚かなければならないということはありません。しっかり合掌することができてさえいれば、それが仏にまつる花なのであって別に春をまつことはありません。〉

 くだいてくだいてわかりやすくドロドロになった現代語訳です。ただ、大岡訳も講談社学術文庫訳も「禅心」を「禅定」と訳しているのですね。禅定のほうが、かえって難しくなっているのではないかなぁー。
「定」の字を白川静『常用字解』(平凡社)は「安定」と教えてくれます。「禅」の字をみて、現代人は「禅宗」の「禅」、あるいは「坐禅」の「禅」を連想してくれるけれど、もともは「ゆずる」っていう意味なんだそうだ。「禅譲」と言うじゃないですか。けんかしないで、譲りあうような。安定した状態ならば、香を火で焚かなくても、香(かぐわ)しい花のような人間になれる、と天神様はおっしゃっている。でもねー、そんな人を見たことある? いないよね。実現不可能なことをなぜ、詩にするのか。
 こう、思うのです。香しくて花のような人物というのは、北極星のような存在なのではないか。星は手に取ることはできない。でも、いつも同じ場所にいるから、行くべき場所を示してくれる。願いは大きいほどよい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何を言っても画いた牡丹餅(ぼたもち) 聞いたばかりではお腹は飽(ふく)れず 水も飲まねば冷暖知らず 坐ってみなければ禅はわからない 白隠禅師

2025-02-01 | インポート

何を言っても画いた牡丹餅(ぼたもち) 聞いたばかりではお腹は飽(ふく)れず 水も飲まねば冷暖知らず 坐ってみなければ禅はわからない 白隠禅師『おたふく女郎粉挽歌』

1月中旬に冬の京都へ行きました。京都もわが本山・妙心寺界隈(右京区花園)は静かです。そこからバスで20分ほど乗って嵐山となると原宿状態。とは言っても原宿なんて行ったことないけれど。
 嵐山は歴史ある景勝地だからしょうがないとして、以前は行列などしなくてもスンナリと手に入れられたものまでが、入手困難になっている京都です。たとえば、町衆のおやつだった某店の豆餅。
 それが、今回さいわいに手にはいりお土産にしました。その、写真をアップします。でもねー、これって見せびらかすだけで、まったくもって「画に描いた餅」。みなさんは口にはできない。スミマセン。
「画に描いた餅」を、『日本国語大辞典』(小学館)でひくと、「画餅(がべい)」(「がへい」とも)の見出しで、「実際の役には立たないもの、骨折り損になることのたとえ」として、例文に抜隊得勝禅師著『塩山和泥合水集』(1386)から「なほ画餅の飢をみてざるが如し」をあげています。「みてざる」は「充たすことができない」の意味。「画に描いた餅」は鎌倉時代の禅僧も使った由緒あることばなのです。抜隊得勝禅師ばかりか、曹洞宗の開祖・道元禅師(1200~1253)は著書『正法眼藏』に「画餅」の巻をもうけているくらいですから。
『正法眼藏』って難解な書物でしられるけれど、餅にかんしてもやわらかくはない。こんな調子です。「画餅不能充飢(がびょうふのうじゅうき)と道取するは、たとえば諸惡莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)と道取するがごとし」(日本思想大系12『道元』岩波書店)。
 つまり、「絵に画いた餅と体得するのは、(悪いことをしないで良い事をしょう)というのと同じように、言うのは簡単だけど、行うのは難しい」。
 道元がここで、「諸惡莫作、衆善奉行」という言葉を引っぱってきているのには深い意味があって、それについては花岡博芳著『またまたおうちで禅』(春陽堂書店)の69ページ、「京都・祇園祭に登場する禅僧」を読んで! この本、まだお持ちでない方は買って! 年が変わっても、『またまたおうちで禅』の営業は変わりません。
 というわけで、現代日本のおおかたの辞書は「画餅」を「役に立たないもの」と解釈するのですが、禅僧は「やってみなければわからない。さぁー、起ちあがれ」の意味で使います。
 今月の言葉にしたのは、白隠禅師(1685~1768)の著作だとされる『おたふく女郎粉挽歌』から引用しました。原文は「まだしも近道、坐禅が何より、望な御方は大善知識に真実篤(とっく)り参禅しめされ、こゝでいふても書いた牡丹餅、聴いたばかりで御腹はれず、水も飲まねば冷暖知なひ」(芳澤勝弘訳註『白隠禅師法語全集13』禅文化研究所)
 原文とおりでは、わかりづらいから、私めが加筆いたしました。実をいうと、白隠作『おたふく女郎粉挽歌』も白隠自身が書いたのは最初の十句だけで、白隠遷化後63年して「老乞士」なる人物が加筆したものが今日伝えられている。というややこしい成り立ちの「歌」です。だから、そのうえにまた駄文を加えても怒られまい。
 ところで、今年のNHK大河ドラマの影響もあって、『おたふく女郎粉挽歌』というタイトルで、「女郎」という言葉に現代人はどんなイメージをもつだろうか。女郎=遊女といった印象をもつのではないか。これも違うんだなー。広辞苑は「身分のある女性。若い女、広く女性をいう」と教えてくれますし、遊女も「室町時代には遊芸に従事して皇族の周辺にも出入りし得た芸妓」のことを言ったらしいから、言葉は変化するので今の感覚で読むと、正しい姿はみえてこない。
 さてさて、2月は釈尊の涅槃会(2月15日)の月ですし、節分もあります。節分の正しい豆まきの仕方も『またまたおうちで禅』239ページの「鬼のひそひそ話」を読んで! そして、2月といえば入学試験のシーズン。こんな三択の問題、どこかに出ないだろうか。

