松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

年くれぬ 笠きて草鞋 はきながら  松尾芭蕉

2024-12-01 | インポート

 

 師走のことばは、松尾芭蕉の俳句です。貞亭元年(1684年)、四十一歳の作。この年、「野ざらし紀行」の旅にでて、ふるさと伊賀へ帰ろうとしている年の暮れによんだ句です。
 師走のいつころ、伊賀まではどのくらいの距離をのこして読んだ句なのかは不明だけど、芭蕉が伊賀上野の兄の家へ到着したのは、十二月二十五日だというから、帰り着く目安がついてよんだ句にちがいない。とすると、「年が暮れて、旅の空のもとで正月になってしまう」。そういう寂しい句ではなくて、ふるさとに帰るぞ!という明るい句ではないだろうか。だが、しかし。芭蕉には明るくなれない事情もありました。
 その前年に亡くなった、母親の墓参をすることが、「野ざらし紀行」の目的のひとつでもあったのですから。
 現代、東京から伊賀上野までは新幹線を乗り継いで、四時間あまりで着いてしまうけれど、江戸深川の芭蕉庵を旅立ったのは、八月。伊賀上野へ直行したわけではなく、各地で句会をひらいての大旅行であったという。
 そして、この旅を境にして、芭蕉の行くところ多くの門人があつまり、蕉風が確立したというから、ちょっとルンルンな旅だったのではないか。でも句では、「年が暮れようとしているのに、旅姿」という寂しさを演出している。なんて言ったら俳聖に叱られるだろうか。
 さて、十月に出版した花岡博芳著『またまたおうちで禅』(春陽堂書店)で、一句だけ芭蕉の句を引用しています。

歯にあたる身のおとろひや海苔の砂

「野ざらし紀行」から七年後、四十八歳のときの句です。
 この句をよんだ三年後に、五十一歳で夢は枯れ野をかけめぐり、大坂で客死した俳聖です。海苔に砂がまじっているので、老境の歯にあたるというのですが、芭蕉の頃は天然のノリを集めて押しひろげて乾燥させたらしい。だから、砂がはいってしまうわけです。そんなワイルドな食品から、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師(一六八五~一七六八)に思いをいたすのは、『またまたおうちで禅』215ページの「芭蕉、白隠、無著。そして海苔」です。後輩住職が「突拍子もない発想」と誉めて? くれたけれど、面白いよ。読んでみて!


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子を養ってまさに父の慈を知る  『臨済録』

2024-11-01 | インポート

子を養って知る父の慈  『臨済録』

花岡博芳著『またまたおうちで禅』が春陽堂書店から十月二十日に発売になりました。
「またまた」と名のるからには、二度目なわけです。二〇二一年七月に『おうちで禅』(春陽堂書店)を出版していただきました。時あたかも、コロナ禍で迎えた二年目の夏でした。テレワーク、ステイホーム、おうち時間なんて言葉が流行した季節です。そうした気分に少しばかり迎合したタイトルだけど、もともと仏教も禅も生活のなかにあります。日常と離れた高いところから見下ろしていたら、今ごろ釈尊の教えは消滅していたでしょう。ネタは毎日の暮らしの中にころがっているのです。前著に載せきれなかった文章と、あらたに書いたものを加えて一冊にまとめました。
 というわけで、少しの間(?)『またまたおうちで禅』におさめた名句を掲示板でも紹介していきます。実をいうと、先月のことば「お寺の掲示板のことばは国境を越える」も、『またまたおうちで禅』にある題辞(エピグラフ)です。題辞とかエピグラフとか、なんなんだ。という方は手に入れて見てくださる以外方法はないのですが。
 さて、『またまたおうちで禅』を次のように書き始めました。

 向田邦子(一九二九~八一)さんのエッセイに、『字のない葉書』があります。終戦直前の数か月間に向田家で起きたことをつづった作品です。作者が航空機事故で足早にこの世を去った数年後には、中学校国語の教科書に掲載され、令和になってからも絵本になり、今でも余熱の冷めない読み物です。

 向田邦子から書き始めて、いかに禅を語るのか。余談ですが、大型の書店では『またまたおうちで禅』はすでに店頭に並んでいるはずです。ただし、禅の本だからと言って、仏教書コーナーを探してもない。エッセイのコーナーにあるはずです。仏教というとスルーしてしまう方にも読んでもらいたい。そんな本です。
 向田邦子と禅がどう結びつくのかに戻ります。少しタネ明かしをすると、冒頭では私の息子が禅の修行道場へ入門した時のことを書きました。息子の道場へ入門する支度をしている時、ふと思ったのです。亡き私の両親もどんな気持ちで、道場へ送りだしたのだろうか。
 その時、浮かんだのが『臨済録』にある名句です。『臨済録』は臨済義玄禅師(りんざいぎげん=?~866)の言行録です。リンザイという名から想像できるように、わが臨済宗の創始者です。臨済禅師はこうおっしゃいました。
「子を養ってまさに父の慈を知る」。
 もちろん、臨済禅師は妻帯していたわけではないので子などいない。「弟子を教育してみてはじめて師匠の慈愛がわかった」という意味でしょう。
 だが、しかし、この名句。なぜ、「父母の慈」ではなくて、「父の慈」なんだ。十月末に男系男子の皇位継承を定めた皇室典範の改正まで求めた国連の女子差別撤廃委員会などに知られたら、「禅は差別的な宗教」と糾弾されてしまう。いやいや、母の慈しみは言わずとも、身体全体にしみわたっている。しかし、父の慈しみとなると、感じたことさえない。「父は永遠に悲壮である」とうたったのは、萩原朔太郎だけど、臨済は悲壮な父の慈しみに気づいたのです。こんな深ーい事情は街頭の掲示板ではわからないから、「父」だけしか出てこない字面を見て、「なぜ母はいないのだ。差別的」なんて言わないで欲しい今月の言葉です。

 蛇足ですが、『またまたおうちで禅』で『臨済録』の参考図書に、朝比奈宗源訳註『臨済録』(岩波文庫)をあげています。一九三五年初版のこの本、古いので最近は、同じ岩波文庫でも一九八九年出版の入矢義高訳注『臨済録』を使うのが普通です。が、なぜか古いものを参考にしています。これにもちょっとしたワケがあるのですが、そんな面倒なことはどうでもよくて、禅がよくわかるように書いたつもりです。ぜひご購読を。

 

 


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お寺の掲示板のことばは国境を越える  江田智昭

2024-10-01 | インポート

お寺の掲示板のことばは国境を越える  江田智昭

 今月のことばは、東京にある仏教伝道協会が主催する「お寺の掲示板大賞」の企画人、江田智昭師の著書『お寺の掲示板入門』(本願寺出版社)にある言葉です。
 と、冒頭からわずかな言葉の中で説明しなければならない固有名詞が3つでてきてしまいます。1つは仏教伝道協会。2つ目が「お寺の掲示板大賞」。そして、江田智昭。
 まずは、仏教伝道協会から。ここでぐだぐたと説明するよりも、仏教伝道協会のホームページを見て!https://www.bdk.or.jp/(これがネット記事の便利なところですね)
 次に「お寺の掲示板大賞」は、2018年というから、平成最後の年の暮れにはじまった催しです。お寺の掲示板にかかげられた言葉を自薦他薦で応募して、標語内容の有難さ・ユニーク・インパクト等によって入賞を決定する企画です。第一回に大賞を受賞した、「おまえも死ぬぞ 釈迦」の強烈さからこの賞が世間に認知され、第一回の翌年秋には企画者の江田智昭師の著書『お寺の掲示板』(新潮社)が出版されたこともあり、知る人ぞ知る、知らない人は知らない。京都・清水寺の「今年の漢字」と肩を並べる(そこまでは有名ではない)、年の瀬の行事になりつつあります。
 その企画人の江田智昭師に私(松岩寺住職)は面識はありません。冒頭にかかげたご著書のプロフィールを引用しましょうか。
「江田智昭(えだともあき)/1976年福岡県北九州市生まれ。浄土真宗本願寺派僧侶。早稲田大学社会学部・第一文学部東洋哲学専修卒、文学研究科(東洋哲学専攻)中退。2007年より築地本願寺の一般社団法人仏教総合研究所事務局勤務。2011~2017年、デュッセルドルフのドイツ恵光寺に駐在。2017年8月より公益財団法人仏教伝道協会に勤務。著書に『お寺の掲示板』(新潮社)等がある。「輝け!お寺の掲示板大賞」の企画立案者」。
 というわけで、江田智昭著『お寺の掲示板入門』(本願寺出版社)に「なぜいまお寺の掲示板なのか?」というコラムがあります。以下に全文を引きます。
「中国のニュースサイトでは、掲示板大賞に関する記事が多数アップされており、記事の中には九百以上のコメントが付いているものも存在します。それらを見ていると、日本より中国のほうが「掲示伝道」が有効ではないかと感じるほどです。おそらく「掲示伝道」は、短い格言が大好きな中国人の気質にぴったりフィットしたのでしよう。
 私は大学時代、中国思想を専門としている教授から「漢字文化圏」という言葉を教わりました。確かに、漢字を使用している国民同士には共通する価値観、習慣などが存在します。中国の人たちに「掲示伝道」の言葉が深く届くのは、「漢字文化圏」の影響が少なからず作用したからではないかと私は感じています。
 以前、本願寺派のアメリカ・八ワイ・カナダ・ブラジルの開教使を対象にした研修会で、掲示伝道に関する講演をさせていただきました。
 その際、欧米の人たちには、お寺の掲示板の言葉のニュアンスを伝えることは困難だろうというご意見をいただきました。私もドイツで六年間活動していましたので、その意見に深く首肯しました。言語の構造上、どうしてもうまく伝えることができないのです。
 中国とは、「漢字文化圏」で生活してきた同士、共通していることが実はたくさんあります。そのような共通点を「お寺の掲示板」を通して発見できたことは、個人的に大変嬉しいことでした」、と。
 さて、中国の南東部の大都市で日本人小学生を巻き込んだ不幸な事件が起きてしまいました。同じ漢字文化圏の人間同士なのに、と思うのです。

 


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スマホを持つ手に 数珠を持とう

2024-09-01 | インポート

秋彼岸の九月。今月の言葉は八月の言葉の続きです。八月の言葉はというと、「炎天や念珠にぎりて身を支ふ」。作者は越前春生さん。日経新聞俳壇(令和五年八月五日)への投稿句です。頼るものがないと、しのげないような酷暑に、この句の作者は念珠を握りしめました。
 困ったときに、何を頼るかは、人それぞれでしょう。たとえば道に迷ったとき、スマホの地図を見る人が多いのでは。私も、特に僧衣を身につけている時なんか、カッコウ悪いと思いつつも、見てしまいますねー。
 スマホは、すでに手もとから離せない道具になってしまったけれど、離さなければならない、絶たなくてはならない時もある。昨春、修行道場へ掛搭(かとう=入門)したわが子は当然ながらスマホなんて持たずに道場の門をたたいた。これはずいぶんと特殊な例だけど、身近にもいるはずです。スマホの誘惑を拒絶しなければならない人間が。
 日経新聞朝刊に、「受験考」という連載があります。今夏七月二十九日付けのタイトルは「ゲーーム絶てるか、挑戦の夏」。執筆者は学習塾の講師です。どういう記事かというと、「塾に通ってくる中学三年のユウヤの成績が下がった。理由を尋ねると、1日2時間近くスマートフォンでオンラインゲームをしているという」。そこで、「1日何時間勉強するのか。スマホとの付き合い方はどうするのか」を話し合います。全部で千字ほどの記事は次のようなことばで結ばれています。
「ユウヤの夏は彼自身の挑戦でもあり、我々の挑戦でもある」、と。
 これは珍しくない、どこにでもある当節の現実でしょう。だから、スマホを絶つための書籍もでているし、ネットにも方法がいくつも載っているようです。と書いて笑ってしまいます。ネットを見ないための方法をネットでしらべなくてはならないほど、誰も重障になっているのです。そこで、提案です。
 スマホを持つ手(腕)に、ブレスレット式の数珠を持たないですか。スマホを見ようとした時、数珠も見える。そこで、思うのです。「今は我慢」。ちなみに、九月のことばは自作です。自作は珍しいのですが、このことばで「2024お寺の掲示板大賞」に応募しようと思っています。でもー、「お寺の掲示板大賞」(https://www.bdk.or.jp/kagayake2024/)の応募はX(旧Twitter)かインスタグラム経由なんですよね。私は両方ともやってない。だから、下記に証拠写真も載せるから、誰か応募しておいてくれないかなぁー。応募用写真は↓(自分で写真撮ってみてわかったけれど、まったく十字街頭にあって風情なんてないなー。少しきれいにしよう)

 


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炎天や念珠にぎりて身を支ふ 越前春生

2024-08-01 | インポート

炎天や念珠にぎりて身を支ふ   越前春生

写真 千田完治 

 八月のことばは、令和五年七月一日付け、つまり昨夏の日経新聞「俳壇」に載っていた俳句です。日経新聞の「俳壇」は短歌の投稿欄「歌壇」と同じページに、毎週土曜日に掲載されます。昨年の夏に紹介すればタイムリーだったのですか、このブログを印刷して檀家さんに配る予定があり原稿はすでに印刷所に渡し済で、間に合わなかったから、一年間保管しておいた、というわけ(スゴイデショ!一年前の句の存在を忘れずにいるのだから、それほど、これは秀句だと思う)。
 そんなことよりも、「なんで坊主が経済新聞なんて読んでんのよ。さてはー」と、余計なことを勘ぐられても困るから、最初に言いわけをしておくと、株も投資もしないけれど、名物コラムの「私の履歴書」と、第一面コラムの「春秋」が読みたいので、毎朝寺には日経新聞が配達されてきます。
 以前はこれまた一面コラムの「編集手帳」が読みたくて読売新聞もとっていたけれど、担当の竹内政明記者が書かなくったので、読売新聞はやめた(ゴメンナサイ)。
 ところで、毎朝、通勤列車にゆられている方には申しわけないけれど、私も時たま通勤時間が終わった頃か、始まる前の高崎線に乗ることがあります。そうした時は座席を確保すると、バックに入れておいた新聞をひろげます。今、列車で新聞紙をひろげている人、いないですねー。ひとりでそんなことをしていると「非常識にもほどがある」的な感じで恥ずかしくなるほど、誰も紙なんて読んでいない。スマホの小さい画面からは窮屈なアイデアしか生まれてこないと思うけどなー。そういえば、いく日か前に電車に乗っていて見た風景だけど、ベビーカーに乗せたまだ歩けない赤ちゃんに、お母さんは何を見せてあやしていたと思う?スマホのゲームだぜ。今どきの子どもは絵本も見ないで大きくなっていくのだろうな。なんて想像だけで物を言ってはいけない。飯田一史著『若者の読書離れというウソ』(平凡社新書)によれば、小中学生の読書量はV字回復しているといいます。なぜなのか。飯田氏によると「1993年に文部省(現文部科学省)が学校図書館を活用する教育に転換したこと、(88年に始まった始業前の10分間好きな本を読む)朝の読書運動が浸透したこと、赤ちゃんとその保護者に絵本を渡すブックスタートが始まったこと、などが挙げられます」というし、今、ベストセラーの新書に、三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)なんて本があるらしいから、みんなみんな、スマホばかの見ていてはいけない。とはみんなみんな思っているのです。

スマホじゃなくて数珠を持とうよ、というのが今月の言葉かも知れません。

 冒頭にかかげた俳句です。作者の名は越前春生とありました。選者の俳人、横澤放川氏は次のように批評しています。
「高齢のひとには寒暑いずれも酷なものには違いない。念珠に南無や身もあずけて歩まんず」。
「念珠にぎりて身を支ふ」の句を読んで思い出したのは、平成二五年十二月の言葉にした、小林一茶の「ともかくも あなた任せの 年の暮」https://blog.goo.ne.jp/hakuhoda/e/4bd088109d078e3163efb0925d07ef8eです。一茶の句の「あなた」は阿弥陀さまです。「おのれの計らいは捨てて、弥陀のお誓いにお任せします」。これをナームというのですが。念珠をにぎって掌を合わせるだけでも良いけと、やっぱしそういう時は声に出して何かを念じた方がさまになりますね。念仏でもよいしお題目でもよいし。私どもだったら禅宗だから「ナムシャカムニブツ」でしょうか。禅宗だから坐禅をする時の「ひとーつ、ふたーつ」と数息観も良いし。姿と形プラス声が必要なような気がします。声に出してみるって大事なことです。


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