〈問い〉ことわざ「絵に描いた餅」に該当する英語表現を以下の3つの内から一つ選べ
1 No sweet without sweat
2 A picture is worth a thousand words
3 Pie in the sky 

 これ、道元さんや白隠さんはできるだろうか


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(寺や神社の様々な)お札は宗教に対する日本人の柔軟性、寛容性の証しであり、またその想像力の豊かさを示している ベルナール・フランク

2025-01-01 | インポート

 お正月。神社や寺にお参りしてお札を求める方も多いでしょう。松岩寺でも三が日に祈禱したお札を檀家さんへ配ります。そのお札についての言葉を新年のことばとしました。
 言葉の主であるベルナール・フランク(一九二七~一九九六)さんは、フランスの日本学研究者です。フランク氏は昭和二十九年に初来日して以来、四十年間にわたる幾度かの日本滞在で「北は青森から南は鹿児島まで、時間の許す限り精力的に歩き廻り、住職や参詣者と語り合い、雰囲気にふれ、お札を買って帰った」。
 それらのお札が今も、パリのカルチェ・ラタンにあるコレージュ・ド・フランス(国立特別高等教育機関)には、保管されているというから楽しくなりませんか。
 集めた札は千余、巡った寺社は二千にのぼるという。フランク氏の日本滞在は「統べればほぼ八年」だといいますから、おおかた毎日新しい寺を訪れて、お札を求めていた勘定になります。
 お札は「お姿」あるいは「御影札」と呼ばれる絵札と、字句だけの文字札に二分されます。フランク氏は、神仏の図像がある絵札に興味をもちました。なぜそれほどまでにお札に魅了されたのか。フランク氏は記述しています。お札の無数とも思われるヴァリエーションは、「宗教に対する日本人の柔軟性、寛容性の証しであり、またその想像力の豊かさを示している」から、と。そして、コレクションから約二百点を載せて分類解説したベルナール・フランク著『「お札」にみる日本仏教』(藤原書店)は、仏教概論になっているから驚かされます。概論って、全体の内容を要約して述べることでしょう。全体をつかんでいないと書けないわけで、お札という身近な品物から仏教を論じているからわかりやすい。 

 さて、そうしたお札の効用はどこにあるのか。数年前の夏、私は京都の愛宕山に登りました。愛宕山には火伏せの愛宕神社があります。山頂の社務所には「火廼要慎」のお札の隣でシキビの枝を売っていました。竈(くど)を使っていた昔、毎朝最初に火をおこすとき、シキビの葉を一枚いれると火事にならないという慣わしからだといいます。緑色の葉一枚に防火の効能があるわけではない。葉を一枚手に取ることで、その日の安全を決意して点検したのです。
 お札には、今の自分の状態を点検する効用があります。点検する機会を与えてくれる代物だから、よく見えるところへ置かなくては意味がない。この話、もっと詳しく知りたいと言う方は、花岡博芳著『またまたおうちで禅』の「カルチェ・ラタンにお札がある」(93ページ)を読んでみて!
「もう読んだ」という方は……、ありがとうございました。

             

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年くれぬ 笠きて草鞋 はきながら  松尾芭蕉

2024-12-01 | インポート

 

 師走のことばは、松尾芭蕉の俳句です。貞亭元年(1684年)、四十一歳の作。この年、「野ざらし紀行」の旅にでて、ふるさと伊賀へ帰ろうとしている年の暮れによんだ句です。
 師走のいつころ、伊賀まではどのくらいの距離をのこして読んだ句なのかは不明だけど、芭蕉が伊賀上野の兄の家へ到着したのは、十二月二十五日だというから、帰り着く目安がついてよんだ句にちがいない。とすると、「年が暮れて、旅の空のもとで正月になってしまう」。そういう寂しい句ではなくて、ふるさとに帰るぞ!という明るい句ではないだろうか。だが、しかし。芭蕉には明るくなれない事情もありました。
 その前年に亡くなった、母親の墓参をすることが、「野ざらし紀行」の目的のひとつでもあったのですから。
 現代、東京から伊賀上野までは新幹線を乗り継いで、四時間あまりで着いてしまうけれど、江戸深川の芭蕉庵を旅立ったのは、八月。伊賀上野へ直行したわけではなく、各地で句会をひらいての大旅行であったという。
 そして、この旅を境にして、芭蕉の行くところ多くの門人があつまり、蕉風が確立したというから、ちょっとルンルンな旅だったのではないか。でも句では、「年が暮れようとしているのに、旅姿」という寂しさを演出している。なんて言ったら俳聖に叱られるだろうか。
 さて、十月に出版した花岡博芳著『またまたおうちで禅』(春陽堂書店)で、一句だけ芭蕉の句を引用しています。

歯にあたる身のおとろひや海苔の砂

「野ざらし紀行」から七年後、四十八歳のときの句です。
 この句をよんだ三年後に、五十一歳で夢は枯れ野をかけめぐり、大坂で客死した俳聖です。海苔に砂がまじっているので、老境の歯にあたるというのですが、芭蕉の頃は天然のノリを集めて押しひろげて乾燥させたらしい。だから、砂がはいってしまうわけです。そんなワイルドな食品から、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師(一六八五~一七六八)に思いをいたすのは、『またまたおうちで禅』215ページの「芭蕉、白隠、無著。そして海苔」です。後輩住職が「突拍子もない発想」と誉めて? くれたけれど、面白いよ。読んでみて!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子を養ってまさに父の慈を知る  『臨済録』

2024-11-01 | インポート

子を養って知る父の慈  『臨済録』

花岡博芳著『またまたおうちで禅』が春陽堂書店から十月二十日に発売になりました。
「またまた」と名のるからには、二度目なわけです。二〇二一年七月に『おうちで禅』(春陽堂書店)を出版していただきました。時あたかも、コロナ禍で迎えた二年目の夏でした。テレワーク、ステイホーム、おうち時間なんて言葉が流行した季節です。そうした気分に少しばかり迎合したタイトルだけど、もともと仏教も禅も生活のなかにあります。日常と離れた高いところから見下ろしていたら、今ごろ釈尊の教えは消滅していたでしょう。ネタは毎日の暮らしの中にころがっているのです。前著に載せきれなかった文章と、あらたに書いたものを加えて一冊にまとめました。
 というわけで、少しの間(?)『またまたおうちで禅』におさめた名句を掲示板でも紹介していきます。実をいうと、先月のことば「お寺の掲示板のことばは国境を越える」も、『またまたおうちで禅』にある題辞(エピグラフ)です。題辞とかエピグラフとか、なんなんだ。という方は手に入れて見てくださる以外方法はないのですが。
 さて、『またまたおうちで禅』を次のように書き始めました。

 向田邦子(一九二九~八一)さんのエッセイに、『字のない葉書』があります。終戦直前の数か月間に向田家で起きたことをつづった作品です。作者が航空機事故で足早にこの世を去った数年後には、中学校国語の教科書に掲載され、令和になってからも絵本になり、今でも余熱の冷めない読み物です。

 向田邦子から書き始めて、いかに禅を語るのか。余談ですが、大型の書店では『またまたおうちで禅』はすでに店頭に並んでいるはずです。ただし、禅の本だからと言って、仏教書コーナーを探してもない。エッセイのコーナーにあるはずです。仏教というとスルーしてしまう方にも読んでもらいたい。そんな本です。
 向田邦子と禅がどう結びつくのかに戻ります。少しタネ明かしをすると、冒頭では私の息子が禅の修行道場へ入門した時のことを書きました。息子の道場へ入門する支度をしている時、ふと思ったのです。亡き私の両親もどんな気持ちで、道場へ送りだしたのだろうか。
 その時、浮かんだのが『臨済録』にある名句です。『臨済録』は臨済義玄禅師(りんざいぎげん=?~866)の言行録です。リンザイという名から想像できるように、わが臨済宗の創始者です。臨済禅師はこうおっしゃいました。
「子を養ってまさに父の慈を知る」。
 もちろん、臨済禅師は妻帯していたわけではないので子などいない。「弟子を教育してみてはじめて師匠の慈愛がわかった」という意味でしょう。
 だが、しかし、この名句。なぜ、「父母の慈」ではなくて、「父の慈」なんだ。十月末に男系男子の皇位継承を定めた皇室典範の改正まで求めた国連の女子差別撤廃委員会などに知られたら、「禅は差別的な宗教」と糾弾されてしまう。いやいや、母の慈しみは言わずとも、身体全体にしみわたっている。しかし、父の慈しみとなると、感じたことさえない。「父は永遠に悲壮である」とうたったのは、萩原朔太郎だけど、臨済は悲壮な父の慈しみに気づいたのです。こんな深ーい事情は街頭の掲示板ではわからないから、「父」だけしか出てこない字面を見て、「なぜ母はいないのだ。差別的」なんて言わないで欲しい今月の言葉です。

 蛇足ですが、『またまたおうちで禅』で『臨済録』の参考図書に、朝比奈宗源訳註『臨済録』(岩波文庫)をあげています。一九三五年初版のこの本、古いので最近は、同じ岩波文庫でも一九八九年出版の入矢義高訳注『臨済録』を使うのが普通です。が、なぜか古いものを参考にしています。これにもちょっとしたワケがあるのですが、そんな面倒なことはどうでもよくて、禅がよくわかるように書いたつもりです。ぜひご購読を。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする